■俳聖 松尾芭蕉
松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師である。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。
延宝8年深川に草庵を結ぶ。門人李下から芭蕉を贈られ、庵に植えると大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた。以降、自身の俳号も芭蕉と改める。
深川臨川寺に止宿する仏頂和尚に参禅し、侘び、寂び、軽み、しおりなど、禅の精神性をたたえる独自の句風を確立。近世日本文化の美的概念形成に大きな影響を与えた。
また、中国の杜甫・李白、また西行・能因など漂白の詩人、歌人に憧れ、生涯の多くを旅に過ごした。多くの名句がその紀行中で生まれたものである。「漂白の詩人」として旅に生き、旅に死ぬ芸術的人生の完遂により、現在も多くの信奉者、追随者が後をたたない。
『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈の小文』・『更科紀行』などの紀行文を残したが、元禄2年(1689年)、弟子の河合曾良を伴って出た奥州への紀行文『奥の細道』は、芭蕉芸術の到達点であり、近世文学の金字塔とも呼ばれる名作となった。
その最期も旅の途中である。大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した。享年五十一。生前の「(墓は)木曾殿の隣に」との遺言に従い、大津膳所の義仲寺(ぎちゅうじ)にある木曾義仲の墓の隣に葬られた。
大坂俳壇門弟の仲がこじれ、その仲裁にはるばる病の身を押して旅したことが老いの身にはこたえた。複雑な人間関係の中に生涯を閉じたのである。満開の桜の下、望みどおりの大往生を遂げた西行と、なんと対照的な死であったか。
『奥の細道』
http://nobunsha.jp/book/post_7.html
松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師である。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。
延宝8年深川に草庵を結ぶ。門人李下から芭蕉を贈られ、庵に植えると大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた。以降、自身の俳号も芭蕉と改める。
深川臨川寺に止宿する仏頂和尚に参禅し、侘び、寂び、軽み、しおりなど、禅の精神性をたたえる独自の句風を確立。近世日本文化の美的概念形成に大きな影響を与えた。
また、中国の杜甫・李白、また西行・能因など漂白の詩人、歌人に憧れ、生涯の多くを旅に過ごした。多くの名句がその紀行中で生まれたものである。「漂白の詩人」として旅に生き、旅に死ぬ芸術的人生の完遂により、現在も多くの信奉者、追随者が後をたたない。
『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈の小文』・『更科紀行』などの紀行文を残したが、元禄2年(1689年)、弟子の河合曾良を伴って出た奥州への紀行文『奥の細道』は、芭蕉芸術の到達点であり、近世文学の金字塔とも呼ばれる名作となった。
その最期も旅の途中である。大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した。享年五十一。生前の「(墓は)木曾殿の隣に」との遺言に従い、大津膳所の義仲寺(ぎちゅうじ)にある木曾義仲の墓の隣に葬られた。
大坂俳壇門弟の仲がこじれ、その仲裁にはるばる病の身を押して旅したことが老いの身にはこたえた。複雑な人間関係の中に生涯を閉じたのである。満開の桜の下、望みどおりの大往生を遂げた西行と、なんと対照的な死であったか。
『奥の細道』
http://nobunsha.jp/book/post_7.html
花見んと群れつつ人の来るのみぞ
あたら桜の咎にはありける
今回は西行を題材とした能の名作「西行桜」をご紹介しましょう。
古来より日本人にとって花といえば、ただ桜の一種のみをさしました。日本人の心の中に咲く花はいつの時代にも桜。秋は月見、春は花見です。
