明日2/1(月)、『寺子屋素読ノ会』の二講座開講!17:30~「葉隠」、19:30~「風姿花伝」。能のビデオも鑑賞・解説します。随時参加、もちろん大歓迎です。http://nobunsha.jp/img/terakoya%20annai.pdf
ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイス。1536年、日本へのキリスト教布教
のため西九州、横瀬浦に上陸。うまれてはじめて日本の地を踏みます。以降12
年間に渡り、畿内を中心として布教活動に精力的に従事。日本人の民族性に布
教の手ごたえを感じたフロイスは、徐々にこの国民に親近感を覚え、たくみに
日本語をあやつり、大いなる「日本通」となっていきます。
地元の武士や民衆と生活をともにし、熱心に布教すると同時に、時の政権保
持者、織田信長、豊臣秀吉らにも積極的に接近。主に布教の保護と許可を得る
ため、数十度にわたって接見、親しく意見を交換し合いました。
フロイスは本国で、もともと秘書官をつとめ、文才を認められての派遣であ
ったため、この間の知見を膨大な公式文書として政庁に報告しました。後世こ
の貴重な記録をもとに日本で翻訳・出版されたのが、有名な「フロイス日本史
」です。
『完訳 フロイス日本史』全十二巻 川崎桃太訳 中央公論社
信長や秀吉をはじめ、時の武将、毛利元就、黒田官兵衛、小早川隆景、細川
忠興などの言動が、等身大に、生々しく語られるリアリティにより、往年の
NHK大河ドラマ「信長」の原作ともなりました。
今回のブログでは、これら歴史上の人物ではなく、当時のご
く普通の日本人、民間人がどのような興味でもって、フロイスに見られ、評価、
判断されていたのかをご紹介してみましょう。
宗教観、死生観はもとより、生活習慣、風俗、モラルなどの生活のあらゆるシ
ーンで、思いもよらぬ発見があります。中にはむしろ、現代日本よりは今の西
洋に近いのでは…?と思われるような不可思議な日本人のふるまいもあります。
以下、フロイスが克明に記述した「日本とヨーロッパの風習の対照」から、
いくつかをピックアップしてみました。
●我々は、挨拶は厳粛な顔で行う。日本人はいつも必ず偽りの微笑で行う。
●ヨーロッパでは言葉において明瞭さが求められ、曖昧さを避ける。日本で
は曖昧なのが一番よい言葉であり、最も重んぜられる。
●我々は、別れる時とか、外から帰ってくると、抱擁するのが慣わしである。
日本人は全くその様なことはしない。むしろその様なことを見ると笑う。
●我々の書物の最後の頁が終わるところから、日本人の書物が始まる。
●我々は、いろいろな音響の音楽を響きがよく快いと思う。日本のはただ単調
に鳴り響くだけで、全くもってぞっとさせられる。
●ヨーロッパの貴人は、夜に寝て昼に楽しむ。日本の貴人は昼に寝て、夜に宴
会や娯楽を行う。
●我々は人を殺すことは恐ろしいことであるが、牛や鶏や犬を殺すことは恐ろ
しくない。日本人は、動物を殺すのを見ると肝を潰す。が、人殺しはありふれ
たことである。
●我々は自殺はきわめて重罪とみなされる。日本人は戦いにおいて、最早力尽
きた時、切腹することを勇敢とみなす。
●我々は食事をするのにひどく音を立てたり、葡萄酒を最後の一滴まで飲み干
すのは卑しいことだとされている。日本人は、そのどちらも立派なこととみな
している。
●我々は招かれた者が招いた者に礼を言う。日本では招いた者が招かれた者に
礼を言う。
●我々は食卓で、客の前でゲップを吐くことは不作法とされる。日本でははな
はだ頻繁にやることで、全然気にしていない。
●我々は食後に歯を清める。ところが日本人は顔を洗う前に歯を磨く。
●我々は、誰かが酩酊するとそれは大いなる恥辱であり不名誉であると考える。
日本ではそれを自慢する。
●我々の死者は顔を上に向けて横たえられる。日本の死者は座らされ、顔を膝の
間にして縛られる。
●我々は死者を埋葬する。日本人は大抵死者を焼く。
●我々はすべての物を手で食べる(この頃のヨーロッパではまだフォークやナイ
フを使っていなかった)。日本人は男女とも、幼児の時から二本の棒で食べる。
●我々は焼いたり煮たりした魚を好む。日本人は生のままで食べることを喜ぶ。
●我々は、甘い物が大好きだが、日本人は塩辛いのを好む。
●我々は食事のはじめと終わりに手を洗う。日本人は食物に手をふれないから、
手を洗う必要がない。
●我々は葡萄酒を冷やす。日本では酒を温めて飲む。
●我々は、自分が飲みたいだけしか飲まないし、他人に強要することもない。
