門前の小僧

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【日本文化のキーワード】第十一回 読み人知らず

2024-08-13 17:46:40 | 名言名句



 今回のキーワードは、「読み人知らず」。昔も今も、多く見られる無名の人々の名歌や名言・格言をご案内していきましょう。

 名言・名句のホームページ【言の葉庵】では、これまで偉人の言葉や文章を紹介してきました。これらは著名人の名言です。かたや、歴史に名を遺さぬ庶民・一般人にも多くの名歌や名言があり、記録・伝承されてきたのも事実。むしろ無名人の飾らぬ直接的な言葉や言い回しには、はっと胸をつかれるものが多いのではないでしょうか。

「実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな」

 知識や教養が充実した立派な人ほど、他人に対して謙虚になる、というたとえです。『俳諧・毛吹草』に、「ほさつみがいればうつふく にんげんみがいればあをのく」とあります。
 「ほさつ」とは菩薩で、米のこと。稲穂は実れば、重くなって垂れてくることに対して、人間は実(金・地位)が入れば、頭が高くなり、人を上から見下すとの意味です。

 『俳諧・毛吹草』の言い回しが、人から人へと言い伝えられ、やがて同句の形をとるようになったと考えられています。作者不詳句です。

 以下、【古典篇】と【現代篇】の二部にて、〔無名人の名歌・名言〕をご案内していきましょう。


【古典篇】

1.万葉集

 日本最古にして、世界最大規模とされる詩歌集である万葉集。
 全4500首のうち、2100首以上が作者未詳歌(詠み人知らずの歌)です。名もなき人が詠んだ極めつけの名歌を〔挽歌〕の中から一首見てみましょう。

「さきわい(福)のいかなる人か黒髪の白くなるまで妹がこえ(音)を聞く」
(万葉集 1411番 詠み人知らず)

 伴侶に先立たれた夫が詠んだものと思われます。
 ああ。なんと幸せな人々なのだろう。黒い髪が白くなるまで妻の声が聞けるなどとは……。
 歌の修辞ではなく、直接的で切実な言葉が、しみじみと人の心に伝わってきます。もう二度と妻の声を聞くことができないのだ。今目の前を行く、あの老夫婦のようには。
 失くしてしまった人が、いかに自分にとって大切なものか、と気づく瞬間の思いは千年以上の時を経ても、変わらずぼくたちの胸を打ちます。


2.古今和歌集


 古今和歌集も全1100首のうち、約4割が読み人知らずの歌であるとされています。
 もっとも有名なのが、日本の国家「君が代」ではないでしょうか。この歌も読み人知らずで、明治時代にメロディーがつけられました。

 それでは、古今和歌集の中から次の一首を。

「春ごとに花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり」
(古今和歌集 巻第二 春歌下 詠み人知らず)

 毎年春になると花は今を盛りと咲くのだけれど、このように花(あなた)とまた会えたのはお互い命あってこそなのですね。
 歌意はこのようなものですが、一時に満開になり、あっという間もなく散ってしまう桜に、日本人は命のはかなさを歌にたくしてきたのです。
 芭蕉の次の句も旧友との再会を喜び、かつ互いの命のはかなさを嘆じたものでした。

「いのちふたつの中にいきたる桜かな」
(野ざらし紀行 松尾芭蕉)



3.千載和歌集


 勅撰集に入れられた歌のうち、「読み人知らず」の作者には次の3つの分類があります。

(1) 作者不明の歌
(2) 一般人・庶人など身分の低い、無名人物の歌
(3) 世上に記載が憚られる、勅勘の人物の歌

 千載和歌集には上の(3)にあたる〔記載が憚られる〕作者の有名な歌があります。

「さざなみや志賀のみやこはあれにしを 昔ながらの山桜かな」
(千載和歌集 巻第一 春歌上 66 詠み人知らず)

 実は、この歌の作者は当時世上に名高い平家の一門、平忠度その人でした。
撰者である藤原俊成と忠度は和歌の師弟関係。平家が都落ちするに際し、忠度が師に託した自歌の巻物の中から俊成が千載和歌集に入れた一首です。
 しかし世は源氏。滅ぼされた平家一門の名を勅撰集に入れることを憚って、「読み人知らず」として扱われたのでした。

 能<忠度>は、読み人知らずがテーマの名作です。自らの歌が「読み人知らず」とされたことを怨んだ忠度の亡霊が、俊成門の僧の前に姿を現し、自分の名を和歌集に入れてほしい、と嘆願する物語です。「読み人知らず」というより、「読み人いえず」でしょうか。忠度の兄、経盛の歌も同様に「読み人知らず」として入選していました。

 世阿作の多くの名作能は、歴史の闇に葬り去られた〔救われぬ者〕にスポットライトを再び当て、無念の魂を救済しようとしたものなのです。



4.庶民の辞世の歌

 江戸期の無名の人々の秀歌を〔辞世の歌〕から選んで、以下にご紹介しましょう。


●商人の娘(年代不明 享年二十八)
辞世の句、三句
(題:湯灌いや)「おのづから心の水の清ければ いづれの水に身をや清めん」
(題:経かたびらいや)「生まれ来て身には一重も着ざりけり 浮世の垢をぬぎて帰れば」
(題:引導いや)「死ぬる身の教えなきとも迷うまじ 元来し道をすぐに帰れば」

