言の葉庵の翻訳作品、3年ぶりに新刊がリリースされました。
『現代語訳 申楽談儀』世阿弥からのメッセージ
世阿弥の相伝書の全文現代語訳です。
創業350年余、能狂言の専門出版社、檜書店さんより刊行されました。
水野聡現代語訳シリーズとしては11作品目。能狂言分野では前作『現代語訳 風姿花伝』から10年目、満を持して能の古典名著翻訳リリースです。
今回は能楽研究の第一人者である、国士舘大学教授表きよし氏に訳文全般について緻密な考証とアドバイスをいただきました。
世阿弥の肉声と舞台姿がイキイキとよみがえる、能狂言古典作品の白眉。
能の初心者の方もすらすら読める、わかりやすくシンプルな現代語訳に、詳細な訳注・世阿弥略年譜も付しました。
新刊の内容と詳細は【言の葉庵】HPの推奨名著ページをご覧ください。
また、ご注文・ご購入はお近くの書店、または出版元の檜書店さん商品ページにてお願いいたします。
●【言の葉庵】HP『申楽談儀』のページ
http://nobunsha.jp/book/post_182.html
●檜書店『申楽談儀』商品ページ
http://www.hinoki-shoten.co.jp/p/現代語訳 申楽談儀/482790999
『現代語訳 申楽談儀』世阿弥からのメッセージ
世阿弥の相伝書の全文現代語訳です。
創業350年余、能狂言の専門出版社、檜書店さんより刊行されました。
水野聡現代語訳シリーズとしては11作品目。能狂言分野では前作『現代語訳 風姿花伝』から10年目、満を持して能の古典名著翻訳リリースです。
今回は能楽研究の第一人者である、国士舘大学教授表きよし氏に訳文全般について緻密な考証とアドバイスをいただきました。
世阿弥の肉声と舞台姿がイキイキとよみがえる、能狂言古典作品の白眉。
能の初心者の方もすらすら読める、わかりやすくシンプルな現代語訳に、詳細な訳注・世阿弥略年譜も付しました。
新刊の内容と詳細は【言の葉庵】HPの推奨名著ページをご覧ください。
また、ご注文・ご購入はお近くの書店、または出版元の檜書店さん商品ページにてお願いいたします。
●【言の葉庵】HP『申楽談儀』のページ
http://nobunsha.jp/book/post_182.html
●檜書店『申楽談儀』商品ページ
http://www.hinoki-shoten.co.jp/p/現代語訳 申楽談儀/482790999
1996年ペルー日本大使公邸占拠事件が素材の小説。4か月にもおよぶ人質生活の中、世界最高のオペラ歌手を中心に歌と愛の力で、テロリストと人質たちが心の交流を深めていく。虚構のお手本となるストーリーテリングの巧みさ。文章・言葉の一つ一つから神の声をもつディーバ、ロクサーヌの歌が立ち上る。すべての音楽ファン必読!
http://u999u.info/loQB
http://u999u.info/loQB
五十有余
このころよりは、おほかた、せぬならでは、てだてあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申すことあり。さり ながら、真に得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所はすくなしとも、花は残るべし。
亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日、駿河の国、浅間の御前にて法楽 つかまつり、その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。およそそのころ、ものかずを ばはや初心にゆづりて、安きところをすくなすくなと、色へてせしかども、花はいやましにみえしなり。これ真に 得たりし花なるがゆゑに、能は、枝葉もすくなく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、 老骨に残りし花の証拠なり。
(『風姿花伝』第一年来稽古條々)
「せぬならでは、手だてあるまじ」
「初心にゆづりて、安きところをすくなすくなと、色へてせし」
名役者も老いたるのちは、何もしないという以外やるべきことはない、と老観阿弥は、舞台の非情の論理を世阿弥に伝えました。