日本ではひどく無理にすすめ合う。そのためある者は吐き、ある者は酔っ払う。
●日本の女性はあまり純潔を重んじない。
●我々は二十歳の男でもほとんど剣を帯びない。日本では十二、三歳の少年も
刀と脇差を帯びる。
●我々の子供は青年になってもまだ使者になれない。日本の子供は十歳でもそれ
を果たす判断と賢明さにおいて五十歳にも見える。
●我々は俗人の教師について読み書きを学ぶ。日本ではすべての子供が僧侶の寺
で学習する。
●我々の子供は、まずはじめに読むことを習い、ついで書くことを学ぶ。日本の
子供はまず書くことからはじめ、その後に読むことを学ぶ。
●我々は息子は親の死にともなって相続する。日本では親が息子に財産を渡すた
めに生前非常に早く引退する。
●我々の女性は顔に化粧品や美顔料が目立つならば、不手際とみなされる。日本
の女性は白粉を塗れば塗るほど美しいとみなす。
●我々は、夫婦の間で財産は共有である。日本では各々が自分の分け前を所有し
ており、時々妻が高利で夫に貸し付けている。
●我々は、妻を離別することはそれが罪悪であることはともかく、最大の不名
誉である。日本では望みのままに幾度でも離別する。そして女性たちは、それ
によって名誉も結婚する資格も失わない。
●我々は、妻は夫の許可なしに家から外出しない。日本の婦人は夫に知らさず
自由に行きたいところに行く。
のため西九州、横瀬浦に上陸。うまれてはじめて日本の地を踏みます。以降12
年間に渡り、畿内を中心として布教活動に精力的に従事。日本人の民族性に布
教の手ごたえを感じたフロイスは、徐々にこの国民に親近感を覚え、たくみに
日本語をあやつり、大いなる「日本通」となっていきます。
地元の武士や民衆と生活をともにし、熱心に布教すると同時に、時の政権保
持者、織田信長、豊臣秀吉らにも積極的に接近。主に布教の保護と許可を得る
ため、数十度にわたって接見、親しく意見を交換し合いました。
フロイスは本国で、もともと秘書官をつとめ、文才を認められての派遣であ
ったため、この間の知見を膨大な公式文書として政庁に報告しました。後世こ
の貴重な記録をもとに日本で翻訳・出版されたのが、有名な「フロイス日本史
」です。
『完訳 フロイス日本史』全十二巻 川崎桃太訳 中央公論社
信長や秀吉をはじめ、時の武将、毛利元就、黒田官兵衛、小早川隆景、細川
忠興などの言動が、等身大に、生々しく語られるリアリティにより、往年の
NHK大河ドラマ「信長」の原作ともなりました。
今回のブログでは、これら歴史上の人物ではなく、当時のご
く普通の日本人、民間人がどのような興味でもって、フロイスに見られ、評価、
判断されていたのかをご紹介してみましょう。
宗教観、死生観はもとより、生活習慣、風俗、モラルなどの生活のあらゆるシ
ーンで、思いもよらぬ発見があります。中にはむしろ、現代日本よりは今の西
洋に近いのでは…?と思われるような不可思議な日本人のふるまいもあります。
以下、フロイスが克明に記述した「日本とヨーロッパの風習の対照」から、
いくつかをピックアップしてみました。
●我々は、挨拶は厳粛な顔で行う。日本人はいつも必ず偽りの微笑で行う。
●ヨーロッパでは言葉において明瞭さが求められ、曖昧さを避ける。日本で
は曖昧なのが一番よい言葉であり、最も重んぜられる。
●我々は、別れる時とか、外から帰ってくると、抱擁するのが慣わしである。
日本人は全くその様なことはしない。むしろその様なことを見ると笑う。
●我々の書物の最後の頁が終わるところから、日本人の書物が始まる。
●我々は、いろいろな音響の音楽を響きがよく快いと思う。日本のはただ単調
に鳴り響くだけで、全くもってぞっとさせられる。
●ヨーロッパの貴人は、夜に寝て昼に楽しむ。日本の貴人は昼に寝て、夜に宴
会や娯楽を行う。
●我々は人を殺すことは恐ろしいことであるが、牛や鶏や犬を殺すことは恐ろ
しくない。日本人は、動物を殺すのを見ると肝を潰す。が、人殺しはありふれ
たことである。
●我々は自殺はきわめて重罪とみなされる。日本人は戦いにおいて、最早力尽
きた時、切腹することを勇敢とみなす。
●我々は食事をするのにひどく音を立てたり、葡萄酒を最後の一滴まで飲み干
すのは卑しいことだとされている。日本人は、そのどちらも立派なこととみな
している。
●我々は招かれた者が招いた者に礼を言う。日本では招いた者が招かれた者に
礼を言う。
●我々は食卓で、客の前でゲップを吐くことは不作法とされる。日本でははな
はだ頻繁にやることで、全然気にしていない。
●我々は食後に歯を清める。ところが日本人は顔を洗う前に歯を磨く。
