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8:藤圭子と鷹ノ羽圭子~オズマについて

2022-04-23 23:42:53 | teacup掲示板

 

/巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など - 71~80件目 (teacup.com)/

/藤圭子と鷹ノ羽圭子 | 巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など | 78 (teacup.com)/

藤圭子と鷹ノ羽圭子 投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 9日(水)19時09分2秒

藤圭子と鷹ノ羽圭子  2007/ 3/30 19:58 [ No.87 / 434 ]

星飛雄馬は1969年に大橋巨泉司会の新春ボーリング大会に参加し、オーロラ三人娘の橘ルミと知り合う。
オーロラ三人娘はザ・ゴールデン・カップスの「クールな恋」を(カバーして?)唱っており、その後、飛雄馬は宮崎の看護婦・日高美奈に「乗り換える」。
日高美奈は、飛雄馬が都城でマウンドに立っているときに、病気で短い命を終える。

一徹は「タレント娘など百害あって一利なし」と言っており、ルミより美奈の方が人間的には大人のようである。

1970年、星飛雄馬が自宅マンションで観ていたテレビで藤圭子が「♪15、16、17と私の人生暗かった」と唱っていた。

 

http://music.goo.ne.jp/cd/407622-1/index.html
http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=833562
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/keikonoyumewa.html
http://www.youtube.com/watch?v=_Gn_btFAIUY

/圭子の夢は夜ひらく 藤 圭子★HIT COLLECTION : 藤圭子 | HMV&BOOKS online - BVCK-37032/

/圭子の夢は夜ひらく (mahoroba.ne.jp)/

その後、飛雄馬が「スター千一夜」に出演、共演は歌手の藤圭子とキックの鬼・沢村忠。

/キックの鬼 - 作品ラインナップ - 東映アニメーション (toei-anim.co.jp)/

 

司会の石坂浩二が「♪15、16、17と私の人生暗かった」というフレーズを紹介していた。

その後、1977年に星飛雄馬は鷹ノ羽圭子という女優にほれるが、これは「軽薄なタレント娘」ではなく、慈善活動をする大人の女優で、飛雄馬はむしろ日高美奈に近いと想った。

しかし、伴宙太も鷹ノ羽圭子に惚れてしまい、さらにロメオ南条が飛雄馬に心理作戦を仕掛けてきて、飛雄馬は不調におちいる。
飛雄馬はロメオを殴った件で一時、出場停止処分をくらい、王貞治が756号本塁打を打った試合でも一人、落ち込むばかり。

この鷹ノ羽圭子の名前のヒントは藤圭子か、あるいは松坂慶子かも知れない。

では、日高美奈の名前はどこから来たか。

実は、日高美奈は飛雄馬と同い年ながら、飛雄馬の姉・明子(飛雄馬より8歳ほど年上)に似ており、飛雄馬を一度、平手で殴ったこともあり、伴宙太は「弟を叱る姉のごとし」とコメント。
また、美奈も明子も詩人ジャン・コクトーの言葉を引用している。
美奈は「私の耳は貝の殻、海の響きを懐かしむ」という詩を飛雄馬に紹介。
明子は伴に「人生は決して安全な株を買ってはならない」という言葉を傳えた。

この「明子」と「美奈」なのだが、偶然ながら、長嶋茂雄の妻・亜希子および息女・三奈とそれぞれ読みが同じである。

星明子の「明子」はもともと、「巨人の星」の企画段階で主人公の名前が「星明(ほしあきら)」になる予定だったのが没になり、姉の名に流用された結果らしい。
それで星が惚れた女性が明子と似たタイプで名前が「美奈」というのも、長嶋家に似ており奇遇である。

また、星飛雄馬に消える魔球のヒントを与えた「マンションの屋上で鞠をつく少女」も美奈という名前であった。

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星明子と花形満  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 9日(水)19時10分36秒 返信・引用 編集済
  星明子と花形満  2007/ 3/30 20:08 [ No.88 / 434 ]

1970年の後楽園でのオールスター。川上監督の計らいで投手は星、1塁は花形、右翼は左門というライバル共演となったが、なぜか中日に移籍した伴はベンチに入っておらず客席から観戦していた。
なぜ、伴がファン投票で選ばれなかったのか。全く不自然である。

原作では星明子と花形満が初めて直接逢ったのは1969年、東京タワー近くのクラウンマンション附近のガソリンスタンドでのこと。
しかし、のちに1970年、大阪で明子は花形に「飛雄馬の前に現れたブラックシャドーズ時代の花形さんを覚えている」とコメントしている。

原作「巨人の星」によると、花形は1970年、大阪でのオールスター戦で明子と共に飛雄馬の大LB3号初披露を観客席から目撃していた。ところが公式戦での初対決では「星君、お初にお目にかかる大リーグボール3号。いや、それらしきものをじっくり拝ませてもらう」と言っており、スタンドで観たことを忘れたようだ。
アニメでは飛雄馬の3号初披露、野村とアルトマンと張本の三振場面で花形は客席では見ていない。

原作では飛雄馬が花形に対して無表情、無感情なのに、花形がノックアウト打法で打った三塁ライナーをカバーした飛雄馬は高校野球顔負けの敢闘プレイだった。このとき、打球は長嶋のグラブをはじくが、長嶋が飛雄馬の身体の上にかぶさったときはきちんとはまっていた。
花形はこの一連のプレイから「星は野球への情熱を失っていないが、野球生命が残り少ないのでは」と直感し、「星のボールはかつての甲子園で投げた血染めのボールだ」と発言。
それなら、1958年の少年野球や67年の甲子園で飛雄馬が投げた遅球が大LB3号になっていなかったのも不思議である。

このノックアウト打法に関して、後に1977年にヤクルトに入団した花形満は、翌78年、チームメイトに「草野球の守備能力を超えて僕の打球が速かったから通用したに過ぎん」と言っていたが、長嶋でも捕れなかった様子から、謙遜であろう。

1970年に話を戻すと、アニメでは花形は花形モータースの科学班に依頼して、大LB3号を再現できるピッチングマシンを作ってもらう。花形はその実験で、3号がノックアウト打法で打てることを発見。ところがほんの数球投げただけで機械そのものが爆発してしまう。ボールを持つ機械の腕も関節でなく部品の中央からちぎれてしまう。
花形は実践で3号の「本物」をノックアウト打法で打ち、機械と同じ原理だと確認。それで「星は血染めだ」と確信する。これで飛雄馬の敢闘プレイは単なる「花形をアウトにした」だけの位置づけになった。

1970年、星飛雄馬は左腕を破壊し失踪する。
続編「新巨人の星」ではそのシーズン終了後、阪神の花形は引退、中日の星一徹と伴宙太も球界を去る。
つまり花形の引退は飛雄馬完全試合の後になる。
これはアニメ版「新巨人の星」で一徹が回想したときもそう語られていた。

一方、アニメ版「巨人の星」とそれを花形中心に編輯して新たに場面を追加した「巨人の星特別編・猛虎花形満」では花形が飛雄馬の左腕破滅を知り、シーズン中に飛雄馬に非公式の勝負を申し込み、飛雄馬が勝ったら自分が即刻引退し、花形自身が勝ったら飛雄馬に引退してもらうという条件をつけた。
結果は花形が負け、花形はシーズン終了を待たずに引退を宣言。

花形は最後の巨人VS中日戦を観戦し、途中から明子も駆けつけ、花形の横で観戦。
明子はチェンジでベンチに戻る飛雄馬が一向に嬉しそうでないのを見て不審に思う。

飛雄馬の左腕は破壊され、試合終了。其の後花形と明子は結婚。披露宴とおぼしき場面で明子は和風の花嫁衣裳で、一徹、伴、左門が出席したが、「新」の原作・アニメとも「飛雄馬は明子の結婚式当日、祝電を一本よこしただけで顔を見せなかった」ことになっている。

ところが「特別編・猛虎花形満」では結婚式で明子はウェディング姿で、花形と明子の前に正装した飛雄馬が現われ、花形に「大LB3号3球対決」のボールを渡している。
この結婚が1970内なのか翌71年以降なのか不明。

巨人には番場蛮が入団し、眉月光もヤクルトに入団。

1971年初め、川崎市のとある教会で左門豊作と京子の結婚式が営まれ、星一徹・明子・花形・牧場・左門の弟と妹たちが参列。京子の竜巻グループの妹分たちが来たかどうか不明。

飛雄馬は窓の外から祝福し、夜空に輝く巨人の星を仰ぎ、枯葉が舞う冬の夜にコートの背中を丸めて去っていく。

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『巨人の星』の原作の最終回で星飛雄馬が見ていたのは左門と京子の結婚式だが、これを花形と明子の結婚式と勘違いしている人たちも結構いるようだ。河崎実の『「巨人の星」の謎』によると、中島梓とおすぎとピーコの対談でも「飛雄馬は明子と花形の結婚式を見て去っていった」という誤解に基づく話になっている。この3名は『巨人の星』に批判的だったが、事実認識からして間違っているので、批判には価値はない。  

1971年・火浦健と王島大介  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 9日(水)19時22分57秒 返信・引用 編集済
1971年・火浦健と王島大介  2007/ 3/31 14:55 [ No.92 / 434 ]

1971年、左門が京子と結婚。
同年2月、北海道の白大雪高校野球部では火浦健という剛球投手がいて、同校は選抜大会に選ばれ、春の甲子園出場で「北は不利」を覆す優勝が期待された。
校長は「天才投手・火浦がはいったおかげで全道の中学からいい選手がこぞってわが校へはいった……火浦がいるなら優勝できるからだ」と心の中で呟いた。
しかし、火浦の育ての親である政が昔は「人斬り政」と恐れられ、北道組という暴力団の組員であることから学内では火浦退部を要求する声が出ていた。火浦健は本名・一郎で、加世という女性が捨てた双子の一人だった。
「大島」は「おほしま>おおしま」、「王島」は「わうしま>おうしま」である。

健は野球部をやめてしまうが、その日、政は健のため組から出ることを望んで組によって殺されてしまう。
健は政のドスを持って組に押し込み、組長の右腕を切断、服役2年となる。
さて、「2年後」の「夏の甲子園」で、健が船で筆禍移動から東京へ向かう途中、健の双子の弟・二郎こと王島大介が中九州(熊本)代表・阿蘇高校野球部員として本塁打を放ち、母校の優勝を決めた。左門豊作の熊本農林高校と同じ地元である。大介は火浦が政に拾われたのと同時期、当時九州から来ていた王島夫妻によって拾われた。
一郎(後の火浦健)は路上に捨てられていたが、二郎(後の王島大介)は赤子神社に捨てられていた。
大介は当時、九州の球団だった「太平洋ライオンズ」(1972~76)への入団が期待されたが、この年、ドラフトで阪神が王島を指名。12月、王島は阪神のユニフォームを着て大阪に旅立つ。

長嶋が入団(1958)直後、金田と対戦したが、当時、ライオンズは西鉄ライオンズ (1951~72)。77年に江川が指名を拒否した当時はクラウンライターライオンズ(1977~78)だった。
ライオンズは79年から埼玉の所沢に移る。其の後1988年にダイエーの中内功がホークスを福岡に移すまで、九州にプロ球団はなかった。

1971年、番場蛮は巨人一軍としてデビュー。阪神戦では9回、ウルフチーフにバントヒットを打たれるまでノーヒットノーランで、完封勝利となる。

さて火浦健と王島大介は同学年であろう。ところが1971年2月に火浦が高校1年とするとそれは3学期であるから火浦の高校入学は1970年春、番場蛮が土佐嵐高校に入学、飛雄馬が中日移籍後の伴と対決したシーズン開幕時になる。しかし、火浦が入学したのでいい選手が澤山入ったとすると、火浦の入学は69年春より前の可能性もある。
そうなると同い年の王島大介が高3で阪神入りし、健がメッツに入った「2年後」はいつか。

火浦は「服役2年」を終えた年の12月、東京メッツ入団テストで国立玉一郎を三振に討ち取っており、從って国立入団後である。1923年生まれの岩田鉄五郎が50歳投手として活躍していた「よれよれ18番」の少し後に「スラッガー藤娘」で国立が白新高校からメッツに入団する。つまり国立の公式戦デビューは1973年となる。
火浦・王島プロ入りの翌年、シーズン開幕から両者はルーキー同士で対決し、「北の狼南の虎」の最後で火浦は20勝投手となり、「白球七五三」によると国立は本塁打王になる。日本シリーズはロッテとの対戦で、ロッテのパVは長嶋茂雄が現役引退した1974年(別の話「俺は長島だ」では史実通り中日がセVでメッツは最下位という設定)。
すると、火浦と王島のプロ入りは1973年秋~年末。すると火浦の服役は1971年2月から1973年8月頃までの2年5ヶ月になる。

そうなるともし火浦健が障害事件を起こさなければ王島と同じく1973年春に高3に進学、メッツ入団時は高3の2学期で、翌1974年春に卒業となる。逆算すると火浦の高校入学は1971年の春、3月頃になってしまい、火浦が野球部をやめた1973年「2月」はまだ火浦は中学3年の受験シーズンということになる。
すると火浦は1970年に入学し、双子の弟である1973年に王島は高校4年で1年留年していたことになる。
この二郎を拾って「大介」と名づけた王島夫妻が出生年を1年ずらして届けた可能性もある。

1973年、星飛雄馬は宮崎の日向三高を臨時コーチし、同校はその年の夏の甲子園で準決勝に進むが、優勝は王島大介率いる阿蘇高校だった。
1974年、阪神にはウルフチーフと藤村甲子園がおり、巨人の番場は中日の大砲万作を分身魔球で打ち取って急死。藤村甲子園は長嶋を三振に打ち取る

「白球七五三」で「国立さんのお嫁さんになる」と言っていた少女・藤子が後の国立の妻と同一人物か否かは不明。

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星一徹と岩田鉄五郎・鉄五郎のバラード 2007/ 4/ 2 14:28 [ No.95 / 434 ]  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 9日(水)19時39分40秒 返信・引用 編集済
  星一徹と岩田鉄五郎・鉄五郎のバラード  2007/ 4/ 2 14:28 [ No.95 / 434 ]

1920|(大9)川上哲治、星一徹誕生
1923|(大12)岩田鉄五郎誕生
1937|(昭12)星一徹がラヂオを聴いて川上を応援
1938|(昭13) 「鉄五郎のバラード」
1942|(昭17)星一徹と岩田鉄、出征
1942(昭17)~1943(昭18)星明子誕生
1945|(昭20)岩田鉄復員
1946|(昭21)星一徹復員
1949|(昭24)花形満、伴宙太、左門豊作誕生
1950(昭25)~1951(昭26)星飛雄馬誕生
1957(昭32)~1958(昭33)長嶋茂雄G入団
――|→長嶋の巨人入団記念パーティ
――|→星飛雄馬が長嶋に魔送球を投げつける
――|→川上哲治が星家の長屋に赴く
――|→星飛雄馬が王貞治、花形満と対戦
1958(昭33)~1959(昭34)王貞治がG入団
1966|(昭41)
↓変更
1967|(昭42)星飛雄馬が青雲高校入学
――|→夏の甲子園で準優勝
――|→中退し、巨人にテスト入団
――|川上G三連覇
1968|(昭43)星飛雄馬G一軍スタート
1969|(昭44)星一徹が中日コーチに就任
――|→A・オズマ獲得
――|→星飛雄馬の大LB1号、2号と対戦
1970|(昭45)中日が伴を獲得
――|→大LB2号、3号と対戦
――|→飛雄馬が左腕を破壊し、失踪
――|→星一徹、伴、花形が球界から去る
1973|(昭48)岩田鉄五郎50歳、東京メッツの現役投手
――|甚久寿、国立玉一郎現役開始(推定)
――|飛雄馬が日向三高を臨時コーチ
――|メッツがドラフトでTO砲指名、火浦健テスト入団
1974|(昭49)TO砲と火浦、王島大介現役開始
――|番場蛮急死
――|メッツ優勝または最下位
――|ドラフトで日下部了指名
1975|(昭50)日下部と富樫平八郎、一軍デビュー
――|星一徹が飛雄馬と再会
――|メッツがドラフトで水原勇気を指名
1976|(昭51)星飛雄馬が巨人に復帰
――|水原勇気がメッツ現役デビュー
1977(昭52)年末~1978(昭53)年初
――|一徹と伴が飛雄馬の魔球開發に協力
1978|(昭53)アニメ「新巨人の星II」で
――|星一徹没→花形満・明子夫妻に一子誕生
1978(昭53)~1979(昭54)
――|悩む飛雄馬に一徹が助言
1979|(昭54)飛雄馬が巨人二軍コーチに

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星飛雄馬の3魔球について 投稿者:杉山雅俊  投稿日:2008年 9月16日(火)17時01分43秒 返信・引用
   初めまして。
 星飛雄馬の大リーグボール1号,2号,3号の3魔球だが、
 なぜ、飛雄馬自身も巨人軍も、あっさり「魔球である」ことを明らかにしてしまうのだろうか?
 1号は、「バットに当たったのは偶然」と言い張り、時々当たらない1号、つまり「ブラッシュボール」を投げれば良いのでは。打者の腰を引かせて、外角速球で打ち取る、という投球パターンの中に、時々1号を混ぜれば、誰でも「偶然だ」と思うのではないだろうか。
 2号は、2ストライク後にのみ投げるようにすれば、打者は振ってくるからそのスイングにごまかされて「消えている」ことはなかなか分からないだろう。当時はビデオもないし、画像の解像度もたいしたことはないのだから。打者と主審は「???」と思うだろうが、「ボールが消えた」などといえば笑われるだけだから、黙っているだろう。そして、自分の眼の錯覚と思い込むに違いない。さらに、2号とは別に飛雄馬が「沈む球」を身につけ、多投すれば、「あの『消える球』の正体はアレなんだ」とみなは思い込むだろう。(続く  

 


Re: 星飛雄馬の3魔球について  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 9月23日(火)17時42分33秒 返信・引用 編集済
  > No.82[元記事へ]

>  星飛雄馬の大リーグボール1号,2号,3号の3魔球だが、
>  なぜ、飛雄馬自身も巨人軍も、あっさり「魔球である」ことを明らかにしてしまうのだろうか?

これは盲点でしたね。
確かに1号のときは、打者もアナウンサーも客も偶然だと思い、2号のときはアナウンサーと解説者が「見落とした」と思い、2塁走者の江藤慎一が「ボールが消えている」と気付きました。

もし、星飛雄馬が打者のバットに当てることにこだわらないで、打者の心理をを予測した上で空振りさせたり、普通に打たせて取るなど、多方面に予測を生かしていたらそうなったでしょう。
大リーグボール1号と2号のとき、飛雄馬は要所要所で魔球を使い、多くの場合は速球でも打者を打ち取っていました。それは魔球の存在を恐れる打者の心理によるものでしたが、魔球の存在を極秘にしていても、同じ効果はあったでしょう。

魔球の存在を封印する手は『野球狂の詩』で岩田鉄五郎と水原勇気がやっています。
松坂のジャイロボール疑惑もあり、魔球が特定の投手のものでなく、一般化したらそういう手もありかな。
長嶋茂雄は大リーグボール右1号(蜃気楼の魔球)のときは、マスコミに公開し、大々的に報道させて、打者の心理効果を狙いました。

「沈む球」であればたてに変化する魔送球があります。打者の予想の裏をかけば、あれだけで立派な魔球。しかし、あんなものを使うなら普通にフォークボールを使えばいい話。

結局、飛雄馬がボクシングや剣道で打者の心理と動作を読めるようになった時点で、それを速球やスローボールや既存の各種の変化球の組み合わせで三振や凡打に打ち取る方向に使えばよかったのです。そうすれば投手生命が長持ちしたでしょうし、後半で「風圧でバットをよける魔球」などを使う必要なかったわけです。
そもそも、飛雄馬はアマチュア時代、上手投げのスローでコーナーをついて三振に打ち取る技もあったのですが、プロ入りしたらやめてしまった。

それをバットに当てたり、ボールを消したり、下手投げのスローボールにしたりといった、外見の変化にこだわったのが飛雄馬の悲劇でした。

1号がオズマに打たれ、飛雄馬が1号に見切りをつけて2号の特訓に入ったとき、川上監督は「予測したらボールをバットから外せ」と飛雄馬に助言し、飛雄馬は拒否して二軍に落とされました。川上監督飛雄馬も星ももっと早く気付いていればよかった。
3号が出た時、アニメでは一徹が「3号は1号の応用だ」と推理して、伴に大根切り打法を命じて、敗れていました。オズマも3度目の来日の非公式対戦でそういう推理をしていましたか。
アニメでは原作同様、風圧で避ける設定だったので、その予想は外れという展開でした。

↓参照
星飛雄馬の大リーグボール(Yahoo!Blog)
左大リーグボール1~3号に関する逆説(Yahoo!Blog)
大リーグボール2号打倒策(teacup掲示板)  


大リーグボール2号打倒策  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 9月23日(火)18時27分6秒 返信・引用 編集済
  >No.83[元記事へ]

伴も花形も大リーグボール2号を打つ場合、それは消える魔球が消えるのを防ぎ、「ボールが目に見えるたて変化の魔送球」を打つことであった。

そうなると、サッカーボールや雪玉を打つ以前に、普通のフォークボールや低めからホップする球を打つような技術が必要だ。

また、これは打者が「星が2号を投げてくる」と予測したから球筋を読めたわけである。
読めなければ「見える魔送球」でも打者は三振か凡打になったはず。

花形が最初に「大リーグボール2号の正体は魔送球だ」と気付いたとき、すでに打倒作を用意していたが、それが試合中に左門からの電話で100%でなく、80%だと判明した時点で、花形は戦力を失い、和田と交代した。

このとき、花形が用意していたのは本塁近くから出る土けむりを抑える作戦だろうから、現実的にはヘルメット落とし作戦であったろう。もし、あのとき試していれば、現実にはオフシーズン('69年秋~'70年春)に入ってから後楽園での非公式対戦で見られた「ボールの膨張や扁平になる変化」が消える魔球が出た'69年のシーズン終了前に白日のもとにさらされたことになる。

'70年シーズン開幕当時、花形は最終的に一本足打法で大リーグボール2号を打った。
ここで花形は最初の2球の速球を見逃し、3球目の2号のところで一本足打法を使い、飛雄馬を動揺させて投球フォームを崩し、2号を「消え損ねた魔球」にした。
ここで問題なのは、なぜ花形は最初の2球が消える魔球でないと見抜いたのか。もし、速球のときに花形が慌てて一本足をやっていたら作戦がばれたところである。
つまり、この打席の星は花形に球種を読まれていたわけだ。これは魔球の秘密や打倒策以前の問題である。

この年の東京でのオールスターで飛雄馬が1号を投げようとしたとき、花形は投球モーションの途中で「これは1号でしかも失敗する」と見抜き、一塁から捕手の後ろまで走ってカバーした。これほど花形が飛雄馬の球種を見抜けるなら、何を投げても打たれるのは時間の問題であろう。

ちなみに、消える魔球の象徴である「右足を高く上げる投球フォーム」の一部は、アニメでは1号の後半あたりから使われている。

Yahoo!Blog
星飛雄馬の大リーグボール
(2)大リーグボール2号
消える魔球打倒策の謎  

「酒井美紀」違い  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年10月 4日(土)20時36分38秒 返信・引用 編集済

 

LINK1

このサンスポの記事で言っているのは、「永遠に好きと言えない」で歌手デビューして、ドラマ「白線流し」に出ていた酒井美紀のことでしょう。ところが同姓同名で似ても似つかぬお笑いタレントの写真が載っている。

LINK2

本当はこっちの人じゃないか?こっちはデイリースポーツの記事。

ところで、Victor「酒井美紀コレクション」(04.2.21)の10曲目、「♥の森へつれてって」とあり、「♥」はハートマークなのだが、これは何と読むんだろう。「愛の森~」か「心の森~」か「ハートの森~」か。

Yahoo!Blog
「酒井美紀」について  


東M『新巨』/前作アニメとの矛盾  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年10月 5日(日)21時52分19秒 返信・引用 編集済
  2006/10/25 3:45 [ No.1307 / 2233 ] ★

投稿者 : giants_starr_pegasus

「岸辺」でなく「岸部」シローです。映画「あしたのジョー」(力石の死まで)のマンモス西役でしたか。

東京MXTVの放送の話題ですか?

