乳を離れ八つの歳より仕習いて 八十歳になれど暗がりは闇。~千宗旦『茶杓画賛』
千利休の孫、三千家の祖である元伯宗旦の茶杓の絵に附した自讃です。
原文はカナで書かれた狂歌。
「チヲハナレ ヤツノトシヨリ シナライテ ヤトセニナレト クラカリハヤミ」
の五七五七七、各句の一音目を分断するように茶杓が描かれています。
◆千宗旦「茶杓画賛」
・「チヤシヤク」は折句
この五七五七七のそれぞれ一音目をならべると、「チヤシヤク」、すなわち「茶杓」になります。
チ ヲハナレ
ヤ ツノトシヨリ
シ ナライテ
ヤ トセニナレト
ク ラカリハヤミ
こうした歌の技法、言葉遊びは〔折句〕と呼ばれ、代々の歌人によってたびたび詠まれてきました。〔折句〕の代表歌とされるのが、『伊勢物語』に収められる在原業平「杜若」の歌。
各句の頭一字をならべると「カキツバタ」が現れます。
カ ラコロモ
キ ツツナレニシ
ツ マシアレハ
ハ ルハルキヌル
タ ヒヲシソオモフ
唐衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ
〔折句〕は、歌や句を詠むうえでの技術、修辞ですが、音が合っていればそれでよい、というわけではありません。各句に詠み込まれた五文字の単語が、歌意に深く関わる、もっというなら、その歌の生命となって拍動すべきものなのです。
業平にとって遥か東国の辺地で見た、都のなつかしい杜若の花。宗旦にとって、点茶の道具として“イロハ”でもあり、到達点でもある自作の茶杓。これらの五文字が雄弁に語る世界をたどっていきましょう。
・暗がりは、虚無の闇か、無尽の闇か
「チヲハナレヤツノトシヨリ」の句の一般的な解釈は次のようなもの。
母の胸から引き離された八歳より茶の湯修業がはじまった。(いつかは光明が見えて来ようと思ったが)八十歳になった今も暗闇の中、暗中模索の日々である―
〈茶禅一味〉を説いた宗旦にとって、茶の湯修業は生涯続き、決して終わらないもの。
ここに至れば終わり、というものではなく、禅の修行と同様に、踏み出した一歩にすでに悟りがあり、唱える一息に仏が宿る、というものだったのではないでしょうか。
暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月
(和泉式部/拾遺集・哀傷)
能〈鵺〉で、闇の中から迷い出た鵺は終曲で、上の歌を引用した地謡とともに再び闇の世界へと沈んでいきます。この歌の「暗き道」とは、もともと仏教で説く人の煩悩の道を表しており、「山の端の月」は仏灯明、つまり仏法による救済を象徴しているのです。
〔暗き道に入る〕の引用元は『法華経』化城喩品にある「従冥入於冥」です。式部は月を仏性の象徴として表現しましたが、和歌史上もっとも早い〔月=仏性〕を詠んだ歌とされています。
闇や暗さは視覚でいえば、何もないこと。知覚のできない闇と無とはいっても、八つの童子と八十歳の老翁では、そこに感じ取れる質・量には大きな隔たりがあるはずです。
芸事や仏道修行者にとって、闇は虚無の闇より、やがて無尽の闇となっていき、涯もないことを悟る最期のその時、できることは一つしかありません。
・利休の宝剣、宗旦の茶杓
それは生きていようが、死んでいようが、かまわずにその道をひたすらまっすぐに歩み続けること。わが身はあの世で、子や孫たちはこの世で、同じ一本の道を歩み続けているに違いありません。
さてもう一度、〔茶杓画賛〕を見てください。そこにはこう書いてある。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
鸚鵡呼貧者与茶不能喫
チ ヲハナレ