●我々は、誰かが酩酊するとそれは大いなる恥辱であり不名誉であると考える。
日本ではそれを自慢する。
●我々の死者は顔を上に向けて横たえられる。日本の死者は座らされ、顔を膝の
間にして縛られる。
●我々は死者を埋葬する。日本人は大抵死者を焼く。
●我々はすべての物を手で食べる(この頃のヨーロッパではまだフォークやナイ
フを使っていなかった)。日本人は男女とも、幼児の時から二本の棒で食べる。
●我々は焼いたり煮たりした魚を好む。日本人は生のままで食べることを喜ぶ。
●我々は、甘い物が大好きだが、日本人は塩辛いのを好む。
●我々は食事のはじめと終わりに手を洗う。日本人は食物に手をふれないから、
手を洗う必要がない。
●我々は葡萄酒を冷やす。日本では酒を温めて飲む。
●我々は、自分が飲みたいだけしか飲まないし、他人に強要することもない。
日本ではひどく無理にすすめ合う。そのためある者は吐き、ある者は酔っ払う。
●日本の女性はあまり純潔を重んじない。
●我々は二十歳の男でもほとんど剣を帯びない。日本では十二、三歳の少年も
刀と脇差を帯びる。
●我々の子供は青年になってもまだ使者になれない。日本の子供は十歳でもそれ
を果たす判断と賢明さにおいて五十歳にも見える。
●我々は俗人の教師について読み書きを学ぶ。日本ではすべての子供が僧侶の寺
で学習する。
●我々の子供は、まずはじめに読むことを習い、ついで書くことを学ぶ。日本の
子供はまず書くことからはじめ、その後に読むことを学ぶ。
●我々は息子は親の死にともなって相続する。日本では親が息子に財産を渡すた
めに生前非常に早く引退する。
●我々の女性は顔に化粧品や美顔料が目立つならば、不手際とみなされる。日本
の女性は白粉を塗れば塗るほど美しいとみなす。
●我々は、夫婦の間で財産は共有である。日本では各々が自分の分け前を所有し
ており、時々妻が高利で夫に貸し付けている。
●我々は、妻を離別することはそれが罪悪であることはともかく、最大の不名
誉である。日本では望みのままに幾度でも離別する。そして女性たちは、それ
によって名誉も結婚する資格も失わない。
●我々は、妻は夫の許可なしに家から外出しない。日本の婦人は夫に知らさず
自由に行きたいところに行く。
四方を海でかこまれながらも、建国以来多くの海外の文物が日本に伝来されました。学問、宗教、法律、芸術、医療、料理から茶法にいたるまで…。ぼくたちの日本文化は実に多くの恩恵を隣国あるいは、遠国から受けている。数ある伝来物から「文化」という視点で見た場合、その貢献度、影響力からみてダントツ ナンバー・ワンなのは、お隣中国から渡った「漢字」ではないでしょうか。
今回は「漢字」の誕生秘話や古代文字の美しい実画像も交えながら、4000年にもおよぶ「漢字」のプロフィールを駆け足でスクロールしてみたいと思います。
漢字は世界最古にして、現存する人類唯一の「オリジナル文字」
さて、世界史的にみて「文字」を自ら発明したのは人類はじまって以来、
たった四民族のみです。
1.エジプト人 → ヒエログリフ(象形文字)
2.シュメール人 → 楔形文字(刻画文字)
3.インディアン古族 → マヤ文字(象形文字)
4.中国人 → 漢字(象形文字/表意文字)
1.ヒエログリフ、2.楔形文字、3.マヤ文字はすでに絶滅しており、世界で現存する文字は、自国およびアジア各地域で連綿と生命をつなぐ「漢字」だけなのです。ぼくたちが今日も使い続けている「漢字」。片仮名、平仮名も漢字から生まれた。国字・和字すら漢字の部品を流用、アレンジして作られている。
いうまでもなく日本人の文字の祖先は、この「漢字」なのです。
言語は文明。人を動物の階層からジャンプさせる。文字は文化。人をより高次の精神的存在へと、天高く羽ばたかせる。漢字はいつ、どこで、誰により発明され、長い年月を経てどのように変化・発展してきたのか。まずは、その誕生の瞬間に立ち会いましょう。
漢字の起源伝説
漢字は周知の通り、中国で生まれた中国人のオリジナル文字。現物で今確認できる最古の文字は、紀元前十四世紀、殷(商)の時代のものです。少なくとも3400年以前に、文字は存在していた。かの国には、その誕生を伝える興味深い伝説、言い伝えがあります。三つの代表的な「漢字起源伝説」を以下にご紹介しましょう。
【伝説1】
有史以前、中国太古の時代の皇帝、伏犠氏がはじめて「文字」というものをつくった。これは、天地自然現象を観察し、シンボル化した「八卦」から起こる。