舞台の見せ場はすべて若手にゆずり、自分は「少な少な」と手をこまねき、ほんの少し色を添える程度に舞うばかり。
しかし、控えれば控えるほど、裏にまわればまわるほど、
匂やかな花の美が老いた父の舞姿からにじみでてくるのである。
天才ともてはやされた子世阿弥もかぶとを脱がざるを得ませんでした。
人間老いたのち、いかにふるまうべきか。
あるいは、ふるまわざるべきか。
650年の叡智に学びたいものです。
このころよりは、おほかた、せぬならでは、てだてあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申すことあり。さり ながら、真に得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所はすくなしとも、花は残るべし。
亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日、駿河の国、浅間の御前にて法楽 つかまつり、その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。およそそのころ、ものかずを ばはや初心にゆづりて、安きところをすくなすくなと、色へてせしかども、花はいやましにみえしなり。これ真に 得たりし花なるがゆゑに、能は、枝葉もすくなく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、 老骨に残りし花の証拠なり。
(『風姿花伝』第一年来稽古條々)
「せぬならでは、手だてあるまじ」
「初心にゆづりて、安きところをすくなすくなと、色へてせし」
名役者も老いたるのちは、何もしないという以外やるべきことはない、と老観阿弥は、舞台の非情の論理を世阿弥に伝えました。
舞台の見せ場はすべて若手にゆずり、自分は「少な少な」と手をこまねき、ほんの少し色を添える程度に舞うばかり。
しかし、控えれば控えるほど、裏にまわればまわるほど、
匂やかな花の美が老いた父の舞姿からにじみでてくるのである。
天才ともてはやされた子世阿弥もかぶとを脱がざるを得ませんでした。
人間老いたのち、いかにふるまうべきか。
あるいは、ふるまわざるべきか。
650年の叡智に学びたいものです。
■〔粋〕とは何か?
〔いき〕は、〔粋〕あるいは〔意気〕と表記し、〔粋〕はまた〔すい〕とも読む。
いずれも、江戸庶民文化の確立を背景とした、近世日本文化のキーワードのひとつです。
〔わび、さび〕が仏教的な概念をもつ抽象度の高いことばであるのに対し、〔いき〕は誰にもわかりやすく、現代でも日常的に使われていることばではないでしょうか。
「あの人いきだね」
「いきなはからい」
「こいきなつくりの建物」
…などなど。
〔いき〕は江戸、〔すい〕は上方由来のことばとされ、それぞれ微妙に定義が異なっていますが、辞書の定義よりも明快に説明しているブログがありましたので、以下をご参照ください。
※HP「粋だね~の意味」について考える(団塊オヤジの短編小説)
http://doraemonn.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/02/post_670b.html
■世界共通〔粋〕の文化
さて、言の葉庵では〔美的概念〕〔男女の綾〕というよりも、〔いき〕には場を読み、円滑なコミュニケーションをはかりつつ、決して表に立たない「かっこいい行為」「胸のすくようなはからい」という定義が成り立つのではないかと考えています。
陰徳といえば、何かじめじめした印象をもってしまいますが、「いきなはからい」にはすかっと突き抜けたなんともいえない爽快感がただようもの。
このような〔いき〕は近世日本だけではなく、世界中で庶民共通のモラル、美意識として実践され、また様々な創作作品に描かれています。
スタインベックの古典的名作『怒りの葡萄』。天災と資本主義により故郷を追われた貧農の一家が夢の新天地を求めて、カリフォルニアを目指す苦難の旅の長編小説です。