「あしたのジョー2」では丹下段平の台詞が1つは音声だけ、もう1つは場面ごと省かれています。
放送禁止になったのでしょう。
先日観た再放送では、タイガー尾崎の顔を正面から観た場面が不自然に切り替わっていました。

原作では試合の前で、今の単行本では段平の台詞は「ボクサーとして欠かん品だ」に変更になっていると思います。

リアルタイムで観た当時、「新巨人の星」は主題歌が「ゆけゆけ飛雄馬」で、前の主題歌を別の歌手が録音しなおして演奏も変わったと気づいていましたが、「宇宙戦艦ヤマト」などで有名な「ささきいさお」の歌だったとは今回の再放送で初めて知りました。
個人的には「新巨人の星II」のオープニングで水木一郎が歌った「心に汗を」が印象的で、CDを探しています。

「巨人の星」の最終回で、星飛雄馬は左腕のひじと手首の間の筋肉が断裂し、指を動かせなくなるという設定でした。
ところが「新巨人の星」では「飛雄馬は肩を壊した」という平凡な設定に変わっていました。
今、出ている文庫版では「腕を壊した」という本来の設定に変わっていますが、それでも飛雄馬は左手の指は動かせるようになっています。
(京子さんの小指も左門と結婚した後は治ったようです。)

アニメの「新巨人の星」の今やっている再放送ではっきりしましたが、「新巨」では一徹、飛雄馬自身や明子の台詞で「肩を壊した」という「新巨」開始当時に変更された設定のままです。

また、アニメの前作では、最後の試合の途中から明子が球場に駆けつけ、客席の花形の横に座って観戦してから9回を迎えています。最後の1球で飛雄馬が完全試合を達成した後、明子と花形もグラウンドに降りていたと思います。ラストでは一徹が飛雄馬を負ぶさって退場しました。

ところがアニメ「新巨人の星」で、飛雄馬が「代打專門でも役に立てる」と言ったのを聞いて明子が驚いた後で出た回想シーンでは、まず9回で伴が代打のとき、明子はまだ球場についておらず新幹線の中で、明子が後楽園球場に駆けつけたときは飛雄馬は担架で運ばれていました。
また、明子と花形の服の色も前作最終回とは違っていました。

相当、制定が変わっているので、河崎実氏が『巨人の星の謎』(宝島社、河崎実と重いコンダラ友の会著)で製作者の違いを理由にアニメの「新巨」I~IIを除外したのもその辺の理由でしょう。

また、やはり東京MXTVで再放送していた「巨人の星・特別編・猛虎花形満」で、本編に追加された場面(本来のアニメとの違いは色合いが薄く、明子の台詞がない点)では、花形と明子の結婚式(明子はウェディング姿)に飛雄馬が来訪し、大リーグボール3号の3球対決のときのボールを花形に贈呈しています。
ところが、本来の「新巨人の星」原作では、花形と明子(和風の花嫁衣裳)の結婚式には飛雄馬は来ておらず、祝電をよこしただけで、そこはアニメ「新巨人の星」でも同じでした。
ちなみに、この「猛虎花形満」は最近、少年マガジンで始まった「新約・巨人の星・花形」とは別の作品です。

飛雄馬の左腕編の最後の試合は、原作では名古屋の中日球場、アニメでは東京の後楽園球場でした。
もちろん、今ではそれぞれ名古屋ドームと東京ドームに移っています。

伴宙太について。柳田理科雄の『空想科学漫画読本』で「伴忠太」と書いてありますが、もちろん、誤植です。
親父の伴大造は出るのが早いですね。

「巨人の星」最終回の試合の舞台は1970年の秋で、この年川上巨人がV6.
「エピローグ」での左門と京子の結婚式は1971年初めの冬でした。
「新巨人の星」第1話の舞台は1975年の夏以降です。長嶋巨人最下位の年です。

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「新巨人の星」(70年代長嶋G編)  2006/10/26 7:07 [ No.1312 / 2233 ] ★

投稿者 : giants_starr_pegasus

「巨人の星」は川上巨人V9(1965~73年)時代の中期、67~71年を舞台にしています。

元巨人三塁手・星一徹は息子・飛雄馬を豪速球投手に育て上げ、飛雄馬は1967年に捕手・伴宙太と共にG入団。
飛雄馬は3種の魔球・大リーグボールでライバル・花形(阪神)、左門(大洋=現・横浜)と対決。
後半は中日コーチとなった一徹が第3のライバル・オズマを鍛え、続いて伴を獲得して飛雄馬に立ち向かいます。
飛雄馬は1970年の対中日戦で完全試合と引き換えに腕を壊し、失踪。

その後、一徹と伴、花形も球界を去り、一人現役を続けた左門は京子と結婚し、花形は明子と結婚しましたが、この2つを混同している人も多いのでしょう。
中島梓もおすぎ、ピーコと鼎談した際に「巨人の星」を批判し、「最後に飛雄馬は明子と花形の結婚式を見て去っていく」と言ってたそうですが、内容を誤認した批判は的外れで、飛雄馬が見届けたのは左門と京子の結婚式でした。

飛雄馬は73年に宮崎の某高校野球部を臨時コーチしていますが、70~74年は主に「侍ジャイアンツ」の舞台でした。

「新巨人の星」では1975年、長嶋巨人1年目から話が始まります。
飛雄馬は76年に右投手としてG復帰。
ビル・サンダーが送り込んだ新ライバル・ロメオ南条が阪神入りし、花形は77年にヤクルト入団。
76~77年は巨人セV,日本一は阪急(現・オリックス)。
78年に飛雄馬の「蜃気楼の魔球」が花形と左門に打たれた話で「新」は終わり。78年はヤクルトVでしたが、アニメ「新巨人の星II」では事実に反し「巨人V」で終わっています。
原作の続編「巨人のサムライ炎」では79年に飛雄馬が引退してG二軍コーチとなります。

「新」では番記者が長嶋監督に向かって「どうして元中日の伴につきあって草野球の選手を見に来たんですか」という質問をしており、また、伴が巨人Vを祝って乾杯しようとした際、一徹は「君は中日OBだろう」と言っていました。
しかし、星一徹と伴宙太は巨人と中日のOBです。
例えば、もし落合博満が板東英二と対談したら「元中日同士」でしょうが、落合と江川卓であれば「元巨人同士」と言うべきです。
これも、作者が前作を知らない人の為に「前作の最後で伴は中日だった」ということを教えようとしたのでしょう。「新」ではそういう説明的な台詞が多いのですが、設定が変えられている所も結構あります。

↓Wikipedia「巨人の星」をご参考に。
/巨人の星 - Wikipedia/

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東M『新巨』/オズマについて  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年10月 5日(日)21時57分8秒 返信・引用 編集済
  オズマはアニメで死んでおります  2006/11/ 9 0:41 [ No.1338 / 2233 ]  ★

投稿者 : starr_pegasus_of_the_giants

オズマはアニメ「巨人の星」でヴェトナム戦争での負傷がもとで死んでおります。原作にないアニメ版オリヂナルの話で「かえってきたオズマ」と「オズマの死」の2話連続です。
私は当時、「オズマ」を「大妻(おおづま)」のような日本語名だと思っていました。

今でこそアメリカ球界のスカウトが日本の高校球児まで狙う時代ですが、1968年秋の巨人対Cardinalsの試合で、アメリカの選手たちは大リーグボール1号を知らず、解説者が「アメリカでは日本の野球は余り話題になっていない」、「かろうじてオウ、ナガシマが一部の野球通に知られる程度」と説明しました。
ここでCardinalsの選手として飛雄馬と初対戦したオズマは、1969年初めに再来日して中日に入団、飛雄馬の大リーグボール1号を「見えないスイング」で打ち砕きます。しかし、もともと1年間日本に借り受けた選手だったようで、オズマは大LB2号(消える魔球)に敗れたまま1970年初めに帰国します。

飛雄馬は帰国するオズマを見送ったとき、「日米野球の悲願、日米ワールドシリーズで対戦しよう」と言っていました。今ではCardinalsに田口壮選手も入団し、向こうは日本人だらけで余り日米対決という感じでなくなっています。
オズマは帰国後、「見えないスイング」で活躍したのですが、その後の日米親善試合で讀賣の対戦相手として来日したのはオズマのCardinalsではなくSan Francisco Giantsで、そこの打者だったメイズ (Mays)、マッコビー (McCovey)らはオズマから何も聞いていないのか消える魔球について「予備知識ゼロ」で、驚いて打てませんでした。
ちなみに、このときはオズマに代わって伴宙太が巨人から中日に移籍した後でした。

一方、オズマは戦意高揚のためにヴェトナム戦争に送られ、戦場で白人兵士を守るため、爆弾の破片を背中に受けて負傷していました。

飛雄馬は消える魔球を花形に打たれ、続く大LB3号で復活した後、3度目の来日をしていたオズマと再会しました。

オズマは3号と非公式に対戦し、一徹と同様、「3号は1号の応用で、バットの動きを予測するのでは」という推理をしますが勿論間違いで、本当はバットの風圧でよける球でした。オズマは打つ直前に傷が痛み、帰国します。
ところがオズマはアメリカでその背中に触身球(hit by pitch,日本で言う「死球」)を受けてしまい、車椅子の身体になって引退、故郷の貧民街で死んでいきます。

今、放送したらイラク戦争と重なって反響が凄いかもしれません。
当時の脚本家は梶原一騎にもスポンサーにも無断でこの話を作って、そのまま放送してもどこからも苦情が来なかったそうです。当時は大らかな時代で、今ではとても無理だろうとのことです。

「巨人の星」は、「戦後」民主主義の「子供の人権、自主性」、「非暴力」、「男女平等」などとは正反対の世界で、「男の生き様、男対男の勝負の世界」を描いていますが、アニメではオズマのところだけで「反戦」を描いて、つりあいをとっていたのでしょう。

梶原野球漫画で他に外国人選手といえば「侍ジャイアンツ」のウルフチーフ(阪神)とジャックス(アメリカの球団)、「新巨人の星」のロメオ南条(阪神)がいました。厳密には王貞治氏も(日本生まれですが)国籍は「中華民國」なので当時は外国人選手、今では外国人監督です。

ちなみにアニメ「新巨人の星II」最終回では星一徹も死んでおり、これもアニメオリヂナル。

逆に「侍ジャイアンツ」の番場蛮と「タイガーマスク」の伊達直人はどちらも原作の最終回で死んでおり、アニメでは最後まで健在でした。それでも原作漫画の形で続編が作られています。

それで「あしたのジョー2」の矢吹丈は……アニメも原作も同じ結末のようです。
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2006/11/ 9 15:40 [ No.1339 / 2233 ]  ★

オズマVS星飛雄馬対決一覧
オズマCardinals時代
(1)まず脅威の選球眼で際どい球を2球見送り,動揺した飛雄馬の暴投でカウント0-3,次にバットを狙う大LB1号をオズマは「バット落とし作戦」で防ぎ、4球出塁。
そのあと飛雄馬が1球も投げていないうちにオズマは2塁に進塁しています。
(2)次の打席でオズマは初球場外ファウル後、2球目で「バットを投手に向かって投げる」という思い切った策をとり、球は空中でバットに当たって2飛(セカンドフライ)。

バットの方は飛雄馬が間一髪よけたため、マウンド後方に落ちました。
今では多分、ドームでやりますから、場外はありえませんね。
左門に打たれたときのように飛んできたバットを手で弾くと、指を負傷する危険性がありました。

オズマ再来日、中日時代
(3)まず大LB1号を「バットを水平に構えて球をド真中に誘い、見えないスイングで打つ」打法で満塁本塁打。これはバントの構えからヒッティングに移るバスター(buster)の応用です。飛雄馬は号泣して戦意喪失し降板。
(4)次に大LB2号=消える魔球との初対決は三振。
アナウンサー「見えないスイングが見えない魔球の前に敗れ去りました。」
オズマ半狂乱。
(5)次にオズマは一徹の指示で見えないスイングを振り回し、バットの風で「球を隠す土煙」が上がらなくなるのを恐れた捕手・森の打撃妨害により、オズマは出塁。しかし、牽制球でアウト。
初対戦での仕返しでしょうか。試合後、一徹は「消える魔球は風に弱い。」
オズマはスランプに陥り、中日との契約期限切れで帰国。

原作でのオズマVS飛雄馬の通算は5打席1安打(本塁打)で打率2割。
その後、オズマはヴェトナム戦争に出兵し負傷。

最後の対戦(アニメ版)
(6)三度目の来日で大LB3号と対戦するも、戦場での傷が痛み途中棄権。帰国後、オズマは死亡。

これを計算に入れると通算6打席1安打(本塁打)1三振1四球で、打率1割7分(6分6厘……)。
日米野球ロボットの対決は結果を見ると五分五分といったところでしょう。

オズマの代わりに中日入りした伴宙太と飛雄馬の対戦は(1)大LB2号・投飛併殺→(2)大LB3号・三振→(3)同じく3号・打球は外野を抜けるも1塁アウト。通算3打席0安打1三振で飛雄馬の完勝。これは伴のせいでなく星一徹の作戦ミスでした。

<余談>
(3)→大量リードされた段階での登板で勝敗とは関係ありませんが、飛雄馬は川上監督の登板継続命令を拒否し二軍に落ちて新魔球開発に勤めます。
それで開発した消える魔球を花形に打たれた後も、飛雄馬は勝手にマウンドを降りて球場(甲子園か大阪球場)を出て、新幹線で東京に帰ってしまいました。
これが左腕時代の飛雄馬の悪癖で、出勤日や退勤時刻を勝手に選ぶアルバイトのような投手です。
但し、今、MXTVで再放送中の「新」では飛雄馬のこの悪癖は相当、是正されており、例えば制球力が改善すると左門が飛雄馬の投球動作から球種を読んで滅多打ちにしますが、それでも飛雄馬はベンチの意向通り続投していました。飛雄馬は何故打たれたかわからなかったようですが、自分の復帰に役立った「左門メモ」を思い出せばわかりそうなものです。
「新」では4試合連続KO記録もありますが、飛雄馬の場合、KOされても次にはちゃんと仕事をするようになっただけ進歩したと言えます。
(5)→王選手のスイングの力は最大1tになったらしく、見えないスイングはそれを上回りそうで、すると森の左手は骨が粉砕されても不思議はありません。よく治ったものです。
しかし伴宙太の後頭部も、左門の猛スイングをくらって出血してもすぐ治っていましたから、「巨人の星」の捕手は身体が法外に頑丈なようです。

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7:阪急、近鉄、オリックス、楽天、大洋追加~星飛雄馬と中村紀洋

2022-04-23 23:27:36 | teacup掲示板

/巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など - 61~70件目 (teacup.com)/

/阪急、近鉄、オリックス、楽天、大洋追加 | 巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など | 68 (teacup.com)/

阪急、近鉄、オリックス、楽天、大洋追加  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時37分50秒 返信・引用 編集済
  阪急、近鉄、オリックス、楽天  2007/ 3/26 9:53 [ No.71 / 433 ]

球団名変遷と監督の名前、在任期間などはWikipediaから。

阪急ブレーブス(1947年~1988年)
近鉄バファローズ(1962年~1998年)

1963年~1973年 阪急、西本幸雄監督
1968年~1970年 近鉄、三原脩監督

1968年
日本シリーズ、巨人・阪急戦
スペンサーが擬似花形打法で星飛雄馬の大LB1号をファウルにするが、次にグリップエンドに当てる新型大LB1号に敗れる。
スペンサーは勝負の途中、飛雄馬に"Come on, baby.",終わってから "Little Giant."と言った。

1969年
星一徹が「西鉄の中西(太)監督に止めをさし、休養に追い込んだのは、義理とはいえ父の近鉄・三原(脩)監督」との談。
オールスター、セ・リーグの攻撃で近鉄のエース鈴木から花形満(阪神)がヒット、一塁打。続く代打・左門(大洋)の犠牲バントで花形は二塁に進塁。

1970年
三原脩監督の近鉄バファローズに仰木彬がコーチとして就任。
巨人対近鉄(オープン戦)で星飛雄馬が太田幸司と投げ合う。土井正博から奪三振。

巨人対阪急(オープン戦)で石井晶が星飛雄馬の消える魔球に対し、左門の「土煙なぎ拂い」打法を試してボールの変化を見るが打てずに三振。

1973年秋
阪急が江川卓を指名。
東京メッツは唐部と丘を指名(TO砲)。

1974年~1978年 阪急、上田利治監督

1975年日本シリーズ
伴が長嶋邸に向かう車のラヂオで「阪急が廣島に勝って日本一」の放送。アナウンサーまたは解説者が「上田監督以下の阪急勢にしてみれば、やはり、宿敵巨人を倒して日本一の美酒に酔いたかっただろう」という主旨の評。

1976年
長嶋Gリーグ優勝。前年最下位から復活。
日本シリーズで、星のノーコンへの報復として阪急打線がピッチャー返し。
飛雄馬はスクリュースピン・スライディングで防ぎ、敢闘賞。
日本一は阪急。
「巨人は前年最下位なので今年日本一になったら行きすぎ」と言われたが、長嶋は「勝負に行きすぎはない、日本一を逃したのは無念」と述べ、飛雄馬に制球力改善の命じる。

1977年日本シリーズ
阪急相手に打者・飛雄馬が本塁打。

1976年と'77年は長嶋巨人がセ・リーグで連覇するものの、日本一は連続して阪急に阻まれ、飛雄馬は大LB右1号開發を目指す。

1988年~1992年 近鉄、仰木彬監督

1989年 阪急がオリックス・ブレーブスに(~1990年)。

1990年~1994年 野茂英雄、近鉄に在籍、背番号11。
1991年 オリックスの球団名がブルーウェーブに(~2004年)。
1992年~2000年、イチロー、オリックスに在籍。

1994年~2001年 オリックス、仰木彬監督

1994年秋ドラフト~'95年春開幕
通天閣高校の坂田三吉が近鉄に入団。
明訓高校の殿馬一人がオリックスに入団、イチロー在籍。
オリックス・ロッテ戦で殿馬が伊良部から2塁打。
名づけて「秘打美しき青きブルーウェーブ」。

1999年
近鉄が大阪近鉄バファローズに(~2004年)。

2004年
東京スーパースターズと四国アイアンドッグスが成立。
→殿馬はスーパースターズに、坂田はアイアンドッグスに入団。

2005年
オリックスが近鉄と合併してオリックス・バファローズに。
仰木彬氏が再び監督に就任するが健康上の理由で1年で退任し、シニアアドバイザー(SA)に就任、12月15日没。
東北楽天ゴールデンイーグルス誕生。近鉄とオリックスから選手を多数獲得。
2005年シーズン終了で、楽天の田尾監督解任。

2006年
元西武、元巨人の清原がオリックスに移籍し、この年から現役。
楽天監督に野村克也が就任。
9月25日に行われたドラフト会議(高校生の部)で夏の甲子園大会準優勝・駒大苫小牧の田中将大投手を1巡目指名(Wikipediaより)。

71←Yahoo!掲示板
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近鉄と大洋、追加(1970年の流れ)  2007/ 3/30 19:33 [ No.84 / 433 ]

1970年
左門と花形が飛雄馬と後楽園球場で非公式に対決。左門はバットで土煙をなぎ拂い、ボールの変化を明らかにするが、伴が打撃妨害。伴は後頭部を負傷、出血するがすぐ完治。

三原脩監督の近鉄バファローズに仰木彬がコーチとして就任。
巨人対近鉄(オープン戦)で星飛雄馬が太田幸司と投げ合う。土井正博から奪三振。

左門は新宿で京子と遭遇。

巨人対阪急(オープン戦)で石井晶が星飛雄馬の消える魔球に対し、左門の「土煙なぎ拂い」打法を試してボールの変化を見るが打てずに三振。

後楽園のオールスターで太田幸司が王貞治と対戦。

オールスターで左門と花形が友情の三重殺、飛雄馬の危機を救う。

大洋は大LB3号と初対戦で長田(通称「ポパイ」)など連続三振。左門三塁ゴロ。
別当監督の指示で近藤昭仁(1993年-1995年、横浜監督)が大LB3号に対し耐球作戦を試みるがカウント2-3の後、ストライクで三振。
唯一のヒットは投手・平松。最終打者左門が三振して試合終了。

84←Yahoo!掲示板
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ロッテオリオンズ→千葉ロッテマリーンズ  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)17時00分44秒 返信・引用 編集済
  ロッテオリオンズ→千葉ロッテマリーンズ  2007/ 3/26 18:33 [ No.75 / 434 ]

球団名、本据地変遷と監督名はWikipediaより。

毎日オリオンズ(1950年~1957年)

1950年~1962年 - 後楽園球場

→毎日大映(大毎)オリオンズ(1958年~1963年)

1962年~1972年 - 東京スタジアム

→東京オリオンズ(1964年~1968年)

→ロッテオリオンズ(1969年~1991年)

1970年
東京でのオールスターでロッテのアルトマンが水まき作戦で星飛雄馬の消える魔球を強打。
次の大阪でのオールスターではアルトマンが星飛雄馬の大LB3号を三振。

1973年~1977年 - 県営宮城球場(現フルキャストスタジアム宮城)

1973年~1979年 - 金田正一(第1次)

1973年
春の巨人対ロッテのオープン戦で、番場蛮が「大回転魔球」で4連続奪三振。

1974年
「野球狂の詩」→「おれは長島だ」では中日セV.
「〃」→「北の狼南の虎」ではメッツセV→「白球七五三」の日本シリーズでメッツはロッテと対戦。

1978年~1991年 - 川崎球場

1990年~1991年 - 金田正一(第2次)

