門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

能の伝説と物語「西行」第四回

2010-09-29 21:21:11 | 日記
■西行物語

西行物語は、西行(1118~1190)の一生を彼が残した歌に合わせて作った虚構、言い伝えられた逸話などを、説話的にまとめた物語である。


往生

かくて、五十有余年をはせ過ぐし、もし人、一日一夜を経るに、八億四千万の思ひあり。しかれども、懺悔六根浄のためには、三十一字のことのはをくちずさむ。これ悪心をやめて、佛道をじやうずるなかだちなりと觀じて、東山のほとり双林寺のかたわらに、いほりを結びて、觀念の窓の前には、三明の月の光を友とし、称名の床のほとりには、聖衆の御迎へを侍ちて、あかし暮しけり。

 御堂のみぎりに櫻を植ゑられたりけるに、同じくこの花盛り、釈迦入涅槃の日、二月十五日の朝往生を思ひてかくなむ。

ねがはくは花のもとにて春死なむそのきさらぎのもちづきの頃

 すでにこの歌のごとく建久九年二月十五日、正念ただしくして、西方に向ひて、にやくにんさんらんしん ないしいゝつけ くやうおゑざう ぜんけんむすうぶつ
(若人散亂心 乃至以一華 供養於画像 漸見無數佛)おしみやふしゆうそく わうあんらくせかい あみだぶつ だいぼさつ しゆゐねうちゆうしょ(於此命終即 往安樂世界 阿彌陀佛 大菩薩 衆囲饒住處)
と唱へて

佛には櫻の花をたてまつれわがのちの世を人とぶらはば

 とながめて、千返念佛やむ事なく、空に伎楽の音ほのかに、異香遠くゝんじ、紫雲はるかにたなびきて、三尊来迎のよそほひ、聖衆歓喜の儀式、萬民耳目を驚かし、往生の素懐を遂げにけり。

・ねがはくは/新古今和歌集1845b 第十八 雜歌下 切出歌

能の伝説と物語「西行」第三回

2010-09-28 09:20:24 | 日記
『西行物語』や能の原話となった、多くの逸話があります。いくつかを以下にご紹介しましょう。


■愛娘を蹴落とす

出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(四歳)を縁から蹴落として家を捨てたという逸話が残る。


■西行戻し伝説

各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられている。共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものである。

・松島「西行戻しの松」

西行が松島にて

 月にそふ桂男のかよひ来てすすきはらむは誰が子なるらん

と一首を詠じて悦に酔っていると、山王権現の化身である鎌を持った一人の童子がその歌を聞いて

雨もふり霞もかかり霧も降りてはらむすすきは誰れが子なるらん

と詠んだ。西行は驚いてそなたは何の業をしているのか聞くと「冬萌きて夏枯れ草」を刈って業としていると答えた。西行はその意味が分からなかった。童子は才人が多い霊場松島を訪れると恥をさらすとさとしたので、西行は恐れてこの地を去ったという伝説があり、一帯を西行戻しの松という。西行に関するこのような伝説は各地にあり、古くから語り継がれている。(*桂男=美男。在原業平のこと *業=仕事 *冬萌きて夏枯れ草=麦)

・秩父「西行戻り橋」
・日光「西行戻り石」

ちなみに後世の連歌師宗祇にも同様に「宗祇戻り橋」の伝説がある。

むかし、結城氏 が何代目かに白河を知行したおり、一門衆が寄り集まって、鹿島で連歌興行 を催した。この時、難句あり。三日経っても誰にも付け句できない。旅行中の宗祇が宿でこれを聞き、鹿島へ行こうとすると、四十がらみの女がやってきて、宗祇に
「何用にて、何処方(いずかた)まで」
 と問う。右の由、説明すると、女、
「それは、妾、さきほど付けました」
 と答えて消えた。
月日の下に独りこそすめ
 付句
  かきおくる文のをくには名をとめて

 と、書いてあったので、宗祇は感じ入り、その橋から引き返したと伝える。
『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄』能文社2008

■源頼朝を鼻であしらう

百芸に通じていた西行は、鎌倉で源頼朝に弓馬の道のことを尋ねられた。が、一切忘れはてたととそっけなく返答するばかり。 この時頼朝から拝領した純銀の猫を通りすがりの子供に与えたとされている。

■満開の桜の下の大往生

西行は、以下の歌を生前に詠んだ。まさにその歌のとおり、陰暦二月十六日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。享年73歳。