現在の”飲めや歌えや”ドンちゃん騒ぎの花見は、実は豊臣秀吉の醍醐の花見から始まったといわれています。慶長3年3月15日京都の醍醐寺において、約1300名の類縁者、家臣を集めて開催された秀吉生涯最後の一代イベントでした。むろん平安、鎌倉時代にも秀吉ほどではないにせよ、上つ方より下々に到るまで花見の宴は、日本人のもっとも楽しみとする春のイベントでした。
西行の隠棲する山奥の庵に毎年見事な花をつける桜樹があったことが、そもそも事件の始まり。一人静かに散る桜に、去り行く春の名残を愛でようとした庵主が、騒々しい花見客を揶揄したのが、冒頭の歌でした。
以下、能「西行桜」の概要をお伝えします。
■能 西行桜
曲名: 西行桜《さいぎょうざくら》
作者: 世阿弥 出典:『山家集』 季節: 春(旧暦3月)
場所: 京・西山西行庵 分類: 三番目物・一場 上演時間: 約1時間30分
登場人物:〔シテ〕桜木の精、〔ワキ〕西行法師、〔ワキツレ〕花見の人々、〔アイ〕西行庵の能力[寺の下働きの男]
〈解説〉
世阿弥『申楽談儀』に「西行・阿古屋の松、大かた似たる能也。後の世、かかる能書く者や有まじきと覚へて、此二番は書き置く也」と述べられています。また『五音』には「西行歌」として、現在の「西行桜」のワキの謡と同じ詞章がのせられているので、「西行の能」は「西行桜」のことであろうと考えられます。「西行桜」は、桜の老木のもとで眠る西行の夢の中に、桜の精が老翁の姿で現れて舞を舞う、老体の能として書かれています。老体の能は、世阿弥『風姿花伝』によれば「たゞ、老木に花の咲かんがごとし」といった、幽玄で趣の深い能。曲種としては三番目ですが、老体の神が舞う初番目にも近い、高雅な春の能といえましょう。
〈あらすじ〉
京都、西山に隠棲する西行の庵室。春ごとにここは見事な桜の花にひかれ貴賤群集が訪ねて来る。西行は思う所があって今年はここでの花見禁制を召使いに申しつける。しかし都の人々は例年通り春に浮かれ、この西山に花見のために押しかける。
西行は一人花を愛で、梢に咲き上がっていく春の花に悟りを求める向上心を見、秋の月が水に姿を映す様に悟りに遠い衆生を教え救う志を思い、そうした自然の啓示がそのまま仏を見、注文を聞く縁となるのだと観ずる。
花見人たちが案内を乞う。静かな観想の時を破られた西行は、しかし、遙々訪ね来た人々の志に感じ、庵の戸を開かせる。世を捨てたとはいえ、この世の他には棲家はない、どうして隠れたままでいられようかと内省し、「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎にはありける」と詠ずる。西行は人々とともに夜すがら桜を眺め明かそうと木陰に休らう。
その夢に老桜の精が現れる。埋もれ木の人に知られぬ身となってはいるが、心には未だ花やかさが残るといい、先程の西行の歌を詠じ、厭わしいと思うのも人の心であり、非情無心の草木に咎はないと西行を諭す。老桜の精は桜の名所を数えあげ、春の夜のひとときを惜しみ、閑寂なる舞を寂び寂びと舞う。
やがて花影が仄かに白むうちにも西行の夢は覚め、老桜の姿は消え失せ、老木の桜が薄明かりのなかにひそやかに息づいているのであった。
あたら桜の咎にはありける
今回は西行を題材とした能の名作「西行桜」をご紹介しましょう。
古来より日本人にとって花といえば、ただ桜の一種のみをさしました。日本人の心の中に咲く花はいつの時代にも桜。秋は月見、春は花見です。
現在の”飲めや歌えや”ドンちゃん騒ぎの花見は、実は豊臣秀吉の醍醐の花見から始まったといわれています。慶長3年3月15日京都の醍醐寺において、約1300名の類縁者、家臣を集めて開催された秀吉生涯最後の一代イベントでした。むろん平安、鎌倉時代にも秀吉ほどではないにせよ、上つ方より下々に到るまで花見の宴は、日本人のもっとも楽しみとする春のイベントでした。
西行の隠棲する山奥の庵に毎年見事な花をつける桜樹があったことが、そもそも事件の始まり。一人静かに散る桜に、去り行く春の名残を愛でようとした庵主が、騒々しい花見客を揶揄したのが、冒頭の歌でした。
以下、能「西行桜」の概要をお伝えします。
■能 西行桜
曲名: 西行桜《さいぎょうざくら》
作者: 世阿弥 出典:『山家集』 季節: 春(旧暦3月)
