艱難に素して艱難に行ふ。~二宮尊徳『報徳記』第六巻
二宮金次郎(尊徳)の伝記、『報徳記』にある尊徳の言葉です。
もとは中国の四書の一、『中庸』にあった句からの引用ですが、原典では以下の句形となっています。
君子その位に素して行い、その外を願わず。
富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行い
夷狄に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。
君子入るとしても自得せざるなし。
そもそも儒教の〔中庸〕とは平凡ということではなく、君子がもつべき偏らない考えと判断を目指したもの。上の「患難に素しては患難に行う」は、非常事態に直面した時は、非常時の対応を躊躇なくとる、という教えです。つまり君子は、その場その場における最善の選択をし、その結果を泰然と受け入れる者と定義されます。
余談ですが、全国の学校にある金次郎の銅像。彼が読んでいる書物は『大学』あるいは『中庸』であるともいわれます。
さて尊徳は、この句を字形は異なりますが、ほぼ原意に即して引用し、『報徳記』の中で他藩の家老を教諭します。
天保八年(1837年)、小田原候の命により野州桜町で仕法を実施していた尊徳。そのもとへ、廃村復興の実績を聞きつけた他藩の下舘候が家臣を派遣してきました。天明の凶荒以来、荒廃が進み、すでに領内経営が破綻しつつある自領へ尊徳の仕法を実施する、その依頼のためです。
当時、野州に加え、自国小田原の復興も担う尊徳は忙殺され、さらに他藩の復興・救済を引き受ける余裕はありません。依頼を受けるまで紆余曲折がありましたが、ともかくも下舘再興を手伝うこととなります。その後、桜町を訪れた下舘の家老、上牧甚五太夫に非常時の治政を指南する言葉に、「艱難に素して艱難に行ふ」を引用し、驚くべき献策を進めます。
同段落を『報徳記』から、現代語訳で以下にご紹介します。
――――――――――――――――――――――――――――――――
『報徳記』~二宮金次郎伝 現代語訳
富田高慶著、水野聡訳
【巻六】
尊徳が、家老の上牧を諭していった
ある時、尊徳は家老の上牧を諭していった。
「さて、国家の衰貧にあたって、君の禄高は表向き二万石としていますが、
租税の減収によって実質は三分の二でしょうか。それならば藩士の恩禄もその減少に
あわせなければなりません。これが衰時の天命であり、君の禄に限界があれば
いたしかたありません。
天命衰貧の時にあたっては、『艱難に素して艱難に行う※』ことが臣下の道では
ありませんか。それなのに国の減収を知らず、自らの俸禄の不足を憂い、
あるはずのない米粟をほしがり、怨みをもつ。
国体の衰弱を知らないためとはいいながら、まことに浅ましいというより
他はないのです。
国の為政者たる者、天分を明らかにし、衰時の自然をわきまえ、国の混乱を
治め、貧しさを受け入れて、もっぱら国家に忠義を尽くさせることが、その職の
最優先項目です。
にもかかわらず、家老以下この天命をわきまえず、どうして一国を諭すことが
できましょうか。さらに家老がこの天分を明らかに知り、一国を諭したとしても
なお怨望の声は止み難いもの。どうしてかといえば、衰時の天命に従って
国が持たぬものを渡す方法がないことを明らかにしても小禄の家臣たちは
こういうからです。
『家老以下、現在の高臣方の俸禄はわれらの十倍もある。減給されたところで
どうしてわれらほど困窮することがあろうか。人の上に立ち、高禄を受け取って、
下々の艱難を見もせずに、天命衰時にあたって、ないものは渡せぬ、艱苦を
受け入れ、もっぱら忠義に励め、とはどういうことだ。執政の任とは、仁政を布き、
国の憂患を除き、艱難を救って、衰退した国を再び活性化させることが、
その仕事ではないのか。もしもこの任にありながら、その仕事ができぬので
あれば、それは自らの職を貪るばかり。なにゆえすぐに辞任しないのか』
これが怨嗟の止まない理由です。このように怨み、要求することは、
もとより臣の道ではなく、大いに本意を失っているのですが、こうした心を
持たぬようにさせることが、執政の道です。
さて、国中の怨望を、弁明せず、理解を待つまでもなく、たちまち消滅させ
艱難を受け入れ、忠義の心を奮い立たせる道が、ここに一つだけあります。