1990年
千葉マリンスタジアム竣工。

1992年~ - 千葉マリンスタジアム

1992年
千葉マリンスタジアムが本据地に。

→千葉ロッテマリーンズ(1992年~)

1994年秋~1995年開幕以降~
千葉ロッテが明訓高校の里中智を指名。翌年から現役開始。里中はロッテの COOLMINT ガムのCMも器用された。
ロッテの伊良部がオリックスの殿馬(明訓高校OB)と対戦。
オールスターで里中が西武の山田とバッテリーを組む。

1995年 - ボビー・バレンタイン(第1次)

2004年~ - ボビー・バレンタイン(第2次)

2005年
千葉ロッテ日本一。
水島漫画では、2005年日本シリーズが東京スーパースターズ対札幌華生堂メッツの対戦。

75←Yahoo!掲示板
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ロッテオリオンズ→千葉ロッテマリーンズII  2007/ 4/22 20:39 [ No.122 / 434 ]

球団名、本据地変遷と監督名はWikipediaより。

毎日オリオンズ(1950年~1957年)

1950年~1962年 - 後楽園球場

→毎日大映(大毎)オリオンズ(1958年~1963年)

1962年~1972年 - 東京スタジアム

→東京オリオンズ(1964年~1968年)

→ロッテオリオンズ(1969年~1991年)

1970年
東京でのオールスターでロッテのアルトマンが水まき作戦で星飛雄馬の消える魔球を強打。
次の大阪でのオールスターではアルトマンが星飛雄馬の大LB3号を三振。

1973年~1977年 - 県営宮城球場(現フルキャストスタジアム宮城)

1973年~1979年 - 金田正一(第1次)

1973年
春の巨人対ロッテのオープン戦で、番場蛮が「大回転魔球」で4連続奪三振。

1974年
「野球狂の詩」→「おれは長島だ」では中日セV.
「〃」→「北の狼南の虎」ではメッツセV→「白球七五三」の日本シリーズでメッツはロッテと対戦。

1978年~1991年 - 川崎球場

1982年
落合博満が初の三冠王。

1990年~1991年 - 金田正一(第2次)

1990年
千葉マリンスタジアム竣工。

1992年~ - 千葉マリンスタジアム

1992年
千葉マリンスタジアムが本据地に。

→千葉ロッテマリーンズ(1992年~)

1994年秋~1995年開幕以降~
千葉ロッテが明訓高校の里中智を指名。翌年から現役開始。里中はロッテの COOLMINT ガムのCMも器用された。
ロッテの伊良部がオリックスの殿馬(明訓高校OB)と対戦。
オールスターで里中が西武の山田とバッテリーを組む。

1995年 - ボビー・バレンタイン(第1次)

2004年~ - ボビー・バレンタイン(第2次)

2005年
千葉ロッテ日本一。
水島漫画では、2005年日本シリーズが東京スーパースターズ対札幌華生堂メッツの対戦。

122←Yahoo!掲示板  


東映フライヤーズ、日本ハムファイターズ  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)17時02分58秒 返信・引用 編集済
  東映フライヤーズ、日本ハムファイターズ  2007/ 3/26 10:05 [ No.73 / 434 ]

→東映フライヤーズ(1954年~1972年)
本据地;東京都(1952年~2003年)

球団名と本据地の変遷、監督在任期間はWikipediaより。

1967年終盤
巨人と東映フライヤーズの二軍戦で星飛雄馬が登板。東映の二軍監督は元阪神の藤村富美男。
前半は三振と内野への凡打だけで、8回で東映初ヒット、その後外野フライが続いた。結果は星の準完全試合。

1970年
オールスターで日ハムの張本が大LB3号を三振。
張本は3号を「バットをよける球」と見抜く。

→日拓ホームフライヤーズ(1973年)
→日本ハムファイターズ(1974年~2003年)

1974年ごろ
日ハムが明訓高校の土井垣を指名。
大澤監督は忍びで明訓を訪れ、部員に指導。

1975年
明訓が弁慶に負けて土井垣が日ハム入団。

1975~76年?
土井垣はプロ入り初打席で初本塁打。

監督;大澤啓二(1976年-1983年【第1次】)

1976年
日本ハムから張本勲が巨人に移籍。
宮崎キャンプでテスト生・星飛雄馬と遭遇。

1994年
白新高校の不知火守が日ハムに入り、土井垣とバッテリーを組んで、対近鉄戦でノーヒットノーラン。

→北海道日本ハムファイターズ(2004年~)
→北海道(2004年~)

73←Yahoo!掲示板
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東映フライヤーズ、日本ハムファイターズII  2007/ 4/22 23:57 [ No.123 / 434 ]

→東映フライヤーズ(1954年~1972年)
本据地;東京都(1952年~2003年)

球団名と本据地の変遷、監督在任期間はWikipediaより。

1967年終盤
巨人と東映フライヤーズの二軍戦で星飛雄馬が登板。東映の二軍監督は元阪神の藤村富美男。
前半は三振と内野への凡打だけで、8回で東映初ヒット、その後外野フライが続いた。結果は星の準完全試合。

1970年
オールスターで東映の張本が大LB3号を三振。
張本は3号を「バットをよける球」と見抜く。

→日拓ホームフライヤーズ(1973年)
→日本ハムファイターズ(1974年~2003年)

1974年ごろ
日ハムが明訓高校の土井垣を指名。
大澤監督は忍びで明訓を訪れ、部員に指導。

1975年
明訓が弁慶に負けて土井垣が日ハム入団。

1975~76年?
土井垣はプロ入り初打席で初本塁打。

監督;大澤啓二(1976年-1983年【第1次】)

1976年
日本ハムから張本勲が巨人に移籍。
宮崎キャンプでテスト生・星飛雄馬と遭遇。

1994年
白新高校の不知火守が日ハムに入り、土井垣とバッテリーを組んで、対近鉄戦でノーヒットノーラン。

→北海道日本ハムファイターズ(2004年~)
→北海道(2004年~)

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ヤクルト、アトムズ、スワローズ  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)17時06分46秒 返信・引用 編集済
  ヤクルト、アトムズ、スワローズ  2007/ 3/25 21:10 [ No.68 / 434 ]

球団名の変遷はWikipediaより。

国鉄スワローズ(1950年~1965年)

1958年
国鉄スワローズの金田正一が巨人の新人・長嶋茂雄と対戦。4打席連続三振。王も四球の他は三振が続いた。

→サンケイスワローズ(1965年途中)
→サンケイアトムズ(1966年~1968年)

1967年末
一徹が「(飛雄馬の缺点に気付くのは)中日の江藤か、大洋のスチュアートか、近藤(和)か、阪神の山内か、あるいは自分が速球投手だった産経の新監督・別所か?それともまた黄金のルーキー・花形満か、努力の鬼・左門豊作か?」と語る。
「産経」はサンケイアトムズのこと。

1968年~1970年 :監督→別所毅彦

→アトムズ(1969年)

1969年
サンケイアトムズが、ただのアトムズに。
飛雄馬、アトムズとの二軍戦で大LB1号復活。相手チームは「運が悪いね、我等アトムズ二軍」。

9月14日
「巨人の星」ではこの日、セ・リーグはこういう試合。

廣島○―●阪神(時間は昼か夜か、場所は廣島か甲子園か不明)
中日○―●アトムズ(夜間で、場所は中日球場)
巨人○―●大洋(夜間、投手は勝・渡辺←→敗・平松、後楽園球場)

中日がアトムズに勝利。本塁打数では巨人の王、アトムズのロバーツ、中日のA・オズマが猛進撃。

星が川上監督を相手に大LB2号を初披露し、ベンチで星の投球フォームを見た長嶋と王が「もともと星の足はアトムズ別所監督(巨人OB)の現役時代と同じくらい高く上がったが、ますます高くなってフォームが変わっている」と批評。
飛雄馬は「中秋の名月」を見上げ、自分の魔球をアポロ月着陸に喩えた。

→ヤクルトアトムズ(1970年~1973年)

1970年秋
眉月光がヤクルトアトムズに入団。

1971年~1973年 :監督→三原脩

1972年
番場蛮が「ハイジャンプ魔球」で眉月を三振に打ち取る。

1973年
アニメ「侍G」で眉月が「大回転魔球」を打倒。

→ヤクルトスワローズ(1974年~2005年)

1974年
ヤクルトがアトムズからスワローズに。

1975年
大洋の左門豊作が伴宙太に貸した「左門メモ」にあったデータ。

中日・星野仙(一)のナックル。
廣島・外木場のシュート。
阪神・古沢のスライダー。
ヤクルト・松岡のスライダー。

"ビッグ"ビル・サンダーがこれらを再現し、飛雄馬の打撃練習に応用。

1976年~1979年 :監督→広岡達朗

1977年
花形満が広岡監督(前年から)のヤクルトスワローズに入団。
不振の飛雄馬からマニエルと花形が本塁打。
巨・ヤ戦で王貞治が756号本塁打。不振で落ち込む飛雄馬を花形が見つめていた。

1978年
花形が蜃気楼の魔球を本塁打。
原作では巨人が中日、廣島に勝つことでヤクルトの順位が浮上。
アニメ「新巨II」では花形が途中で引退し、巨人Vという設定。

1994年
新聞記事で「ヤクルト・古田のような不動の正捕手がいる球団も明訓の山田太を指名する可能性が高い」との分析。
ドラフトではこの予想どおり、ヤクルトが明訓・山田を指名。
記者は「捕手出身の野村監督は山田の良さを分かっているから当然だろうな」。結局、山田は東尾監督のライオンズに入団。

1995年
江川学院の中二美夫(あたるふみお)がヤクルトに入団。2004年に四国アイアンドッグスに移籍。

→東京ヤクルトスワローズ(2006年~)
本据地は一貫して東京都。

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赤ヘル軍団・廣島カープの歩み  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)17時11分30秒 返信・引用 編集済
  赤ヘル軍団・廣島カープの歩み  2007/ 3/26 9:35 [ No.70 / 434 ]

1950年(球団成立年)
「廣島カープ」設立。
「はだしのゲン」で近藤隆太がカープを熱烈に応援。

1968年
球団名が「廣島東洋カープ」に。

1970年
中日球場の中日・廣島戦で伴宙太が代打本塁打。

1974年
10/14、後楽園で中日が巨人に勝ってセV.
同じ日、国分寺球場で最下位のメッツが廣島を相手に最終戦。
この年入団した長島太が3打席目で初本塁打。そのまま引退を表明。

1974年ごろ?
廣島の衣笠祥雄がメッツの投手・立花薫(当時15歳)の球を打つが、観客から「どうして打つんだ、可哀そうじゃないか」と批判される。

監督;古葉竹識(1975年~1985年)

1975年
アニメ「新巨」で飛雄馬が入った料理店で巨人・廣島戦を中継。堀内恒夫の球を衣笠祥雄、山本浩二が打ち、外木場義郎が王貞治を凡打に打ち取る。
(原作では巨人・阪神戦で、新浦が猛虎打線によって連打されていた)
廣島セV.日本シリーズでは阪急に敗れる。

1975年
大洋の左門豊作が伴宙太に貸した「左門メモ」にあったデータ。

中日・星野仙(一)のナックル。
廣島・外木場のシュート。
阪神・古沢のスライダー。
ヤクルト・松岡のスライダー。

"ビッグ"ビル・サンダーがこれらを再現し、飛雄馬の打撃練習に応用。

1976年
オールスターでセ・リーグ古葉監督が飛雄馬を外野に起用。
武藤兵吉が廣島に入団し、メッツの水原勇気のドリームボールを打つ。

監督;山本浩二(1989年~1993年)

1989年
童夢くんのライバルに廣島のアンディとカルロス。
http://www.woodstream.gr.jp/talk/2000/dome_kun.htm

1995年
土佐丸高校の犬神が廣島に入団。2004年から四国アイアンドッグス。

監督;山本浩二(2001年~2005年、第2期)
監督;マーティ・ブラウン(2006年~)

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南海、ダイエー、ソフトバンクホークス  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)17時13分22秒 返信・引用 編集済
  南海、ダイエー、ソフトバンクホークス  2007/ 3/26 9:57 [ No.72 / 434 ]

球団変遷と監督の在職期間はWikipediaから。

→南海ホークス(1947年途中-1988年)

1970年 - 1977年 監督;野村克也

1970年
東京のオールスターで南海の野村が「帽子落とし作戦」を使い、星飛雄馬の消える魔球をヒット。
大阪のオールスターで野村は星の大LB3号を三振。野村は終始、腹を立て、三振後、バットをグラウンドに叩きつけた。
野村、張本、アルトマンが新聞社の企画で料亭で座談会。野村は「最後の一球ではわしも気を沈め、これは絶好球と見極めたが、狐につままれたように結果は三振だった」と怪しいコメント。張本が「大LB3号はバットをよける魔球だ」との見解を示し、野村とアルトマンも同意。

1973年
景浦安武が南海ホークスに入団。
アニメ「侍G」で野村は番場蛮に「ささやき戦術」を仕掛ける。

1974年
オールスターで野村が番場蛮の「ハラキリ・シュート」の弱点をつく。

1974~76年
巨人学園の対戦高校の一つが全員南海ファンで、捕手は「野村」を名乗っていた。

1975年
土井垣が日ハムに入ったのを受け、犬飼小次郎が南海ホークスに入団。

1977年
元阪神・花形がヤクルトに入団して球界復帰。野村が「ささやき戦術」を仕掛けるが効果なし。

1980年
景浦安武が桂木サチ子と結婚。

→福岡ダイエーホークス(1989年-2004年)

1988~89年
ダイエーの中内功が球団を買収。
南海ホークスが福岡ダイエーホークスに。
コサキンのラヂオで「かわいそうな人はナニワの南海ファンと『あぶさん』」という投稿があった。

1994年
ダイエー監督就任予定の王貞治が明訓の岩鬼を指名、くじ引きで獲得。
元南海の野村はヤクルトの監督として明訓の山田を指名するが、10球団で取り合いとなり、くじ引きの結果、山田は東尾監督の西武ライオンズに入団。

1995年 - 監督;王貞治(2006年シーズン途中の7月6日から2006年シーズンオフまで手術のため休養。森脇浩司が代行)

1995年
王貞治がダイエー監督に。

→福岡ソフトバンクホークス(2005年-)

2005年
親会社が変わり、ソフトバンクホークスに。
この年9月19日、ダイエー創業者・中内功没。

2006年
楽天監督に野村克也が就任。
王監督が入院、森脇浩司が代行。

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ライオンズ、レオ軍団の足跡  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)17時14分29秒 返信・引用 編集済
  ライオンズ、レオ軍団の足跡  2007/ 3/26 17:15 [ No.74 / 434 ]

(球団名変遷と過去の監督はWikipediaより。監督名は取り上げた出来事に関するもののみ引用)

→西鉄ライオンズ(1951年-1972年)

中西太(1962年~1969年)

1969年
中日コーチ・星一徹のことばで「西鉄の中西(太)監督に止めをさし、休養に追い込んだのは、義理とはいえ父の近鉄・三原(脩)監督」が出る。

稲尾和久(1970年~1974年)

(球団名変遷)
→太平洋クラブライオンズ(1973年-1976年)

1973年ごろ
夏の甲子園で中九州代表・阿蘇高校が優勝し、王島大介は地元の人から「プロなら地元太平洋ライオンズに入ってくれ」と言われる。しかし、王島は阪神から指名され、入団。記者いわく「稲尾さん('73~'74太平洋L監督)、かわいそう」。その代わり、優勝投手の山川が地元九州の太平洋ライオンズに入団。

1975年
星一徹が花形満に「レオ・ドローチャーを監督に迎えがった酔狂な球団もある時世…」と言って、"ビッグ"ビル・サンダーをプロ球団に紹介して星飛雄馬から引き離すよう要請。

レオ・ドローチャー(1976年)
→病気のため指揮をとることなく退団。

鬼頭政一(1976年~1977年)

(球団名変遷)
→クラウンライターライオンズ(1977年-1978年)

1977年
ドラフトでクラウンライターライオンズが江川卓を指名。

根本陸夫(1978年~1981年)

1978年初め
星飛雄馬がハワイで江川と間違えられる。伴が「星はクラウンライターライオンズの指名を断ってアメリカに行った江川と間違えられているぞ」。

(球団名変遷)
→西武ライオンズ(1979年-)

1979年
元阪神・田淵が西武ライオンズに入団。

1979~80年
「がんばれ!! タブチくん!!」
→扱っている時代は'77年から。

広岡達朗(1982年~1985年)

東尾修(1995年~2001年)

1994年
明訓の山田が東尾監督の西武ライオンズに入団。当時、清原在籍。山田は2004年から東京スーパースターズに移籍。

1998年
室戸学習塾OBの犬飼知三郎が西武入団。2004年から四国アイアンドッグスに移籍。

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梶原&水島漫画の高校野球史 I  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 9日(水)18時37分11秒 返信・引用 編集済
  梶原&水島漫画の高校野球史 I  2007/ 3/26 21:13 [ No.76 / 434 ]

藝能面の資料:Wikipediaより。

1937年(昭和12年)
ラヂオで熊本工業と中京商業の中等野球大會(今の甲子園大会)の決勝戦を中継。熊本工業の投手は川上。若き星一徹がラヂオを聴きながら川上を応援(アニメ版「巨人の星」)。

1938年(昭和13年)
「鉄五郎のバラード」

1940年(昭和15年)
18歳の岩田鉄五郎が第26回全國中等學校體育競技總力大會で優勝。

1958年
第40回大会で徳島商の板東英二が1試合25奪三振を記録。
早稲田実業高校時代の王貞治が星飛雄馬と対戦(「巨人の星」)。

1959年
徳島商から板東英二が中日に入団。
早稲田実業高校から王貞治が巨人に入団。この年から現役。

1959~1960年
麻丘めぐみ(1955年10月11日~)が4歳で子役として藝能界デビュー。

1965~1966年
甲子園で尾張高校優勝(「巨人の星」)。

1966~67年
夏の甲子園で太刀川投手の尾張高校、敗退。
左門豊作の熊本農林高校は準決勝で敗退。
神奈川代表・紅洋高校が優勝。
準優勝は青雲高校(「巨人の星」)。

1970年
高知予選で番場蛮の土佐嵐高校が敗れる(「侍ジャイアンツ」)。

1970~1971年? 春
北海道の火浦健と九州の王島大介が高校入学?

1971年2月
北海道の高校野球投手・火浦健が退部後、傷害事件を起こして服役2年。

1971~1972年? 春
王島大介が高校2年に進学?

1972年
麻丘めぐみが「芽ばえ」でデビュー。
桜田淳子が『スター誕生!』で優勝。

1972~1973年? 春
王島大介が高校3年に進学?

1972~1973年ごろ
3年生の名三塁手・国立玉一郎の白新高校は甲子園に出場するも決勝で敗れ、準優勝。ドラフトでメッツが国立を指名し獲得、阪神が山井を指名するも山井は拒否(「熱球白虎隊」)。
王島大介の阿蘇高校が優勝(「北の狼南の虎」)。
富樫平八郎と日下部了の新潟西高校野球部で麻丘めぐみと桜田淳子が人気。
甲子園で日下部了の新潟西高校が優勝(ウォッス10番」と「ガッツ10番」の間)。

1973年
桜田淳子が『天使も夢見る』で歌手デビュー。
麻丘めぐみの「わたしの彼は左きき」が大ヒット。

1973年
宮崎代表・日高三高が甲子園で準決勝に進出(「巨人の星外伝・それからの飛雄馬」)。
1973年ドラフト
メッツが唐部と丘と1位、2位で指名。阪急が江川を指名。

ドラフトで南海が日下部を1位で、メッツが富樫平八郎を3位で指名。日下部は早稲田大学に入学(「ガッツ10番」)。

梶原&水島漫画の高校野球史 II  2007/ 3/26 21:14 [ No.77 / 434 ]

1974年?
富樫はメッツに入団。丘から背番号10番を継承(「ガッツ10番」)。

1974年
(唐部と丘がメッツ一軍デビュー。)
山田太、里中智、岩鬼正美、殿馬一人が明訓高校入学。
甲子園で優勝。
高知代表は土佐丸、大阪代表は通天閣。千葉代表はクリーンハイスクール。
ドラフトで東京メッツが早稲田大学の日下部了を指名(作中では大学4年という設定)。

1974~1976年?
甲子園で大阪代表・南波高校が巨人学園と対戦して勝利。

1975年
(日下部と富樫が一軍デビュー。)
甲子園で明訓が弁慶高校に敗れる。通天閣高校が優勝。

1976~1985年?
夏の甲子園の高知代表は室戸学習塾。
室戸ナインが試合中に松田聖子の「瞳はダイアモンド」(1983年10月28日)や小泉今日子の「艶姿ナミダ娘」(1983年11月1日)などを唱う。

/小泉今日子 - 知誕Wiki (tisen.jp)/

大阪代表は藤村球二、球三兄弟の南波高校で、東京の光高校に敗れる。

千葉代表は青田高校。
青田・明訓戦で青田の中西球道が9者連続奪三振。1926年第12回大会より57年ぶりと言われた。

同じく中西球道が1試合26奪三振。これは1958年の第40回大会から24年ぶりとされた(「大甲子園」←豊福きこう「水原勇気0勝3敗11S」辰巳出版1992より)。

明訓対青田の準決勝再試合で明訓高校の先発投手である岩鬼が「中日ドラゴンズの小松の昭和60年時」と叫んで投球、昭和60年当時に阪神タイガースに在籍していたゲイル投手、バース選手らの物真似(Wikipedia「大甲子園」より)。

1994年
明訓高校が春夏連覇(「ドカベンプロ野球編」)。
山田、里中、殿馬、岩鬼、微笑がドラフトで指名される。

2006年
第88回全国高校野球選手権大会で、早稲田実業の斎藤佑樹投手が78奪三振(7試合、69回)をマーク。夏の大会では1958年の第40回大会で板東英二投手(徳島商)が奪った83三振(6試合、62回)に次ぐ記録(「時事通信」および「デイリースポーツ」より)。

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「巨人の星」と「ドラえもん」の1970年  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 9日(水)18時45分8秒 返信・引用 編集済
  「巨人の星」と「ドラえもん」の1970年前半  2007/ 3/30 9:28 [ No.82 / 434 ]

「獅子の時代」で描かれた巴里(Paris)万博が開催された1867年から103年後。
1970年(昭和45年)。大阪万国博覧会が開かれた年。

この年の初め、東京讀賣巨人軍の星飛雄馬投手は大リーグボール2号・消える魔球で世間の話題をさらっており、新年早々、中日の外国人選手・アームストロング・オズマが帰国。中日の星一徹コーチは前年末に決定していた巨人・伴宙太捕手のトレードを発表。
1970年初、阪神の一塁手・花形満は村山実監督の自宅に新年の挨拶に行った際、監督の言葉から消える魔球の正体を察知し、火鉢で実験を披露する。
一方、大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)の右翼手・左門豊作は妹・弟たちとの団欒から消える魔球打倒のヒントである「100-80=20」を考え付く。
当の飛雄馬はマンションの自室で伴宙太を迎え入れ、ファンや姉・明子からの年賀状を見せ、川上監督から伴トレード拒否の電話を受ける。