場所: 京・西山西行庵 分類: 三番目物・一場 上演時間: 約1時間30分
登場人物:〔シテ〕桜木の精、〔ワキ〕西行法師、〔ワキツレ〕花見の人々、〔アイ〕西行庵の能力[寺の下働きの男]
〈解説〉
世阿弥『申楽談儀』に「西行・阿古屋の松、大かた似たる能也。後の世、かかる能書く者や有まじきと覚へて、此二番は書き置く也」と述べられています。また『五音』には「西行歌」として、現在の「西行桜」のワキの謡と同じ詞章がのせられているので、「西行の能」は「西行桜」のことであろうと考えられます。「西行桜」は、桜の老木のもとで眠る西行の夢の中に、桜の精が老翁の姿で現れて舞を舞う、老体の能として書かれています。老体の能は、世阿弥『風姿花伝』によれば「たゞ、老木に花の咲かんがごとし」といった、幽玄で趣の深い能。曲種としては三番目ですが、老体の神が舞う初番目にも近い、高雅な春の能といえましょう。
〈あらすじ〉
京都、西山に隠棲する西行の庵室。春ごとにここは見事な桜の花にひかれ貴賤群集が訪ねて来る。西行は思う所があって今年はここでの花見禁制を召使いに申しつける。しかし都の人々は例年通り春に浮かれ、この西山に花見のために押しかける。
西行は一人花を愛で、梢に咲き上がっていく春の花に悟りを求める向上心を見、秋の月が水に姿を映す様に悟りに遠い衆生を教え救う志を思い、そうした自然の啓示がそのまま仏を見、注文を聞く縁となるのだと観ずる。
花見人たちが案内を乞う。静かな観想の時を破られた西行は、しかし、遙々訪ね来た人々の志に感じ、庵の戸を開かせる。世を捨てたとはいえ、この世の他には棲家はない、どうして隠れたままでいられようかと内省し、「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎にはありける」と詠ずる。西行は人々とともに夜すがら桜を眺め明かそうと木陰に休らう。
その夢に老桜の精が現れる。埋もれ木の人に知られぬ身となってはいるが、心には未だ花やかさが残るといい、先程の西行の歌を詠じ、厭わしいと思うのも人の心であり、非情無心の草木に咎はないと西行を諭す。老桜の精は桜の名所を数えあげ、春の夜のひとときを惜しみ、閑寂なる舞を寂び寂びと舞う。
やがて花影が仄かに白むうちにも西行の夢は覚め、老桜の姿は消え失せ、老木の桜が薄明かりのなかにひそやかに息づいているのであった。
■隠棲趣味と閑寂の美の先人、西行
「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」
『後鳥羽院御口伝』
西行は藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。
歌風は率直質実を旨としながらつよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌のなかに取入れるなどの自由な詠みくちもその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。
■旅を人生そのものとする歌人の系譜
後世に与えた影響はきわめて大きく、後鳥羽院をはじめとして、連歌師宗祇・俳聖芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切り取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生れていった所以もまたここに存する。例えば能に遊女を題材とする『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」がある。
・西行をモデル、題材とした能
「江口」
「西行桜」
「遊行柳」
■500年の時を越えた、西行と芭蕉の出会い
松尾芭蕉は西行を敬慕し、「奥の細道」の旅に出たとも言われている。つまりそれは西行の歩いた奥州を、そして西行の詠んだ歌枕をなぞる旅。しかも奥の細道の旅は、西行の五百年忌に行われているのだ。たとえば奥の細道「遊行柳」に下の句がある。
田一枚植て立ち去る柳かな 芭蕉
那須にあるこの柳は
道の辺に清水流るる柳かげ
しばしとてこそ立ちとまりつれ