ねかはくは花のしたにて春しなん そのきさらきのもちつきのころ (山家集)

ねかはくははなのもとにて春しなん そのきさらきの望月の比 (続古今和歌集)

花の下を"した"と読むか"もと"と読むかは出典により異なるのだ。

能の伝説と物語「西行」第二回

2010-09-26 18:55:44 | 日記
■和歌の"不可説の上手なり"

 『後鳥羽院御口伝』に
「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」

とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。

歌風は率直質実を旨としながらつよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌のなかに取入れるなどの自由な詠みくちもその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかもしれない。

■アウトローではなく主流派

 和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治3年(1187年)に自歌合『御裳濯河歌合』を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合『宮河歌合』を作って当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、俊成とともに千載集の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。


■歌と仏と旅。西行が残したもの

後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇・芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生れていった所以もまたここに存する。例えば能に『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。

ちなみに、芭蕉『おくのほそ道』では、以下のように西行の跡を慕っている。

先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。(「象潟」の章段)

「花の上こぐ」は、西行の次の歌から引用したもの。
 象潟の桜は波に埋れて
   花の上漕ぐ海士の釣り舟

清水ながるゝの柳は、芦野の里にありて、田の畔に残る。(「遊行柳」の章段)

「清水ながるゝの柳」は西行の次の歌を踏まえたもの。
 道のべに清水流るゝ柳かげ
   しばしとてこそ立ちどまりつれ


能の伝説と物語「西行」第一回

2010-09-24 21:23:04 | 日記
名作能とその出典である、古来の伝説・物語の関連を歴史的にたどるシリーズ。

能の題材として歴史上の有名人物をとりあげたのは、室町時代の世阿弥からはじまったと言われています。
以降、能がテーマとして好んで採り上げたのは、源氏、平家、今昔、伊勢物語などに登場する、著名な貴族や武将たち。なかでもたびたび登場するのが、小野小町、業平、行平などの平安歌人でした。
今回は平安期を代表する歌人、西行法師にフォーカスをあて、西行物語・山家集などの古典と、能「遊行柳」「江口」をそれぞれ比較してみていきたいと思います。


■西行

西行(さいぎょう、1118年(元永元年)~1190年3月23日(文治6年2月16日))は、院政期から鎌倉時代初期にかけての僧侶・歌人。父左衛門尉佐藤康清、母源清経女。俗名佐藤義清(さとう のりきよ)、法号は円位ともする。

勅撰集では詞花集に初出(一首)。千載集に十八首、新古今集に九十四首(入撰数第一位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者に擬せられている。

■生涯

保延元年(1135年)18歳で兵衛尉に任ぜられ、同3年(1137年)鳥羽院の北面の武士として奉仕していたことが記録に残る。同6年(1140年)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。その動機には、友人の急死にあって無常を感じたという説が主流だが、失恋説もあり、これは『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。近世初期成立の室町時代物語「西行の物かたり」(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家した、とある。この女院は、西行出家の時期以前のこととすれば、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子であると考えられる。

西行出家の「失恋」をテーマに扱った現代作品に以下がある。

1988年『西行』白洲正子(待賢門院)
1990年『白道』瀬戸内寂聴(待賢門院)(?美福門院)
1991年『西行花伝』辻邦生(待賢門院)
2008年 三田誠広(待賢門院)
1984年『院政期社会の研究』五味文彦(上西門院)

他にも、西行の生涯を知る上で重要な書物の1つである「西行物語絵巻」(作者不明、二巻現存。徳川美術館収蔵。)では親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。

出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみしばしば諸国をめぐり漂泊の旅に出て多くの和歌を残した。讃岐国に旧主崇徳院の陵墓白峰を訪ねてその霊を慰めたと伝えらえ、これは後代上田秋成によって『雨月物語』の「白峰」に仕立てられている。なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。また特に晩年東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うために陸奥に下った旅は有名で、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。

出家直後は鞍馬などの京都北麓に隠棲し、天養初年(1144年)ごろ奥羽地方へはじめての旅行。久安4年(1149年)前後に高野に入り、仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。このとき善通寺でしばらく庵を結んだらしい。後高野山に戻るが、治承元年(1177年)に伊勢二見浦に移った。文治2年(1186年)に東大寺勧進のため二度目の奥州下りを行い、伊勢に数年住ったあと河内弘川寺(大阪府河南町)に庵居。建久元年(1190年)にこの地で入寂した。かつて「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や僧慈円の感動と共感を呼び当時名声を博した。