同じく1970正月、東京都内の会社員・野比のび助の長男・のび太(小学生)の部屋に22世紀から猫型ロボット・ドラえもんと野比のび太の孫の孫・セワシがタイムマシンで来訪した。
ドラえもんとセワシが持ってきたアルバムによると、のび太は1970年2月6日ダンプカーにはねられ、1979年に大学を受けるも落第(ここからのび太は70年当時9~10歳の小4、從って野田聖子や吉森こずえ氏と同じく1960年頃生まれ、2006年時点で46歳程度と思われる)、1988年、自分で会社を設立し、翌89年に剛田武の妹・ジャイ子と結婚、93年に会社が火災に遭い、95年に会社が倒産することになっていた。
後に野比のび太の生年は植木等主演の「日本一のホラ吹き男」が上映され、東京五輪が開催された「1964年」と設定され、のび太は向井亜紀と同年生まれとなった。

ドラえもんとセワシの働きで、交通事故は免れ、のび太は玩具のミニカーを額に受けるだけで済んだ。

一方、1970年のシーズン開幕前、飛雄馬は伴を打者として鍛えようと打撃練習投手を勤めるが時既に遅く、花形は六甲山で雪玉に仕込んだボールを打つ特訓をし、左門は九十九里浜で蝋燭と波頭を相手に素振りの特訓。それを星一徹から聴いた外遊中の川上哲治は急遽、伴トレード承諾を決定して帰国。到着した空港に一徹が待ち受け、その場でトレードが成立した。
飛雄馬と伴は青雲高校の学友だった漫画家・牧場春彦の招きで後楽園球場での座談会に出席するが、そこで花形と左門からの挑戦を受け、消える魔球の敗北を痛感する。
伴は打撃妨害をし、左門のバットを後頭部にうけて出血するもすぐに完治。
伴は街で再会した星明子から「中日へ行って飛雄馬と戦うべきです」と言われ、中日移籍を決意。

明子は前年から飛雄馬が勝負に徹するように家を出るなど、男たちを勝負に駆り立てながら、飛雄馬がこの年の終わりに失踪して5年後に巨人復帰を目指すと、明子は「飛雄馬はどうして戻ってこないの、もう野球はやめて」などと泣いており、結構、自分勝手である。

1970年シーズン開幕。巨人VS中日戦で、解説は前年引退した金田正一。巨人の先発・高橋一三は就任2年目の水原監督率いる龍打線の猛攻に遭い1死満塁のピンチ。飛雄馬は川上監督から大リーグボール1号による併殺を期待されて救援。伴は補缺ながら高木守道の代打として起用される。これには金田も驚いていた。
伴は逆方向の背面スイングで1号をことごとくバックネットに飛ばしてファウルにし、何度も本塁上に倒れる。元柔道選手の伴は受身も上手かった。川上は外角に外れた消える魔球を投げるよう飛雄馬に命令。しかし、伴の轉倒で地面が固められ、ボールは消えなかった。一徹は飛雄馬の投げる姿を見て泣いてしまい、涙をぬぐう仕草が「打て」のサインに酷似していたため、伴は外角低めの球を打ってしまい、結果は投飛併殺。しかし、もしサインがなくても伴は打った可能性があり、見送っていたら巨人ベンチからタイムがかかり、捕手・森が土を足でかき鳴らしてボールが消えるようにした可能性がある。つまり、一徹は川上の策を読みきっていたものの、結果は川上監督の作戦勝ちであった。(続く)

「巨人の星」における1970年後半  2007/ 3/30 9:29 [ No.83 / 434 ]

巨人VS阪神戦。場所は甲子園であろう。
花形は三塁走者・田淵幸一の協力による本塁附近の土煙封じで2号を打つが、柴田が捕ってアウト。次にヘルメット落としで打つが、今度は長嶋の美技でアウト。
長嶋は開幕前、「体重地固め、走者協力、帽子落としの3つに気づいていた」と言っていたが、伴と花形が実行するまで気づかず、「伴が何度も倒れたのは大LB1号封じプラス土煙封じの一石二鳥だったか」などと驚いていた。また、田淵が不自然な三盗をした時点でも長嶋は気づかなかった。長嶋は「これら3つの策はルールにもかない、防ぐことは不可能」と言っていたが、三塁で走者を監視して牽制球を誘えば本盗は防げた。

最後は花形が一本足打法で飛雄馬の投球フォームを崩し、マウンドの方の土を防いで魔球を打った。飛雄馬はその直後、ベンチから何の命令もないのに勝手にマウンドを降りて新幹線に乗って東京に帰ってしまった。
ちなみに、花形は前年1969年、消える魔球と初対戦の際、魔球が縱変化の魔送球だと気づき打倒策まで準備していたが、左門豊作からの電話でこれが100%でないとわかり、自信を失って交代してしまった。もし、この時点で彼の策が走者協力や帽子落としであったら、実行しておけばよかった。

帰京後、飛雄馬は夜の街に出る。左門も消える魔球打倒で花形に先を越された悔しさで同じ街に出る。映画館で2人は不良少女・京子らと遭遇。京子は飛雄馬に恋をしてしまい、それがもとでヤクザから責められ、小指を負傷(飛雄馬はこの時期、ヤクザとの喧嘩や飲酒などをしていた)。
飛雄馬は後楽園のオールスターに登板するも、消える魔球を野村、アルトマンに打たれ、花形と左門の助けで危機を脱する。大阪に向かう新幹線車中、飛雄馬は指を負傷した京子の投げた林檎を左門が取り落とすのを見て大リーグボール3号のヒントを掴む。左門と花形もこれには敗れた。

原作「巨人の星」では最後の巨人VS中日戦は中日球場。飛雄馬は3号で完全試合目前。球がバットの風圧で逃げることに気づいた一徹は試合途中から伴に長時間逆立ちを強要。飛雄馬は最後の1投で左腕の肘と手首の間の筋肉が切れ、指を動かせなくなってマウンドに倒れる。伴が打った打球はライトのフェンスを直撃するが、なぜか 1塁への送球は遠回りの2塁経由だった。それでも伴は体力を奪われて走れず、1塁に触れたのは王貞治が捕球したのと同時。塁審は最初に「アウト」を宣告するが伴から抗議されて動轉し、「セーフ」と言いなおし、今度は王から抗議される。水原は代走を宣言するが、川上は完全試合達成と見なし、一徹も負けを認めた。その日以来、飛雄馬は謎の行方不明をとげる。

アニメ「巨人の星」では最後の試合が後楽園球場で、試合途中から明子が球場の客席に駆けつけ、花形のそばで観戦。明子はチェンジでベンチに戻る飛雄馬が嬉しそうでないのを不審に思う。最後に飛雄馬は左腕が破壊され、伴の打球は左中間を抜けてバウンド。しかし伴は走れず1塁はアウト。観客と共に明子もグラウンドに降り、一徹は飛雄馬を背負って周囲からの拍手の中、球場を後にした。

アニメ「新巨人の星」の「果てなき野球地獄」で1975年夏に飛雄馬を自宅に迎えた明子の回想シーンでは、この70年の試合で伴が代打で登場したとき、まだ明子は球場についておらず、東京行きの新幹線の中。試合終了の瞬間、飛雄馬は「左肩」を壊し、明子は後楽園へ向かうタクシーの中。明子が球場の客席に入ると飛雄馬は担架で球場外に運ばれる最中で、明子はグラウンドに降りてはいない。飛雄馬は長嶋、一徹、花形が同伴する救急車で病院に運ばれ、病室で明子は「もう飛雄馬に野球なんかさせない」と泣いていた。明子と花形の服の色も「巨人の星(終)」と「新」の回想シーンでは違っていた。
どれが本当の「史実」だ?

1970年ドラえもん→巨人の星→侍G  2007/ 3/30 19:35 [ No.85 / 434 ]

「あっとおどろくタメゴロー」は1969年末から1970年正月にかけて、伴宙太のトレードが持ち上がった時期の「巨人の星」に出てくる。

ドラえもんが22世紀から野比家に来訪した1970年初め、帰国したオズマは、本場大リーグでも見えないスイングで活躍。三冠王となるが、仲間の黒人たちが「オズマは白人に黒人の魂を賣った」と嫉妬する。オズマは戦意高揚のため、ヴェトナム戦争に借り出され、そこで爆弾の破片を背中に受けて負傷する。

オズマ帰国当時、飛雄馬は「日米野球の悲願、日米ワールドシリーズで対戦しよう」と言っていたが、1970年にオズマに代わって伴が中日に移籍したあと、飛雄馬が日米野球で対戦したアメリカ代表はSFジャイアンツで、オズマのカーディナルスではなかった。また、対戦したアメリカの野球選手たちはオズマから消える魔球の情報を聞いていなかったのか、知っていても現場で見てやはり驚いたのか、見たところ「予備知識零でなすすべなし」だった。

アニメ「巨人の星」では夏のオールスターで星飛雄馬が大LB3号を開発した後(夏~秋)にオズマが3度目の来日。
飛雄馬と非公式に対戦するがオズマの傷が痛み、再度対戦を約束してオズマはアメリカに戻る。
しかし、オズマは背中の傷に蝕身球を受け、車椅子の生活になってしまい、生まれた貧民街の実家で死んでいく。

星飛雄馬が大LB3号で時代の寵児となっていたとき、吉沢京子が飛雄馬のファンで某マスコミが対談を要請、別の某媒体は魔球と魔術の関連性からか、引田天功を飛雄馬と対談させる企画を提案。
これが実現したか不明だが、飛雄馬はTVCMに出ており、左門兄弟姉妹の生活のために左門豊作を共演者として推薦している。

「巨人の星」最終回で、1970年秋の巨人VS中日戦、飛雄馬は左腕の屈筋と伸筋が切れ、指を動かせなくなるが、「新巨人の星」では肩を壊したことになっている。
飛雄馬は失踪する。最後の試合が完全試合か否か、巨人軍はコミッショナーに提訴した。
「新」では完全試合達成という設定になっているので認められたのだろう。

この1970年、川上巨人はV6を達成するが、優勝目前で川上は「サムライが欲しい」とつぶやく。
巨人には荒々しいサムライの血が欠けており、このままでは巨人軍の未来はない。
川上と長嶋茂雄は、当時、巨人にいた八幡太郎平の案内で、八幡の母校である高知の土佐嵐高校を尋ねる。
土佐嵐高校野球部1年の番場蛮はこの年の秋の高知県地方予選で、自ら放った本塁打をふいにする押し出し四球で負け、退部、退学する。
巨人の川上はドラフトで番場を指名。巨人嫌いの番場蛮は、一度は拒否するが、父親が鯨の腹を破って勝ったことを知り、巨人を中から倒そうと入団。しかしながら具体的にどう倒そうとしたかは不明。

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星飛雄馬と中村紀洋 投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 9日(水)18時52分36秒 返信・引用 編集済
星飛雄馬と中村紀洋  2007/ 3/30 19:39 [ No.86 / 434 ]

星飛雄馬は甲子園の準優勝投手なのに川上ジャイアンツの一般公募テストを受けて巨人に入団し、1968年から70年まで3年間、エース級の投手として活躍しながら、5年の空白のあとで76年に長嶋巨人に復帰したときは、背番号のないテスト生として宮崎キャンプに参加させられました。

川上哲治も長嶋茂雄も星飛雄馬の実力をわかっていましたが、中村紀洋を見ているとこれは漫画ならではの話とは言えず、現実味を帯びてきます。

飛雄馬は2度とも故障経験者としてテストを受けており、特に左腕時代は、勝手な失踪や契約更改拒否の前歴がありました。

星飛雄馬は66年または67年の高校時代、甲子園の準決勝で利き手の親指を負傷し、ほとんど全力投球できない状態で決勝に登板しており、川上監督は飛雄馬の指が治ったかどうか入団テストで確認する必要がありました。

また、76年に右腕投手として復帰する前の飛雄馬は言うまでもなく、70年秋の対中日戦で左腕を破壊して、しかも勝手に失踪したあとで、飛雄馬の腕は治っていませんでした。

実力があっても負傷を経ている場合、球団としては実力をためす必要があります。

また星飛雄馬は左腕時代、契約更改拒否、さらに度重なる勝手な失踪や登板拒否の前例があり、監督の命令を無視するなどの前科がありました。
これでは選手の自己管理や協調性に問題があるとみなすのは当然でしょう。
右腕投手として復活したあとの飛雄馬はそのあたり、かなり改善されていました。

「巨人の星」の結末。
江川卓を迎えた79年のシーズン中、長嶋監督は飛雄馬に「コーチ就任要請」という形で内々に戦力外通告をしました。

同年夏、飛雄馬は大リーグボール養成ギプスを水木炎に譲り、彼の時代は終わりました。

翌80年、長嶋監督が辞めて王貞治が引退。原辰徳が入団して翌年から現役。
2年後の82年に落合博満が初の三冠王になりました。

落合監督も中村紀洋を拾う温情を見せながら、内容次第では冷酷に斬る可能性もあります。

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6: 南海・野村克也~横浜、大洋の歴史

2022-04-23 22:48:38 | teacup掲示板

/巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など - 51~60件目 (teacup.com)/

/野村克也 | 巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など | 58 (teacup.com)/

 

野村克也  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時43分2秒 返信・引用 編集済
  野村克也 2007/ 3/ 8 9:44 [ No.36 / 433 ]
野村克也・追加 2007/ 3/ 8 14:23 [ No.38 / 433 ]

1970年
「巨人の星・屈辱の“夢の球宴”~ある座談会」
南海の選手権監督にまった野村は後楽園でのオールスターで星飛雄馬の消える魔球を「帽子落とし作戦」で打つ。
野村とアルトマンは左門と花形のハッスルプレーで本塁アウト。
大阪では野村、アルトマン、張本が大LB3号を三振。
野村は明らかに最後まで立腹していたが、あとの座談会で「最後の1球は気を沈め、これは絶好球と見極めたが三振」とコメントしていた。

1973年
アニメ「侍G」
野村は「つぶやき作戦」で番場蛮を動揺させた。

1974年
野村は番場の「ハラキリ・シュート」の弱点をつく。

1974~76年?
「一球さん」
巨人学園(監督は元阪神の岩風で74年まで現役)の相手チームに全員南海ファンのチームがあり、捕手は「野村」を名乗っていた。

1976年
「野球狂の詩」
東京メッツで水原勇気登板。
ドリームボールについて野村が考える。
「捕手の岩田がわしのような『つぶやき作戦』をしているのか?」

1977年
「新巨人の星」
元阪神の花形がヤクルトに入団して球界復帰。
野村が花形に話しかけるが、効果なし。

1994年
「ドカベン・プロ野球編」
ドラフトで野村監督のヤクルトなど10球団が山田を指名。
野村いわく「ノムサン、いや、ナムサン」。
最終的に山田は東尾監督の西武に入団。

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山田太と岩鬼正美の生年、年齢  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時44分14秒 返信・引用 編集済
  山田太と岩鬼正美の生年、年齢I 2007/ 3/ 7 2:07 [ No.31 / 433 ]
山田太と岩鬼正美の生年、年齢II 2007/ 3/ 7 4:15 [ No.33 / 433 ]

1973年、白新高校は甲子園の決勝で敗れ、星飛雄馬が臨時コーチを務めた宮崎・日向三高も甲子園に出場した。
番場蛮は川上GV9の胴上げ投手となり、アニメ版「侍G」では縱分身魔球まで開發し、ミラクルボールで大リーガーのジャックスを打ち取っている。

TO砲こと唐部と丘、北の狼こと火浦健は73年にメッツに入団し、翌74年から現役開始であった。

1973年のドラフトでメッツは唐部と丘を指名し、ドラフトとは別の入団テストで火浦を獲得。

火浦健の弟・南の虎こと王島大介は九州で育って73年に阪神に入ったが、学友だった投手の方は地元「太平洋ライオンズ」に入団した。

1973年ごろに白新高校から国立玉一郎も東京メッツに入団した。

山田太と岩鬼正美が明訓高校に入学、野球部に入り、最初に甲子園に出場したのは1974年であった。

長嶋茂雄現役最後の年で、阪神の藤村甲子園が長嶋と対決。
長嶋のいた巨人では番場蛮が分身魔球で活躍するも、無理がたたって急死、巨人の連覇がストップして中日が優勝した。
ただ、「北の狼・南の虎」ではメッツがセ・リーグで優勝したことになっている。

1974年、TO砲の人気が上がって、メッツの親会社の「TOヌードル」(当時から3年前の1971年に日清から出たカップヌードルに似ている)が賣れたとき、岩田はオーナーに「次は堂々と江川を指名できる」と語っていたが、それは実行されなかったようだ。
74年のドラフトでメッツは早稲田大学の日下部了を指名した。

不知火守は山田らと同期で1974年に白新高校に入学しているが、藤娘・国立玉一郎の母校と同じ学校だとすると、不知火は国立とは入れ替わりであろう。

普通に考えると山田、里中、岩鬼、殿馬、微笑、およびライバルたちの高校生活は74年から77年まで。
山田が打撃練習しているところを阪神の田淵と掛布が見学し、「俺でもめったにあそこまで飛ばんぞ」、「今すぐにでもプロに通用します」とコメントしていたと想う。
また、山田ら高2の夏、明訓は弁慶高校に敗れ、監督の土井垣が日本ハムに入団。ファイターズでは当時、大澤親分が監督を務めていた。

山田は5月生まれで、岩鬼の誕生日は4月1日らしい。
すると、山田は1958年生まれ、岩鬼は1959年生まれになる。
これは長嶋茂雄と王貞治が相次いで巨人に入団した時期であり、1958年は原辰徳が生まれた年だ。

ところが山田たちの高校3年の夏を描いた「大甲子園」では舞台が高2(75年)から10年後の1985年ごろにとんでいる。
明訓と対戦した室戸学習塾のナインが殿馬のリズムを狂わせるために唱った歌の中で、「南国土佐をあとにして」のほか、80年代のアイドルである松田聖子のヒット曲「瞳はダイアモンド」と、同じく80年代のアイドル・小泉今日子の「艶姿ナミダ娘」(いずれも1983年のヒット曲)がある。
殿馬は対青田戦で「秘打・夏の扉松田聖子」を披露したが、「夏の扉」じゃ1981年リリース。
また、岩鬼は対青田戦で幾つかのプロ選手の「昭和60年当時」の姿を真似していた。
この当時、山田太は25歳、岩鬼正美は26歳の年長高校球児で、「マカロニほうれ荘」の膝方歳三25歳に匹敵する高齢高校生である。

さらに「ドカベン・プロ野球編」では1994年のドラフトで山田が東尾・西部ライオンズに入団し、岩鬼は長嶋Gと王ダイエーから指名されてくじ引きでダイエー入りが決まった。微笑三太郎はジャイアンツに入り、松井とチームメート。殿馬はオリックスに入り、イチローがまだ在籍していた。

このとき、公称では山田は18歳、岩鬼は17歳だったが、実際は山田は36歳、岩鬼正美は35歳であった。

山田たちは高校生活20年である。

白新高校の不知火守は日ハムに入団し、土井垣とバッテリーを組んでノーヒットノーランを記録する。当時、土井垣は38歳前後。
2006年末から2007年初めまでの時点で38歳と言えば桑田真澄である。
2007年で土井垣は50~51歳くらい、山田太は49歳になる。

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梶原&水島野球漫画年表  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時55分58秒 返信・引用 編集済
  梶原&水島野球漫画年表  2007/ 3/21 12:37 [ No.61 / 433 ]

1957~58年 水原勇気誕生
1958年 5/5山田太郎誕生
長島茂雄G入団。星飛雄馬が花形満、王貞治と初対決

1959年 4/1岩鬼正美誕生

昭和42=1967年 夏の甲子園で花形率いる神奈川代表紅洋高校が優勝
準優勝投手の左腕・星飛雄馬が青雲高校を中退しG入団

昭和45=1970年 星飛雄馬完全試合達成後失踪。番場蛮G入団

昭和46=1971年 北海道白大雪高校1年火浦健(当時16歳)が野球部を退部
健の育ての父親・政が北道組に殺され、健は復讐として組長の腕を切り服役2年(「野球狂の詩」)

昭和48=1973年 星飛雄馬が宮崎の日向三高野球部を臨時コーチ
日向三高は夏の甲子園で準決勝に進出
(1973年頃)夏の甲子園で王島大介率いる熊本代表阿蘇高校が優勝
→地元太平洋ライオンズ入団が希望された王島大介は阪神に入団。火浦健は東京メッツに入団
番場蛮の分身魔球がウルフ・チーフとジャックスに打たれる
→番場はミラクルボールでジャックスを打ち取る(アニメ「侍G」)
川上巨人V9
東京メッツが唐部大樹・丘知将を指名。阪急は江川卓を指名

1974年 山田太郎、岩鬼正美、殿馬一人、里中智が明訓高校に入学。監督は徳川。夏の甲子園で優勝
東京メッツに長島太郎が入団、引退。中日Vでメッツ最下位(「野球狂の詩・おれは長島だ」)
火浦20勝。国立はホームラン王。東京メッツ優勝→実際は中日セV(「野球狂の詩・北の狼南の虎」)
メッツが日下部了を指名(「ガッツ10番」)
阪神の藤村甲子園が長嶋茂雄と対決
番場蛮が試合後急死(原作「侍G」)
長嶋茂雄引退。川上監督が勇退し、後任は長嶋
1974~76年 藤村甲子園の相棒・岩風(元阪神)が巨人学園監督に
対戦高校にホークスファンのチームがいて、選手がみな当時の南海の名で登録→捕手は「野村」(野村克也にあやかった)。
後に真田一球が選手兼監督に。甲子園で南波高校に敗れる
山田太郎の打撃練習を当時阪神の田淵と掛布が見学

1975年 山田、岩鬼ら高2。土井垣が監督。甲子園春V.夏は弁慶高校に敗れる
土井垣日ハム入団。明訓監督は大平
長嶋G最下位。星飛雄馬が伴宙太と再会し、G復帰目指し特訓
東京メッツが水原勇気を指名

1976年 東京メッツの水原勇気が対阪神戦で初登板
山田、岩鬼ら高3。春の甲子園で優勝。母の入院を理由に里中が中退と退部を希望(「ドカベン」)→実際は休学
右腕・飛雄馬がG復帰
1976~94年 里中が明訓野球部に復帰。東京メッツの岩田と五利が明訓・白新戦を観戦(「大甲子園」)

1977年頃 岩田鉄五郎と水原勇気が引退

1979年 江川卓G入団。飛雄馬がG二軍コーチに。水木炎G入団

1982~85年
山田、岩鬼ら高3。甲子園夏の準決勝で明訓と青田高校が対戦
青田の中西球道が9者連続三振(「1926年以来57年ぶり新」)と1試合26奪三振(「1958年以来24年ぶり新」)を記録(「大甲子園」)
↓追加
「大甲子園」の準決勝再試合で明訓高校の先発投手である岩鬼が「中日ドラゴンズの小松の昭和60年時」と叫んで投球し、昭和60年=1985年当時に阪神に在籍していたゲイル投手、バース選手らの物真似をしている(Wikipedia「大甲子園」より)