あなたがこれを実行しなければ、国難を去り、国家の艱難を救うことができません。
これを行いますか、行いませんか」。
上牧はいう。
「藩の人々の人情はまこと先生のご明察どおりです。私は長年これを
憂慮しておりましたが、どうすることもできません。今、自分の行いで一藩の
卑しい心をなくすことができたなら、国の幸いこれに過ぎるものはありません。
その道とはどのようなものですか」。
「その道は、他でもありません。ただ、あなたがあなたの恩禄を辞すればよいのです。
そしてこのようにいいなさい。
『今、国家の困窮はここに極まった。君は艱難を尽くしておいでになるが、
臣下の扶助もできず、国家の艱難もはなはだしい。私は家老の任にあって、
上は君の心を安んずることができず、下は一国を支えることもできぬ。
これみな私の不肖の罪である。
今、二宮の力を借りて、衰国の再興に取り掛かる。まず、私の恩禄を辞退し、
多少なりとも藩費の一端を補い、無禄にして心力を尽くすことが私の本懐なのだ』
と、主君に言上し、一藩に告げて禄位を辞し、国家のために万苦を担う時、
群臣はきっというでしょう。
『ご家老は国のために心肝を砕き、再興の道を行い、恩禄を返上して忠義に
励んでおられる。それなのにわれらは国家に力を尽くさず、むなしく君禄を受けている。
どうしこれが人臣の本意といえよう。たとえ禄高が十分の一であったとしても、
家老にくらべれば過ぎたものだ』
と、長年の怨望は氷解し、はじめて徒衣徒食の罪を恥じる心が生まれ、日々生計の
工夫に努力し、他人を怨まず人を咎めず、いかなる苦労にも甘んじ、これを
常としこれを天命とし、婦女子にいたるまで、不平不足の思いが消え去ります。
そうして国中の者を諭さずして、今の艱難を受け入れ、忠義のかけらなりとも
勉めよう、との心が生まれます。
これが艱難の時にあたって、家老たるもの一国のためにわれ一身を責めて、
人を責めず、大業を行う道です。そしてただ、これを行えないことだけが
心配です。この道を行わず、人の上に立って高禄を受け、言葉だけで人を
従わせようとするならば、ますます怨望は盛んに起こり、国家の災いは
いよいよ深くなっていくでしょう。これではどうして、衰退した国を再興し、
国家を安定させることができましょうか」。
上牧はこの言葉に感動していう。
「つつしんで教えを受け、直ちにこれを実行します」。
そして下館へ帰り、主君に言上し、すみやかに恩禄三百石を返上した。
微臣の大島(儀左衛門)、小島(半吾、足軽)という者は、これを聞いて感動し、
二人とも自俸を辞し、無禄で奉仕した。
尊徳はこれを聞いていった。
「『上これを好むときは、下これより甚だしきものあり』(孟子)という。
上牧が一人、奇特の行いを立てれば、二人がさらに同じ行いをした。
古人の金言うべならずや」。
そして、上牧、大島、小島、三人の一家を支援するために、桜町から米粟を
送ってその艱苦を救ったという。
筆者(富田高慶)は思う。国家の憂いを憂いとなして、一個人の憂いを憂いとせず。
日夜、身を尽くして国事に任ずることが、人臣の常の道ではあるまいか。
いやしくも恩禄、名誉、利得を目指し、阿諛追従する輩とともに君に
仕えることなどできようか。先生はかつてこういった。
「君に仕える時、その頭から利益・俸禄の離れぬ者は、商売人が物を
売る時、価格で競争するようなものである」。
君子が君に仕える時、どうしてそのようであってよいものか。
※艱難に素して
『中庸』「患難に素しては患難に行う」より
――――――――――――――――――――――――――――――――――
尊徳が復興を手掛けた他領の仕法では、相馬とならんで大きな成果を成し遂げた下舘領。
すべては、一身を瞬時に捨てた、家老上牧の、
「つつしんで教えを受け、直ちにこれを実行します」
の一言から始まったのです。
尊徳から同様の教諭を受け、かつ下舘よりも恵まれた環境にありながら、頓挫、中断した他村の仕法の例がいくつも『報徳記』に記録されます。
そこが単なる立身出世伝に終わらぬ『報徳記』の懐の深さであり、いつの時代にあっても人間というものが不可解な行動をとる、そうした存在であることを教える貴重な社会実践の書だといえるのではないでしょうか。
◆記事掲載元ホームページ
千年の日本語を読む【言の葉庵】
http://nobunsha.jp/