本作には、主要プロットとは別に様々なサブストーリー、エピソードが挿入されています。主人公一家とどこか似通った庶民たちの悲喜こもごもの物語が暖かなまなざしでつづられる。
無一文で互いに身を寄せ合うしか生き抜くすべのない、弱い人々。ほとほと困窮した人には、それより少しましな人から救いの手がのべられます。しかし貧乏であればあるほど、切迫していればいるほど、他人の施しはありがたく、同時に辛いもの。
恩着せがましくなく、相手に恥を与えず、さらりと自然に助けてやることが、この小説に登場する貧しい人たちの誇りであり、その行為こそ〔いき〕の原点なのではないでしょうか。
『怒りの葡萄』があざやかに描く〔いき〕を、貧しい旅人たちのエピソードから要約してお届けしてみましょう。
■スタインベック『怒りの葡萄』要約
66号線沿いにある、ハンバーガー・スタンド。
中年のウエイトレス、メエと、その夫無口なアルがキッチンをとりしきっている。どこにでもある小さなドライバーの店だ。
かれらにとって上客は、長距離トラックの運転手たち。うまいコーヒーをいれ、愛想よく送り出せばまた来てくる良い客である。その他、西へと向かうオンボロ車に家財一式を山と積み上げた移民の集団は、金をもたず、すきさえあれば水や備品をくすねる連中。メエに「クソッタレ」と呼ばれている招かれざる客たちであった。
一台の輸送トラックが店の前に止まった。カーキ色の乗馬ズボンと短い上着、ぴかぴかのひさしのついた軍隊帽の男。そしてもうひとり、運転助手がトラックから降りてくる。
「ハイ!メエ」
「あらまあ。ねずみのビッグ・ビルじゃない。いつ戻ったのよ」
「一週間前さ」
二人の男は店に入り、ジュークボックスに五セント玉を放り込んだ。
<―ありがとう。おぼえていてくれて、浜辺の日焼けした肌を―君は悩みの種(ヘッドエイク)だったにしても、退屈(ボア)では決してなかった>
ビング・クロスビーの黄金の声が店内にしみわたる。
助手はスロットマシンに五セントを入れ、四個せしめたがたちまち全部スッてしまう。
熱いコーヒーと焼きたてのバナナクリームパイをほおばるビルは、ハイウエイをそれ、こちらにやってくる1926年型のナッシュのセダンに目をとめた。後部席に袋や寝具、鍋釜をぎっしりと積み上げ、その上に男の子ふたりが乗っている。
「メエ、テーブルの上のものは隠しといた方がいいぜ」。
メエはカウンターをまわり、店の入り口に立った。
車から降りてきた男は、グレーのウールのズボンに青いシャツ。髪は黒く、あごはとがり、シャツの背中と脇には濃く汗がにじんでいた。子どもたちは裸で、つぎはぎだらけのオーバーオールを身に着けたきり。髪は短くハリネズミのように一面に突っ立ち、顔には埃の縞模様ができていた。
男は聞く。
「水を少しもらえませんか。おくさん」
「いいわよ。使いなさい」
メエはしかし、肩ごしに小声で、
「大丈夫。ホースから目を離さないから」
と奥に伝える。
男はラジエーターにホースを突っ込み給水すると、子どもにホースを渡した。子供たちはホースを上に向け渇いた馬のように水をむさぼり飲んだ。
「わしらにパンを一山わけていただけませんか?おくさん」
「うちは食料品店じゃないから。パンはサンドイッチにするんだよ」
「わかっていますよ。でもわしらはパンがいるんです。腹ペコなんです。この先長い間なんにもないっていうもんで」
「サンドイッチを買ったら?おいしいハンバーガーだってあるのよ」
「そうしたいのは山々なんだが、ムリなんです。十セント玉一個で家族みんな食べなきゃならないんで」
「十セントじゃ買えないわね。うちには十五セントのしかないから」
メエの背後から亭主の太い声が響いた。
「しょうがねえや。メエ、パンをやりな」
亭主は作りかけのポテトサラダに目を落としている。メエは肩をすくめ、夫とトラック運転手たちをちらっ見た。
メエが入り口のドアを押さえていてやると、その男は汗臭い身体で店に入ってきた。
男の後をおずおずと追ってきたふたりの子ども。店に入るとキャンディー・ケースの前で釘付けとなる。ふつうの子どものようにそれをせびろうとするわけでもなく、この世にこんなものがあるのか、とただただ驚きじっと見つめているのである。
メエは、蝋紙で包んだパンをカウンターに置く。