「黒甜瑣語」にのっていた話。丹波の国の商人の娘、二十八歳で死亡したが、上の辞世の句三首を残していました。


●乞食女(一六七二没 享年不明)
辞世の句
「ながらえばありつる程の浮世ぞと 思えば残る言の葉もなし」

寛文12年4月、京都三条橋の下で二十歳あまりの乞食女の遺体が発見されました。自害とみられ、かたわらには上の辞世の句が残されていたのです。これが都で評判となり、ある貴族もこれに対して返歌を詠みました。

「言の葉は長し短し身のほどを 思えば濡るる袖の白妙」(新著聞集)

彼女の意図に反し、三百年以上も「言の葉」は残り、今も聞くものの心を打ちます。



【現代篇】


5.現代の名言


 普段、よい言葉、うまい言い回しを耳にし、目にした時、メモをしたりポストイットを貼ったりすることはありませんか。それが何の役に立つのかわからないまま、しかしどこか心の琴線に触れる文章は記録したくなるものです。

 故永六輔さんは、長年にわたって無名の人々の〔名語録〕を集めてきました。
以下、永六輔さんの『聞いちゃった! 決定版「無名人語録」』(新潮社 2003.1)より、ちょっと笑えて、ほろりと泣けて、パンと膝を打つ、無名の人たちの言葉をいくつかご紹介してみましょう。
 同書は雑誌『話の特集』と『週刊金曜日』に20年間にわたり、連載を続けてきた〈無名人語録〉の編集版です。永さんが自ら〔歩く盗聴器〕となって、全国津々浦々を旅して集めたものです。


◆永六輔の無名人語録 抜粋

「人間が生きていられるのは、地球が生きているからです。
地球が死んだら人間も死にます。
地震も台風も洪水も、あらゆる自然災害は地球が生きている証拠です」


「神さま、どうぞ、娘の生命をお助けください。
私の生命とひきかえにしてくださって結構です。
なんでしたら家にもう一人年寄りがいますので、この二人の生命で、娘の生命とひきかえにしてください」


「鉛筆のような人になりなさい。
芯がチャンとあって、まわりに気(木)をつかいなさい。
……うまいでしょ……?」


「無理させておいてよ、
無理するなよっていう奴、
いるよ」


「世の中、何を知っているかじゃありません。
……誰を知っているかです」


「二番目に好きなものを生業におしよ、
一番目は遊びで楽しむもんだ」


「もっと寝てたらどうなの。
今日から会社に行かなくていいのよ。
もっと、寝てなさいよ」


「お金は淋しがりやなんですよ。
だから、お金はお金のあるところに行くんですね」


「運命っていうけどさ、
運と命は違うものです。
命は決められたものです。
運は自分で決めることができます」


「愛することの反対は、憎みあうことではありません。
無関心になることです」


「日本は子供の国だ!
そう思うと納得のいくことが沢山ありますね」


「天才といわれる人は病気なんですよ。
でも、それを治すと、普通の人になっちゃいますからね」


「死んで貰いたい人は……死なんなァ」


「死ぬ前になりますと、人間は炭酸ガスが増えるんです。
この炭酸ガスに麻酔性がありますから、最後はそれほど苦しまずに終わるように出来ているんです」


「人間、息を引きとっても、暫くは耳が聞こえているんです。
だから通夜で偲んであげるんです。
ちゃんと聞いているそうですよ」


「読経でなくても、故人の好きな音楽でも音響でもいいんです。
故人を偲ぶのに手助けになればいいんです」

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第十回 鬼
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2023-11-05

第九回 歌 ~古今和歌集 仮名序にみる和歌の世界
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第八回 仕舞い
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第七回 間
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2017年02月25日

第六回 切腹
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2013年01月21日 16:00

第五回 位
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第四回 さび
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第三回 幽玄
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第二回 風狂
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第一回 もののあはれ
http://nobunsha.jp/blog/post_42.html


※「侘び」については以下別稿参照

[目利きと目利かず 第三回]
http://nobunsha.jp/blog/post_25.html

[目利きと目利かず 第四回]
http://nobunsha.jp/blog/post_28.html


名言名句 第七十七回 岡倉天心 「茶道は、生きる術を授ける宗教なのである」。

2024-03-16 10:14:51 | 名言名句

茶道は、生きる術を授ける宗教なのである。 岡倉天心『茶の本』


 今回の名言は、そもそも「茶道とはいったい何か」を解き明かそうとするものです。
明治期の世界的名著である『茶の本』で、岡倉天心は「生きる術(すべ)を授ける宗教」である、と看破しました。
まずは、現代語訳角川文庫版から同句を含む第二章 茶の流派の一節をご紹介します。