ヤ ツノトシヨリ
シ ナライテ
ヤ トセニナレト
ク ラカリハヤミ
八十翁 旦(花押)
元伯自画賛 無紛因茲證
不審庵 宗佐(花押)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
まず、「チヲハナレ」の、「チ」の頭一文字の下を、左から右へ一気呵成に描かれた茶杓の絵。
居合の達人の抜き付け、横一文字を思わせる筆勢です。
これは宗旦自身が筆写した、祖父利休の遺偈、
吾這寶剱 祖仏共殺
提ル我得具足の一太刀
を想起させます。信長、秀吉の茶堂として日本各地の合戦へ従軍。町人でありながら甲冑や刀の拵えまで調えていた、武将の如き利休。その死も士分なみの切腹であったと伝えます。
かたや生涯仕官せず、極侘びを追求し〔乞食宗旦〕の名に甘んじた孫の元伯宗旦。
両頭倶に截断し
一剣天に倚って寒じ
江戸期、白隠によって広められた禅語ですが、上句の両頭とは、対立する二項、たとえば生と死、善と悪、苦と楽、迷と悟など。この二項の間で迷い、揺れ動くことを禅の修行では嫌います。この二つに行き来する迷いの心を悟りの宝剣を振るって一気に両断すべし、との教えです。
戦刀をもたぬ宗旦は、自作の茶杓を手に無明の闇を横一文字に両断した。祖仏共に殺す利休の宝剣を模して。茶の湯と打成一片たる境地へ至らんことを、子孫たちへ遺そうとしたのかもしれません。
ちなみに頭語の「鸚鵡呼貧者」は、〔鸚鵡を貧者と呼ぶ、茶を喫することあたわず〕と読みますが、もとは圜悟克勤『拈八方珠玉集』の正覚宗顕の語、「鸚鵡叫煎茶与茶元不識」(鸚鵡は主の口真似をして、煎茶を、と叫ぶが、もとより茶とは何かを知らない)を踏襲したもの。同句が禅語として広く流布したことによります。
左下は、表千家五代随流斎宗佐の極め書きで、「これは紛れもなき元伯宗旦の自画賛であることを証す」と花押しています。
千利休の孫、三千家の祖である元伯宗旦の茶杓の絵に附した自讃です。
原文はカナで書かれた狂歌。
「チヲハナレ ヤツノトシヨリ シナライテ ヤトセニナレト クラカリハヤミ」
の五七五七七、各句の一音目を分断するように茶杓が描かれています。
◆千宗旦「茶杓画賛」
・「チヤシヤク」は折句
この五七五七七のそれぞれ一音目をならべると、「チヤシヤク」、すなわち「茶杓」になります。
チ ヲハナレ
ヤ ツノトシヨリ
シ ナライテ
ヤ トセニナレト
ク ラカリハヤミ
こうした歌の技法、言葉遊びは〔折句〕と呼ばれ、代々の歌人によってたびたび詠まれてきました。〔折句〕の代表歌とされるのが、『伊勢物語』に収められる在原業平「杜若」の歌。
各句の頭一字をならべると「カキツバタ」が現れます。
カ ラコロモ
キ ツツナレニシ
ツ マシアレハ
ハ ルハルキヌル
タ ヒヲシソオモフ
唐衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ
〔折句〕は、歌や句を詠むうえでの技術、修辞ですが、音が合っていればそれでよい、というわけではありません。各句に詠み込まれた五文字の単語が、歌意に深く関わる、もっというなら、その歌の生命となって拍動すべきものなのです。
業平にとって遥か東国の辺地で見た、都のなつかしい杜若の花。宗旦にとって、点茶の道具として“イロハ”でもあり、到達点でもある自作の茶杓。これらの五文字が雄弁に語る世界をたどっていきましょう。
・暗がりは、虚無の闇か、無尽の闇か
「チヲハナレヤツノトシヨリ」の句の一般的な解釈は次のようなもの。
母の胸から引き離された八歳より茶の湯修業がはじまった。(いつかは光明が見えて来ようと思ったが)八十歳になった今も暗闇の中、暗中模索の日々である―