と西行が詠んだ旧跡。西行の詠んだ『遊行柳』のあるこの道の辺は、芭蕉にとって旅の前半においてもっとも重要な場所のひとつだったと推測される。ここで芭蕉はしばし能の中のワキ、遊行僧となって柳の精であり、西行の詩魂でもある幻のシテに邂逅したのかもしれない。
また「象潟」では次のように西行を偲んでいる。
先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。
(「象潟」の章段)
「花の上こぐ」は、西行の次の歌から引用したものである。
象潟の桜は波に埋れて
花の上漕ぐ海士の釣り舟
「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」
『後鳥羽院御口伝』
西行は藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。
歌風は率直質実を旨としながらつよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌のなかに取入れるなどの自由な詠みくちもその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。
■旅を人生そのものとする歌人の系譜
後世に与えた影響はきわめて大きく、後鳥羽院をはじめとして、連歌師宗祇・俳聖芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切り取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生れていった所以もまたここに存する。例えば能に遊女を題材とする『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」がある。
・西行をモデル、題材とした能
「江口」
「西行桜」
「遊行柳」
■500年の時を越えた、西行と芭蕉の出会い
松尾芭蕉は西行を敬慕し、「奥の細道」の旅に出たとも言われている。つまりそれは西行の歩いた奥州を、そして西行の詠んだ歌枕をなぞる旅。しかも奥の細道の旅は、西行の五百年忌に行われているのだ。たとえば奥の細道「遊行柳」に下の句がある。
田一枚植て立ち去る柳かな 芭蕉
那須にあるこの柳は
道の辺に清水流るる柳かげ
しばしとてこそ立ちとまりつれ
と西行が詠んだ旧跡。西行の詠んだ『遊行柳』のあるこの道の辺は、芭蕉にとって旅の前半においてもっとも重要な場所のひとつだったと推測される。ここで芭蕉はしばし能の中のワキ、遊行僧となって柳の精であり、西行の詩魂でもある幻のシテに邂逅したのかもしれない。
また「象潟」では次のように西行を偲んでいる。
先能因嶋に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。
(「象潟」の章段)
「花の上こぐ」は、西行の次の歌から引用したものである。
象潟の桜は波に埋れて
花の上漕ぐ海士の釣り舟
日本文芸の双璧、西行と芭蕉については、現代の大作家司馬遼太郎も強い憧れをもって、その足跡をたどっています。かの地の歌枕を里程標として、司馬はエッセイ「街道をゆく」で、偉大な歌魂と句魂の交わりを再現する。しばし本文を鑑賞してみます。
平安末期、西行(1118~90)がはじめて陸奥へ旅をしたのは、出家して数年後のことで、当然ながら歌枕の聖地をたずねるのが目的だった。
はるか五百数十年後に江戸中期の芭蕉(1644~94)が一代の事業として白河の関を越え『奥の細道』の旅をした。西行の跡を慕い、歌枕の地を見たいためであった。
芭蕉が唐詩(とくに李白、杜甫、白楽天)の影響をふかくうけていたことはみずからも書いている。かさねて、王朝以来の文化的遺産ともいうべき歌枕の地をたずねることによって、自己の文学を完成させようとした。
ただ、西行も芭蕉もいまの宮城県が太平洋岸における足跡の北限だった。
(「街道をゆく―北のまほろば」全集65 文芸春秋)
江戸期の芭蕉は能因を古人として好ましくおもっていたが、それ以上に好きだったのは、源平争乱の世を見た西行法師(1118=90)だった。
若いころ北面の武士(佐藤義清)だった西行も、能因と同様、恋によってこの世の苦さを知った。そのすえに出家したというより、能因と同様、自由の境涯をのぞんだのであろう。能因が漢籍に通じていたのに対し、西行は仏典に通じていた。かつは武芸の達者でもあった。