たとえば、坎の卦(上が短い横棒二本、真中が長い横棒一本、下が短い横棒二本でできた記号)から水、離の卦(上が長い横棒一本、真中が短い横棒二本、下が長い横棒一本)から火、というように作られたものが文字の祖先。これを書契と呼んだ。
【伝説2】
上の伝説で、文字を作ったのは伏犠氏ではなく、竜馬が八卦の図を背負って、黄河から出現した、という説。
【伝説3】
伏犠より後の時代に文字は生まれた。黄帝の時代、史官の蒼頡が鳥や獣の足跡にヒントを得て書契を考案し、それまでの結縄に代えたのが、文字のはじまりである、とする。
これらは有史以前の遠い遠い昔の物語。伏犠が蛇身人首、黄帝が人身牛頭であったといわれる頃。むろんそのまま鵜呑みにできる話ではありません。史実
に基づき、それが特定の個人または集団の手になるもの、とはできませんが、おそらく絵文字のようなものから自然発生し、長い年月をかけて徐々に整えられていったもの、とみるべきでしょう。三つの伝説は、とてもロマンティックではありますが。
なぜ、「漢字」と呼ばれるのか
中国、漢民族により作られ、使用されてきたので「漢字」と呼ばれます。
しかし、古く周の時代には単に「名」といいました。日本の文字「真名(漢字)」と「仮名(片仮名、平仮名)」も、この呼び名にちなむもの。
時代が下り、春秋・戦国時代には「文」または「字」と呼ばれるようになる。
「文」とは単一の絵文字のこと。「字」とは、この文を二つ以上組み合わせた文字のこと。偏と旁からなる現在の漢字の形を想像してください。
秦時代以降は、この「文」と「字」を合わせて「文字」と呼ぶ。あるいは、単に「文」もしくは「字」とも呼び、今日に至っています。
この文字を「漢字」と呼ぶのは日本だけ。日本で作られた「国字」や「和字」に対して、中国伝来の文字を「漢字」と呼びならわしてきました。
欧米の文字が表音文字であることに対し、漢字は一字のみで意味をもつ表意文字。かつ、一文字だけで固有の音と意味をもつ、世界的にも特殊な文字なのです。その総数はおよそ五万文字。中国より、朝鮮半島や日本へと伝播され、それぞれの国で正字として採用されました。この特殊な文字である「漢字」。
発生以来、3400年をかけどのように変遷してきたのか、主に形態(書体)の面から見ていきましょう。
最初の文字は、亀の甲羅に刻まれた「おまじない」
現存する最古の文字は「甲骨文字」(画像はこちら)と呼ばれます。正式には、「亀甲獣骨文字」といい、亀の甲羅、または牛の骨に刀で刻みつけられたものでした。これは紀元前十四世紀頃、殷王朝中期のもの。十九世紀も末となって、河南省安陽郡小屯村から多数の亀の甲、牛の骨が発掘され、それらに刻まれていたのが最古の文字であることがわかりました。
殷の時代には、天意、神意がはなはだ重視され、王室の行事、祭礼、政治、軍事、天候、作物等を占うために、亀の甲羅に占うべき事項を刻み、これを焼きました。そこに現れたひび割れの形状により、吉凶を占ったのです。甲骨文字はこのト問のための辞であり、その結果を記録するもの。主に刀により刻み付けられました。はるかに時代が下る、とされる筆による、朱や墨で下書きされたものも少数ながら見つかっています。
甲骨文字の総数は、およそ3500。その内、今日解読できているものが1800。同一文字でも、字体部分の要素が違っていたり、偏と旁が逆転していたり、要素の大小が確定していないなど、その書法にはいまだ統一性、整合性が認められません。文字成立のごく初期的な段階にあるものと推察され、これが最古の文字であることの傍証ともなっています。
骨の次は、金属に文字は刻まれた
殷の時代、文字は甲骨に刻まれた「おまじない」の言葉でした。時代は下り、周(西周/BC11~7、東周/BC7~2頃)の世では、盛んに青銅器が鋳造されるようになる。そしてこれらに銘文として文字が鋳込まれます。金属に記された文字、という意味でこれらは「金文文字」と称されました(画像はこちら)。
鼎や鬲などの青銅器が宗室の祭器であったため、記された銘文は、
1.祖先の名
2.氏族名・作者名
3.年月日
などの数文字から、3~40文字程度の短いものでした。しかし西周以降、王
の詔勅や官位叙任などの公式記録が刻印されだし、全500文字にもおよぶ長文
のものが見られるようになる。前代の殷が鬼神を尊び、盛んに亀トを行ったのに対し、周は礼を優先し、封建制を打ち立てたため、甲骨文は廃れ、官制記録としての銅器金文のみが継承されていったのです。
この時代まで、文字は画像のような象形文字で、地方や時期により書法にもバラつきがありました。さてでは、いったい誰が今日のように、万民共通で使える文字を作ったのでしょうか。
中国全土も、文字も統一した皇帝の名は?