「一本、十五セントよ」
男は帽子をかぶり直し、
「あの。十セント分だけ切ってもらうわけにはいきませんか」
という。亭主のアルがどなる。
「メエ、一本丸ごとやっちまいな」
男ははじめて亭主の方を見た。
「いや。十セント分だけ売ってもらえばいいんで。わしらはカリフォルニアに着くまで細かく計算しているんですよ。だんな」
メエはあきらめ顔で十セントでいいというが、男はそれではパンを盗むことになる、と反論した。
「かまわないわ。アルがもってけっていうんだもの」
パンがカウンターの上で男の方に押しやられる。男は尻ポケットから財布を出すと、ひもをゆるめ口をあけた。中にはコインとしわくちゃの札がぎっしり。
「こんなにつつましくするのも変だと思うかもしれませんが」
男は弁解した。
「わしらはこの先千マイルも行かなきゃならん。はたしてたどり着けるかどうかもあやしいもんですから」
財布の中から十セント玉をつまみ出そうとすると、はずみで一セント銅貨がくっついてきてカウンターに落ちる。一セント銅貨を追った男の目が、キャンディー・ケースの前の子どもの姿をとらえた。
男はのろのろとそっちの方へ歩いていき、だんだら模様がついた長いペパーミントキャンディーを指していった。
「こいつは一セントの飴ですか。おくさん」
「どの飴?」
「ほら、あの縞模様のやつですよ」
子どもたちはメエの顔を見つめ、緊張で身体を固くした。
「ああ―あれ。ええっと、あれは違う。―あれは二本で一セントよ」
「そうですかい。じゃあ二本ください」
男は一セント銅貨をいとおしむようにそっとカウンターへ置きなおした。
子どもたちは止めていた息をふっとついた。二人はメエからおずおずと飴を受け取ると、そのまま手にぶら下げて、互いにぎこちない笑いをうかべ顔を見合わせる。
「ありがとうよ。おくさん」
男はパンを取り上げると、店から出ていき車に戻った。子ども二人はシマリスのようにすばしっこく荷物の上に飛び乗り、中にもぐりこんで見えなくなった。
おんぼろのナッシュはエンジンをかけ、けたたましい音と青く油臭い煙を残し、ハイウエイへとよじのぼっていく。
店の夫婦とトラック運転手は、ものもいわずじっと見送っている。
ビッグ・ビルがくるりと振り向くと、
「ありゃあ二本一セントのキャンディーじゃなかったぜ」
「それが、あんたと何の関係があるのよ」
メエがかみつく。ビルはぼそりという。
「あれは一本五セントだ」
助手は、
「ぼちぼち行こうとするかね」
と椅子から腰をうかす。
二人はポケットに手を突っ込み、ビルが銀貨をカウンターに置く。それを見た助手はもう一方のポケットから同じ銀貨を一枚出し、わきにならべた。
「あばよ」
メエがあわてて叫ぶ。
「ちょっと!待って、お釣り、お釣り」
「何いってやがる」
ビルはドアをバタンと閉めた。
巨体をゆるがしながら、走り去るトラックを見送っていたメエは小声で亭主によびかけた。
「ねえ」
アルはハンバーグをこねる手を止め顔をあげる。
「何だ」
「あれ見てよ」
メエはカウンターを指さし、アルは近くまで歩いていってしばしながめた。
半ドル銀貨が二枚。
亭主は仕事に戻り、メエはつぶやく。
「やっぱりトラックの運ちゃんだわ」
「…あとはみんなクソッタレだ」
(スタインベック『怒りの葡萄』 要約 水野聡2014年9月)
〔いき〕は、〔粋〕あるいは〔意気〕と表記し、〔粋〕はまた〔すい〕とも読む。
いずれも、江戸庶民文化の確立を背景とした、近世日本文化のキーワードのひとつです。
〔わび、さび〕が仏教的な概念をもつ抽象度の高いことばであるのに対し、〔いき〕は誰にもわかりやすく、現代でも日常的に使われていることばではないでしょうか。
「あの人いきだね」
「いきなはからい」
「こいきなつくりの建物」
…などなど。
〔いき〕は江戸、〔すい〕は上方由来のことばとされ、それぞれ微妙に定義が異なっていますが、辞書の定義よりも明快に説明しているブログがありましたので、以下をご参照ください。
※HP「粋だね~の意味」について考える(団塊オヤジの短編小説)
http://doraemonn.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/02/post_670b.html