1991年頃 藤田Gで番場蛮の甥が登板

1994年 山田、岩鬼高3。明訓甲子園春夏連覇
12球団のドラフトに東京メッツは無し。長嶋巨人と王ダイエーが岩鬼を指名。岩鬼はダイエーに
山田は東尾監督の西武、殿馬はオリックス(当時イチロー在籍)、
里中は千葉ロッテ、微笑は巨人(当時松井秀喜在籍)に入団(「ドカベン・プロ野球編」)

1997年 岩田と水原が現役復帰、登板し、東京メッツ身うり話は撤回
1998年 岩田鉄五郎、選手兼任監督として現役復帰。国立玉一郎のむすめ・珠美がメッツ入団
1999年 オープン戦で珠美がデビュー
1999~2000年頃 メッツは大阪ガメッツに三連勝。火浦がガメッツの監督に
2000年頃 リトルリーグのエース・花形満が中学入学(「新約巨人の星花形」)
2000~2001年頃 東京メッツが札幌華生堂メッツに。岩田鉄五郎が巨人の長嶋監督と会い、円山大地がメッツ入団
2001年 長嶋茂雄が巨人監督を勇退

2004年 山田らが東京スーパースターズに入団
2005年 日本シリーズが東京スーパースターズ対札幌華生堂メッツ。スーパースターズが日本一(「ドカベン」)
→真田一球と呉九郎は楽天に、中西球道は千葉ロッテに入団

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1969年9/14中日・アトムズ戦 2007/ 3/22 16:19 [ No.65 / 433 ]  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時01分8秒 返信・引用 編集済
  「新巨人の星」のアニメの回想場面では、某年8月10日、左門が炎天下の球場で阪神・中日戦を視察し、星野仙(一)投手はサイン交換のときに球種の癖が出ると書いています。

これは'75年、大洋が川崎球場で巨人に勝って長嶋Gの最下位が決定した日の晩が舞台でした。

左門が研究したのは1969年辺りから1975年までの間でしょう。

さかのぼって'69年、中秋の名月が見えたらしい9月14日は、まず、中日球場で中日・アトムズ戦。
オズマが27号(おそらくこの年、日本プロ球界での通算)本塁打を放って中日は四年ぶり10連勝。

アナウンサーは「ホームラン・ダービーでトップを行く王とは10本の差があるとはいえ、アトムズのロバーツとともに猛進撃をかけるオズマ」。

同じころ、東京・後楽園球場(おそらく巨人・大洋戦)で「勝利投手・渡辺、敗戦投手・平松、2対1で巨人の勝利」とアナウンスされて客が去っていきました。

廣島○―●阪神(時間は昼か夜か、場所は廣島か甲子園か不明)
中日○―●アトムズ(夜間で、場所は中日球場)
巨人○―●大洋(夜間、投手は勝・渡辺←→敗・平松、後楽園球場)

ベンチに戻る巨人軍選手が川上に「監督!きょう二位の阪神さんが広島さんに負けてくれたので、これで六ゲーム差、どうやら独走態勢ですな」。
これに対し川上監督は「いやいや、まだなんともいえん、勝つには勝っても、きょうのゲームにせよ内容がよくない」。

飛雄馬は一箇月前、監督からの登板命令にさからって二軍落ちしたあと、この日の晩に「姉ちゃんが家出をした」という私的な理由でベンチに押しかけ(両眼に包帯をした伴も同伴)、大LB2号を披露しました。

ONのことばによると、当時、アトムズの監督は別所氏だったようです。
アトムズはのちに'70年以降、眉月光を迎え、ヤクルトSとして'77年に花形満を迎えます。

飛雄馬は通勤時間を自分で勝手に変えるフリー・アルバイターのような選手で、それも「栄光の巨人軍」だから、飛雄馬のサボり癖も余り影響しなかったのでしょう。

球団側は左腕時代の飛雄馬をいつ一軍で使えるのか予測できず、ローテーションの面で苦労したと想われます。
右腕時代の飛雄馬はその点、相当、改善されています。

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中日ドラゴンズ  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時02分57秒 返信・引用 編集済
  中日ドラゴンズ(訂正)  2007/ 3/24 11:05 [ No.66 / 433 ]
中日ドラゴンズ(追加)  2007/ 4/ 4 9:19 [ No.103 / 433 ]
中日ドラゴンズII  2007/ 4/22 20:36 [ No.121 / 433 ]

1969年
水原茂が監督に就任。
星一徹がコーチに就任し、カーディナルスのA・オズマを獲得(1年借り受けるという条件)。
前年にドラフト1位指名した星野仙一がこの年入団。

オズマの一軍デビュー戦で巨人の城之内から連打。
オズマは堀内、金田をKOし、星飛雄馬の大LB1号を満塁本塁打。
飛雄馬はオールスター辞退。
オズマの猛打で中日は一時、昇り竜の如し。
9/14夜、中日球場でオズマは27号本塁打を放ち、球団はアトムズに勝利。試合後、一徹とオズマは明子と面会。彼女の言葉から大LB2号が「消える魔球」だと判明。
同時期、後楽園では飛雄馬が川上監督相手に「消える魔球」披露。
魔球は一徹の予想以上で、敗れたオズマはスランプにおちいる。

1970年
オズマ帰国にともない、中日は伴宙太を巨人から獲得。
一徹は「中日優勝のためなら大LB2号も3号も4号も叩く」と宣言。
ただ、伴は代打要員で正捕手は木俣。

伴は高木守道の代打で大LB2号を打つが「慟哭のブロックサイン」の結果、投飛→1塁併殺。
金田「豪打・高木守道に代わって補欠をピンチヒッターにするとは、わしはもう頭がおかしゅうなったわい」。

東京でのオールスター「屈辱の"夢の球宴"」に伴は出場せず、一徹と客席で観戦。

次の大阪での球宴で飛雄馬は大LB3号を開發。

伴は対廣島戦で本塁打を打つなど、一時代打成功率6割強。アナウンサー「来季は正捕手争いで木俣も油断禁物」。

巨人・中日戦で伴は木俣の代打で出るが、大根切りで三振。
解説者「木俣ほどの打者を代える必要があるのでしょうか」。

最後の巨・中戦では原作は中日球場でアニメでは後楽園球場。
最終回の代打が伴で、1塁アウト。飛雄馬が完全試合。
原作では判定が揺れ、水原監督は代走を宣言するが、一徹は負けを認める。
飛雄馬は左腕を破壊して失踪。

シーズン終了後、「星飛雄馬の去った球界に用なし」ということで、星一徹と伴宙太が退団。

1972年
与那嶺要が監督に。大砲万作が巨人の番場蛮と対戦。

1973年
アニメ「侍G」で中日の大砲万作が番場蛮のハイジャンプ魔球を打倒。

1974年
中日セVで巨人連覇ならず。
「おれは長島だ」では中日Vでメッツ最下位。
「北の狼南の虎」と「白球七五三」ではメッツ優勝。
「侍G」最終回は巨人・中日戦で、大砲は分身魔球を阪神。
番場蛮は勝利するもマウンドで急死。
(1974年ごろ)
高木守道、谷木、井上がメッツの立花薫を連打。6回表、立花は初めて夜8時以降も試合を続け、谷沢を三振に打ち取る。

1975年
大洋の左門が伴に「左門メモ」を貸す。
このメモで"ビッグ"ビルサンダーが星野仙(一)のナックル、外木場のシュート、阪神・古沢とヤクルト・松岡のスライダーを再現して、飛雄馬の打撃練習に役立てる。
アニメ「新巨」ではこのメモの夏のデータで「阪神・中日戦での星野仙(一)投手はサイン交換時に球種の癖が出る」とある。左門がこのデータを記録したのは'69~'75年と想われる。

1976年
巨人OB星飛雄馬がテスト生として古巣・巨人に復帰。
"ビッグ"ビル・サンダーが阪神コーチに。記者は伴宙太を「元中日」と紹介。
与那嶺要の指示で中日の高木が飛雄馬のスクリュースピン・スライディングに対しアメリカ式のディフェンスを試みるが、敗れる。

(1977年)
(元阪神の花形満がテスト生としてヤクルト入団)

1978年
与那嶺要が古巣・巨人に復帰。中日OBの星一徹と伴宙太も飛雄馬に協力。飛雄馬は大LB右1号をヤクルトの花形に打たれた後、同じ魔球で中日に勝利。結果、順位が上がったヤクルトが優勝。

1982年
星野仙一の公式戦現役最終年。
中日セVで、「1リットルの涙」によると、木藤亜也氏の入院していた愛知県知立(ちりゅう)市の秋田病院で赤飯と茶碗蒸しが出たらしい。

1989年
童夢くんが落合博満と対戦。
http://www.woodstream.gr.jp/talk/2000/dome_kun.htm

1991年
巨・中戦で藤田Gが番場(番場蛮の甥)を投手として起用し、落合を三振に打ち取る。

1995年
クリーン・ハイスクールの影丸隼人が中日に入団。2004年から四国アイアンドッグスに移籍。

66
103
121

トップ > エンターテインメント > コミックとアニメーション > 漫画、コミック > 作品 >  少年マンガ > 巨人の星&ドカベン
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梶原・水原野球漫画における中日D  2007/ 3/20 9:43 [ No.851 / 851 ]

851前後一覧
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1969年9/14中日・アトムズ戦

1969年中日ドラゴンズ

中日ドラゴンズ(追加)

中日ドラゴンズII

星飛雄馬と中村紀洋
  
1969年中日ドラゴンズ  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時18分4秒 返信・引用 編集済
  1969年中日ドラゴンズ  2007/ 4/ 7 18:16 [ No.2798 / 2798 ]

「巨人の星」文庫版8巻前半(元の単行本では13巻)の「見えないスイング」と「あやうし! 大リーグボール」より。
いずれも対巨人戦での中日のメンバーで、両方とも中日の勝利。

監督は水原茂。

(1)A・オズマ日本移籍後、巨×中戦に初出場した試合(後楽園球場)

星飛雄馬と番宙太は客席で観戦。

星一徹がノックした当時の中日守備陣
(打順とは関係なし)

島谷(内野、背番号30)
一枝(内野)
高木(内野、背番号1)
フォックス(内野、1塁のように見える)
江藤(外野)
中(外野)
オズマ(外野、ライト、背番号130)
木俣(捕手)

投手は小野。

A・オズマはカーディナルスで背番号13だったが、移籍当時の中日に背番号13の小川健太郎投手がおり、オズマの背番号は10倍の130になった。
--------------------------------------
(2)オズマが星飛雄馬の大LB1号を本塁打した試合(中日球場)

巨×中3連戦の初日らしい。

中日のスターティングメンバー
(数字は守備位置)

6一枝
4高木
9オズマ
(以下不明)

投手は星野仙一(完投したか否か不明)。

のちに大洋の左門が星野仙一のフォーム、球種を研究して「左門メモ」に記入。

2798
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1969年「巨人の星」巨人×中日戦2つ  2007/ 4/ 6 12:46 [ No.106 / 106 ]

「巨人の星」
文庫版8巻(元の単行本で13巻)
「見えないスイング」

1969年
巨人×中日戦
(A・オズマ中日移籍後一軍デビュー戦)

両軍監督
G 川上哲治
D 水原茂

場所
後楽園球場、観客5万

↓星一徹がノックした当時の中日守備陣(打順とは無関係)
島谷(内野、背番号30)
一枝(内野)
高木(内野、背番号1?)
フォックス(内野、1塁?)
江藤(外野)
中(外野)
オズマ(外野、ライト、背番号130)
木俣(捕手)

龍打線の打順では4番江藤、5番オズマ。

投手(名前が分かっている者のみ)
G 城之内→高橋一三
D 小野(→完投?)
当時、中日には他に小川健太郎投手がいて背番号13だったので、A・オズマの背番号はカーディナルス時代の13から130になった。

結果
○中日020020000 計4
●巨人000001010 計2
2回表、D4番江藤が城之内から三遊間を破って1塁打。5番オズマの打球がライトスタンドの一観客の顔面を直撃。
5回表、オズマは驚異の選球眼でカウント0S-1Bとし、2球目を場外へ。
その後、城之内は降板し、救援・高橋一三はオズマを2打席敬遠。
--------------------------------------------------------
1969年
巨人×中日戦
(A・オズマが星の大LB1号をホームランした試合)
「あやうし! 大リーグボール」の後半

巨人×中日3連戦の初日。
中日は2位。

監督
G 川上
D 水原

場所
中日球場

投手
G 堀内→金田→田中→星(対オズマのみ)→?
D 星野仙一(→完投?)

飛雄馬が川上監督に「俺の名を書かんでください」と言って先發辞退。

巨人(左の数字は守備位置)
7 高田
6 黒江
3 王
5 長嶋
8 柴田
9 国松
2 森
4 土井
1 堀内

中日
6 一枝
4 高木
9 オズマ
(以下不明)
中日は星の先發を予想してオズマを3番に上げていた。

結果
●巨人0・・・
○中日・・・・
1回表、巨人3者凡退。
1回裏、一枝と高木守道が凡退し、2死でオズマが堀内からカウント0S-2Bの後、3球目(堀内の帽子が横を向いた)を強打。流星ライナーが左中間突破、外野フェンス直撃でクッションボールを柴田と高田が捕れず、長嶋の指示でショートの黒江が処理し、結果は三塁打。
4回裏、オズマが金田の下手投げの遅球を場外へ。
6回裏、6-1で中日リード、二死満塁でオズマの打席に救援・星→カウント0S-3B→オズマが4球目を本塁打。星降板。

106
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中日ドラゴンズ(追加) 2007/ 4/ 4 9:19 [ No.103 / 433 ]  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時24分51秒 返信・引用 編集済
  1969年
水原茂が監督に就任。
星一徹がコーチに就任し、カーディナルスのA・オズマを獲得(1年借り受けるという条件)。
前年にドラフト1位指名した星野仙一がこの年入団。

オズマの一軍デビュー戦で巨人の城之内から連打。
オズマは堀内、金田をKOし、星飛雄馬の大LB1号を満塁本塁打。
飛雄馬はオールスター辞退。
オズマの猛打で中日は一時、昇り竜の如し。
9/14夜、中日球場でオズマは27号本塁打を放ち、球団はアトムズに勝利。試合後、一徹とオズマは明子と面会。彼女の言葉から大LB2号が「消える魔球」だと判明。
同時期、後楽園では飛雄馬が川上監督相手に「消える魔球」披露。
魔球は一徹の予想以上で、敗れたオズマはスランプにおちいる。

1970年
オズマ帰国にともない、中日は伴宙太を巨人から獲得。
一徹は「中日優勝のためなら大LB2号も3号も4号も叩く」と宣言。
ただ、伴は代打要員で正捕手は木俣。

伴は高木守道の代打で大LB2号を打つが「慟哭のブロックサイン」の結果、投飛→1塁併殺。
金田「豪打・高木守道に代わって補欠をピンチヒッターにするとは、わしはもう頭がおかしゅうなったわい」。

東京でのオールスター「屈辱の"夢の球宴"」に伴は出場せず、一徹と客席で観戦。

次の大阪での球宴で飛雄馬は大LB3号を開發。

伴は対廣島戦で本塁打を打つなど、一時代打成功率6割強。アナウンサー「来季は正捕手争いで木俣も油断禁物」。

巨人・中日戦で伴は木俣の代打で出るが、大根切りで三振。
解説者「木俣ほどの打者を代える必要があるのでしょうか」。

最後の巨・中戦では原作は中日球場でアニメでは後楽園球場。
最終回の代打が伴で、1塁アウト。飛雄馬が完全試合。
原作では判定が揺れ、水原監督は代走を宣言するが、一徹は負けを認める。
飛雄馬は左腕を破壊して失踪。

シーズン終了後、「星飛雄馬の去った球界に用なし」ということで、星一徹と伴宙太が退団。

1972年
与那嶺要が監督に。大砲万作が巨人の番場蛮と対戦。

1973年
アニメ「侍G」で中日の大砲万作が番場蛮のハイジャンプ魔球を打倒。

1974年
中日セVで巨人連覇ならず。
「おれは長島だ」では中日Vでメッツ最下位。
「北の狼南の虎」と「白球七五三」ではメッツ優勝。
「侍G」最終回は巨人・中日戦で、大砲は分身魔球を阪神。
番場蛮は勝利するもマウンドで急死。
(1974年ごろ)
高木守道、谷木、井上がメッツの立花薫を連打。6回表、立花は初めて夜8時以降も試合を続け、谷沢を三振に打ち取る。

1975年
大洋の左門が伴に「左門メモ」を貸す。
このメモで"ビッグ"ビルサンダーが星野仙(一)のナックル、外木場のシュート、阪神・古沢とヤクルト・松岡のスライダーを再現して、飛雄馬の打撃練習に役立てる。
アニメ「新巨」ではこのメモの夏のデータで「阪神・中日戦での星野仙(一)投手はサイン交換時に球種の癖が出る」とある。左門がこのデータを記録したのは'69~'75年と想われる。

1976年
巨人OB星飛雄馬がテスト生として古巣・巨人に復帰。
"ビッグ"ビル・サンダーが阪神コーチに。記者は伴宙太を「元中日」と紹介。
与那嶺要の指示で中日の高木が飛雄馬のスクリュースピン・スライディングに対しアメリカ式のディフェンスを試みるが、敗れる。

(1977年)
(元阪神の花形満がテスト生としてヤクルト入団)

1978年
与那嶺要が古巣・巨人に復帰。中日OBの星一徹と伴宙太も飛雄馬に協力。飛雄馬は大LB右1号をヤクルトの花形に打たれた後、同じ魔球で中日に勝利。結果、順位が上がったヤクルトが優勝。

1982年
星野仙一の公式戦現役最終年。落合博満が初の三冠王。
中日セVで、「1リットルの涙」によると、木藤亜也氏の入院していた愛知県知立(ちりゅう)市の秋田病院で赤飯と茶碗蒸しが出たらしい。

1989年
童夢くんが落合博満と対戦。

http://www.woodstream.gr.jp/talk/2000/dome_kun.htm

1991年
巨・中戦で藤田Gが番場(番場蛮の甥)を投手として起用し、落合を三振に打ち取る。

1995年
クリーン・ハイスクールの影丸隼人が中日に入団。2004年から四国アイアンドッグスに移籍。

103←Yahoo!掲示板  

中日ドラゴンズII  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時26分15秒 返信・引用 編集済
  中日ドラゴンズII  2007/ 4/22 20:36 [ No.121 / 433 ]

1969年
水原茂が監督に就任。
星一徹がコーチに就任し、カーディナルスのA・オズマを獲得(1年借り受けるという条件)。
前年にドラフト1位指名した星野仙一がこの年入団。

オズマの一軍デビュー戦で巨人の城之内から連打。
オズマは堀内、金田をKOし、星飛雄馬の大LB1号を満塁本塁打。
飛雄馬はオールスター辞退。
オズマの猛打で中日は一時、昇り竜の如し。
9/14夜、中日球場でオズマは27号本塁打を放ち、球団はアトムズに勝利。試合後、一徹とオズマは明子と面会。彼女の言葉から大LB2号が「消える魔球」だと判明。
同時期、後楽園では飛雄馬が川上監督相手に「消える魔球」披露。
魔球は一徹の予想以上で、敗れたオズマはスランプにおちいる。

1970年
オズマ帰国にともない、中日は伴宙太を巨人から獲得。
一徹は「中日優勝のためなら大LB2号も3号も4号も叩く」と宣言。
ただ、伴は代打要員で正捕手は木俣。

伴は高木守道の代打で大LB2号を打つが「慟哭のブロックサイン」の結果、投飛→1塁併殺。
金田「豪打・高木守道に代わって補欠をピンチヒッターにするとは、わしはもう頭がおかしゅうなったわい」。

東京でのオールスター「屈辱の"夢の球宴"」に伴は出場せず、一徹と客席で観戦。

次の大阪での球宴で飛雄馬は大LB3号を開發。

伴は対廣島戦で本塁打を打つなど、一時代打成功率6割強。アナウンサー「来季は正捕手争いで木俣も油断禁物」。

巨人・中日戦で伴は木俣の代打で出るが、大根切りで三振。
解説者「木俣ほどの打者を代える必要があるのでしょうか」。

最後の巨・中戦では原作は中日球場でアニメでは後楽園球場。
最終回の代打が伴で、1塁アウト。飛雄馬が完全試合。
原作では判定が揺れ、水原監督は代走を宣言するが、一徹は負けを認める。
飛雄馬は左腕を破壊して失踪。

シーズン終了後、「星飛雄馬の去った球界に用なし」ということで、星一徹と伴宙太が退団。

1972年
与那嶺要が監督に。大砲万作が巨人の番場蛮と対戦。

1973年
アニメ「侍G」で中日の大砲万作が番場蛮のハイジャンプ魔球を打倒。

1974年
中日セVで巨人連覇ならず。
「おれは長島だ」では中日Vでメッツ最下位。
「北の狼南の虎」と「白球七五三」ではメッツ優勝。
「侍G」最終回は巨人・中日戦で、大砲は分身魔球を阪神。
番場蛮は勝利するもマウンドで急死。
(1974年ごろ)
高木守道、谷木、井上がメッツの立花薫を連打。6回表、立花は初めて夜8時以降も試合を続け、谷沢を三振に打ち取る。

1975年
大洋の左門が伴に「左門メモ」を貸す。
このメモで"ビッグ"ビルサンダーが星野仙(一)のナックル、外木場のシュート、阪神・古沢とヤクルト・松岡のスライダーを再現して、飛雄馬の打撃練習に役立てる。
アニメ「新巨」ではこのメモの夏のデータで「阪神・中日戦での星野仙(一)投手はサイン交換時に球種の癖が出る」とある。左門がこのデータを記録したのは'69~'75年と想われる。

1976年
巨人OB星飛雄馬がテスト生として古巣・巨人に復帰。
"ビッグ"ビル・サンダーが阪神コーチに。記者は伴宙太を「元中日」と紹介。
与那嶺要の指示で中日の高木が飛雄馬のスクリュースピン・スライディングに対しアメリカ式のディフェンスを試みるが、敗れる。

(1977年)
(元阪神の花形満がテスト生としてヤクルト入団)

1978年
与那嶺要が古巣・巨人に復帰。中日OBの星一徹と伴宙太も飛雄馬に協力。飛雄馬は大LB右1号をヤクルトの花形に打たれた後、同じ魔球で中日に勝利。結果、順位が上がったヤクルトが優勝。

1982年
星野仙一の公式戦現役最終年。
中日セVで、「1リットルの涙」によると、木藤亜也氏の入院していた愛知県知立(ちりゅう)市の秋田病院で赤飯と茶碗蒸しが出たらしい。