万里の長城造築で有名な秦の始皇帝。天下を平定したのは、紀元前221年のことでした。度量衡や各種器具・器物の規格統一とともに、全国共通の文字を制定したのも、始皇帝の功績です。臣下の学者等に命じ、「蒼頡篇」、「爰歴篇」、「博学篇」などの字典・字書が相次いで編まれ、秦の統一文字普及が大いに推進される。文字の書体については、許慎の「説文解字」序文によれば、秦時代には書の「八体」と呼ばれるものがありました。
1.大篆(タイテン) 籀文のこと。小篆に先行する文字
2.小篆(ショウテン) 大篆を改良。公文書など、広く一般に普及した
3.刻符(コクフ) 勅命を符契に書く専用文字
4.虫書(チュウショ) 字画の最初を虫の頭にかたどり、末尾を曲げた書体
5.暮印(ボイン) 印章用の書体
6.署書(ショショ) 扁額用の書体
7.殳書(シュショ) 殳などの兵具に刻まれた書体
8.隷書(レイショ) 官獄に使われた簡素な文字
これらの内、均整がとれ荘重美麗な字形の小篆と、筆記に容易で簡略な隷書が広く一般に流通し、今日にも印鑑や石碑などに用いられています。小篆の画像はこちら隷書の画像はこちら
今使われている漢字の祖先は、監獄で生まれた。
始皇帝の中央集権体制では、徹底した厳罰制度、法治主義がしかれました。当然、牢屋は罪人で満杯。獄吏はかつてないほどの大忙し。当時の正字体である、小篆は古代文字の名残をとどめる、絵画的で曲線の多い書体。殺人的に膨大な事務処理に追われていた獄吏にとって、書写におそろしく手間のかかる厄介な代物だったのです。
そこで、監獄の役人、程邈(テイバク)は、小篆の筆画をできるだけ直線
化し、簡素で能率のよい事務処理用の文字をつくります。これを官獄の隷人(下級役人)に使用させたため、「隷書」と呼ばれるようになりました。
画像はこちら 複雑よりも簡素、難解よりも平易に流れるのが世の常。隷書はやがて、小篆を駆逐し、前漢から後漢にかけて、広く中国全土で普及することとなる。ちなみに秦から漢にかけて、文字は石刻、竹簡、木牘、つまり石や竹や木片に書かれるようになっていきます。
楷書→行書→草書と文字はくずれていった、…これはウソ!
一般にきちっとした正体文字である楷書から、徐々に字体がくずれ、行書、草書という順で変化していった、と思っている人が多いようです。しかし、その発生順にいえば、
1.草書 → 秦末~前漢
2.行書 → 後漢
3.楷書 → 後漢末
とされ、楷書から行書が生まれ、行書から草書が生まれたわけではありま
せん。
【楷書】
後漢末、隷書から次第に変化して独立していきます。創始者は王次仲ともいわれますが、彼は羽化登仙した道人という説もあり、定かではない。
楷書の名のいわれは、字画厳正で一点一画すべて規矩にかなう、ということからきています。唐の太宗皇帝の頃、異体が整理され、字体が統一。隋・唐にはじまる中国の印刷術の興隆にともなって、楷書がその正体として採用され、全土に普及、流通していきました。
【草書】
秦代末頃、小篆・隷書より、変化、発生しました。その名は、草稿(下書き)、草創より生まれ、筆画を省略し、早く筆を続けたことからきています。当初は一文字のみ崩す筆法でしたが、晋以降、数文字をつなげて書く連綿体として、現代のような草書に発展していきました。
【行書】
草書より遅れ、後漢頃に成立。創始者は、劉徳升ともいわれています。当初は隷書の筆画を少し省略した程度。楷書ほどかっちりせず、かといって草書ほど連綿とはならない、中間的な書体です。
この楷書・行書・草書が、書の三体として今日にいたっているのです。
「民」の字源は、「目を突き刺され、盲目とされた奴隷」。
最後に今日、ぼくたちが普通に使っている漢字について、古代文字の字型から、その書体の(隠された)意味を読み取ってみましょう。
【仁 ジン】画像はこちら「仁」は「人」と声・義ともに同じ、とされています。本来、字型からは、二人の人間がいっしょにいるカタチ、とされていますが、画像にある古文・金文の文字は、人の下に二つの小さな点が加えられている。この「ニ」は敷物をあらわす。
二枚の敷物の上で、人が温かく心地よく過ごすことが「仁」の原義である、とする説があります。
【民 ミン】画像はこちら金文の字型をみると、目を針で刺しているカタチとなっている。古代中国では異民族の捕虜が奴隷化され、神に捧げられていました。神に仕える者、楽人などは目を突かれ、盲目とされる。後に、その語義が拡大解釈され、新しく帰属した異民族すべてが「民」と呼ばれるように。「民」も「人」も本来は本族以外の者をさす言葉だったのです。
【税 ゼイ】画像はこちら