【訳文】
『茶の本』第二章 茶の流派

茶の理想の頂点はこの日本の茶の湯にこそ見出される。一二八一年のモンゴル襲来を見事に阻んだことによって、日本は、中国本国では異民族支配によって無残に断絶してしまった宋の文化を継承することができたのである。 
私たち日本人にとって茶道は単に茶の飲み方の極意というだけのものではない。それは、生きる術を授ける宗教なのである。茶という飲み物が昇華されて、純粋と洗練に対する崇拝の念を具体化する、日に見える形式となったのであり、その機会に応じて主人と客が集い、この世の究極の至福を共に創り出すという神聖な役割を果たすことになる。茶室は、索漠とした日々の暮らしに潤いをもたらすオアシスであり、そこに会した旅人たちは、共に、芸術鑑賞の泉を分かち合って疲れを癒すのである。茶の湯は、茶、花、絵などをモチーフとして織り成される即興劇である。部屋の色調を乱すような色、動作のリズムを損なうような音、調和を壊すような仕草、あたりの統一を破るような言葉といったものは一切なく、すべての動きは単純かつ自然になされる――
茶の湯が目指したのはこのようなものである。そして、この企ては不思議にも成就されたのである。そのすべての背景には微妙に哲学が働いている。茶道は姿を変えた道教なのである。

(『新訳 茶の本 ビギナーズ 日本の思想』 角川ソフィア文庫 2005/1/25岡倉 天心 著,大久保 喬樹 翻訳)


 「私たち日本人にとって茶道は単に茶の飲み方の極意というだけのものではない。それは、生きる術を授ける宗教なのである」は、天心の英語原文では下の一節となっています。

Tea with us became more than an idealisation of the form of drinking; it is a religion of the art of life.


 角川文庫版の訳文「生きる術を授ける宗教」は、原文の“a religion of the art of life”の部分です。現在日本では一般に「art=芸術」と置き換えられますが、もともとの語源では“nature(自然)”に対する、“art(人工)”という概念であり、技術や技芸を指す言葉でした。よってこの訳文となっているのです。
 さてこの「生きる術(すべ)」とは何か。なぜそれが「宗教」となったのでしょうか。


・日常生活のすべてが修行である

 禅では「行住坐臥」といい、日常生活のすべての行いが修行だと考えられています。
「行」は歩く、「住」は止まる、「坐」は座る、「臥」は横になること。つまり、朝起きてから、顔を洗い、掃除をし、食事を作り、座禅・読経し、外出して勤めをし、寺へ戻り一日の始末をして夜寝るまで、一挙手一投足が、悟りのトレーニングである、と教えています。
 たとえば茶道の秘伝書『南方録』で、茶における行住坐臥を利休は次のように説いています。


宗易、ある時、集雲庵にて茶湯物語ありしに、茶湯は台子を根本とすることなれども、心の至る所は草の小座敷にしくことなしと常ゝの給ふは、いか様の子細か候と申。宗易の云、小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て、修行得道する事なり。家居の結構、食事の珍味を楽とするは俗世の事なり。家はもらぬほど、食事は飢ぬほどにてたる事なり。これ仏の教、茶の湯の本意なり。水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶をたてて、仏にそなへ人にもほどこし、吾ものむ。花をたて香をたく。みなゝ仏祖の行ひのあとを学ぶなり。なを委しくは、己僧の明めにあるべしとの給ふ。

(『南方録』覚書 岩波文庫 1986/5/16 西山 松之助 校注)


・一期一会。今、ここにすべてがある

 茶の湯では、行住坐臥と同様に、もっとも大切とされている言葉があります。それが、

 一期一会

 死後の往生や来世に救いを求める他の宗教とは異なり、現世で悟りを開き、成仏することを目指す禅では、もっとも大事なのが、まさに今、生きているこの一瞬である、としています。
 やり直しのきかない、今の一瞬一秒を何よりも重んじ、日常の些事をおろそかにせず、目の前のことすべてに全力で取り組むべき―。
 これが「一期一会」であり、茶禅一味思想の根本です。今、流行の言葉で言い換えれば「君たちはどう生きるか」を具体的に指し示した教えだといえましょう。
 ふらふらと何の考えもなく、信念もなく「今さえよければそれでいい」などとうそぶく態度とは真逆のものです。


提る 我得具足の 一太刀
今此時ぞ 天に抛つ

(『千利休 遺偈』 天正十九年)

 たかが一椀の茶、己の茶を守るために生を截ち切った利休の気迫こそ、茶道が400年以上もの長きにわたり日本文化として継承されてきた大本なのではないでしょうか。
 それを、茶道は単なるティーセレモニーではなく、「生きる術を授ける宗教なのである」と、はじめて日本に接する欧米の人々へ伝えた天心の先見の明には、驚くしかありません。

【日本文化のキーワード】第十回 鬼

2023-11-05 10:24:38 | 日本文化バンザイ


「鬼」とはいったい何者か。日本文化を読み解くキーワード、今回は「鬼」にスポットライトをあてて、日本人の心の中に深く分け入ってみましょう。


[第一章] 鬼とは何か


■鬼の誕生

日本文化における鬼のイメージは、多種多様、かつ複雑です。 鬼は、恐ろしいもの、強いもの、人に敵対するものの象徴とされる一方、人を助けたり幸せをもたらしたりする神としても捉えられることがあります。
このような鬼の多面性は、鬼の語源や由来、仏教や陰陽思想の影響、民俗学や文学・芸能などの表現によって形成されてきたと考えられるのです。

