門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

奥の細道行脚。第十一回「立石寺」

2010-06-29 21:54:46 | 日記
【おくのほそ道】

 山形 領内に立石寺 という山寺がある。慈覚大師の開基であり、ことに清浄閑寂の地である。一見の価値ありと人々も勧めるので、尾花沢よりとって返す。その間七里ばかりであった。
 日はいまだ暮れぬ。麓の坊に宿を取っておき、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松栢年を経、土石老いて苔なめらかに、岩上の僧院はみな扉を閉じ、物音一つ聞こえず。崖をめぐり 、岩を這って 仏閣を拝し、佳景寂寞として心が澄み行くばかりの心地がする。


 閑さや岩にしみ入蝉の声


鑑賞(人の気配も絶え、静寂無音の真夏の山寺。時間さえも止まり、ただ蝉の声だけが苔むした岩にしみ透っていくようだ)


【曾良旅日記】

○二十七日。天気よし。辰の中刻、尾花沢を発ち、立石寺(りゅうしゃくじ)へとおもむく。清風より馬で館岡 まで送られる。尾花沢から二里で本飯田 。
一里、館岡。一里、六田 。馬継ぎのところで内蔵 に会う。二里余、天童 (山形へ三里半)。一里半足らずで、山寺 。未の下刻に着く。参拝者用の宿をとる。当日、山上・山下の巡礼が済む。ここから山形へ三里。
山形へ行こうとするが、中止。ここから仙台への道がある。関東道を九十里余りとなる。


【奥細道菅菰抄】

山形領内に立石寺という山寺がある。慈覚大師の開基であり、ことに清浄閑寂の地である

 山形は、最上郡の城下で、町の長さは二里ばかりである。現在の最上郡は、この山形のみであるとか。立石寺、俗に山寺という。村山郡最上川の東の山だ。麓の里を、山寺村と呼ぶ。現在、官領の地。立石寺は、千五百石を領し、武州東叡山に属す。慈覚大師入定の地という。山中にその跡あり。
 坊舎多く、様々の奇岩があり、絶景の地である。

 慈覚大師は、名を円仁という。『元享釈書』にいう。
「釈の円仁、姓は壬生氏。野の下州、都賀郡の人である。延暦十三年に生まれる。九歳にして、同郡大慈寺、僧広智に仕え、十五歳で伝教を師とする。
 二十三歳、和州東大寺にて具足戒を受けた。承和五年、遣唐使藤原常嗣に従って入唐。十四年帰朝。仁寿四年四月、叡山の座主に任ぜられる。
 貞観六年正月十四日、入寂。享年七十二。八年、諡慈覚大師を賜った」。

○山寺の地元民に伝承がある。慈覚大師には悪運がついていたと。(俗にいう剣難である)世人は伝える。この因縁を持つ者は、必ず刃傷沙汰を起こすのだ。これを悟り、大師は常に恐れ慎んでいた。はたして大師が立石寺にて入寂の後、叡山と葬所の争いが起こり、叡山より衆徒ども来たって、ついに大師の首を斬り、叡山へ持ち帰ったと伝えている。

松栢年を経

 栢(はく)は、柏の俗字で(今一般に、柏をかしわと訓じているが、はなはだしい誤りである。理由は下に述べる)中国の柏は種類が多い。『本草綱目』に詳しい。(日本では、檜のこととも、あすなろの木のことともいっており、はっきりしない)一説によると、栢の字をかや、と訓ずるのは誤りであると。かえ、と訓ずるべきであろう。(すなわち柏の和訓)かえぬの木の略であり、この木は秋になっても黄葉しないからである。かやは、かやりの木の略で、榧の字を用いる。この木を蚊遣りとするためという。

崖をめぐり、岩を這って仏閣を拝し、佳景寂寞として心が澄み行くばかりの心地がする

 崖をめぐりとは、境内右の山に、胎内潜りという岩がある。岸壁の飛び出した下を背をかがめてくぐるのだ。この岩へ行くには、はしごを登り、鉄の鎖にすがる。胎内潜りを抜け出したら、しばしの間、岩の端をつたい歩く。はなはだ危険な箇所である。これらをいう。
 岩を這うとは、左の山の出先に、天狗岩と呼ぶ、恐ろしい大岩石が直立する。これへの道は、斜めになった磐石を十間ばかり登るのだ。石の表面は滑らかで上を歩けるものではない。ただ腹ばいとなって(俗に四つんばいという)やっと登ることができる。これをいう。
 閣は、『正字通』に、「楼観である」としている。仏殿の巍巍たるを称した名であろう。寂寞は、二字ともに、さびし、しづかとも訓ずる。法華経、法便品に、「寂寞として人声無し」とある。一般に、しんしんとする、という意味。ものの静かな様子である。

