今日の能を大成し、『風姿花伝』、『花鏡』などの能楽理論書を多数著述した世阿弥。
日本の文化史、芸能史において並びなき偉人とされますが、晩年幕府より罪を受けたため、その人生の最終局面は歴史に記されず、六百年後の今も謎に包まれています。
なぜ佐渡へ配流となったのか?
その罪状は何か?
いつ、どこで亡くなったのか?
瀬戸内寂聴の小説『秘花』に描かれたように、果たして世阿弥は佐渡でその生涯を終えたのでしょうか。今回は「佐渡と世阿弥伝説」と題し、佐渡での世阿弥の足跡をたどりながら、晩年の実像に迫ります。能の歴史の謎にささやかでも光を当ててみたいと思います。
◆世阿弥と足利幕府三将軍
若年・壮年・老年期の世阿弥の生涯は、足利将軍家三代の盛衰とまさに歩調をあわせたようなものでした。
ここでは三代将軍義満、四代義持、六代義教ら、三人の為政者と世阿弥の人生の交わりをたどってみます。
〔三代 義満〕
応安七年(一三七四)、観阿弥一座京都今熊野の演能の興行に、時の将軍義満がはじめて来臨し熱心に観賞しました。観阿弥と世阿弥の芸に心を奪われた若き将軍は、以降観世座に厚い庇護を与えることになります。
さらに関白二条良基、佐々木道誉、義満同朋衆の海老名南阿弥ら公卿・大名・貴族も支援を与え、観世父子は洛中の名声を一身に集めることに。若年期から青年期の世阿弥は順風満帆の舞台生活を送りました。
同時期義満は、世阿弥のライバルである犬王道阿弥も贔屓役者としたものの応永十五年に没するまで、観世座に変わらぬ助力を与え続けたのです。
〔四代 義持〕
応永十五年(一四○八)義満が没すると義持の時代となりました。
義持の時代、能の中心は申楽から田楽へ、そして世阿弥から田楽の旗頭増阿弥へと移って行ったのですが、それは申楽全体が将軍の支持を失ったということであって、世阿弥または観世座だけが迫害されたということではありません。
応永十九年から二十九年までの記録によると、申楽を義持が見物したのは応永二十四年の興福寺四座立合い申楽一回であり、その間田楽の興業を十六回も見物しているのです。この間、観世座は遠国や田舎を渡り歩いてやっとのことで一座を維持するという状況であったと想像されます。
こうした中、世阿弥の関心は能楽論と能本作りに集中して行ったと思われます。これらの作品の制作時点がはっきりしているものは数が少なく、大半は記録もありませんが、義持が没した応永三十五年(一四二八)までの間に大半のものが制作されたことは間違いなく、義持の治政期と世阿弥創作期は、面白い一致を示しているのです。
〔六代 義教〕
「万人恐怖」と評された暴君義教の時代、晩年の世阿弥の人生は悲劇の坂を転がり落ちていきます。
義教が贔屓とし、生涯一貫して支援したのが、世阿弥・元雅と対立していた音阿弥元重(世阿弥甥)でした。将軍就任前、青蓮院門義円の時代に音阿弥の勧進猿楽を後援したのをはじめとして、将軍になった正長元年の室町殿における演能、翌永享元年正月の仙洞御所における演能も音阿弥一派によって行なわれました。
そして以降、立て続けに悲運と不幸が老いた世阿弥を容赦なく襲うのです。
・永享元年 世阿弥父子は仙洞御所への出入りを禁ぜられる。
・永享二年 元雅の醍醐清滝宮の楽頭職が世阿弥父子より剥奪され、音阿弥に任ぜられる。
・同年 世阿弥次男元能が《申楽談儀》を残し、出家する。
・永享四年 観世座太夫元雅が父に先立って、伊勢安濃津にて客死。
・永享六年 世阿弥72歳にて、突如佐渡へ配流となる。
悪政を重ね、大名・公卿はもちろん庶民をも恐怖に陥れた義教は、嘉吉元年(一四四一)ついに、守護大名赤松満祐の手で殺害されることになります(嘉吉の変)。所は赤松邸、奇しくも音阿弥の演能の最中の出来事でした。
◆世阿弥配流の理由
永享六年(1424年)五月、将軍義教の命により、世阿弥が佐渡へ配流となりました。後年、秀吉による千利休賜死事件と共に、世阿弥の佐渡配流は、重罪に当たるほどの確たる理由が見当たりません。中世日本文化史最大の謎です。しかし、以下三つの理由が現在仮説となっています。
1.世阿弥・音阿弥芸事対立説
音阿弥の観世大夫就任に際して、世阿弥の数々の芸道書を音阿弥に譲るようにとの義教の命令を、世阿弥が拒否したため。
2.観世南朝説
上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるとしています。義教の迫害から逃れ伊賀の氏族越智に身を寄せた元雅が、北朝方足利将軍家によって暗殺されたとの説もあり、政治的な抗争に巻き込まれ、佐渡へ流されたという説です。
※参照URL 上嶋家文書(観世福田系図)
https://bit.ly/3yJ0TlH
3.日野義資参賀の連座説
