言の葉庵メールマガジン今号のCONTENTS
【1】名言名句第五十回 してみて良きにつくべし。
【2】貞観政要を読む 第二回 古代より蘇る賢者
【3】カルチャー情報 4月期【言の葉庵】新講座一覧
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【1】名言名句第五十回 してみて良きにつくべし。
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してみて良きにつくべし。せずば善悪定め難し
~世阿弥『申楽談議』よろづの物まねは心根
『申楽談議』にある、世阿弥晩年の至言です。
「舞台で実際に演じてみて、結果の良かった方法を採用せよ。演じてもみぬ内
からいずれがよしともいえまい」。
長男元雅の新作能、〈隅田川〉。舞台のクライマックスに、子方を出すか、出
さぬか、の演出をめぐり、父子の間で意見が戦わされます。その中で、世阿弥
が断じた結論の語です。
まずは、当段落を現代語訳でご紹介しましょう。
■よろづの物まねは心根
すべての演技の根本には心根がある。まず詞章の心根をよくよくわきまえれ
ば、所作・かかり※1を表すことができるのだ。
人は、息をつめ食い入るように能を見ることがある。または、ただ漫然と能
の雰囲気を楽しむ時もあろう。
息をつめ、「ああ。とめるぞ、とめるぞ」とすべての観客が集中して見る時
は、ふととめるべし。かたや観客の大方がのんびり楽しんでいる時は、きっと
気を引き締め、突如とめるべし。眼前の観客の期待とまったく違うとめ方をす
れば、さだめて面白いはず。人の心を化かすのだ。このことを固く秘して、観
客には決して知られてはならない。
近頃「化かす」ということについて、「ようよう化けの皮がはがれてきた」
などという。これはそのようにいう人の目が利かぬ証拠である。少年の可憐な
芸を上手だと思い込み、真実の上手との見分けがつかない。「化かす」は、上
手だけのもの。年の功により悪い芸であることは充分承知の上で行うものだ。
世阿弥は出家の後、座敷芸で観客をそっと化かしたことがある。これが本物の
「化かす」である。「下手な役者の化けの皮をはがす」などは、ただの目利か
ずの戯言といえよう。
〈浮船の能〉の「この浮船ぞ寄辺知られぬ」というところが肝要である。こ
こだけを一日、二日がかりでやりおおせるほどの気持ちで、根を詰めて演じ納
めよ。
〈経盛の能〉 では、ツレの女を思い入れ深く演じるべきである。しかしみな
浅く扱っている。シテの謡の間、俯いて聞き入っているが、その途中より思い
があふれるように謡い出すべし。そうじて女の能姿では、始終面を伏せ、時折
ふっと顔を見上げるものだ。
〈隅田川の能〉で、
「塚の中の子供はいないほうがより面白く演じられよう。この能では生きている
子供は見つからず、亡霊である。とくにその本意を手がかりにせよ」
と父世阿弥はいったが、元雅※2は
「とても私にはできません」
と答えたのである。これに世阿弥は、
「かようなことは、してみて良きにつくべし。せずば善悪定め難し」
と諭したものだ。
注※1 かかり
芸の風情、情趣。
※2 元雅
世阿弥の長子とされる。能〈隅田川〉の作者。
(『申楽談議』現代語訳水野聡 2015年)
現代の能〈隅田川〉では、ほとんどの場合、シテの母が探す子は最後に“亡霊
”となって舞台に姿を現します。子方のあわれな姿に、思わず涙を誘われる、
定型の演出です。しかし元雅による初演時、実際に子を出すか、出さぬかは、
いまだ決せられていなかった。
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【1】名言名句第五十回 してみて良きにつくべし。
【2】貞観政要を読む 第二回 古代より蘇る賢者
【3】カルチャー情報 4月期【言の葉庵】新講座一覧
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【1】名言名句第五十回 してみて良きにつくべし。
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してみて良きにつくべし。せずば善悪定め難し
~世阿弥『申楽談議』よろづの物まねは心根
『申楽談議』にある、世阿弥晩年の至言です。
「舞台で実際に演じてみて、結果の良かった方法を採用せよ。演じてもみぬ内
からいずれがよしともいえまい」。
長男元雅の新作能、〈隅田川〉。舞台のクライマックスに、子方を出すか、出
さぬか、の演出をめぐり、父子の間で意見が戦わされます。その中で、世阿弥
が断じた結論の語です。
まずは、当段落を現代語訳でご紹介しましょう。
■よろづの物まねは心根
すべての演技の根本には心根がある。まず詞章の心根をよくよくわきまえれ
ば、所作・かかり※1を表すことができるのだ。
人は、息をつめ食い入るように能を見ることがある。または、ただ漫然と能
の雰囲気を楽しむ時もあろう。
息をつめ、「ああ。とめるぞ、とめるぞ」とすべての観客が集中して見る時
は、ふととめるべし。かたや観客の大方がのんびり楽しんでいる時は、きっと
気を引き締め、突如とめるべし。眼前の観客の期待とまったく違うとめ方をす
れば、さだめて面白いはず。人の心を化かすのだ。このことを固く秘して、観
客には決して知られてはならない。
近頃「化かす」ということについて、「ようよう化けの皮がはがれてきた」
などという。これはそのようにいう人の目が利かぬ証拠である。少年の可憐な
芸を上手だと思い込み、真実の上手との見分けがつかない。「化かす」は、上
手だけのもの。年の功により悪い芸であることは充分承知の上で行うものだ。
世阿弥は出家の後、座敷芸で観客をそっと化かしたことがある。これが本物の
「化かす」である。「下手な役者の化けの皮をはがす」などは、ただの目利か
ずの戯言といえよう。
〈浮船の能〉の「この浮船ぞ寄辺知られぬ」というところが肝要である。こ
こだけを一日、二日がかりでやりおおせるほどの気持ちで、根を詰めて演じ納
めよ。
〈経盛の能〉 では、ツレの女を思い入れ深く演じるべきである。しかしみな
浅く扱っている。シテの謡の間、俯いて聞き入っているが、その途中より思い
があふれるように謡い出すべし。そうじて女の能姿では、始終面を伏せ、時折
ふっと顔を見上げるものだ。
〈隅田川の能〉で、
「塚の中の子供はいないほうがより面白く演じられよう。この能では生きている
子供は見つからず、亡霊である。とくにその本意を手がかりにせよ」
と父世阿弥はいったが、元雅※2は
「とても私にはできません」
と答えたのである。これに世阿弥は、
「かようなことは、してみて良きにつくべし。せずば善悪定め難し」
と諭したものだ。
注※1 かかり
芸の風情、情趣。
※2 元雅
世阿弥の長子とされる。能〈隅田川〉の作者。
(『申楽談議』現代語訳水野聡 2015年)
現代の能〈隅田川〉では、ほとんどの場合、シテの母が探す子は最後に“亡霊
”となって舞台に姿を現します。子方のあわれな姿に、思わず涙を誘われる、
定型の演出です。しかし元雅による初演時、実際に子を出すか、出さぬかは、
いまだ決せられていなかった。
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