閑さや岩にしみ入蝉の声

 年忌の年であろうか、最上林崎駅の壺中という俳士が、この山中に翁の塚を築き、この短冊を埋めて、蝉塚と名付けた。


『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
http://bit.ly/cnNRhW

奥の細道行脚。第十回「松島」

2010-06-26 12:20:08 | 日記
 五月九日(新暦六月二十五日)、芭蕉一行は今回の旅の目的地のひとつである、松島に到着。感極まった芭蕉は、ここでは句をよんでいない。代わりに、松島賛美の文を堂々たる漢文調「賦の体」で記します。

 平泉では奥州藤原三代のいにしえに涙し、「夏草やつわものどもが」の句を得、盗賊の出る山刀伐峠を命からがらに越して、当初予定になかった山寺(立石寺)へ五月二十七日(新暦七月十三日)巡行。巍巍たる禅刹の威容に、

「閑かさや岩にしみいる」

の名句を得ます。

 かくて奥州の真中を横断し、行者姿となって羽黒山、出羽三山に登頂、祈念。
 修験道最高の霊場にて生まれ変わり、新たな生を授かる。
 一行は日本海側酒田にはじめて出、最上川の激流に翻弄されて下り、ついに象潟へ棹を差します。日本第一とされたこの名勝は、江戸文化年間の大地震で永遠に失われてしまいました。その面影を、ここでも芭蕉屈指の名文により、彷彿とできる喜びをかみしめたいと思います。


●松島

【奥の細道】

 そもそも言い古されたことではあるが、松島は扶桑第一の佳景であり、およそ洞庭、西湖 に恥じぬ。
 東南より入り江となり湾の内は三里、浙江のごとき潮をたたえる。島という島がここに集まり尽くして、そばだつものは天を指さし、伏すものは波に腹這う。あるものは二重にかさなり、三重に畳んで、左に分かれ右に連なる。背負う形、抱く形あり。児孫をあやすかのように見える。
 松の緑こまやかに、枝葉は潮風に吹きたわめられ、自然が曲げ、伸ばした作品のようである。その景色神秘的にして、美人の顔を粧う 。
ちはやぶる 神の昔、大山祇の成せるわざか。この天然の造形に、筆をふるわず、言葉を尽くさぬものなどいようか。

 雄島の磯は、地続きで浜から海に出た島である。雲居禅師の別室跡、座禅石などがある。
 また、松の木陰に世捨て人の住処もまばらに見えて、落穂・松笠などの煙たなびく草庵にひっそりと住む。どこの誰とも知りはしないが、まずなつかしく立ち寄れば、月が海に映り、昼の眺めとはまたあらたる。

 浜辺に戻り、宿を求めれば、窓を開いた二階建て。風、雲の中に旅寝してこそ、あやしいほどに妙なる心地となろうもの。


 松島や鶴に身をかれほととぎす   曾良


鑑賞(古歌に、千鳥が借りたという鶴の毛衣。この松島の絶景に、ほととぎすもその化粧を借り、美々しく鳴き渡ってくれればよいが)


 私はただ口を閉ざして眠ろうとするが、眠れるものではない。旧庵を別れるとき、素堂に松島の詩 を、原安適に松がうらしまの和歌を餞される。袋を解いてこれを今宵の友とした。また、杉風、濁子の発句もる。


【曾良旅日記】

一 九日。快晴。辰の刻、塩竈明神参拝。戻って出帆する。千賀の浦・籬島・都島 等諸所遊覧し、午の刻松島に着船。茶など飲んでから瑞岩寺詣で。残らず見物した。開山は法身和尚(真壁平四良)である。中興は雲居。法体の北条時頼がこもった岩窟あり。無相禅窟の額があった。

 これより雄島(御島と書くところもある)をあちこち見る(富山も見えた)。御島には、雲居の座禅堂あり。その南に、一山一寧の碑文があった。北に庵あり。修行者が住むようだ。帰った後、八幡社・五太堂 を見る。慈覚大師の作。松島に宿泊する。久之助方。
加衛門の案内状だ。