西行はたしかに漂白した。といって無銭飲食というようなものではなく、この人には田地があった。
だから能因のように国司として下向する公家にくっついて旅をするというみみっちいことをせずにすんだ。また文覚がおそれたといわれるほどの武芸者でもあったから、安全のためにおおぜいに立ちまじって旅をせねばならぬということもなかった。おそかく供ひとりぐらいをつれた豪胆な旅であったのにちがいない。
西行はその生涯で二度奥州の地を旅した。晩年の旅は『吾妻鏡』に出ているから、年代がはっきりしている。最初の奥州紀行が何歳のときだったか、よくわからないが、諸説を見ると、26から30歳ごろだったにちがいない。
西行は能因を先行の人として尊敬していた。能因が杖をとどめた以上、象潟へも行ったにちがいない。確実とはいえないらしい。・・・ただ私は研究者ではないから、西行が象潟にきたということを、一義もなく信じている。
江戸期の芭蕉もむろんそのように信じていた。かれは能因や西行の跡をたどるべく奥州・羽州の山河を歩いたわけで、白川の関をこえるときも、ふたりの古人をおもって感動した。
風流の初めや奥の田植歌
という句に、芭蕉の胸のときめきを感じねばならない。「風流の初めや」というのは、なだらかに解すれば、単に「田植歌をきいて奥羽の風流の最初のものに接したよ」という意味になるが、その底に能因や西行をかさね、奥羽こそ詩歌の基礎(はじめ)なのだ、という心がこめられていつかと思える。
(「街道をゆく―秋田散歩」全集60 文芸春秋)
平安末期、西行(1118~90)がはじめて陸奥へ旅をしたのは、出家して数年後のことで、当然ながら歌枕の聖地をたずねるのが目的だった。
はるか五百数十年後に江戸中期の芭蕉(1644~94)が一代の事業として白河の関を越え『奥の細道』の旅をした。西行の跡を慕い、歌枕の地を見たいためであった。
芭蕉が唐詩(とくに李白、杜甫、白楽天)の影響をふかくうけていたことはみずからも書いている。かさねて、王朝以来の文化的遺産ともいうべき歌枕の地をたずねることによって、自己の文学を完成させようとした。
ただ、西行も芭蕉もいまの宮城県が太平洋岸における足跡の北限だった。
(「街道をゆく―北のまほろば」全集65 文芸春秋)
江戸期の芭蕉は能因を古人として好ましくおもっていたが、それ以上に好きだったのは、源平争乱の世を見た西行法師(1118=90)だった。
若いころ北面の武士(佐藤義清)だった西行も、能因と同様、恋によってこの世の苦さを知った。そのすえに出家したというより、能因と同様、自由の境涯をのぞんだのであろう。能因が漢籍に通じていたのに対し、西行は仏典に通じていた。かつは武芸の達者でもあった。
西行はたしかに漂白した。といって無銭飲食というようなものではなく、この人には田地があった。
だから能因のように国司として下向する公家にくっついて旅をするというみみっちいことをせずにすんだ。また文覚がおそれたといわれるほどの武芸者でもあったから、安全のためにおおぜいに立ちまじって旅をせねばならぬということもなかった。おそかく供ひとりぐらいをつれた豪胆な旅であったのにちがいない。
西行はその生涯で二度奥州の地を旅した。晩年の旅は『吾妻鏡』に出ているから、年代がはっきりしている。最初の奥州紀行が何歳のときだったか、よくわからないが、諸説を見ると、26から30歳ごろだったにちがいない。
西行は能因を先行の人として尊敬していた。能因が杖をとどめた以上、象潟へも行ったにちがいない。確実とはいえないらしい。・・・ただ私は研究者ではないから、西行が象潟にきたということを、一義もなく信じている。
江戸期の芭蕉もむろんそのように信じていた。かれは能因や西行の跡をたどるべく奥州・羽州の山河を歩いたわけで、白川の関をこえるときも、ふたりの古人をおもって感動した。
風流の初めや奥の田植歌
という句に、芭蕉の胸のときめきを感じねばならない。「風流の初めや」というのは、なだらかに解すれば、単に「田植歌をきいて奥羽の風流の最初のものに接したよ」という意味になるが、その底に能因や西行をかさね、奥羽こそ詩歌の基礎(はじめ)なのだ、という心がこめられていつかと思える。
(「街道をゆく―秋田散歩」全集60 文芸春秋)