「税」という文字は、「禾=稲」+「兌=八+兄(大きな頭の人の意)」で、成り立ちます。兌の上にある「八」は、左と右に引き離す、人から着物を脱がせることを意味しています。つまり「兌」は「脱」の原字。もう、いうまでもありませんが、「税」とは、人民からその豊かな蓄えを、ごっそり奪い去ることが語源です。
〔参考資料〕
新訂 字統 白川静 著 2004.12.15 平凡社
漢字の起源 藤堂明保 著 1983.4.5 現代出版
亀が語る歴史 甲骨文字と漢字の起源 孟世凱 著 S.59.11.26 狼烟社
漢字の話 上・下 藤堂明保 著 1986.7.20 朝日新聞社
漢字文化の源流を探る 水上静夫 著 1997.12.20 大修館書店
新漢和辞典 携帯版 諸橋轍次 他編 S.46.3.1 大修館書店
今回は「漢字」の誕生秘話や古代文字の美しい実画像も交えながら、4000年にもおよぶ「漢字」のプロフィールを駆け足でスクロールしてみたいと思います。
漢字は世界最古にして、現存する人類唯一の「オリジナル文字」
さて、世界史的にみて「文字」を自ら発明したのは人類はじまって以来、
たった四民族のみです。
1.エジプト人 → ヒエログリフ(象形文字)
2.シュメール人 → 楔形文字(刻画文字)
3.インディアン古族 → マヤ文字(象形文字)
4.中国人 → 漢字(象形文字/表意文字)
1.ヒエログリフ、2.楔形文字、3.マヤ文字はすでに絶滅しており、世界で現存する文字は、自国およびアジア各地域で連綿と生命をつなぐ「漢字」だけなのです。ぼくたちが今日も使い続けている「漢字」。片仮名、平仮名も漢字から生まれた。国字・和字すら漢字の部品を流用、アレンジして作られている。
いうまでもなく日本人の文字の祖先は、この「漢字」なのです。
言語は文明。人を動物の階層からジャンプさせる。文字は文化。人をより高次の精神的存在へと、天高く羽ばたかせる。漢字はいつ、どこで、誰により発明され、長い年月を経てどのように変化・発展してきたのか。まずは、その誕生の瞬間に立ち会いましょう。
漢字の起源伝説
漢字は周知の通り、中国で生まれた中国人のオリジナル文字。現物で今確認できる最古の文字は、紀元前十四世紀、殷(商)の時代のものです。少なくとも3400年以前に、文字は存在していた。かの国には、その誕生を伝える興味深い伝説、言い伝えがあります。三つの代表的な「漢字起源伝説」を以下にご紹介しましょう。
【伝説1】
有史以前、中国太古の時代の皇帝、伏犠氏がはじめて「文字」というものをつくった。これは、天地自然現象を観察し、シンボル化した「八卦」から起こる。
たとえば、坎の卦(上が短い横棒二本、真中が長い横棒一本、下が短い横棒二本でできた記号)から水、離の卦(上が長い横棒一本、真中が短い横棒二本、下が長い横棒一本)から火、というように作られたものが文字の祖先。これを書契と呼んだ。
【伝説2】
上の伝説で、文字を作ったのは伏犠氏ではなく、竜馬が八卦の図を背負って、黄河から出現した、という説。
【伝説3】
伏犠より後の時代に文字は生まれた。黄帝の時代、史官の蒼頡が鳥や獣の足跡にヒントを得て書契を考案し、それまでの結縄に代えたのが、文字のはじまりである、とする。
これらは有史以前の遠い遠い昔の物語。伏犠が蛇身人首、黄帝が人身牛頭であったといわれる頃。むろんそのまま鵜呑みにできる話ではありません。史実
に基づき、それが特定の個人または集団の手になるもの、とはできませんが、おそらく絵文字のようなものから自然発生し、長い年月をかけて徐々に整えられていったもの、とみるべきでしょう。三つの伝説は、とてもロマンティックではありますが。
なぜ、「漢字」と呼ばれるのか
中国、漢民族により作られ、使用されてきたので「漢字」と呼ばれます。
しかし、古く周の時代には単に「名」といいました。日本の文字「真名(漢字)」と「仮名(片仮名、平仮名)」も、この呼び名にちなむもの。
時代が下り、春秋・戦国時代には「文」または「字」と呼ばれるようになる。
「文」とは単一の絵文字のこと。「字」とは、この文を二つ以上組み合わせた文字のこと。偏と旁からなる現在の漢字の形を想像してください。
秦時代以降は、この「文」と「字」を合わせて「文字」と呼ぶ。あるいは、単に「文」もしくは「字」とも呼び、今日に至っています。
この文字を「漢字」と呼ぶのは日本だけ。日本で作られた「国字」や「和字」に対して、中国伝来の文字を「漢字」と呼びならわしてきました。
欧米の文字が表音文字であることに対し、漢字は一字のみで意味をもつ表意文字。かつ、一文字だけで固有の音と意味をもつ、世界的にも特殊な文字なのです。その総数はおよそ五万文字。中国より、朝鮮半島や日本へと伝播され、それぞれの国で正字として採用されました。この特殊な文字である「漢字」。