【奥細道菅菰抄】

そもそも言い古されたことではあるが、松島は扶桑第一の佳景であり、およそ洞庭、西湖に恥じるものではない。東南より入り江となり湾の内は三里、浙江のごとき潮をたたえる

 そもそも(抑)は、和文においては、さて(扨)、という言葉の重いものであり発端に用いられる。漢語の抑とは意味が違う。

 扶桑は、いにしえより日本の異名として使われてきたが、実は別の国の名である。『准南子』の註に、「扶桑は東方の野なり」。『楚辞』の註に、
「扶桑は木の名である。その下より日がでる」。
 『和漢三才図会』に、
「扶桑国は大漢国の東にあり、その地には扶桑の木が多い。葉は桐に似て、実は梨のごとく」
 という。これらである。ただし、ここ(奥の細道本文)では、俗言にしたがって日本のこととみるべきである。

 第一とは、松島はどの島にも松の木ばかりがあり、他の木はない。ゆえに、第一と称えたのだ。

 およそ(凡)は、『辞書』では、皆と註する。一般にいう総体と同じ。

洞庭は、中国で名高い山水の地である。洞庭湖あり(別名太湖)。半分は潭州に属し、半分は岳州に属すという。

 西湖は、鄂州にある。これらの風景は、王弇州の『四部稿』、および『熙朝楽事』等にくわしく載る。

 浙江は、中国三大江の一である。『字彙』にいう。

「浙江は銭搪にあり、歙県の玉山より出る。河水が逆流して激しく、湾口に波を巻き上げることにより、浙江と呼ばれた」

 と。日本の九州の西に当たり、日本へ往来する船舶の港。繁華の地であり、なおかつ景色無双であるという。その潮を称えて『詩経』に、

「廬山の烟雨、浙江の潮。いまだ到らざれば千般すれども、恨み休ませず。到り得て帰り来たれば別事なし、廬山の烟雨、浙江の潮」

 とある。

○一考すると、松島は日本第一の絶景の地であるため、特別にこれを称讃するべく、ここの段落はしばらく文法を変え、賦の体となした。ゆえに文頭に、そもそも(抑)の字を置いて、稿を改めたのは、史記列伝の始め、伯夷の伝の頭に、それ(夫)の字を置いたのと同様である。翁の文飾の巧みさを、これらのことに目をつけて、よくよく考えてみるべきであろう。

そばだつものは天を指さし、伏すものは波に腹這う

 この両句は、島と岩の形容である。そばだつの元の字、「欹」は、あるいは「倚」と通ずるか。偏り、立つことである。腹這う(匍匐)は、両手をついて腹ばうことをいう。『詩経』の大雅に、

「誕にまことに、匍匐す」

 とある。

児孫をあやすかのように見える

 杜甫の望獄の詩に、「諸峰羅立して、児孫に似たり」とある。

美人の顔を粧う。ちはやぶる神の昔、大山祇の成せるわざか。この天然の造形に、筆をふるわず、言葉を尽くさぬものなどいようか

 美人の顔を粧う、とは、東坡の『西湖の詩』に、「西子に西湖を把えて比せんと欲すれば、淡粧濃抹また相よろし」とする意味である。

 西子とは、西施のことである。越王勾銭の臣、茫蠡が、呉王夫差に贈った美人の名である。

 淡粧濃抹は、薄化粧、または濃く化粧することをいう。

 ちはやぶるとは、『百人一首季吟抄』に、「ちはやぶるとは、神を詠む時の枕詞である」という。
 この他にも諸説あったが用いなかった、と定家卿の説があることを伝える。考えみれば、この説には、埒がない。ある神書では、ちはやぶるを千釼破(せんけんは)と書いて、素盞鳴尊を神々が攻めた時、尊が埋め隠しておいた千の剣を踏み、破り捨て、ついに尊を屈服させたなどといっているが、これまた様々な説がある。私にも管見がなくもないが、その家の者ではないので、しばらくこれを捨て置く。

大山祇は、大山祇の神をいう。山の神ゆえに、成せる業と申されたのであろう。(この神の出生の話は日本書紀に見える。ここでは不要のためくわしくは記さぬ)

雲居禅師の別室跡

 雲居禅師は、真壁平四郎の家人、沢庵と同時代の人である、という。伝説未詳。平四郎のことは以下にある。

窓を開いた二階建て。風、雲の中に旅寝してこそ、あやしいほどに妙なる心地となろうもの

 この段は、『詩経』の

「軒窓を月のため開くという。いずくんぞ似たる、山中白雲に臥すことを」

 などという風情に着想を得たものである。文、簡にして尽くした、と称えるべきであろう。妙なるは、奇妙な、という意味。

松島や鶴に身をかれほととぎす 曾良

 この句の趣向は、古歌を踏むと見る。今、失念してしまった。
(訳者註 鴨長明『無名抄』で取り上げられている祐盛法師の歌をいったもの。寒夜千鳥と云う題に、「千鳥も着けり鶴の毛衣」と詠んだ)