1989年
童夢くんが落合博満と対戦。
http://www.woodstream.gr.jp/talk/2000/dome_kun.htm

1991年
巨・中戦で藤田Gが番場(番場蛮の甥)を投手として起用し、落合を三振に打ち取る。

1995年
クリーン・ハイスクールの影丸隼人が中日に入団。2004年から四国アイアンドッグスに移籍。

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星飛雄馬と中村紀洋 2007/ 3/30 19:39 [ No.86 / 433 ]  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時31分21秒 返信・引用 編集済
  星飛雄馬は甲子園の準優勝投手なのに川上ジャイアンツの一般公募テストを受けて巨人に入団し、1968年から70年まで3年間、エース級の投手として活躍しながら、5年の空白のあとで76年に長嶋巨人に復帰したときは、背番号のないテスト生として宮崎キャンプに参加させられました。

川上哲治も長嶋茂雄も星飛雄馬の実力をわかっていましたが、中村紀洋を見ているとこれは漫画ならではの話とは言えず、現実味を帯びてきます。

飛雄馬は2度とも故障経験者としてテストを受けており、特に左腕時代は、勝手な失踪や契約更改拒否の前歴がありました。

星飛雄馬は66年または67年の高校時代、甲子園の準決勝で利き手の親指を負傷し、ほとんど全力投球できない状態で決勝に登板しており、川上監督は飛雄馬の指が治ったかどうか入団テストで確認する必要がありました。

また、76年に右腕投手として復帰する前の飛雄馬は言うまでもなく、70年秋の対中日戦で左腕を破壊して、しかも勝手に失踪したあとで、飛雄馬の腕は治っていませんでした。

実力があっても負傷を経ている場合、球団としては実力をためす必要があります。

また星飛雄馬は左腕時代、契約更改拒否、さらに度重なる勝手な失踪や登板拒否の前例があり、監督の命令を無視するなどの前科がありました。
これでは選手の自己管理や協調性に問題があるとみなすのは当然でしょう。
右腕投手として復活したあとの飛雄馬はそのあたり、かなり改善されていました。

「巨人の星」の結末。
江川卓を迎えた79年のシーズン中、長嶋監督は飛雄馬に「コーチ就任要請」という形で内々に戦力外通告をしました。

同年夏、飛雄馬は大リーグボール養成ギプスを水木炎に譲り、彼の時代は終わりました。

翌80年、長嶋監督が辞めて王貞治が引退。原辰徳が入団して翌年から現役。
2年後の82年に落合博満が初の三冠王になりました。

落合監督も中村紀洋を拾う温情を見せながら、内容次第では冷酷に斬る可能性もあります。

86←Yahoo!掲示板
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横浜、大洋の歴史 2007/ 3/25 20:45 [ No.67 / 433 ]  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)10時34分11秒 返信・引用 編集済
  球団名、監督の在任期間はWikipediaから。

→大洋ホエールズ(1955年~1977年)

監督;別当薫(1968年-1972年【第1次】)

1967年秋ごろ
別当監督の大洋が左門豊作を獲得。背番号は「99」。

1968年
開幕時に左門が星飛雄馬の速球を本塁打。
その後大LB1号に倒れる。

1969年
オールスターで代打・左門が送りバントで花形を2塁に進める。
9月14日、後楽園巨人・大洋戦で巨人の勝ち。勝利投手は渡辺、敗戦投手は平松。
おそらくその次の巨人・大洋戦で左門が大LB2号と初対戦。左門は空振り、轉倒し交代。代打で背番号「66」ボーク事件。左門と花形は「消える魔球は水に弱い」と見抜く。

1970年
左門と花形が飛雄馬と後楽園球場で非公式に対決。左門はバットで土煙をなぎ拂い、ボールの変化を明らかにするが、伴が打撃妨害。伴は後頭部を負傷、出血するがすぐ完治。
左門は新宿で京子と遭遇。
オールスターで左門と花形が友情の三重殺、飛雄馬の危機を救う。
大洋は大LB3号と初対戦で長田(通称「ポパイ」)など連続三振。左門三塁ゴロ。唯一のヒットは投手・平松。最終打者左門が三振して試合終了。

おそらく1972年(アニメ版「侍G」)
秋ごろ、大洋のスカウトが土佐嵐高校時代の番場蛮の試合を視察するが、投手・番場はノーコンの押し出しで敗れる。

1971年初め
左門と京子が結婚。

1973年
メッツの岩田鉄五郎と「よれよれ大リーガー」の「ジョン・カスター」が対大洋戦で同点と逆轉の連続ホームインをし、メッツが勝利。それまでメッツは12連敗の後、さらに15連敗。

1974年ごろ?
大洋に海王神人が入団、松原の代打で阪神・江夏から満塁本塁打。大洋は最下位から浮上。メッツの岩田清志、千藤光も打たれ、岩田鉄五郎も海王から本塁打を3本打たれるが、4打席目で三振に打ち取る。
その後、海王の神がかり的な猛打は消え、3割を目指す普通の打者になったらしい。

対メッツ戦でメッツの立花(当時15歳)が江藤を相手にしながら夜8時で降板し、救援の火浦が打たれて、大洋が勝利。

1975年
左門の打撃で長島G最下位決定。伴が左門から「左門メモ」を借り受ける。
「左門メモ」にあったデータ。

中日・星野仙(一)のナックル。
廣島・外木場(義郎)のシュート。
阪神・古沢(憲司?)のスライダー。
ヤクルト・松岡(弘?)のスライダー。

"ビッグ"ビル・サンダーがこれらを再現し、飛雄馬の打撃練習に応用。

1976年
飛雄馬、打者として復帰。平松の球を打つが、左門の美技に阻まれる。
その後右腕投手となった星が左門と対決。

1977年
左門が飛雄馬の投球フォームの癖を見抜き、1人、飛雄馬を連打して勝利。左門と打力が近い田代(通称「オバQ」)は三振。
飛雄馬は二軍でフォームを改善し、左門をも打ち取って雪辱を果たす。

→横浜大洋ホエールズ(1978年~1992年)

1978年
大洋が横浜大洋になり、本据地が川崎球場から横浜球場になる。
左門が星飛雄馬の「蜃気楼の魔球」を強打、王貞治の美技に阻まれ、試合は横浜大洋が敗れる。

1989年ごろ
童夢くんのライバルで横浜大洋ホエールズのドードが登場。

→横浜ベイスターズ(1993年~)

1993年
球団名が「横浜ベイスターズ」に。

1995年
横浜学院の土門剛介が横浜ベイスターズに入団。2003年まで在籍。
→オールスターで土門が巨人の微笑三太郎とバッテリーを組む。土門いわく「やっと二年越しの夢がかなった」。しかし、実際は20年余りたっている。

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横浜、大洋の歴史II  2007/ 4/10 22:38 [ No.111 / 433 ]




→横浜大洋ホエールズ(1978年~1992年)

1978年
大洋が横浜大洋になり、本据地が川崎球場から横浜球場になる。
左門が星飛雄馬の「蜃気楼の魔球」を強打、王貞治の美技に阻まれ、試合は横浜大洋が敗れる。

1989年ごろ
童夢くんのライバルで横浜大洋ホエールズのドードが登場。

→横浜ベイスターズ(1993年~)

1993年
球団名が「横浜ベイスターズ」に。

1994年~
「ドカベンプロ編」で大魔神・佐々木主浩登場。

1995年
横浜学院の土門剛介が横浜ベイスターズに入団。2003年まで在籍。
→オールスターで土門が巨人の微笑三太郎とバッテリーを組む。土門いわく「やっと二年越しの夢がかなった」。しかし、実際は20年余りたっている。

2005年
佐々木主浩引退。

111
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横浜、大洋の歴史III  2007/ 4/14 0:36 [ No.112 / 433 ]



1973年
メッツの岩田鉄五郎と「よれよれ大リーガー」の「ジョン・カスター」が対大洋戦で同点と逆轉の連続ホームインをし、メッツが勝利。それまでメッツは12連敗の後、さらに15連敗。

秋のドラフトで東京メッツがTO砲を指名、阪急は江川卓を、大洋は山下大輔を指名。

1974年
大洋のルーキーが山下(大輔)。
大洋に海王神人が入団、松原の代打で阪神・江夏から満塁本塁打。
阪神の監督は金田正泰(在任期間73~74年)。
大洋は最下位から浮上。
メッツの岩田清志、千藤光も打たれ、岩田鉄五郎も海王から本塁打を3本打たれるが、4打席目で三振に打ち取る。
その後、海王の神がかり的な猛打は消え、3割を目指す普通の打者になったらしい。

1974年ごろ?
対メッツ戦でメッツの立花(当時15歳)が江藤を相手にしながら夜8時で降板し、救援の火浦が打たれて、大洋が勝利。
TO砲の唐部がメッツに在籍。
阪神の監督は金田正泰(在任期間73~74年)。


112←Yahoo!掲示板

近鉄と大洋、追加(1970年の流れ


5:『超空想ベースボール』など

2022-04-23 21:45:00 | teacup掲示板

/巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など - 41~50件目 (teacup.com)/

/『超空想ベースボール』など | 巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など | 47 (teacup.com)/

『超空想ベースボール』など  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 5月 2日(金)04時53分58秒 返信・引用 編集済
  主題歌、声優II

70年代アニソン四天王(水木一郎、佐々木功、子門真人、堀江美都子)が梶原、水島野球アニメでどういう歌を唱っているか。

梶原作品
「侍ジャイアンツ」唱;水木一郎(松本茂之名義)
「サムライ番場蛮」唱;水木一郎(〃)
「王者!侍ジャイアンツ」唱;子門真人
「行け行け飛雄馬」(「新巨人の星」)唱;佐々木功
「よみがえれ飛雄馬」(「新巨人の星」)唱;佐々木功
「心に汗を」(「新巨人の星II」)唱;水木一郎

子門真人は他の梶原作品でも「柔道讃歌」、「空手バカ一代」のOP主題歌を担当。
水木一郎は「タイガーマスク二世」の主題歌を担当。

水島作品
「野球狂の詩」スキャット;堀江美都子
「勇気のテーマ」唱;堀江美都子
「北の狼 南の虎」唱;水木一郎
「かあさんの灯」(「野球狂の詩」)唱;水木一郎
「栄光の彼方へ」(「野球狂の詩」)唱;水木一郎
「一球さん」唱;堀江美都子
「青春フィーバー(コンバット・マーチ)」(「ドカベン」)唱;コロムビアオールスターズ(水木一郎、佐々木功、堀江美都子、大杉久美子、かおりくみこ、こおろぎ'73)

梶原、水島野球アニメCD
超空想ベースボール
侍ジャイアンツ ミュージックファイル
水島新司の世界

「男どアホウ甲子園」の主題歌は「超空想ベースボール」というオムニバスCDで聴けます。
もともと、水木一郎の「心に汗を」('79年「新巨人の星II」OP)が目当てで買ったのですが、倉田まり子の歌('83年「真夏のランナー」)をCDで聴けたのは意外な収穫でした。「真夏のランナー」はあだち充「ナイン」の歌でした。

「真夏のランナー」というとマラソン選手を想い出しましたが、一応、野球選手も試合の中で「ランナー」になりますから、関係ないことはありません。

このCDでは、水島アニメ関連で言うと「ドカベン」、「男どアホウ甲子園」、「一球さん」、「野球狂の詩」の曲が入っています。
「野球狂の詩」は堀江美都子のOPのスキャット(♪「トゥトゥトゥ、ララララララ~」)と水原勇気編のEDだけで、水木一郎が唱った「北の狼南の虎」とその後のキャラクター編のEDなどは入っていません。

一方、「水島新司の世界」というCDでは「ドカベン」、「一球さん」、「野球狂の詩」のテーマソングが「超空想」より多く収録されており、「野球狂」の場合、堀江美都子歌唱の2曲だけでなく水木一郎の歌3曲も入っています。
しかし、タイトルが「水島新司の世界」と言いながら、「男どアホウ甲子園」の歌だけ収録されていないのが残念です。

'70年代の「アニ(メ)ソン(グ)四天王」(佐々木功、水木一郎、子門真人、堀江美都子)と梶原&水島野球アニメの関連をまとめますと、梶原&水島、両方にかかわっているのは佐々木功と水木一郎の2名。

「ドカベン」の後半の主題歌の中で、「コンバットマーチ」を主題歌風にアレンヂした「青春フィーバー」では佐々木、水木、堀江の3名が加わっています。大杉久美子、かおりくみこ、こおろぎ'73も参加していますが、子門真人は加わっていません。

水木一郎は梶原作品では「侍ジャイアンツ」、「サムライ番場蛮」、「心に汗を」、水島作品では「野球狂」、「ドカベン」関連の曲を唱っています。

子門真人は「王者!侍ジャイアンツ」を唱っており、あるいは野球以外の梶原作品(「空手バカ一代」、「柔道讃歌」)で主題歌を担当しています。
「空想」では「侍G」の歌は前半の水木一郎と後半のローヤルナイツ(orロイヤル~)のOP2曲のみ。
「侍ジャイアンツ・ミュージックファイル」では子門真人版と、水木とローヤルナイツのED計2曲も聴けますが、ローヤルナイツの「王者!~」のみフルコーラス収録されている以外は、テレビ用の短縮ヴァージョンになっています。

堀江美都子は梶原作品には縁が薄いようで、水島作品(「野球狂の詩」、「一球さん」、「ドカベン」)で唱っています。  
  

 

80年代JPOPアーティストベスト20  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 5月11日(日)02時48分52秒 返信・引用 編集済
  80年代JPOPアーティストベスト20  2008/ 5/11 2:46 [ No.4128 / 4128 ]

深夜にたまたま、つけたテレビで『スマステ!!』(テレビ朝日2008年5月10日~11日)を観たら、J-POPで80年代にヒットした歌手、グループのベスト20をやっていて、私は爆風スランプのあたりから見始めました。
www.tv-asahi.co.jp/ss/
スタヂオで観ていた香取慎吾と友近も1位のBOΦWYが終わったあたりで、「終わっちゃった」という感じで物足りなさそうでした。
プリプリが入ってSHOW-YAがないことを友近が指摘していました。
また、サザンオールスターズはどうしたとも言いたくなります。桑田佳祐は86年のクワタバンドのときからゴダイゴの Tommy Snyder に英語作詞を頼むようになりましたが、その前は英語に関して小林克也から助言を得ていたようです。
しかし、それだけの80年代はヒット曲を飛ばした歌手の宝庫でした。
視聴者からのメールではC-C-Bのファンもいて、それによると、学校でC-C-B派とチェッカーズ派で分かれていた話もありました。
ランキングを観ると70年代にデビューした人たち、90年代にもヒットを飛ばした人たちが結構、いますね。

1 BOΦWY→氷室と布袋のソロ、COMPLEXも紹介。
2 オフコース(Off Course)
3 レベッカ(REBECCA)
4 チェッカーズ(THE CHECKERS)
5 渡辺美里(WATANABE Misato)
6 THE BLUE HEARTS→「リンダ リンダ」と「TRAIN-TRAIN」がかかった。
7 プリンセス・プリンセス(PRINCESS PRINCESS)
8 TM NETWORK→他局ながら「シティーハンター」の映像つき。
9 尾崎豊(OZAKI Yutaka)→「15の夜」のライブ映像。
10 米米クラブ(Kome Kome Club)
11 徳永英明(TOKUNAGA Hideaki)
12 YMO(Yellow Magic Orchestra)
13 浜田省吾(Hamada Shogo)
14 RCサクセション(RC SUCCESSION)
15 DREAMS COME TRUE
16 爆風スランプ(BAKUFU-SLUMP)
17 ユニコーン(UNICORN)
18 佐野元春(SANO Motoharu)
19 松任谷由実(MATSUTOYA Yumi,Yuming)
20 BARBEE BOYS

小林克也の個人的セレクション。
♪ 矢沢永吉(YAZAWA Eikichi,E.YAZAWA)
♪ X Japan
♪ 安全地帯(Anzen Chitai,Safety Zone)
♪ 久保田利伸(Kubota Toshinobu,Toshi Kubota)
♪ 井上陽水(Inoue Yosui)
♪ 一世風靡セピア(Isseifubi Sepia)
♪ TOM★CAT(番組ではTOM☆CAT)
♪ 吉川晃司(Kikkawa Koji)

同じ内容
http://blogs.yahoo.co.jp/starr_pegasus_of_the_giants/8019304.html

トップ > 生活と文化 > 年齢、世代 >  全般 > ■昭和が懐かしい■
一覧
==================================================================
80年代JPOPアーティスト  2008/ 5/12 0:10 [ No.4130 / 4130 ]

よく考えたら、このランキングにはアルフィーが入っていない。
アル中(=アルフィー中毒)の皆さんには少し不満かも。

http://blogs.yahoo.co.jp/starr_pegasus_of_the_giants/8019304.html  
「巨人の星」名所めぐり 2007/ 3/17 12:28 [ No.55 / 433 ]  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 4日(金)22時05分38秒 返信・引用 編集済
 

「巨人の星」名所めぐり(一部の施設は今、存在しない)

関東
隅田川公園(1958年、飛雄馬と王貞治、花形満の初対決)
多摩川グラウンド(1967~70年、1976~79年、飛雄馬G現役)
多摩川の釣り堀(1968年日本シリーズ、飛雄馬と伴が門限破り)
後楽園球場
神宮球場
羽田空港
東京タワー近く(1969年、飛雄馬と明子が引っ越したクラウンマンション、明子が花形と出逢ったガソリンスタンドの所在地)
新宿(1970年、京子と竜巻グループがいたところ)

追加:泪橋

九十九里浜(1970年初め、左門が消える魔球打倒練習。星一徹が目撃)
川崎
1. 川崎球場(1967年、左門豊作が大洋W入団)
2. 川崎の某教会(1970年初め、左門と京子の結婚式)
横浜
1.横浜シーサイド(1966年→途中で'67年に変更、青雲と紅洋の試合で花形と飛雄馬の高校初対決。日没引き分けで左門豊作乱入)
2.横浜球場(1978年、左門の所属する大洋は「横浜大洋」になって横浜球場が本据地に。上記「横浜シーサイド」と同じか違うか、私にはわかりません)
鎌倉(1968年、二軍落ちした飛雄馬が仕事をさぼって座禅)

東海
中日球場(1970年後半、原作の左腕・飛雄馬の最後の試合→アニメでは後楽園)

関西
阪神甲子園球場
大阪球場(1970年オールスター、大LB3号初披露)
大阪道頓堀界隈(1970年オールスター直後、花形が明子を乗せてドライブ)
六甲山(1970年初め、花形が消える魔球打倒練習。星一徹が目撃)

九州
宮崎県営球場(巨人宮崎キャンプ地)
宮崎市営球場(〃)
http://www.ryukke.com/giants/camp-list.htm
日南海岸(1969年宮崎キャンプ期間、飛雄馬と日高美奈の想い出の地。1973年、飛雄馬が日向三高野球部と出逢う)
都城(1969年、日高美奈が山奥の診療所で病死した当日、飛雄馬二軍戦登板)

海外
台湾(1968年台湾キャンプ、飛雄馬が大LB1号のヒントをつかんだ→同じころ、伴は宮崎キャンプ)
ハワイ(1967年後半、花形、左門、伴が日本の高校球児代表として日米の試合に参加。次に1978年初め、飛雄馬と伴、一徹が大LB右1号開發のための練習、飛雄馬は現地の人に江川と間違えられる。与那嶺要が目撃)

----------------------------------------------------
団塊のONファンを相手にどこかの会社が国内ツアーでこういうのを企画しませんかね。
宮崎県のPRにもなりますし。

長嶋が学生服姿で背番号3のユニフォームを手にしたのは、「巨人の星」では1958年でしたが、実際は1957年12月のようで東京会館(東京・日比谷)だったようです。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/mister/fe_mi_06062201.htm

飛雄馬が'68年初めにこもった奥多摩の山は、昔、山伏が修行し、飛雄馬が通っていた都心か下町の中学で遠足に行ったところですから、高尾山でしょうか。
飛雄馬と伴が遭遇したスキーヤーいわく「ふもとのO市の高校で野球のエースだった」とのこと。
すると「奥多摩町(市でなく町ですが)」か「青梅(おうめ)市」になります。
/一般社団法人奥多摩観光協会 奥多摩町観光案内所 (okutama.gr.jp)/
飛雄馬が降りた駅は雰圍気からいって古里驛、鳩ノ巣驛、奥多摩驛(1944年から1970年まで氷川=ひかわ驛)でしょうか?
鳩ノ巣からだと御岳(みたけ)山になります。

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55

 
梶原野球漫画における球団  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時32分54秒 返信・引用 編集済
  梶原野球漫画における球団 I 2007/ 3/13 13:19 [ No.51 / 433 ]
梶原野球漫画における球団 II 2007/ 3/13 13:20 [ No.52 / 433 ]
梶原野球漫画における球団 III 2007/ 3/13 13:21 [ No.53 / 433 ]
梶原野球漫画における球団(まとめ) 2007/ 3/13 13:21 [ No.54 / 433 ]
『侍ジャイアンツ』におけるライバル球団 2008/ 4/ 6 18:31 [ No.407 / 433 ]
梶原野球漫画におけるライバル球団 2008/ 4/16 6:25 [ No.408 / 433 ]

梶原一騎は「巨人の星」で親子または師弟の絆と人間の成長を描こうと考えていたらしく、「柔道一直線」や「柔道讃歌」、「あしたのジョー」がその流れになる。
「巨人」、「野球」はあとでついてきたものらしい。

Wikipediaによると梶原氏は主役の球団として巨人でなく中日を考えて、断られたという説があるらしい(真偽不明)。

「巨人の星」左腕編の連載時期は'66~'71年。
左腕投手・星飛雄馬のG在籍期間は'67~'70年で川上G絶頂期。
星飛雄馬は一徹により洗脳され、「栄光の巨人軍」を目指して血のにじむ努力をした。

「巨人の星」の '68年では、花形が入った阪神と左門の入った大洋がライバルとして主流。中日は後半で重みを増す。

'69年、水原茂が監督となった中日で星一徹がコーチ就任、A・オズマ獲得。
川上監督のもと、ピッチング・コーチは藤田元司で、日高美奈を失った飛雄馬の大LB1号自滅と復活に対し、川上は冷静だったが、藤田コーチは素直に一喜一憂していた。
伴は花形との2度の会食で「黒い霧、八百長」をしきりに警戒していた。

'70年オズマ帰国。
一徹は伴獲得の理由として「中日Vのためには大LB2号も3号も4号も叩く」と宣言。
この辺りから、話は飛雄馬と一徹・伴コンビの対決に重点が移る。
左門も花形も2号攻略は細かく描かれたものの、大LB3号とは原作では1回づつ対戦して敗退。

伴は3号には敗れたものの、対戦が2回描かれ、最終回は巨・中戦。
'70年川上GV6で、一徹は中日Vを実現しないまま、伴とともに退団。

番場蛮が巨人に入団。

(続く)