発生以来、3400年をかけどのように変遷してきたのか、主に形態(書体)の面から見ていきましょう。
最初の文字は、亀の甲羅に刻まれた「おまじない」
現存する最古の文字は「甲骨文字」(画像はこちら)と呼ばれます。正式には、「亀甲獣骨文字」といい、亀の甲羅、または牛の骨に刀で刻みつけられたものでした。これは紀元前十四世紀頃、殷王朝中期のもの。十九世紀も末となって、河南省安陽郡小屯村から多数の亀の甲、牛の骨が発掘され、それらに刻まれていたのが最古の文字であることがわかりました。
殷の時代には、天意、神意がはなはだ重視され、王室の行事、祭礼、政治、軍事、天候、作物等を占うために、亀の甲羅に占うべき事項を刻み、これを焼きました。そこに現れたひび割れの形状により、吉凶を占ったのです。甲骨文字はこのト問のための辞であり、その結果を記録するもの。主に刀により刻み付けられました。はるかに時代が下る、とされる筆による、朱や墨で下書きされたものも少数ながら見つかっています。
甲骨文字の総数は、およそ3500。その内、今日解読できているものが1800。同一文字でも、字体部分の要素が違っていたり、偏と旁が逆転していたり、要素の大小が確定していないなど、その書法にはいまだ統一性、整合性が認められません。文字成立のごく初期的な段階にあるものと推察され、これが最古の文字であることの傍証ともなっています。
骨の次は、金属に文字は刻まれた
殷の時代、文字は甲骨に刻まれた「おまじない」の言葉でした。時代は下り、周(西周/BC11~7、東周/BC7~2頃)の世では、盛んに青銅器が鋳造されるようになる。そしてこれらに銘文として文字が鋳込まれます。金属に記された文字、という意味でこれらは「金文文字」と称されました(画像はこちら)。
鼎や鬲などの青銅器が宗室の祭器であったため、記された銘文は、
1.祖先の名
2.氏族名・作者名
3.年月日
などの数文字から、3~40文字程度の短いものでした。しかし西周以降、王
の詔勅や官位叙任などの公式記録が刻印されだし、全500文字にもおよぶ長文
のものが見られるようになる。前代の殷が鬼神を尊び、盛んに亀トを行ったのに対し、周は礼を優先し、封建制を打ち立てたため、甲骨文は廃れ、官制記録としての銅器金文のみが継承されていったのです。
この時代まで、文字は画像のような象形文字で、地方や時期により書法にもバラつきがありました。さてでは、いったい誰が今日のように、万民共通で使える文字を作ったのでしょうか。
中国全土も、文字も統一した皇帝の名は?
万里の長城造築で有名な秦の始皇帝。天下を平定したのは、紀元前221年のことでした。度量衡や各種器具・器物の規格統一とともに、全国共通の文字を制定したのも、始皇帝の功績です。臣下の学者等に命じ、「蒼頡篇」、「爰歴篇」、「博学篇」などの字典・字書が相次いで編まれ、秦の統一文字普及が大いに推進される。文字の書体については、許慎の「説文解字」序文によれば、秦時代には書の「八体」と呼ばれるものがありました。
1.大篆(タイテン) 籀文のこと。小篆に先行する文字
2.小篆(ショウテン) 大篆を改良。公文書など、広く一般に普及した
3.刻符(コクフ) 勅命を符契に書く専用文字
4.虫書(チュウショ) 字画の最初を虫の頭にかたどり、末尾を曲げた書体
5.暮印(ボイン) 印章用の書体
6.署書(ショショ) 扁額用の書体
7.殳書(シュショ) 殳などの兵具に刻まれた書体
8.隷書(レイショ) 官獄に使われた簡素な文字
これらの内、均整がとれ荘重美麗な字形の小篆と、筆記に容易で簡略な隷書が広く一般に流通し、今日にも印鑑や石碑などに用いられています。小篆の画像はこちら隷書の画像はこちら
今使われている漢字の祖先は、監獄で生まれた。
始皇帝の中央集権体制では、徹底した厳罰制度、法治主義がしかれました。当然、牢屋は罪人で満杯。獄吏はかつてないほどの大忙し。当時の正字体である、小篆は古代文字の名残をとどめる、絵画的で曲線の多い書体。殺人的に膨大な事務処理に追われていた獄吏にとって、書写におそろしく手間のかかる厄介な代物だったのです。
そこで、監獄の役人、程邈(テイバク)は、小篆の筆画をできるだけ直線
化し、簡素で能率のよい事務処理用の文字をつくります。これを官獄の隷人(下級役人)に使用させたため、「隷書」と呼ばれるようになりました。
画像はこちら 複雑よりも簡素、難解よりも平易に流れるのが世の常。隷書はやがて、小篆を駆逐し、前漢から後漢にかけて、広く中国全土で普及することとなる。ちなみに秦から漢にかけて、文字は石刻、竹簡、木牘、つまり石や竹や木片に書かれるようになっていきます。
楷書→行書→草書と文字はくずれていった、…これはウソ!