まず、鬼という言葉や、漢字の語源、由来について見てみましょう。

源順(みなもとのしたがう)のわが国最初の辞書『倭名類聚鈔』には、
「鬼ハ物ニ隠レテ顕ハルルコトヲ欲セザル故ニ、俗ニ呼ビテ隠ト云フナリ」
とあります。

「おに」という言葉は、姿が見えないこの世のものではないものを意味する「隠(おぬ)」が転じた、あるいは「陰(おん)」が転じた、などの説があるというのです(「陰」については鬼と陰陽思想として後述)。
「鬼」(おに/キ)という漢字は死体の象形文字で、人は死んだら鬼になると考えられ、大きな頭の形(『新漢語林』)が、この世の人とは異なることを示していると考えられます。



中国では、鬼とは死者の霊魂そのものであり、姿形のないものとされてきました。 それが日本に伝わると、死に対する恐怖から鬼は恐ろしくて怖いものと捉えられていったようです。


■古代の鬼は、神でもあった

折口信夫は、「恐るべきもの」という共通点から、オニをカミとも言う場合があったのではないかと推測しました。実際、鬼と書いて「カミ」と読む場合があるのです。『日本書紀』『万葉集』などでは、鬼は「もの」「しこ」「かみ」「おに」などと、場合に応じて読み分けています。

馬場あき子は、『日本書紀』景行紀に、
「山に邪しき神あり、郊(のら)に姦(かだま)しき鬼あり」
と記されていることから、鬼は邪神と対をなしている同じ系列のものとして認識されていると推論したのです。また『民俗学事典』には、
「鬼は山の精霊、荒ぶる神を代表するものの一呼称であった」
とあります。
 文献上に「鬼」の文字が初めて現れるのは、『出雲国風土記』。大原郡阿用郷縁起として、

「昔或人、此処に山田を佃(つく)りて守りき。その時目一つの鬼来りて佃(たつく)る人の男を食ひき」
とあり、ここに日本ではじめて鬼があらわれるのです。『日本書紀』斉明紀に、朝倉山の上から「鬼」が笠を着て斉明天皇の喪の儀を見ていたという記事も見られます。

■鬼を形づくった思想

鬼は誕生から、長い年月を経るうちに、仏教や中国古代思想(陰陽思想)、また民間説話・伝承、文学、芸能などから徐々に形成されてきたと考えられています。

まず仏教における鬼について考えてみましょう。 仏教では業に従って輪廻転生する世界を「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道」という六つの世界で説きました。
この中の「餓鬼道」は、絶えず飢えに苦しみ、食べ物を口に近づけるとすべて炎となって口に入れられず、決して満たされることがない。 また、地獄には閻魔王のもとで死者を責めたてる獄卒(ごくそつ)という鬼がいます。
戦闘を好む阿修羅は鬼神とされる。 仏教では、これらの鬼は悪行や煩悩によって生まれた存在であり、悟りや解脱を得ることができれば人間や天上界へ昇格することが可能であると説いているのです。

つぎに、陰陽思想における鬼について考えてみましょう。日本文化の成立と発展には、物事は陰と陽で成り立っているという「陰陽思想」が深く関係してきました。
たとえば、“月は陰、太陽は陽”になります。 邪気の象徴となる鬼は「陰」であり、「丑寅(うしとら。 艮)」の方角や時刻に関係する。 丑寅の方角は北東であり、鬼は鬼門と呼ばれるこの方角から出入りするとされています。丑寅の時刻は深夜二時から四時頃であり、鬼は真夜中に活動するとされます。また、鬼はウシの角、トラの牙や爪をもち、トラ皮の衣装をつけた姿で表現されるようになっていったのです。



■鬼の分類

目には見えず、人を食らう恐ろしい存在である鬼は、仏教系の地獄の鬼や、陰陽思想の牛虎のイメージを借り、平安時代に源信の『往生要集』等から徐々にイメージが具体化され、地獄図などに描かれるようになっていきました。
馬場あき子は、『鬼の研究』で時代と共に変遷していく鬼の様相を以下の五つに類型化しています。

1.民族学上の鬼で祖霊や地霊。

2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、天狗など。

3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。

4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。

5.怨恨や憤怒によって人が変身した鬼。

歴史的に見れば、おおむね上の順序によって、さまざまな鬼のイメージが生まれてきたと考えられましょう。時間による累型の違いというよりも、1.~3.の鬼と、4.5.の鬼ではその本質の違いに決定的な開きがあることに気づいたでしょうか。前者はこの世ならぬ存在、すなわち生粋の鬼であり、後者は人が変貌して成り果てた鬼なのです。