■世界共通〔粋〕の文化
さて、言の葉庵では〔美的概念〕〔男女の綾〕というよりも、〔いき〕には場を読み、円滑なコミュニケーションをはかりつつ、決して表に立たない「かっこいい行為」「胸のすくようなはからい」という定義が成り立つのではないかと考えています。
陰徳といえば、何かじめじめした印象をもってしまいますが、「いきなはからい」にはすかっと突き抜けたなんともいえない爽快感がただようもの。
このような〔いき〕は近世日本だけではなく、世界中で庶民共通のモラル、美意識として実践され、また様々な創作作品に描かれています。
スタインベックの古典的名作『怒りの葡萄』。天災と資本主義により故郷を追われた貧農の一家が夢の新天地を求めて、カリフォルニアを目指す苦難の旅の長編小説です。
本作には、主要プロットとは別に様々なサブストーリー、エピソードが挿入されています。主人公一家とどこか似通った庶民たちの悲喜こもごもの物語が暖かなまなざしでつづられる。
無一文で互いに身を寄せ合うしか生き抜くすべのない、弱い人々。ほとほと困窮した人には、それより少しましな人から救いの手がのべられます。しかし貧乏であればあるほど、切迫していればいるほど、他人の施しはありがたく、同時に辛いもの。
恩着せがましくなく、相手に恥を与えず、さらりと自然に助けてやることが、この小説に登場する貧しい人たちの誇りであり、その行為こそ〔いき〕の原点なのではないでしょうか。
『怒りの葡萄』があざやかに描く〔いき〕を、貧しい旅人たちのエピソードから要約してお届けしてみましょう。
■スタインベック『怒りの葡萄』要約
66号線沿いにある、ハンバーガー・スタンド。
中年のウエイトレス、メエと、その夫無口なアルがキッチンをとりしきっている。どこにでもある小さなドライバーの店だ。
かれらにとって上客は、長距離トラックの運転手たち。うまいコーヒーをいれ、愛想よく送り出せばまた来てくる良い客である。その他、西へと向かうオンボロ車に家財一式を山と積み上げた移民の集団は、金をもたず、すきさえあれば水や備品をくすねる連中。メエに「クソッタレ」と呼ばれている招かれざる客たちであった。
一台の輸送トラックが店の前に止まった。カーキ色の乗馬ズボンと短い上着、ぴかぴかのひさしのついた軍隊帽の男。そしてもうひとり、運転助手がトラックから降りてくる。
「ハイ!メエ」
「あらまあ。ねずみのビッグ・ビルじゃない。いつ戻ったのよ」
「一週間前さ」
二人の男は店に入り、ジュークボックスに五セント玉を放り込んだ。
<―ありがとう。おぼえていてくれて、浜辺の日焼けした肌を―君は悩みの種(ヘッドエイク)だったにしても、退屈(ボア)では決してなかった>
ビング・クロスビーの黄金の声が店内にしみわたる。
助手はスロットマシンに五セントを入れ、四個せしめたがたちまち全部スッてしまう。
熱いコーヒーと焼きたてのバナナクリームパイをほおばるビルは、ハイウエイをそれ、こちらにやってくる1926年型のナッシュのセダンに目をとめた。後部席に袋や寝具、鍋釜をぎっしりと積み上げ、その上に男の子ふたりが乗っている。
「メエ、テーブルの上のものは隠しといた方がいいぜ」。
メエはカウンターをまわり、店の入り口に立った。
車から降りてきた男は、グレーのウールのズボンに青いシャツ。髪は黒く、あごはとがり、シャツの背中と脇には濃く汗がにじんでいた。子どもたちは裸で、つぎはぎだらけのオーバーオールを身に着けたきり。髪は短くハリネズミのように一面に突っ立ち、顔には埃の縞模様ができていた。
男は聞く。
「水を少しもらえませんか。おくさん」
「いいわよ。使いなさい」
メエはしかし、肩ごしに小声で、
「大丈夫。ホースから目を離さないから」
と奥に伝える。
男はラジエーターにホースを突っ込み給水すると、子どもにホースを渡した。子供たちはホースを上に向け渇いた馬のように水をむさぼり飲んだ。
「わしらにパンを一山わけていただけませんか?おくさん」
「うちは食料品店じゃないから。パンはサンドイッチにするんだよ」
「わかっていますよ。でもわしらはパンがいるんです。腹ペコなんです。この先長い間なんにもないっていうもんで」