世阿弥が義教嫡子誕生に際し、義教妻の兄弟でありながら、政敵である日野義資邸での参賀に列席した罪を問われたというもの。当時義資は義教の勘気を被り、謹慎中の身でした。この祝いに、義資邸を訪れた公卿や僧侶30~40名が義教の怒りに触れ、所領没収など即座に罰せられたといいます。世阿弥は観阿弥作『太子曲舞』の詞章をこの祝いのために書き換えていました。義資に披露し、祝賀の席で謡ったものかもしれません。
◆世阿弥佐渡の配所
当時おそらく京都に居宅のあった世阿弥が、突然配流の命を受け、若狭小浜より流人舟にて海路を佐渡へと送られた行程を、世阿弥が佐渡にて執筆した小謡集『金島書』にたどることができます。
若狭小浜より船に乗って佐渡大田の浦(現畑野町多田)に世阿弥一行は到着。当初現在の佐渡市役所付近にあったといわれる新保城万福寺※1 に配所されますが、本間氏族の騒乱が起こったため、同年秋から冬ごろ、泉※2 に移りました(現在の正法寺)。ここで世阿弥は、順徳上皇の配所である黒木御所跡を訪ね、小謡集『金島書』を書き上げたのです。
正法寺には、県指定文化財(彫刻)の神事面べしみがあります。鎌倉時代後期~南北朝期の作といわれ、県内では最古の面。世阿弥が祈祷のため佐渡へ携行したともいわれ、島内干ばつの折、世阿弥がこの面を着けて舞ったところ大雨が降ったため「雨乞いの面」とも呼ばれています。
また境内には世阿弥が腰掛けたといわれる腰掛の石も残されているのです。
※1. 世阿弥の配所1 万福寺
http://nobunsha.jp/img/haisho%201.jpg
※2. 世阿弥の配所2 (正法寺)
http://nobunsha.jp/img/haisho%202.jpg
◆世阿弥、佐渡での暮らし
佐渡での世阿弥の生活を伝える記録はありません。ですが、世阿弥最晩年の絶筆とされる、書簡と作品が残されており、七十を過ぎ、配流されてなお能と芸術への情熱を失うことなく、いつか赦免され、都へ帰る日への望みを捨てなかった世阿弥の面差しがありありと感じられるのです。
〔金島書〕
佐渡配流中に世阿弥が書いた紀行文ふうの小謡曲舞集。吉田東伍博士が、明治四十二年(一九○九)に発見し公刊した『世阿弥十六部集』(能楽会刊、池田信嘉代表)の中で初めて紹介され、世間を驚かせたのです。
同書は世阿弥に関する学問的研究の端緒を開いたとされ、今日でも高い評価を受けていますが、『金島書』(吉田氏は「金島集」と紹介している)の発見によって、世阿弥の配流が一般に知られることになり、この高名な芸術家の最晩年の動向、および室町時代の佐渡の国情をかいま見る貴重な書物ともなりました。
「若州」「海路」「配処」「時鳥」「泉」「十社」「北山」の七篇の詞章から成り、最後に無題の「薪神事」一篇が奥書とともに添えられています。
「海路」までが佐渡への道中で「配処」以下に滞島中の見聞が綴られ、「永享八年二月日、沙弥善芳」と結んでいます。沙弥善芳は世阿弥の道號です。配流が七二歳に当たる永享六年(一四三四)五月であり、翌々年の二月まで佐渡に在島、生存していたことはわかるものの、その後の消息はわかりません。悲嘆を表向きにせず、達観した流謫生活を送ったことが、文面からうかがえるのです。
〔佐渡状〕 金春禅竹宛書簡
世阿弥が佐渡から、娘婿であり芸嗣子でもある金春禅竹に宛てた自筆書状。奈良宝山寺蔵の「金春家旧伝文書」中より発見されました。
6月8日の日付があり、佐渡配流の翌年永享七年頃のものと思われます。一般に「世阿弥佐渡状」と呼ばれ、「至翁」の自署があります。
手紙の主な内容は、
都に残した老妻寿椿や佐渡の自分に対する扶持への礼、佐渡での暮らしは安心してほしいこと。禅竹より「鬼の能」についての質問に対する意見(これがこの手紙の中心内容とみられる)。
佐渡は驚くほどの田舎で紙不足で困ること…
などと書かれています。実際この書状の用紙は楮紙(こうぞ)の粗末な薄いものを2枚つないだものですが、最後の部分で「ありがたい妙法諸経でさえ、藁筆で書かれたものがあるのだ。この手紙も『金紙』に書かれたものと受けとめて読んでほしい」と結んでいるのです。
こののち世阿弥は、嘉吉元年に将軍義教が暗殺されたため、許されて京都に戻り、娘婿禅竹に養われ老後を送った。あるいは佐渡でそのまま死去したものとも想像されています。
相国寺、僧宣竹による観世小次郎画讃に「世阿弥年八十一」とあるのに従えば、世阿弥の没年は一応嘉吉三年(1443)となるようです。
※佐渡状参照URL 【言の葉庵】世阿弥絶筆「佐渡状」を読む。
http://nobunsha.jp/genbun/post_96.html
《参考文献》
『世阿弥配流』磯部欣三 恒文社 (1992)
『佐渡と世阿弥伝説』水野聡 池袋コミュニティ・カレッジ2010年 3月期テキスト(非公開)