'72年に与那嶺要が中日監督に就任。
「侍ジャイアンツ」では番場蛮のライバルとして大砲万作が登場。
大洋の左門をモデルにした選手だが、球団は一徹、A・オズマ、伴と同じ中日。
阪神の花形をモデルにした眉月はヤクルトに入団。
代わりに阪神にはウルフ・チーフが入団。

番場蛮は巨人嫌いだったが最後は巨人のために命をかけた。
'74年、巨人は連覇を逃し中日セV.
星一徹が言った「中日Vの悲願」は彼が球界を去って4年後に実現した。
最後の年、番場蛮にとって「強くて威張っている奴」は中日など他球団だったのかも知れない。

'75年、飛雄馬は一徹の教えから離れ、最下位の長嶋Gを救うため、以前と逆の理由でG復帰を目指す。
阪神では掛布が花形に代わって飛雄馬と戦い、ライバルの「虎」としてロメオ南条が登場。
阪神OBの花形は眉月と同じヤクルトに入団。

伴は巨人OBなのに、同じく巨人OBの星一徹や長嶋茂雄と一緒のときも「中日OB」と呼ばれた。
しかし、飛雄馬が右腕投手として復帰すると、一徹と伴は完全に「巨人OB」に戻り、中日への想い入れはほとんどなくなったようであった。

'78年、与那嶺要が古巣・巨人に指導者として復帰。
飛雄馬の「蜃気楼の魔球」が花形と左門に打たれる。

(続く)


「侍G」と「新巨人の星」には共通点が多いが、その一つは「侍G」(終)の舞台'74年と「新巨」(終)の舞台'78年では、現実の巨人軍がVを逃し、最終回に影響したこと。
アニメでそこを修正し、原作と違う結末になったことである。
球界の勢力の変化が梶原野球漫画に影響を与えた。

「侍G」原作の最後は1974年、番場が中日相手に勝利しながら絶命。
番場蛮を失った巨人はV逸。
「侍G」のアニメでは川上V9の1973年が舞台で、番場蛮は日米対決でも勝利。

「新巨」の最後で星の「蜃気楼の魔球」はヤクルトの花形に打たれる。
長嶋はヤクルト以外のセの他球団に星を引き続いて起用し勝ち続ける。
しかし漁夫の利を得たヤクルトがペナントレース(勝率争い)で浮上。
原作はここで終わり。
アニメ「新巨II」(終)では花形が蜃気楼ボールを打った後に身体を壊して引退し、史実に反して巨人が優勝し日本シリーズでも優勝。

1979年、江川卓入団を迎えた長嶋Gの練習に水木炎が乱入。長嶋は星飛雄馬にコーチ就任を要請する形で戦力外通告。

1980年、王貞治が引退。長嶋茂雄が辞任。原辰徳がG入団。原辰徳は飛雄馬が長嶋に魔送球を投げつけ、王と対戦した1958年の生まれ。
1981年、藤田Gで原辰徳現役開始。
1982年、星野仙一の現役最終年で中日セVを実現。

1987年、梶原一騎没。
1991年、井上コオ作「よみがえれ侍」で藤田Gが対中日戦に番場蛮の甥を起用。

梶原漫画「巨人の星」(「新巨」と「巨人のサムライ炎」を含む)と「侍G」(「よみがえれ侍」を含む)主役&ライバル所属球団

○讀賣→星一徹、星飛雄馬、伴宙太、速水譲次、番場蛮、八幡太平、水木炎、番場(甥)
→注;水島漫画では微笑三太郎が入団
○阪神→花形満、ウルフ・チーフ、ロメオ南条
→注;実在の選手では田淵、掛布も活躍
○大洋→左門豊作
○中日→星一徹、A・オズマ、伴宙太、大砲万作
○ヤクルト→眉月光、花形満
○廣島
注1;アニメ「新巨」で実在の選手・衣笠、外木場、山本浩二が活躍
注2;水島漫画では「野球狂の詩」で武藤兵吉が'76年の廣島で活躍
○パ・リーグ
注2;阪急=現・オリックスが日本シリーズの強敵として度々登場し飛雄馬に挑戦、ホークス・野村克也とロッテ・アルトマンが星飛雄馬の大LB2号を安打、野村は番場蛮の「ハラキリ・シュート」の弱点をつく
注2;水島漫画では主要キャラクターが多数、パ・リーグに入団

『侍ジャイアンツ』では巨人以外のセ・リーグ5球団すべてにライバルがいた。

セ・リーグ
阪神――ウルフ・チーフ、太刀風兵庫
中日――大砲万作
廣島――明智学
ヤクルト――眉月光
大洋―ジャンボ不二立彦

パ・リーグでは金田正一、野村克也、張本勲など実在の監督や選手が番場蛮に挑戦した。

大リーグ
アスレチックス――ジャックス

カージナルスやNYヤンキース?――マイケル・ブラウン

?――死神ゴスマン

 

『巨人の星』&『侍ジャイアンツ』の主人公&仲間&ライバル球団
巨人――星一徹、星飛雄馬、伴宙太、速水譲次、番場蛮、八幡太郎平、水木炎、番場の甥
阪神――花形満、ウルフ・チーフ、太刀風兵庫、ポポ、ロメオ・南条、難波爽
中日――A・オズマ、星一徹(コーチ)、伴宙太、大砲万作
廣島――明智学、馬耳念仏朗
ヤクルト――眉月光、花形満
大洋――左門豊作、ジャンボ不二立彦

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梶原野球漫画で描いた野球史  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時34分42秒 返信・引用 編集済
 

梶原野球漫画で描いた野球史 2007/ 3/21 11:20 [ No.60 / 433 ]

(1920年代)
1920|川上哲治誕生。星一徹も恐らく同い年
……|
(1940年代、"終戦"前)
1942|星一徹G入団
1943|星明子誕生
……|
(1940年代、終戦後)
1948|星一徹G復帰→川上から魔送球を批判され引退
1949年頃、伴宙太、花形満、左門豊作誕生
……|
(1950年代)
1951年頃、星飛雄馬誕生
1954年頃、番場蛮誕生
1958|長嶋茂雄G入団。飛雄馬が長嶋に魔送球を投げつける
――|飛雄馬が王貞治、花形満と対決
1959|王貞治G入団
……|
(1960年代)
1967|左腕・星飛雄馬G入団(~70)。入団テストに堀内登場
――|花形が阪神に、左門が大洋(現・横浜)に入団
1968|9/18巨人vs阪神戦で大乱闘。花形が大LB1号を本塁打
1969|大LB1号自滅→復活→オズマに打たれる
――|飛雄馬が大LB2号(消える魔球)を開發
――|金田正一が引退(記者会見で星と伴が受付担当)
……|
(1970年代)
1970|オズマ帰国。伴が中日に移籍
――|花形が大LB2号打倒。飛雄馬は3号を開發。
――|星、完全試合達成後、失踪
――|花形が引退し、一徹と伴も中日を退団
――|番場蛮G入団(~74)
1971|年初、左門と京子が結婚。番場初登板
1972|番場蛮、「ハイジャンプ魔球」を開發
1973|飛雄馬が宮崎の日向三高野球部を臨時コーチ
――|長嶋2000試合出場
――|番場が「大回転魔球」と「ハラキリシュート」を開發
――|巨人V9で番場蛮が胴上げ投手に
――|番場が「分身魔球」を開發し、ミラクルボールでジャックスを打ち取る
――|(アニメ「侍G」最終回)
1974|番場蛮、「分身魔球」開發(原作「侍G」)
――|番場蛮、試合後急死(原作「侍G」最終回)。中日セV
1975|長嶋G最下位。飛雄馬が花形、明子、伴と再会
1976|右腕・星飛雄馬G復帰(~79)。76,77年の日本一は阪急
1977|花形ヤクルトに入団。9/3王貞治756号本塁打
1978|飛雄馬が大LB右1号(蜃気楼の魔球)を開發
――|右1号が花形と左門に打たれる
――|ヤクルトV→アニメ「新巨II」では巨人V
――|一徹歿。明子が花形の子を出産(アニメ「新巨II」最終回)
1979|飛雄馬G二軍コーチに。江川卓と水木炎がG入団
――|(「巨人のサムライ炎」)
……|
(1980年代)
1980|原辰徳G入団。翌年から現役開始
1982|中日セV
――|愛知県知立(ちりゅう)市秋田病院の食事で赤飯と茶碗蒸し
――|(「1リットルの涙」木藤亜也)
1988|東京ドームが巨人のホーム球場に
1989|藤田Gが小学生を投手に起用(「ミラクルG童夢くん」石ノ森章太郎)
……|
(1990年代)
1991|巨人vs中日戦で番場蛮の甥が登板し、落合博光を三振に打ち取る
――|(「よみがえれ侍」)
1995|王貞治ホークス監督に
……|
(2000年代)
2000|日本シリーズON対決
2000年頃、花形満がリトルリーグで活躍(「新約巨人の星花形」)
2004|アテネ五輪で中畑清率いる日本代表が銅メダル
2006|WBC(世界国別野球対抗戦)で王Japanが優勝

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水島野球漫画で描かれた歴史  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時36分8秒 返信・引用 編集済
  水島野球漫画で描かれた歴史I 2007/ 3/ 9 15:10 [ No.43 / 433 ]
水島野球漫画で描かれた歴史II 2007/ 3/ 9 15:11 [ No.44 / 433 ]

1923=大正12年 岩田鉄五郎誕生(「よれよれ18番」)

1954年 5/5 藤村甲子園誕生(「男どアホウ甲子園」)

1957~58年 水原勇気誕生(「野球狂の詩」)

1958年 5/5 山田太郎誕生(「ドカベン」)
第40大会で徳島商の板東英二投手が1試合25奪三振を記録

1959年 4/1 岩鬼正美誕生(「ドカベン」)

1970~71年? 国立玉一郎と山井英司が白新高校に入学(「熱球白虎隊」)
1971~74年? 富樫平八郎がメッツに入団。TO砲・丘の10番を譲り受ける。日下部了は早稲田に進学
1971年2月 火浦健が傷害事件を起こし退学(「北の狼南の虎」)。北海道勢初優勝ならず
→北海道勢初優勝は33年後の2004年駒澤大学附属苫小牧高校

1972~73年? 白新高校は決勝で敗退。
山井はスポーツ紙記者に(「熱球白虎隊」)
国立メッツ入団(「スラッガー藤娘」、「熱球白虎隊」)
1973年 夏の甲子園で阿蘇高校V.秋、王島大介阪神入団。12月火浦メッツ入団(「北の狼南の虎」)
TO砲(唐部と丘)メッツ入団

1974年
山田太郎等が神奈川県の明訓高校入学、野球部入部
不知火守が白新高校入学、野球部入部
明訓が夏の甲子園(第56回全国高校野球選手権大会)出場
明訓が大阪代表・通天閣高校を破る(「ドカベン」)
火浦健が20勝投手となって東京メッツ優勝(「北の狼南の虎」)
国立が本塁打王になって東京メッツ優勝。国立と結婚したいという7歳の少女・藤子が国立と握手(「白球七五三」)
長嶋茂雄引退。阪神の藤村甲子園が巨人の長嶋茂雄と対決(「男どアホウ甲子園」)
長島太郎がメッツ入団。1年で引退。メッツ最下位で中日セV(「おれは長島だ」)
メッツが日下部了を指名(「ガッツ10番」)
1974年?
藤村甲子園の相棒だった岩風が巨人学園監督に
真田一球が巨人学園野球部に入部
岩風が巨人学園ナインに常時ヘルメット着用を命じ、「赤ヘル軍団」に
某対戦校が南海ホークス(1947~88)ファンで、
捕手は野村克也(南海在籍は1954~77)にあやかって「野村」を名乗る
真田一球の巨人学園が甲子園出場
大阪代表は南波高校で、
藤村甲子園の弟である球二・球三がバッテリー。藤村甲子園も観戦

1975年 夏の甲子園で明訓が弁慶高校に敗れる。優勝は通天閣高校。土井垣は大澤監督(第1次1976~83)の日ハムに入団
東京メッツが水原勇気を指名
廣島カープ赤ヘル旋風

1974~6年? 山田の打撃練習を当時阪神現役の田淵と掛布が見学

1976年 水原勇気が初登板
1976年~94年? 山田ら明訓高3年
夏の甲子園で明訓と巨人学園が対戦
通天閣は予選で南波に破れ、甲子園の大阪代表は南波高校
高知代表は室戸学習塾
山田太郎と中西球道が甲子園で対決(「大甲子園」)

1976年 水原勇気が初登板
1976年~94年? 山田ら明訓高3年
夏の甲子園で明訓と巨人学園が対戦
通天閣は予選で南波に破れ、甲子園の大阪代表は南波高校
高知代表は室戸学習塾
山田太郎と中西球道が甲子園で対決(「大甲子園」)
1981年04月21日 松田聖子「夏の扉」
http://www.sonymusic.co.jp/Music/Arch/SR/SeikoMatsuda/SRCL-5679/
1981~82年?
明訓VS青田戦で殿馬「秘打・夏の扉松田聖子」(1981年の曲)
1982年 夏の甲子園準決勝で
青田高校の中西球道が1試合26奪三振を記録を記録
→「1958年の第40大会以来24年ぶり」
1983年 夏の甲子園準決勝で青田高校の中西球道が9者連続三振を記録
→「1926年の第12回大会以来57年ぶり」
10/28 松田聖子「瞳はダイアモンド」

/瞳はダイアモンドとは 音楽の人気・最新記事を集めました - はてな (hatena.ne.jp)/
11/11 小泉今日子「艶姿ナミダ娘」
1984年夏?
室戸学習塾ナインが殿馬のリズムを狂わせるため、
民謡(「南国土佐をあとにして」?)、「瞳はダイアモンド」、「艶姿ナミダ娘」を同時に歌う
→殿馬はそれらの中から「瞳はダイアモンド」を選んで他を消す
1985年 準決勝再試合で明訓高校の先発投手である岩鬼が「中日ドラゴンズの小松の昭和60年時」と叫んで投球
→昭和60年当時に阪神タイガースに在籍していたゲイル(Richard Blackwell Gale)投手、バース(Randy William Bass)選手らの物真似も

1994年 山田、岩鬼ら高3。明訓甲子園春夏連覇(「ドカベン・プロ野球編」)
12球団のドラフトに東京メッツは無し。長嶋巨人と王ダイエーが岩鬼を指名。岩鬼はダイエーに入団
山田太郎は公称18歳(実際は36歳)
岩鬼正美は公称17歳(実際は35歳)
山田は東尾監督の西武
殿馬はオリックス(当時仰木監督、イチロー在籍)、
里中は千葉ロッテ、微笑は巨人(当時松井秀喜在籍)に入団

1995年 王貞治、ホークス監督に就任

1997年 岩田と水原が現役復帰、登板し、東京メッツ身うり話は撤回

1998年 岩田鉄五郎、選手兼任監督として現役復帰。国立玉一郎のむすめ・珠美がメッツ入団
国立の妻は「白球七五三」の藤子かどうか不明

1999年 オープン戦で国立珠美がデビュー(「野球狂の詩」)

1999~2000年頃 メッツは大阪ガメッツに三連勝。火浦がガメッツの監督に
2000年 日本シリーズON対決

2000~2001年頃 東京メッツが札幌華生堂メッツに。岩田鉄五郎が巨人の長嶋監督と会い、円山大地がメッツ入団

2001年 長嶋茂雄が巨人監督を勇退

2004年 山田らが東京スーパースターズに入団
駒澤大学附属苫小牧高校が北海道勢で初優勝

2005年 2005年 日本シリーズが東京スーパースターズ対札幌華生堂メッツ。スーパースターズが日本一(「ドカベン」)
→真田一球と呉九郎は楽天に、中西球道は千葉ロッテに入団

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「ドカベン」プロ編以前の実在選手描写  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時38分22秒 返信・引用 編集済
  「ドカベン」プロ編以前の実在選手描写 2007/ 3/12 12:36 [ No.47 / 433 ]

1974|山田、岩鬼、里中、殿馬が明訓に入学
――|徳川監督が明訓の投手に
――|「土井垣相手にびびっていて、
――|プロでONを相手にしたらどうする」
――|部員は「でもその時、長嶋選手は
――|引退していますよ」
――|藤村甲子園が長嶋茂雄と対戦、長嶋現役引退
――|11月のドラフトでメッツが日下部了を指名
――|(翌年、日下部と富樫が一軍入り)
――|
1974|\山田の打撃練習を田淵と掛布が見学
~76|/
――|この時期、巨人学園の対戦校の一つが
――|全員、南海ファンで、捕手が「野村」
――|→高校野球版「巨人・南海戦」
――|
1974|新潟のメッツ・阪神線で富樫平八郎が勝利
~75|阪神では田淵が出場、途中から江夏が登板
――|
1975|明訓が弁慶高校に敗れ、土井垣監督辞任
~79|→土井垣は大澤監督の日本ハムに入団
――|
1976|水原勇気が廣島の衣笠、武藤らと対戦
――|野村克也も「ささやき戦術」の捕手として登場
――|
1985|明訓対青田の試合で岩鬼正美が
――|「中日ドラゴンズの小松の昭和60年時」や
――|ゲイル投手、バース選手の物真似
――|(Wikipediaより)
――|
1994|山田が東尾監督の西武に入団
――|長嶋Gと王ダイエーが岩鬼を指名
――|岩鬼はダイエーに入団
――|微笑は巨人、当時は松井秀喜が在籍
――|殿馬はオリックスでイチロー在籍
――|里中は千葉ロッテに入団
――|

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巨人の星&侍G時代背景  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時39分32秒 返信・引用 編集済
  巨人の星&侍G時代背景(Wikipediaより)I 2007/ 3/ 9 14:27 [ No.40 / 433 ]
巨人の星&侍G時代背景(Wikipediaより)II 2007/ 3/ 9 14:34 [ No.41 / 433 ]

Wikipedia「巨人の星」と「侍ジャイアンツ}の「時代背景」の項目から編輯。

1920年 川上哲治誕生。星一徹も同い年
1942年 星一徹G入団。直後出征
1943年 星明子誕生
1946年 一徹復員
1948年 一徹G復帰→川上から魔送球を批判され引退
1949年頃、伴宙太、花形満、左門豊作誕生
1951年頃、星飛雄馬誕生
1954年頃、番場蛮誕生

1958年 [G監督;水原]
長嶋茂雄G入団
飛雄馬が長嶋に魔送球を投げつける。飛雄馬が王貞治(当時早実高)、花形満と対決

1967年 [川上]
左腕・星飛雄馬G入団。打撃テストで堀内から三塁打

1968年 [川上]
9/18巨人・阪神戦で大乱闘。王が触身球(死球)を受けて倒れ、長嶋が本塁打
花形が大LB1号を予告本塁打。飛雄馬が日本シリーズの対阪急戦で1号改良型を使用

1960年代
学生運動、ボウリングやゴーゴークラブの流行

1969年 [川上]
正力松太郎逝去。巨人OB水原茂が中日監督就任。黒い霧事件
飛雄馬がオーロラ三人娘と逢い、ついで日高美奈と出遭うが、日高美奈は病死。一徹が中日コーチに就任。飛雄馬の大LB1号自滅→復活→オズマに打たれ、2号(消える魔球)登場。金田正一引退記者会見で飛雄馬と伴が受付担当し、終了後、二人で金田を見送る

1960年~73年 ベトナム戦争

1970年 [川上]
巨人軍日本シリーズ6連覇
オズマ帰国。伴が中日に移籍。花形が2号を本塁打。飛雄馬、大LB3号を開発。オズマがベトナム戦争での負傷が元で死亡(アニメ版『巨』)

飛雄馬は中日球場で一徹・伴コンビの中日相手に完全試合達成(最後は右直で何故か2塁中継で1塁→判定が揺れ、提訴試合)。飛雄馬左腕破壊、指の機能を失う。直後失踪(原作『巨』)

花形は飛雄馬の大LB3号と非公式に3球対決し、引退。飛雄馬は後楽園球場での一徹・伴コンビの中日相手に大LB3号を投げ、花形と明子も客席で観戦。飛雄馬は完全試合達成(最後は三遊間突破→2塁中継で1塁アウト)。飛雄馬左腕破壊、指の機能を失い、一徹に負ぶさって球場を去る(アニメ『巨』終)

飛雄馬は後楽園球場で最後の試合に登板し、左肩を破壊、遠投だけできなくなる。明子は試合終了直後に球場に駆けつけ、同時に飛雄馬は担架で運ばれて救急車に乗せられ、病院に送られる(アニメ『新巨』)
番場蛮G入団。眉月光ヤクルト入団

1970~71年頃
シーズン終了後、花形満は星明子と結婚。結婚式に飛雄馬も駆けつけ、3球対決のボールを届ける(アニメ『巨人の星・特別編・猛虎花形満』)
花形満が明子と結婚。結婚式には飛雄馬は現われず、祝電一本よこしたのみ(原作・アニメ『新巨人の星』)

1971年 [川上]
年初、左門と京子の結婚式(『巨人の星』最終回、「エピローグ」)。番場は対阪神戦で勝利(ウルフチーフに打たれるまでノーヒット)。大砲万作が中日に入団

1972年 [川上]
水原茂に代わり、やはり巨人OBの与那嶺要が中日監督に
番場、「ハイジャンプ魔球」を開発。大砲万作と対決

1973年 [川上]
長嶋通算2000試合出場
星飛雄馬が宮崎の日向三高野球部を臨時コーチ(『巨人の星外伝・それからの飛雄馬』)。番場蛮は「大回転魔球」と「ハラキリシュート」を開発。番場の活躍で川上巨人V9達成。番場は胴上げ投手になる(原作『侍G』)
番場が「分身魔球」、「ミラクルボール」まで開発し、日米ワールドシリーズでジャックスを打ち取り、最優秀選手に選ばれる(アニメ『侍G』)

1974年 [川上]
原作の『侍ジャイアンツ』で番場蛮が分身魔球を開発。体力の消耗が大きく、3連投の末に試合終了後に急死。巨人V奪回に向かうとの設定
長嶋茂雄現役を引退。巨人V10ならず中日セVで川上監督勇退。後任は長嶋茂雄

1975年 [長嶋]
長嶋監督のもとで巨人軍最下位、廣島東洋カープの赤ヘル旋風
『新~』第1話で飛雄馬が入った料理店のテレビで中継された試合は、原作では巨・神戦だったがアニメでは巨・廣戦で、外木場義郎、衣笠祥雄、山本浩二が活躍。飛雄馬は草野球代打、次に「野球人間ドック」でG復帰を目指す。廣島セV.“ビッグ”ビル・サンダー来日。阪急日本一。伴が長嶋の言葉から来季張本獲得の計画を察知

1976年 [長嶋]
張本勲が巨人に移籍
飛雄馬が右腕投手としてG復帰。GセV,日本一は阪急。飛雄馬は敢闘賞

1977年 [長嶋]
花形、ヤクルトに入団して球界復帰。
9/3王貞治通算756号本塁打達成。GセV,日本一は阪急。江川卓がライオンズのドラフト指名を拒否して渡米