二宮金次郎(尊徳)の伝記、『報徳記』にある尊徳の言葉です。
もとは中国の四書の一、『中庸』にあった句からの引用ですが、原典では以下の句形となっています。
君子その位に素して行い、その外を願わず。
富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賤に行い
夷狄に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。
君子入るとしても自得せざるなし。
そもそも儒教の〔中庸〕とは平凡ということではなく、君子がもつべき偏らない考えと判断を目指したもの。上の「患難に素しては患難に行う」は、非常事態に直面した時は、非常時の対応を躊躇なくとる、という教えです。つまり君子は、その場その場における最善の選択をし、その結果を泰然と受け入れる者と定義されます。
余談ですが、全国の学校にある金次郎の銅像。彼が読んでいる書物は『大学』あるいは『中庸』であるともいわれます。
さて尊徳は、この句を字形は異なりますが、ほぼ原意に即して引用し、『報徳記』の中で他藩の家老を教諭します。
天保八年(1837年)、小田原候の命により野州桜町で仕法を実施していた尊徳。そのもとへ、廃村復興の実績を聞きつけた他藩の下舘候が家臣を派遣してきました。天明の凶荒以来、荒廃が進み、すでに領内経営が破綻しつつある自領へ尊徳の仕法を実施する、その依頼のためです。
当時、野州に加え、自国小田原の復興も担う尊徳は忙殺され、さらに他藩の復興・救済を引き受ける余裕はありません。依頼を受けるまで紆余曲折がありましたが、ともかくも下舘再興を手伝うこととなります。その後、桜町を訪れた下舘の家老、上牧甚五太夫に非常時の治政を指南する言葉に、「艱難に素して艱難に行ふ」を引用し、驚くべき献策を進めます。
同段落を『報徳記』から、現代語訳で以下にご紹介します。
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『報徳記』~二宮金次郎伝 現代語訳
富田高慶著、水野聡訳
【巻六】
尊徳が、家老の上牧を諭していった
ある時、尊徳は家老の上牧を諭していった。
「さて、国家の衰貧にあたって、君の禄高は表向き二万石としていますが、
租税の減収によって実質は三分の二でしょうか。それならば藩士の恩禄もその減少に
あわせなければなりません。これが衰時の天命であり、君の禄に限界があれば
いたしかたありません。
天命衰貧の時にあたっては、『艱難に素して艱難に行う※』ことが臣下の道では
ありませんか。それなのに国の減収を知らず、自らの俸禄の不足を憂い、
あるはずのない米粟をほしがり、怨みをもつ。
国体の衰弱を知らないためとはいいながら、まことに浅ましいというより
他はないのです。
国の為政者たる者、天分を明らかにし、衰時の自然をわきまえ、国の混乱を
治め、貧しさを受け入れて、もっぱら国家に忠義を尽くさせることが、その職の
最優先項目です。
にもかかわらず、家老以下この天命をわきまえず、どうして一国を諭すことが
できましょうか。さらに家老がこの天分を明らかに知り、一国を諭したとしても
なお怨望の声は止み難いもの。どうしてかといえば、衰時の天命に従って
国が持たぬものを渡す方法がないことを明らかにしても小禄の家臣たちは
こういうからです。
『家老以下、現在の高臣方の俸禄はわれらの十倍もある。減給されたところで
どうしてわれらほど困窮することがあろうか。人の上に立ち、高禄を受け取って、
下々の艱難を見もせずに、天命衰時にあたって、ないものは渡せぬ、艱苦を
受け入れ、もっぱら忠義に励め、とはどういうことだ。執政の任とは、仁政を布き、
国の憂患を除き、艱難を救って、衰退した国を再び活性化させることが、
その仕事ではないのか。もしもこの任にありながら、その仕事ができぬので
あれば、それは自らの職を貪るばかり。なにゆえすぐに辞任しないのか』
これが怨嗟の止まない理由です。このように怨み、要求することは、
もとより臣の道ではなく、大いに本意を失っているのですが、こうした心を
持たぬようにさせることが、執政の道です。
さて、国中の怨望を、弁明せず、理解を待つまでもなく、たちまち消滅させ
艱難を受け入れ、忠義の心を奮い立たせる道が、ここに一つだけあります。
あなたがこれを実行しなければ、国難を去り、国家の艱難を救うことができません。