〈茶禅一味〉を説いた宗旦にとって、茶の湯修業は生涯続き、決して終わらないもの。
ここに至れば終わり、というものではなく、禅の修行と同様に、踏み出した一歩にすでに悟りがあり、唱える一息に仏が宿る、というものだったのではないでしょうか。
暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月
(和泉式部/拾遺集・哀傷)
能〈鵺〉で、闇の中から迷い出た鵺は終曲で、上の歌を引用した地謡とともに再び闇の世界へと沈んでいきます。この歌の「暗き道」とは、もともと仏教で説く人の煩悩の道を表しており、「山の端の月」は仏灯明、つまり仏法による救済を象徴しているのです。
〔暗き道に入る〕の引用元は『法華経』化城喩品にある「従冥入於冥」です。式部は月を仏性の象徴として表現しましたが、和歌史上もっとも早い〔月=仏性〕を詠んだ歌とされています。
闇や暗さは視覚でいえば、何もないこと。知覚のできない闇と無とはいっても、八つの童子と八十歳の老翁では、そこに感じ取れる質・量には大きな隔たりがあるはずです。
芸事や仏道修行者にとって、闇は虚無の闇より、やがて無尽の闇となっていき、涯もないことを悟る最期のその時、できることは一つしかありません。
・利休の宝剣、宗旦の茶杓
それは生きていようが、死んでいようが、かまわずにその道をひたすらまっすぐに歩み続けること。わが身はあの世で、子や孫たちはこの世で、同じ一本の道を歩み続けているに違いありません。
さてもう一度、〔茶杓画賛〕を見てください。そこにはこう書いてある。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
鸚鵡呼貧者与茶不能喫
チ ヲハナレ
ヤ ツノトシヨリ
シ ナライテ
ヤ トセニナレト
ク ラカリハヤミ
八十翁 旦(花押)
元伯自画賛 無紛因茲證
不審庵 宗佐(花押)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
まず、「チヲハナレ」の、「チ」の頭一文字の下を、左から右へ一気呵成に描かれた茶杓の絵。
居合の達人の抜き付け、横一文字を思わせる筆勢です。
これは宗旦自身が筆写した、祖父利休の遺偈、
吾這寶剱 祖仏共殺
提ル我得具足の一太刀
を想起させます。信長、秀吉の茶堂として日本各地の合戦へ従軍。町人でありながら甲冑や刀の拵えまで調えていた、武将の如き利休。その死も士分なみの切腹であったと伝えます。
かたや生涯仕官せず、極侘びを追求し〔乞食宗旦〕の名に甘んじた孫の元伯宗旦。
両頭倶に截断し
一剣天に倚って寒じ
江戸期、白隠によって広められた禅語ですが、上句の両頭とは、対立する二項、たとえば生と死、善と悪、苦と楽、迷と悟など。この二項の間で迷い、揺れ動くことを禅の修行では嫌います。この二つに行き来する迷いの心を悟りの宝剣を振るって一気に両断すべし、との教えです。
戦刀をもたぬ宗旦は、自作の茶杓を手に無明の闇を横一文字に両断した。祖仏共に殺す利休の宝剣を模して。茶の湯と打成一片たる境地へ至らんことを、子孫たちへ遺そうとしたのかもしれません。
ちなみに頭語の「鸚鵡呼貧者」は、〔鸚鵡を貧者と呼ぶ、茶を喫することあたわず〕と読みますが、もとは圜悟克勤『拈八方珠玉集』の正覚宗顕の語、「鸚鵡叫煎茶与茶元不識」(鸚鵡は主の口真似をして、煎茶を、と叫ぶが、もとより茶とは何かを知らない)を踏襲したもの。同句が禅語として広く流布したことによります。
左下は、表千家五代随流斎宗佐の極め書きで、「これは紛れもなき元伯宗旦の自画賛であることを証す」と花押しています。