素堂に松島の詩を、原安適に松がうらしまの和歌を餞される。(中略)杉風、濁子の発句もある

 素堂は、隠者の山口氏。初めは信章、中頃来雪、晩年に素堂と称した。芭蕉の親友である。(一説では、俳諧も翁と同門であったとする。最初、信章と称していたことを考え合わせると、あるいは元、信徳の門人ではあるまいか)

 原安適は、医者で深川に住む。歌人であり、この人も翁の友である。その息子は鈴木庄内といって、県令の小吏を勤めて死んだ。その息子、庄右衛門という者も父親に先立ってしまい、今は跡がない。

 杉風のことは最初に述べた。濁子も翁の門弟である。


★奥の細道講読会「寺子屋 素読ノ会」6/28(月)
http://bit.ly/alUNRw

奥の細道行脚。第九回「飯塚」

2010-06-25 11:38:46 | 日記
【奥の細道】

 その夜は飯塚泊。温泉があるので湯に入り宿を借りると、土間に莚を敷いた卑しい貧家であった。灯火もなければ、囲炉裏の火陰に寝床をもうけて伏す。夜に入って、雷鳴雨しきりに降る。伏せる上から雨漏りはする、蚤、蚊に責められては眠れず。持病さえ起こってしまい、気も失せるばかりとなった。
 短夜の空、ようよう明ければ、また旅立つ。なお夜の苦痛が尾を引き、心進まず。馬を借り桑折の駅に出た。遥かな行く末をかかえて、このような病ではおぼつかなしとはいえど、覉旅辺土の行脚、捨身無常の観念。道端に死のうと、これ天命なりと気力いささか取り直し、道縦横に踏んで伊達の大木戸を越す。


【曾良旅日記】

一 瀬上より佐場野に行く。佐藤庄司の寺がある。寺門からは入れぬ。西へ回る。堂がある。堂の後方には庄司夫婦の石塔。堂の北はずれに兄弟の石塔。そのかたわらに竹が生えている。兄弟の旗棹を差したので、はた出しと呼ばれている。毎年、二本ずつ同じように生えてくるという。寺には判官殿の笈、弁慶の書いた経典などがある由。系図も残るという。

 福島より二里。桑折よりも二里。瀬上より一里半。川を越え、十町ほど東に飯坂 というところがある。湯が出る。村の上には庄司の館跡。下りは、福島より、佐波野・飯坂・桑折と行くべし。上りは、桑折・飯坂・佐場野・福島と出たという。昼より雲って夕方より雨となる。夜に入り、強くなる。飯坂に泊まり、湯に入る。

一 三日。雨降り。巳の上刻に止む。飯坂を発つ。桑折(伊達郡の内)へ二里。時折小雨。

一 桑折と貝田の間に伊達の大木戸は位置する(国見峠という山あり)。越河と貝田との間に福島領(今、桑折より北は代官の地)との国境がある。左手に重ねた岩あり。大仏石というそうである。斎川より十町ほど手前に馬牛沼・万牛山あり。その下の道に鐙毀(あぶみこわし)という岩あり。二町ほど下って右手に継信・忠信の妻の御影堂 がある。同夜、白石宿。一二三五。


【奥細道菅菰抄】

馬を借り桑折の駅に出た

 桑折は往還の宿。名所にあらず。

覉旅辺土の行脚、捨身無常の観念

覉旅および行脚は、前掲。辺土は、片田舎の土地である。捨身は、道のため身命を顧みぬことをいう。無常は、定めのないことをさし、いずれも儒仏家の用いる語。観は、心眼で見ること、念は心に絶えず思い続けることである。

伊達の大木戸を越す

伊達郡の入口。要塞の地、領主の封関(ほうかん)をもうける。


 次回、七月に芭蕉一行は、壺の碑に千年の歴史をまざまざと見、旅の前半のお目当て「松島」に到着予定。奥州藤原三代の栄華の夢を平泉でたどりつつ、「閑かさや岩にしみいる」の句を得た、立石寺から、羽黒山で魂の巡礼へと向かいます。


『奥の細道 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 全現代語訳』能文社 2008
http://bit.ly/cnNRhW