これを行いますか、行いませんか」。
上牧はいう。
「藩の人々の人情はまこと先生のご明察どおりです。私は長年これを
憂慮しておりましたが、どうすることもできません。今、自分の行いで一藩の
卑しい心をなくすことができたなら、国の幸いこれに過ぎるものはありません。
その道とはどのようなものですか」。
「その道は、他でもありません。ただ、あなたがあなたの恩禄を辞すればよいのです。
そしてこのようにいいなさい。
『今、国家の困窮はここに極まった。君は艱難を尽くしておいでになるが、
臣下の扶助もできず、国家の艱難もはなはだしい。私は家老の任にあって、
上は君の心を安んずることができず、下は一国を支えることもできぬ。
これみな私の不肖の罪である。
今、二宮の力を借りて、衰国の再興に取り掛かる。まず、私の恩禄を辞退し、
多少なりとも藩費の一端を補い、無禄にして心力を尽くすことが私の本懐なのだ』
と、主君に言上し、一藩に告げて禄位を辞し、国家のために万苦を担う時、
群臣はきっというでしょう。
『ご家老は国のために心肝を砕き、再興の道を行い、恩禄を返上して忠義に
励んでおられる。それなのにわれらは国家に力を尽くさず、むなしく君禄を受けている。
どうしこれが人臣の本意といえよう。たとえ禄高が十分の一であったとしても、
家老にくらべれば過ぎたものだ』
と、長年の怨望は氷解し、はじめて徒衣徒食の罪を恥じる心が生まれ、日々生計の
工夫に努力し、他人を怨まず人を咎めず、いかなる苦労にも甘んじ、これを
常としこれを天命とし、婦女子にいたるまで、不平不足の思いが消え去ります。
そうして国中の者を諭さずして、今の艱難を受け入れ、忠義のかけらなりとも
勉めよう、との心が生まれます。
これが艱難の時にあたって、家老たるもの一国のためにわれ一身を責めて、
人を責めず、大業を行う道です。そしてただ、これを行えないことだけが
心配です。この道を行わず、人の上に立って高禄を受け、言葉だけで人を
従わせようとするならば、ますます怨望は盛んに起こり、国家の災いは
いよいよ深くなっていくでしょう。これではどうして、衰退した国を再興し、
国家を安定させることができましょうか」。
上牧はこの言葉に感動していう。
「つつしんで教えを受け、直ちにこれを実行します」。
そして下館へ帰り、主君に言上し、すみやかに恩禄三百石を返上した。
微臣の大島(儀左衛門)、小島(半吾、足軽)という者は、これを聞いて感動し、
二人とも自俸を辞し、無禄で奉仕した。
尊徳はこれを聞いていった。
「『上これを好むときは、下これより甚だしきものあり』(孟子)という。
上牧が一人、奇特の行いを立てれば、二人がさらに同じ行いをした。
古人の金言うべならずや」。
そして、上牧、大島、小島、三人の一家を支援するために、桜町から米粟を
送ってその艱苦を救ったという。
筆者(富田高慶)は思う。国家の憂いを憂いとなして、一個人の憂いを憂いとせず。
日夜、身を尽くして国事に任ずることが、人臣の常の道ではあるまいか。
いやしくも恩禄、名誉、利得を目指し、阿諛追従する輩とともに君に
仕えることなどできようか。先生はかつてこういった。
「君に仕える時、その頭から利益・俸禄の離れぬ者は、商売人が物を
売る時、価格で競争するようなものである」。
君子が君に仕える時、どうしてそのようであってよいものか。
※艱難に素して
『中庸』「患難に素しては患難に行う」より
――――――――――――――――――――――――――――――――――
尊徳が復興を手掛けた他領の仕法では、相馬とならんで大きな成果を成し遂げた下舘領。
すべては、一身を瞬時に捨てた、家老上牧の、
「つつしんで教えを受け、直ちにこれを実行します」
の一言から始まったのです。
尊徳から同様の教諭を受け、かつ下舘よりも恵まれた環境にありながら、頓挫、中断した他村の仕法の例がいくつも『報徳記』に記録されます。
そこが単なる立身出世伝に終わらぬ『報徳記』の懐の深さであり、いつの時代にあっても人間というものが不可解な行動をとる、そうした存在であることを教える貴重な社会実践の書だといえるのではないでしょうか。
◆記事掲載元ホームページ
千年の日本語を読む【言の葉庵】
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