[第二章] 能の鬼


■世阿弥が見た鬼

神話や伝承で文字として表現された鬼が、まず仏教の地獄図などで視覚化され、さらに神楽や民俗芸能によって、その恐ろしく禍々しい姿がありありと現実存在として具象化されていきました。
虎の皮こそ身にまとっていませんが、能が描いた鬼の〈目に見える姿〉は、その後の日本人に鬼の姿を定着させていくマイルストーンとなったのです。
能の大成者、世阿弥が見た鬼とはどのようなものだったのでしょうか。

■鬼か、幽玄か

「これ、ことさら大和の物なり、一大事なり。(中略)鬼の面白き所あらん為手は、究めたる上手と申すべきか。委しく習ふべし。ただ、鬼の面白からむたしなみ、巌に花の咲かんがごとし」。
(『風姿花伝』第二物学條々)

世阿弥の父、観阿弥が立ち上げた大和の猿楽一座〈結崎座〉(後の観世座)は、もともと鬼の芸を得意とする一派でした。これに対し、ライバルである近江日吉座の犬王道阿弥は、舞を中心とする幽玄な芸で人気を博していたのです。この犬王の幽玄な猿楽芸を世阿弥は、自らの芸へと取り込み、今日の能の礎を築き上げました。
しかし、「ことさら大和の物なり。一大事なり」とする鬼の芸を世阿弥は生涯捨てることはなく、かえって自らの能楽理論の中で、より高位にあり、かつ難易度の高い演目としてとらえなおしていきます。

■能の先達の鬼の芸

世阿弥の先達といえば、まず父の観阿弥です。そして観阿弥が鬼の芸のお手本とした他座の名役者がいました。
まず、観阿弥の鬼の芸とはどのようなものだったのでしょうか。

「いかれることには、融の大臣の能に、鬼に成りて大臣を責むると云う能に、ゆらりききとし、大きになり、砕動風などには、ほろりとふりほどきふりほどきせられし也」。
(『申楽談義』観阿)

ゆらりききとし(ゆらゆらと、またきびきびと)、ほろりとふりほどきせられし―。
観阿弥の鬼の芸は、一見荒々しくも、恐ろしくもなかったような印象を受けます。

それでは、観阿弥がお手本とした先達の鬼の芸はどうでしょうか。
「かの鬼の向きは、昔の馬の四郎の鬼也。観阿もかれを学ぶと申されける也。さらりききと、大様大様と、ゆらめいたる体也。光太郎の鬼はついに見ず。古き人の物語の様、失せては出来、細かに働きける也」。
(同)

観阿弥の鬼の芸の師は、馬の四郎。摂津榎並座の猿楽役者です。さらりきき、大様大様とゆらめいたる(さっと素早く、きびきびしながらも大きくゆらめくような)芸だったといいます。
光太郎とは、世阿弥の芸養子である金春禅竹の祖父。世阿弥は初めて舞った、狂う鬼の舞台で「失せては出来る」光太郎の鬼の至芸をほうふつとさせる、と観客に賞讃されたのです。
馬の四郎、光太郎、観阿弥、世阿弥等の鬼は、ぼくたちが描く、激しく強く、禍々しい鬼のイメージとはかなり異なるもの。それはなぜでしょうか。

■力動風の鬼と砕動風の鬼

世阿弥晩年の演技の伝書に絵図の入った『二曲三体人形図』があります。
能の演技の基本形を表した世阿弥の解説書で、鬼の芸については、〈力動風(りきどうふう)〉と〈砕動風(さいどうふう)〉の二種に大別して、その要点を説いています。

1.力動風 (勢形心鬼)


2. 砕動風 (形鬼心人)



世阿弥の説く力動風鬼とは、姿かたちも、心も純粋な鬼であり(勢形心鬼)、そこには一片の人間性もありません。能の曲目でいえば、〈大江山〉〈土蜘蛛〉〈鵜飼〉などです。
かたや砕動風の鬼とは、「姿かたちは鬼でも、心は人」とあるように、何らかの原因や業によって、人が鬼と化したものを指します。
砕動風の鬼の代表として、般若の面をつける、人間の女が鬼に変身した〈鉄輪〉〈道成寺〉〈葵上〉など、多くの人気曲があります。



「ことさら大和の物なり」と、自身の一座の看板芸であった鬼を、面白いことに世阿弥本人は「よくせんにつけて面白かるまじき」(『風姿花伝』)、「こなたの流には知らぬ事」(『佐渡状』)などと否定、排斥しようとしたきらいがあります。
それはなぜかといえば、鬼の正体はつきつめれば人の心の闇だからなのです。


■自分の中の鬼

世阿弥の幼名を〈鬼夜叉〉といいました。
猿楽芸を時の将軍に認められ、一躍時代の寵児となった世阿弥の生涯は、晩年に至って、坂を転がり落ちるように、悲運が見舞い続けたのです。
ライバルたちとしのぎを削り合った青年期から、壮年期に至るまで、関わった多くの人たちの心の闇をどれほど垣間見たことでしょうか。振り返ってみれば自身も、周囲の人々へ、芸事においては一歩も譲らず、柔和に微笑みながらも「心を鬼」として過酷な処遇をしていったのかもしれません。