「サンドイッチを買ったら?おいしいハンバーガーだってあるのよ」
「そうしたいのは山々なんだが、ムリなんです。十セント玉一個で家族みんな食べなきゃならないんで」
「十セントじゃ買えないわね。うちには十五セントのしかないから」
メエの背後から亭主の太い声が響いた。
「しょうがねえや。メエ、パンをやりな」
亭主は作りかけのポテトサラダに目を落としている。メエは肩をすくめ、夫とトラック運転手たちをちらっ見た。
メエが入り口のドアを押さえていてやると、その男は汗臭い身体で店に入ってきた。
男の後をおずおずと追ってきたふたりの子ども。店に入るとキャンディー・ケースの前で釘付けとなる。ふつうの子どものようにそれをせびろうとするわけでもなく、この世にこんなものがあるのか、とただただ驚きじっと見つめているのである。
メエは、蝋紙で包んだパンをカウンターに置く。
「一本、十五セントよ」
男は帽子をかぶり直し、
「あの。十セント分だけ切ってもらうわけにはいきませんか」
という。亭主のアルがどなる。
「メエ、一本丸ごとやっちまいな」
男ははじめて亭主の方を見た。
「いや。十セント分だけ売ってもらえばいいんで。わしらはカリフォルニアに着くまで細かく計算しているんですよ。だんな」
メエはあきらめ顔で十セントでいいというが、男はそれではパンを盗むことになる、と反論した。
「かまわないわ。アルがもってけっていうんだもの」
パンがカウンターの上で男の方に押しやられる。男は尻ポケットから財布を出すと、ひもをゆるめ口をあけた。中にはコインとしわくちゃの札がぎっしり。
「こんなにつつましくするのも変だと思うかもしれませんが」
男は弁解した。
「わしらはこの先千マイルも行かなきゃならん。はたしてたどり着けるかどうかもあやしいもんですから」
財布の中から十セント玉をつまみ出そうとすると、はずみで一セント銅貨がくっついてきてカウンターに落ちる。一セント銅貨を追った男の目が、キャンディー・ケースの前の子どもの姿をとらえた。
男はのろのろとそっちの方へ歩いていき、だんだら模様がついた長いペパーミントキャンディーを指していった。
「こいつは一セントの飴ですか。おくさん」
「どの飴?」
「ほら、あの縞模様のやつですよ」
子どもたちはメエの顔を見つめ、緊張で身体を固くした。
「ああ―あれ。ええっと、あれは違う。―あれは二本で一セントよ」
「そうですかい。じゃあ二本ください」
男は一セント銅貨をいとおしむようにそっとカウンターへ置きなおした。
子どもたちは止めていた息をふっとついた。二人はメエからおずおずと飴を受け取ると、そのまま手にぶら下げて、互いにぎこちない笑いをうかべ顔を見合わせる。
「ありがとうよ。おくさん」
男はパンを取り上げると、店から出ていき車に戻った。子ども二人はシマリスのようにすばしっこく荷物の上に飛び乗り、中にもぐりこんで見えなくなった。
おんぼろのナッシュはエンジンをかけ、けたたましい音と青く油臭い煙を残し、ハイウエイへとよじのぼっていく。
店の夫婦とトラック運転手は、ものもいわずじっと見送っている。
ビッグ・ビルがくるりと振り向くと、
「ありゃあ二本一セントのキャンディーじゃなかったぜ」
「それが、あんたと何の関係があるのよ」
メエがかみつく。ビルはぼそりという。
「あれは一本五セントだ」
助手は、
「ぼちぼち行こうとするかね」
と椅子から腰をうかす。
二人はポケットに手を突っ込み、ビルが銀貨をカウンターに置く。それを見た助手はもう一方のポケットから同じ銀貨を一枚出し、わきにならべた。
「あばよ」
メエがあわてて叫ぶ。
「ちょっと!待って、お釣り、お釣り」
「何いってやがる」
ビルはドアをバタンと閉めた。
巨体をゆるがしながら、走り去るトラックを見送っていたメエは小声で亭主によびかけた。
「ねえ」
アルはハンバーグをこねる手を止め顔をあげる。
「何だ」
「あれ見てよ」
メエはカウンターを指さし、アルは近くまで歩いていってしばしながめた。
半ドル銀貨が二枚。
亭主は仕事に戻り、メエはつぶやく。
「やっぱりトラックの運ちゃんだわ」
「…あとはみんなクソッタレだ」
(スタインベック『怒りの葡萄』 要約 水野聡2014年9月)