一般にきちっとした正体文字である楷書から、徐々に字体がくずれ、行書、草書という順で変化していった、と思っている人が多いようです。しかし、その発生順にいえば、
1.草書 → 秦末~前漢
2.行書 → 後漢
3.楷書 → 後漢末
とされ、楷書から行書が生まれ、行書から草書が生まれたわけではありま
せん。
【楷書】
後漢末、隷書から次第に変化して独立していきます。創始者は王次仲ともいわれますが、彼は羽化登仙した道人という説もあり、定かではない。
楷書の名のいわれは、字画厳正で一点一画すべて規矩にかなう、ということからきています。唐の太宗皇帝の頃、異体が整理され、字体が統一。隋・唐にはじまる中国の印刷術の興隆にともなって、楷書がその正体として採用され、全土に普及、流通していきました。
【草書】
秦代末頃、小篆・隷書より、変化、発生しました。その名は、草稿(下書き)、草創より生まれ、筆画を省略し、早く筆を続けたことからきています。当初は一文字のみ崩す筆法でしたが、晋以降、数文字をつなげて書く連綿体として、現代のような草書に発展していきました。
【行書】
草書より遅れ、後漢頃に成立。創始者は、劉徳升ともいわれています。当初は隷書の筆画を少し省略した程度。楷書ほどかっちりせず、かといって草書ほど連綿とはならない、中間的な書体です。
この楷書・行書・草書が、書の三体として今日にいたっているのです。
「民」の字源は、「目を突き刺され、盲目とされた奴隷」。
最後に今日、ぼくたちが普通に使っている漢字について、古代文字の字型から、その書体の(隠された)意味を読み取ってみましょう。
【仁 ジン】画像はこちら「仁」は「人」と声・義ともに同じ、とされています。本来、字型からは、二人の人間がいっしょにいるカタチ、とされていますが、画像にある古文・金文の文字は、人の下に二つの小さな点が加えられている。この「ニ」は敷物をあらわす。
二枚の敷物の上で、人が温かく心地よく過ごすことが「仁」の原義である、とする説があります。
【民 ミン】画像はこちら金文の字型をみると、目を針で刺しているカタチとなっている。古代中国では異民族の捕虜が奴隷化され、神に捧げられていました。神に仕える者、楽人などは目を突かれ、盲目とされる。後に、その語義が拡大解釈され、新しく帰属した異民族すべてが「民」と呼ばれるように。「民」も「人」も本来は本族以外の者をさす言葉だったのです。
【税 ゼイ】画像はこちら
「税」という文字は、「禾=稲」+「兌=八+兄(大きな頭の人の意)」で、成り立ちます。兌の上にある「八」は、左と右に引き離す、人から着物を脱がせることを意味しています。つまり「兌」は「脱」の原字。もう、いうまでもありませんが、「税」とは、人民からその豊かな蓄えを、ごっそり奪い去ることが語源です。
〔参考資料〕
新訂 字統 白川静 著 2004.12.15 平凡社
漢字の起源 藤堂明保 著 1983.4.5 現代出版
亀が語る歴史 甲骨文字と漢字の起源 孟世凱 著 S.59.11.26 狼烟社
漢字の話 上・下 藤堂明保 著 1986.7.20 朝日新聞社
漢字文化の源流を探る 水上静夫 著 1997.12.20 大修館書店
新漢和辞典 携帯版 諸橋轍次 他編 S.46.3.1 大修館書店
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最新号 世阿弥絶筆「佐渡状」を読む【言の葉庵】No.17を発刊しました。
こちらからどうぞ↓
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ハイチの震災で、数十万人の尊い命が奪われた、と伝えます。日本政府は、具体的な支援策を本日発表しました。ぼくたちに直接できることは少ないかもしれませんが、ほんの少しでもいいので皆さんの具体的なアクションを期待します。ぼくは日本ユニセフから義援金を送金しました。「日本ユニセフは詐欺団体か?」など、根拠のない風評がありますが、ネットで検索してご自身の信頼できる窓口へどうぞ。http://www.unicef.or.jp/children/children_now/haiti/sek_hait10.html
ちなみに三日後には阪神淡路大震災十五年目を迎えます。7日以内に救出すれば、多くの命が救えるといいます。
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