幼時に心身が弱く、鬼に対して尋常ならざる恐怖心を抱いていた馬場あき子は、『伊勢物語』の一節を契機として、鬼と和解できたことを以下のように回顧しています。

「〈業平の女を喰った鬼の話〉の末尾で、『それをかく鬼とはいふなり』と記された一文に出遭った時、もはや二十歳をはるかに過ぎていたはずの私は、はじめてほっと吐息をついたものである。『それをかく鬼とはいふなり』という含みのある文体の中に、鬼とはやはり人なのであり、さまざまの理由から〈鬼〉と仮によばれたにすぎない秘密が隠されているのを感じたからである。その秘密を知ることが、その後の私と鬼との交渉をきわめて親しいものにし、ついには自分もまた鬼であるかもしれないと思うようになっていった」。

(『鬼の研究』)

鬼への恐怖心が反転して興味・関心となり、さらに自らその一族に引き込まれ、ついには〈一種の愛〉さえ育ち始めた、と馬場は回想します。
いにしえの歌人も、深窓の令嬢へ贈った恋の歌に、相手のことをふざけて“鬼”(決して姿を現さない存在)と呼びかけました。
馬場より千年も前に、日本人は鬼を恐れ、忌み嫌う対象ではなく、〈一種の愛〉をもって接する、親密な相手と捉えていたのかもしれません。


みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか
(平兼盛『大和物語』58)



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※「侘び」については以下参照

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名言名句 第七十六回 二宮尊徳 「樹木を植うるや、三十年を経ざれば即ち材を成さず」

2023-09-07 11:17:28 | 二宮金治郎

樹木を植うるや、三十年を経ざれば即ち材を成さず。 二宮尊徳『二宮先生語録』


 今回の名言は、今日のSDGsにもつながる「木を植える」というテーマです。
尊徳晩年の弟子、斎藤高行が師の没後、その教えを筆録・編纂した『二宮先生語録』から、以下、原文(漢文読み下し文)と現代語訳をご案内しましょう。



【原文】

「樹木を植うるや、三十年を経ざれば即ち材を成さず。宜しく後世の為めに之を植うべし。今日用ふる所の材木は則ち前人の植うる所。然らば安(な)んぞ後人の為めに之を植ゑざるを得ん。夫れ禽獣は今日の食を貪るのみ。人にして徒に目前の利を謀らば、則ち禽獣と奚(な)んぞ擇ばんや。人の人たる所以は推譲に在り。此に一粒粟あり、直ちに之を食へば即ち止(ただ)一粒のみ。若し推して以て之を植ゑ、秋実を待つて食へば、則ち百粒を食ふも、猶ほ且つ余りあり。是れ即ち万世不易の人道なり。」

(『二宮先生語録』巻一/六八(『二宮学派・折衷学派 (大日本文庫 ; 儒教篇)』小柳司気太 校 春陽堂書店 昭12)


【現代語訳】

樹木を植えたならば、三十年経たねば木材とはならぬものだ。つまりは後世のために木を植えるのである。今われわれが使っている木材は先人が植えたもの。それならばなにゆえ後の人のために木々を植えぬわけにまいろうか。そもそも鳥獣は今日の食物を貪るのみ。人として、いたずらに目前の利得だけを求めるならば鳥獣とどこが違うといえるのか。人の人たるゆえんは、推譲にあり。たとえばここに一粒の粟があったとせよ。そのままそれを食べてしまえば、たった一粒。しかしこれをとっておいて植え、秋の実りを待って食べれば、たとえ百粒食べたとしてもまだ十分に余りがある。これがすなわち万世不易の人道である。」

(水野聡訳 2023年9月 能文社)



 二宮尊徳の独自の思想は「報徳思想」と呼ばれ、それは以下、四つの基本原理で成り立っています。

【至誠】
至誠とは、物事への取り組みを真心を持って誠実に行うこと。
そして、真心は具体的に行動をおこさなければ意味がないと尊徳はいいます。これはすべての物事に対する基本的な態度であり報徳思想の根底の考え方です。

【勤労】
「至誠」の心を持って、私たちは「勤労」をする必要があるといいます。ただ生活の収入のため、あるいは自尊心のためだけに働くわけではない。大事なことは徳に報いること。そのために誇りをもって倦まずたゆまず自らの仕事を続けていくことです。

【分度】
「分度」とは、それぞれの収入の中で、適切な支出範囲を決めるということ。
収入以上の支出をすれば、赤字になることは明白です。質素で倹約的な生活を実践し、収入の範囲外(分度外)を貯えることを勧めます。

【推譲】
推譲とは、分度で残しておいたものを自ら人に譲ったり、将来に残したりするという意味。またそれは、財物のみを譲るのではなく、精神的なものをも意味します。思いやりの心を持ちながら、人に譲るということを大切にしようと尊徳は説きました。


これら四つの原理の内、尊徳の足跡をたどり、実績を評価する上で独自のものとされるのが、【分度】と【推譲】です。以下、『二宮翁夜話』から尊徳自身の言葉を引用します。

「分度を守るを我道の第一とす。能此理を明にして、分を守れば誠に安穏にして、杉の実を取り、苗を仕立、山に植えて、其成木を待て楽しむ事を得るなり、分度を守らざれば祖先より譲られし大木の林を、一時に伐払ても、間に合ぬ様に成行く事、眼前なり、 分度を越ゆるの過恐るべし。財産ある者は、一年の衣食、是にて足ると云処を定めて、 分度として多少を論ぜず分度外を譲り、世の為をして年を積まば、其功徳無量なるべし。釈氏は世を救はんが為に、国家をも妻子をも捨てたり、世を救ふに志あらば、何ぞ我分度外を、譲る事のならざらんや」

(『二宮翁夜話』福住正兄筆記 佐々木信太郎校訂 岩波書店 2017年)


 【分度】も【推譲】も元来一般名詞ですが、報徳思想による仕法の経済的な実践として展開されていったため、今日では尊徳の独自の用語とされるようになりました。
 また、理論と実践の関係から見れば、それらは仕法による廃村復興の一例一例の実践から生み出された言葉であり、思弁による哲学思想ではなく、土から生まれ、天と人が融合した普遍の智慧ともいうべきものです。


 さて、土から生まれ、人と地球に計り知れぬ恩恵を与えてくれる樹木は元来自然の里山に自生するものですが、用材としては人が植えたもの。いつ、だれが、何のために植えたのか。数十年前、あるいは百年以上前に先人が、子孫のための「贈り物」として種を蒔いたものです。
 人生八十年。一人の人間が一代で成せる事はまこと微々たるものです。植物でいえば、一つの花から生まれたたった一粒の種。しかし、その種が木となり花となり、実を結び、やがては広大な大森林、豊かな地球環境となっていくに違いありません。間違っても子孫へ負の遺産は残さず、たとえ小さなことでもいいので自分の持ち物をひとつかふたつ、まだ見ぬ未来の子供たちへ推譲せよ、と尊徳は教えたのです。

 推譲はまた、未来へ引き継ぐという観念から、茶の湯の“侘び”の精神とも結びついていきます。「し残すことが、まさに生き延びるわざである」と兼好法師が『徒然草』で述べたように、尊徳の分度外(余白)の推譲こそ、侘び茶が半世紀近くかけて追求し、実行してきたものに他なりません。

※参照URL
【言の葉庵】名言名句第十五回 徒然草 「し残したるを、さて打ちおきたるは」
http://nobunsha.jp/meigen/post_61.html

名言名句 第七十五回 千利休 「渡りを六分、景気を四分に据え申し候。」

2023-05-27 10:03:48 | 名言名句
渡りを六分、景気を四分に据え申し候。 千利休~『石州三百ヵ条』





今回は、庭造り、露地の飛び石についての利休の名言です。

茶庭である露地の飛び石は、茶室へと至る庭の通路として設置され、千利休の安土桃山時代頃に成立した、比較的新しいものです。

その名の通り、平らな石を飛び飛びに並べ、その上を客人が伝い歩いたため、古くは「伝い石」とも呼ばれました。これらの石の並べ方、配置について利休は「渡り(歩きやすさ)を六分、景気(美観)を四分」に按配して据えよ、と示したものです。

まずはこの句の出典から、原文と現代語訳をご紹介しましょう。





【原文】



「飛石ハ利休ハ渡りを六ふん、景氣を四ふんに居申候由、織部ハわたりを四ふん、景氣を六ふんにすへ申候、先、飛石ハ渡りのためなれば、わたりを第一とす、然共、まつすくに同じやうにつゝけてハかたく候、それゆへひつミを取也、しかれとも無用の所にて、わさとひつませ候ハ作物にてあししき也、何そ木にても下草にても、いき當りをよけ候ためにひつませ、又ハ石のとめ合により不足成るところにすへ石を置、それより居へつゝくるやう渡りを第一にするなり、尤よき石ハ嫌ふなり、あしき石にて見立よく居なすへし、今時、物すきとてあそここゝと石をひつませ、渡りの心なきハ嫌ふ也」

(『石州三百ヶ条』(『茶道古典全集』第二巻 千宗室編纂 淡交社)



【現代語訳】



飛び石を利休は、渡りを六分、景気を四分として設置、配列したという。弟子の織部は渡りを四分、景気を六分として並べたのだ。

そもそも飛び石は、渡って歩くためのものなので、渡りを第一とする。しかし石をまっすぐ同じように続けたのでは、固くみえる。それゆえ歪みをつけるのである。かといっても、無用の場所でわざとらしく歪ませるのは作り物でよくない。たとえば樹木や下草が障りとなる場合、これをよけるために歪ませ、または石と石とのつなぎに間が開いてしまった時、その足りない所へ据え石を置くとよい。その石より次の石へと続くように、渡りを第一とするのだ。さてまた、見映えのよい石は嫌う。見劣りする石を収まりのよきように見立てて据えよ。今どきの数寄者と称する人が、あちらこちらと石を歪ませ、渡りの心がないのは考えものだ。

(水野聡訳 2023年5月 能文社)





利休のいう、「渡りを六分、景気を四分」は、ぼくたち日本人の美的価値基準が、全き対称ではなく、いずれかの極へ少しずれ、傾く非対称性を象徴しています。

これは伝統的日本文化・芸術の諸相で広く観察される現象です。

なぜ日本人は非対称とわずかなずれを美しいと感じるのか。日本文化のいくつかの分野でサンプルケースをたどっていきましょう。





■利休は美が四分、織部は美が六分



まずは、利休作と伝えられる露地の飛び石と織部作の露地を見てみましょう。





利休のいう「渡りを六分、景気を四分」はいい換れば、機能が六割、美が四割とも考えることができます。すべて実用品であり、“用の美”たる茶道具の美的価値を四分とした利休に対し、弟子の織部が六分としたのは興味深いことです。利休形の代表たる樂茶碗と歪んだ織部焼茶碗を見比べた時、師と弟子のバランス感覚の違いがよく表れているのではないでしょうか。










■日本文化は不足の美



さて、「六分、四分」は機能と美のバランスですが、美そのもののバランスについても、東洋、とりわけ日本では、「五分、五分」すなわち完全なる均衡を理想の美とはしていません。

日本古来の絵、水墨画・山水画では絵の構図として「一角様式」が伝統的に踏襲されています。

これらの作品では、山や川などメインモチーフはいずれかの一隅に偏って描かれ、他は大きな余白として残され、何も描かれないのです。

この「一角」技法は、南宋の画家、馬遠より起こり、禅画を中心として日本でも広く普及していきました。







鈴木大拙は「一角」について、仏教思想(華厳経)の「一即多、多即一」とひもづけて、以下のように論じます。



「日本人の芸術的才能のいちじるしい特色の一つとして、南宋大画家の一人馬遠に源を発した「一角」様式を挙げることができる。この「一角」様式は、心理的にみれば、日本の画家が『減筆体』といって、絹本や紙本にできるだけ少ない描線や筆触で物の形を表すという伝統と結びつている。(中略) 非均衡性・非相称性・「一角」性・貧乏性・単純性・さび・わび・孤絶性・その他、日本の美術および文化の最も著しい特性となる同種の観念は、みなすべて「多即一、一即多」という禅の真理を中心から認識するところに発する。」

(『禅と日本文化』鈴木大拙 岩波新書 1940.9.30)





美術技法として見れば、「一角」の余白部分は、鑑賞者の想像力に働きかけ、創造力を呼び起こすもの、とされます。峻厳たる岩山の何も描かれない余白に、あるいは月を見、あるいは帰雁の連なりを見、時には古寺の晩鐘の音までをも聞くのです。

余白は不完全であり、不足ですが、そこに新たなる価値、生命が生み出される。ぼくたち日本人は、このようにして美を感じ、命を与えてきました。





■五分五分は神の座、人は三分一である



利休の飛び石の「六分、四分」は非均衡、非対称により、茶庭に美と生命を与えようとするものでした。

ひとたび茶道具へと目を転じた時、この非対称性は『南方録』の〈カネワリ〉と呼ばれる茶道具配置法に顕著に表れてきます。

〈カネワリ〉は台子に茶道具を飾り付けるための厳密な配置分法です。

台子の天板の上に五本の線を均等に割り付け、原則としてその線上に各道具を置いていきます。

この五つの線を〈陽カネ〉と呼び、中央の〈第一のカネ〉から、右、左へと〈五番目のカネ〉まで、茶道具の位(価値)に応じて配していく技法です。



面白いのは、この線(位置)の上に置く道具はすべて、真上に置かず少し右か左へとずらして置くというもの。ずらし方には〈三分一〉と〈峰ずり〉と呼ばれる二種類があります。一つ物と呼ばれる、飾りの主役級たる大名物茶道具は中央のカネにただ一つ〈峰ずり〉で置く。その他の道具は、他のカネにすべて〈三分一〉で置くこととされています。







■翁、すなわち神のみが中央の道を行く



「能にして能にあらず」とされる、能の秘曲〈翁〉。能の各流儀、各家では〈翁〉を演じる上で、様々な口伝・秘伝が伝えられてきました。

シテ方某家に伝わる習い(相伝)では、翁が登場する時、シテは橋掛かりの中央を通って本舞台に入る、とされています。そして、その他すべての曲では、シテは橋掛かりの中央線が右肩あたりにくるように、やや左寄りに橋掛かりを運ぶ決まりになっているという。



いうなれば、通路の真ん中は神のみに許される通り道。人間は神の道を憚って、やや脇に寄って通らねばなりません。開演前の鏡の間では、〈翁飾り〉をし、演者は塩で身を清め、舞台は火打石で清められる。

〈翁〉は古代の神が降臨する、神聖なる儀式として今も特別に重んじられています。



もしも神の座を冒す者あらば、いかなる神罰が下ることやら。

日本人が無意識に真中を避ける文化的背景には、超自然的な存在への畏敬があるのかもしれません。しかし怖れ、憚るとはいっても深山、辺境に神を遠ざけることはせず、ごく身近に祭り、共に祝い、共に寿福を享受するために生活の諸所に〈神の庭〉を設けていたのではないでしょうか。



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