1970年代
後半の独居老人の孤独死の増加
1978年[長嶋]
与那嶺要がコーチとして巨人に戻る
年初、一徹と伴の協力で飛雄馬がハワイで特訓。現地の人から江川卓と間違えられ、与那嶺要に目撃される。この特訓で大LB右1号(蜃気楼の魔球)完成。まず、ヤクルトの花形が蜃気楼を打ち、残りの他球団相手に飛雄馬が勝ち続けたことで漁夫の利を得たヤクルトがペナントレース(勝率争い)で浮上。左門も蜃気楼を強打(原作『新巨』終)。ヤクルトV

花形が蜃気楼の打倒直後に倒れ引退。飛雄馬の活躍が続き、史実に反して巨人Vが実現。星一徹没。明子が花形の子を出産。アメリカに向かう飛雄馬に江川が挨拶(アニメ『新巨II』終まで)

1979年 [長嶋]
江川卓G入団
江川の投球練習に水木炎が乱入。飛雄馬が現役を引退しG二軍コーチに。水木炎G入団テスト合格

1991年頃 [藤田]
巨・中戦で番場蛮の甥が登板。落合博満を三振に打ち取る(『よみがえれ侍』)

1995年 [長嶋・2期]
星飛雄馬がイチローと対決(ラヂオドラマ『巨人の星'95』)

2000年頃? [長嶋・2期?]
「花形満」がリトルリーグで活躍(『新約巨人の星花形』)

2003年 [原]
飛雄馬たちが野球でアトムと対決(『巨人の星対鉄腕アトム』)

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星飛雄馬と番場蛮の時代I  2007/ 3/21 14:01 [ No.62 / 433 ]
星飛雄馬と番場蛮の時代II  2007/ 3/21 14:01 [ No.63 / 433 ]
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野球狂の詩、70年代までの歴史  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時40分51秒 返信・引用 編集済
  野球狂の詩、70年代までの歴史 2007/ 3/ 9 14:13 [ No.39 / 433 ]

1923年
「よれよれ18番」
岩田鉄五郎誕生。

鉄五郎の若い時代
「鉄五郎のバラード」
「岩田VS五利、フォークボール対決」

1957~58年
「水原勇気編」
水原勇気誕生。

1958年 桜田淳子、森昌子誕生。
1959年 山口百惠誕生。

1971年
「北の狼南の虎」
昭和46年2月、火浦健の養父・政が死に、健が傷害事件を起こして服役2年。

「熱球白虎隊」
山井英司と国立玉一郎が白新高校に入学。

1972年 麻丘めぐみデビュー。
小林麻美「初恋のメロディー」。

1973年
「よれよれ18番」
岩田鉄五郎50歳。

「甚久寿」
甚久寿入団。東京M河野(かわの)がラヂオで「初恋のメロディー」を鑑賞。

「スラッガー藤娘」
国立玉一郎入団。
「熱球白虎隊」
白新高校甲子園準優勝。
メッツが国立を1位指名。
阪神は5位で山井を指名するが、山井は東京日日スポーツ記者に。

桜田淳子デビュー。

「ウォッス10番」
新潟西高校野球部で桜田淳子(73年デビュー)と麻丘めぐみ(72年デビュー)が話題に。
新潟西高校が新潟予選で優勝。
投手・日下部は残り1球で降板し、富樫がVを決める。

「ガッツ10番」
甲子園で新潟西高校が優勝。
11月10日ドラフトで東京Mが2位で富樫平八郎を指名。
1番くじを引いた南海が日下部了を指名するが、日下部は早大進学。
富樫の父親は新潟の平井病院に入院。夕子は看護婦に。

「恐怖のTO砲」
ドラフトで東京Mが唐部大樹と丘知将を指名。
南海は藤田学を指名。
大洋は山下大輔と大橋康延を指名。
阪急は江川卓を指名。

1972~73年?
「北の狼南の虎」
夏の甲子園で阿蘇高校V.火浦は北海道から東京へ。
12月、王島大介(阿蘇高3年?)が阪神から指名され、九州から大阪へ。
投手・山川は地元・太平洋ライオンズに。

火浦健、国立球一郎を三振に打ち取り東京Mテスト合格。

1973~74年
「恐怖のTO砲」
東京インスタント食品(株)が「T,Oヌードル」發賣。
「野球狂の詩・俺は長島だ」
長島太が東京M入団テストに合格。

1974年
「恐怖のTO砲」
4月、TO砲が対阪神戦(阪神バッテリーは江夏と田淵)に初出場。
唐部は右翼、丘は左翼。
1回表、田淵中飛、TOが取り合うも、結局、中堅・甚久寿が捕球。
1回裏、唐部2塁打、丘1塁打で唐部ホームイン。結果 M1-0T
勝利投手・岩田清志。

「モビー・ゴッド」
5月、海王神人が大洋Wに入団。
松原(62~80在籍の松原誠か)の代打で満塁打。
大洋、最下位から浮上。
メッツと対戦。
岩田(清)と千藤が敗れ、岩田(鉄)が3試合目で勝利。
鉄五郎のスクイズで唐部ホームイン。

「北の狼南の虎」
メッツ優勝。火浦20勝投手に。

「白球七五三」
メッツ優勝。国立本塁打王に。

「俺は長島だ」
メッツ最下位。中日セV(史実どおり)。
長嶋茂雄最後の試合と同じ日に、長島太が最初で最後の本塁打を放ち、引退。

「白球七五三」
日本シリーズは東京M対ロッテ。
11/14 第6戦、千藤光サヨナラ本塁打。

「ガッツ10番」
早大「二年目」の日下部がノーヒットノーラン達成。神宮球場満員。

11月、昭和49年度のドラフトでメッツが日下部を指名。
(漫画では「そして四年目の十一月」だが、実質1年後)

1975年
5月、日下部、富樫、一軍入り、
メッツ対阪神、北陸3連戦。
5月5日(金澤)田淵決勝スリーラン。岩田(清)敗戦投手。
5月6日(富山)救援岩田(鉄)、池田(65~78在籍の池田純一か)に2塁打食らい、2連敗。
5月7日(新潟)先発富樫。1回裏丘本塁打。富樫が完封。

「水原勇気編」
11月 東京Mが水原勇気を指名。

1976年 水原勇気登板。

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田淵、江夏、掛布 投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 7月 5日(土)09時42分2秒 返信・引用 編集済
  田淵、江夏、掛布 2007/ 3/ 8 9:47 [ No.37 / 433 ]

1968年~
「巨人の星」
田淵は阪神で花形の地位を脅かすスラッガーとして紹介された。

1969年
日高美奈の死のショックで飛雄馬がスランプ。
花形は練習で「田淵ではこの花形は燃えんのだ」。

1970年
巨・神戦で田淵が星飛雄馬の消える魔球の合間の速球を打ち、出塁。
擬似本盗で花形の「三塁走者協力作戦」に参加。
オールスター後の巨・神戦で江夏が大LB3号をヒット。

1973年
アニメ「侍G」で田淵が「分身魔球」と対戦。

1974~76年
「一球さん」
巨人学園の相手チームに田淵そっくりの強打者がいた。

「ドカベン」
山田の打撃練習を田淵と掛布が視察。山田の長打を評価。
「俺でもめったにあそこまで飛ばんぞ」。
「今、すぐにでもプロに通用します」。

1975年
「野球狂の詩」
新潟で東京メッツと阪神の試合。
江夏が途中登板でメッツに追加点許さず。
田淵に打席が回る手前で、投手・富樫が阪神打線を併殺で打ち取り、試合終了。

「新巨人の星」
田淵が本塁打王。
“ビッグ”ビル・サンダーが花形の紹介で田淵と逢う。
サンダーは田淵の打撃に感激し、一度は阪神コーチ就任を承諾。

1976年
掛布が星飛雄馬のスクリュー・スピン・スライディングを破る。

1977年
田淵の打席でロメオ南条が独断で本盗、アウトになる。

1979年
「がんばれ!! タブチくん!!」
田淵が西武に移籍。

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4: 「岩鬼」と「太平」の変換~野球漫画の多様性とスポーツ漫画の多様性

2022-04-23 21:45:00 | teacup掲示板

/巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など - 31~40件目 (teacup.com)/

/「岩鬼」と「太平」の変換 | 巨人の星、侍ジャイアンツ、ドカベン、野球狂の詩など | 36 (teacup.com)/


「岩鬼」と「太平」の変換  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 5月 1日(木)08時36分38秒 返信・引用 編集済
  「岩鬼」と「太平」の変換  2008/ 2/27 13:34 [ No.393 / 411 ]

パソコンで「いわき」と打つと「岩城」と「岩木」と「磐木」が出るが、「岩鬼」が出ない。
「おおひら」と打つと「大平」が出るが、「太平」は出ない。
「たいへい」では「大平」、「太平」、「泰平」が出る。

「てんかたいへい」は「天下太平」と「天下泰平」の両方。

単語登録する手もあるが、目下、手持ちのパソコンでは、単語登録機能が有効なのはWordでの書き込みだけで、ネット掲示板への投稿欄では、なぜか機能しない。
だから、投稿文をWordに下書きして書くのがいい。

「太平洋」は「太」で、「大西洋」は「大」である。

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「サンデー」と「マガジン」が共同で雑誌  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 5月 1日(木)08時39分19秒 返信・引用 編集済
  「サンデー」と「マガジン」が共同で雑誌  2008/ 2/28 4:09 [ No.394 / 411 ]

少年探偵漫画であるコナンと金田一のつながりで、小学館と講談社が共同で雑誌を作るらしい。

「少年サンデー」は70年代に「柔道讃歌」と「男どアホウ甲子園」を連載していた。
「少年マガジン」は60年代から70年代にかけて「巨人の星」、「あしたのジョー」、70年代には「野球狂の詩」の掲載誌だった。

両誌とも梶原、水島作品と縁の深い雑誌だが、手を組むというのは、それだけ出版界が苦境にあるということか。
漫画のメディアミックスが肥大化し、ついにはネットに移って、漫画本体が賣れなくなる現象が起きているのではなかろうか。
収入が少ない人は Book Off などに行くだろうし、これでは出版社の利益にならないだろう。
社会全体で、漫画雑誌を買って読めるような雇用の確保が必要だ。

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Re: サンデーとマガジン総合  2008/ 2/29 4:34 [ No.3 / 27 ]

サンデーは「柔道讃歌」と「男どアホウ甲子園」を掲載したことがあった。
マガジンは「巨人の星」と「野球狂の詩」でおなじみで、どちらも梶原一騎と水島新司の作品を育てたところ。

小学館だけあって、「ドラえもん」も少年サンデーに掲載されたことが何度かあったらしい。てんとう虫コミックスの単行本のうしろにあるページ数の多い話は「小学校六年生」か「サンデー」掲載だろう。
「ドラえもん」は基本的に小学館の学年学習雑誌の漫画で、70年1月号で始まった。当時は「巨人の星」、「あしたのジョー」、「デビルマン」といった劇画、スポ根、ヒーローもの、「青年が主役の少年漫画」がブームの中で、純粋に読者も主人公も児童である藤子・F・不二雄の作風はかえって逆風にさらされたらしい。
「コロコロコミック」も、読者確保のためだったか。
「コロコロ」でも劇画風の「ザ・ゴリラ」や、スポーツもので「掛布選手物語」などを掲載して、試行錯誤をしていた。

「天才バカボン」も「サンデー」と「マガジン」両方に掲載されていたらしい。
今では漫画雑誌自体が出版不況で危機なのかか。
「ジャンプ」と「チャンピオン」はどうするか。「聖闘士星矢」のつながりで、何かやるかな。

それ以外で、「サンデー」といえば、高橋留美子の一連の代表作が思い浮かぶ。

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「サンデー」と「マガジン」II  2008/ 3/10 1:08 [ No.398 / 411 ]

例えば「水島新司特集」として「男どアホウ甲子園」、「一球さん」、「野球狂の詩」の特集をするというのはどうか。
「梶原一騎特集」なら「柔道讃歌」、「巨人の星」、「あしたのジョー」をまとめて扱うとか。

「少年サンデー」は小学館の雑誌だが、昔は単行本を秋田書店に任せていたらしく、「少年チャンピオンコミックス」の単行本に「サンデーコミックス」の宣傳も載っていた。
「ドカベン」の単行本の巻末に「ドカベン」と「男どアホウ甲子園」の告知が並んでいるのを何度も見て、前々から不思議に想っていた。

また、最近、「少年チャンピオン」は、かつて集英社の「少年ジャンプ」に載っていた「聖闘士星矢」の新作を載せている。

また、「侍ジャイアンツ」は集英社の「少年ジャンプ」に連載されていたのに、今では講談社(「少年マガジン」の会社)から文庫が出ている。

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サンデーとマガジン  


血と汗にまみれた手で投げたら反則か  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 5月 1日(木)08時41分1秒 返信・引用 編集済
  血と汗にまみれた手で投げたら反則か  2008/ 3/ 7 12:15 [ No.397 / 411 ]

アメリカで投げている某日本人投手が、マウンドで指先で顔の汗をぬぐったら、「指先を湿らす行為」として主審から注意されたらしい

星飛雄馬は大リーグボール1号のとき、対阪神戦で汗をぬぐった手で投げてボールがすべり、危険球になったことがある。

改良大リーグボール1号を披露した日本シリーズ対阪急戦でも汗を手でぬぐっていた。
また、飛雄馬は高校時代、夏の甲子園で親指から血が出ている状態でボールを投げていた。

審判が注意して止めればよかった。

それより、飛雄馬の多汗症が問題。手でぬぐうより、以前の斎藤佑樹のようにハンカチを持参したらどうか。

柳田理科雄は『空想科学読本2』で、星飛雄馬の消える魔球を電磁気力で実現させる理論を書いたとき、「感電を防ぐため、バスタタオルをマウンド用意するべきだ」と主張している。

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明訓×土佐丸、岩鬼がバットを捕る場面  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 5月 1日(木)08時44分4秒 返信・引用 編集済
  明訓×土佐丸  2008/ 3/11 20:23 [ No.399 / 411 ]

対土佐丸戦で岩鬼がバットを捕る場面はOP映像でも出ていたが、本編では別の動画を作り直していた。
同じにすればよかったのに。

走者が送球に体当たりして防ぐあたりは土佐丸も弁慶も似ている。

いまさらながら、犬飼武蔵と左門豊作が同じ声だとわかった。
左門豊作は熊本の選手で、稲尾和久も大分の選手。

左門が農作業やまき割りで身体を鍛えたのは、稲尾が舟をこいで身体を鍛えたのと似ており、星飛雄馬も牧場春彦から左門の生い立ちを聴かされたとき、稲尾の話を例に出している。

そして稲尾と同じく漁師出身である番場蛮は土佐丸ナインと同じ高知県の土佐嵐高校出身。

徳川監督の明訓と対戦した犬飼武蔵が打った球がラッキーゾーンに入ってホームラン。

明訓で土井垣が監督になったあと、対土佐丸戦で殿馬が「秘打・円舞曲・別れ」で放った本塁打もラッキーゾーンに入った。

あと、弁慶高校との試合では余った客をラッキーゾーンに入れていた。

甲子園球場のラッキーゾーンは1991年まで。

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初期『ドカベン』&今の水島漫画  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 5月 1日(木)08時47分29秒 返信・引用 編集済
  初期『ドカベン』&今の水島漫画  2008/ 3/21 3:35 [ No.401 / 411 ]

山田、岩鬼、殿馬の鷹丘中学時代、見物人の中に不知火がいた。
また、徳川監督時代の明訓高校が全国制覇したあとの神奈川でのパレードの見物人の中に土門がいた。

今、観ると「お、不知火だ」、「土門だ」とわかるが、初登場のとき、作品の中では山田たちは、当然、まだ彼らを知らなかったわけで、その緊張感は、当時を想い出すか、想像してみないとわからない。

さて、3月20日、パ・リーグ開幕。
ノムさんが古巣のホークスと対戦した楽天×ソフトバンクの試合。親会社からいってIT対決でもある。結果はソフトバンクの勝ち。
『あぶさん』では王監督が景浦安武(かげうらやすたけ)を代打で起用。あぶさんは物干し竿(長いバット)で本塁打を放った。

次にダルビッシュが登板した日ハム×ロッテの試合は食品会社同士。
『ドカベン』では日ハム×東京スーパースターズの試合で中田翔も出場し、山田と岩鬼に挨拶。
ロッテは千葉で、超星は東京だから「北海道対関東」であることには変わりはないが、中西球道が少し、気の毒だ。

日ハムの稀哲(ひちょり)が中田に「岩鬼さんと話すと悪球打ちがうつる」と忠告したが、中田は悪球打ちなら打数が増えるという主旨の答えをしたようだ。
岩鬼の「三振王」はストライクを打てなくなったからだった。
『大甲子園』で光高校の面々が言ったように、「岩鬼がストライクも打てるようになったら山田以上の打者」ということになる。

実際のニュースでは中田はまだ二軍で、3/20は休みだったらしい。

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一十三十一(ひとみとい)  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 5月 1日(木)08時49分22秒 返信・引用 編集済
  一十三十一(ひとみとい)  2008/ 3/29 19:42 [ No.404 / 411 ]

歌手の一十三十一(ひとみとい)は1978年12月1日生まれ。
花形満と干し明子の間に生まれた子供(性別不詳)と、おなじ時期に生まれたことになる。

手塚治虫の『鉄腕アトム』のもととなった『アトム大使』が始まったのが1951年。ずいぶん、昔のようだが、星飛雄馬が生まれたのはこの時期である。『鉄腕アトム』はこの次の年、1952年から始まった。

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キリンレモンのCM  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 5月 1日(木)08時50分38秒 返信・引用 編集済
 

キリンレモンのCM  2008/ 4/ 3 22:31 [ No.405 / 411 ]

左門家でキリンレモンの追加をねだる弟、妹たちに対し豊作あんちゃんが「あれはセレブの飲むもんたい」
飛雄馬が「ちがうよ。左門」

『巨人の星』本編で、どのキャラクターも「セレブ」などという言葉を使ったことはなかった。
金持ちの意味なら「ブルジョア」とか「貴公子(ハイソサエティ)」と言っていた。

そもそも、「セレブ」ってどういう意味かわからない。
いつから、こんな変な言葉が流行しだしたのか。

ところで、飛雄馬が左門の家を訪れたのは、あのCMが最初では?

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高校野球で大リーグボール  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 5月 1日(木)08時56分4秒 返信・引用 編集済
  > No.16[元記事へ]

高校野球で大リーグボール  2008/ 4/ 4 15:29 [ No.406 / 411 ]

2005年に青森山田と東北の試合で、偶然ながら、投手の投げた球が打者のバットに命中したことがある。
結果はファウル。

よけかた次第では打者の身体に当たっていた。

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梶原野球漫画におけるライバル球団  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 5月 1日(木)09時07分9秒 返信・引用 編集済
  『侍ジャイアンツ』におけるライバル球団  2008/ 4/ 6 18:31 [ No.407 / 411 ]

『侍ジャイアンツ』では巨人以外のセ・リーグ5球団すべてにライバルがいた。

セ・リーグ
阪神――ウルフ・チーフ、太刀風兵庫、ポポ
中日――大砲万作
廣島――明智学
ヤクルト――眉月光
大洋―ジャンボ不二立彦

パ・リーグでは金田正一、野村克也、張本勲など実在の監督や選手が番場蛮に挑戦した。

大リーグ
アスレチックス――ジャックス
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梶原野球漫画におけるライバル球団  2008/ 4/16 6:25 [ No.408 / 411 ]

『侍ジャイアンツ』
セ・リーグ
阪神――ウルフ・チーフ、太刀風兵庫、ポポ
中日――大砲万作
廣島――明智学
ヤクルト――眉月光
大洋――ジャンボ不二立彦

『巨人の星』&『侍ジャイアンツ』の主人公&仲間&ライバル球団
巨人――星一徹、星飛雄馬、伴宙太、速水譲次、番場蛮、八幡太郎平、水木炎
阪神――花形満、ウルフ・チーフ、太刀風兵庫、ポポ、ロメオ・南条、(番場の甥)
中日――A・オズマ、星一徹(コーチ)、伴宙太、大砲万作
廣島――明智学、馬耳念仏朗
ヤクルト――眉月光、花形満
大洋――左門豊作、ジャンボ不二立彦

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野球漫画の多様性とスポーツ漫画の多様性  投稿者:starr_pegasus_of_G  投稿日:2008年 5月 1日(木)09時09分39秒 返信・引用 編集済
  水島野球漫画の位置づけ  2008/ 4/16 7:03 [ No.409 / 411 ]

水島野球漫画は野球漫画を個人からチーム、魔球から非魔球、荒唐無稽から現実的、巨人漫画から多球団漫画に変えたように見える。

ただ、『ドカベン』は主人公が属する明訓で個性的なキャラクターを集めたせいで、ライバル高校はワンマンチームに近くなった。東海は雲竜、白新は不知火というように。
弁慶高校に義経と武蔵坊という猛者が2名いるくらいか。
特に、明訓が弁慶高校に敗れた大会の決勝、通天閣と甲府の対戦は、投手が坂田か賀間か、打者も坂田か賀間かの対戦になっていた。
これもまた、高校野球の一つの姿であろう。

また、水島新司は野球漫画の主人公の所属球団を阪神タイガース、南海ホークス、あるいは架空の東京メッツにするなど、巨人以外の多様性を定着させた功績がある。
しかし、一方で水島氏は「最近、スポーツやスポーツ漫画の人気が野球だけでなくなり、多様になってきた」と言っており、これに関しては梶原一騎と川崎のぼるのほうが遥かに先を行っていた。

梶原一騎の代表作はスポーツ漫画でも野球漫画にとどまらず、柔道、キックボクシング、プロレス、ボクシングなど格闘技でも幅廣く、昨今のK1ブームを予見していたように見える。また球技でも『赤き血のイレブン』というサッカー漫画の原作を担当していた。
川崎のぼるもレスリングやフットボールを扱っているし、両者とも代表作はスポーツ漫画に限らない。

こうなると、水島新司が「巨人中心主義」と闘ったのに対し、梶原&川崎コンビは「野球中心主義」と闘った、あるいは最初からそれに影響されていなかったと言える。
スポーツの多様性という視点では水島漫画は保守的であろうか。

水島漫画は野球選手が人生の過程で柔道や相撲、喧嘩までやっている話が出てくるが、これも「野球漫画」という枠内でのことだ。
梶原作品はその既存の「枠」すらも無意味になる多様性があり、そして「梶原作品」という枠を設ける必要があるほど、一貫し太共通性、哲学があった。

人々が『ドカベン』を語る場合、ときおり、『巨人の星』が引き合いに出されるが、『ちかいの魔球』、『黒い秘密兵器』、『侍ジャイアンツ』、『アストロ球団』が引き合いに出されることがほとんどない。
スタート時の『ドカベン』にとって超えるべきハードルは『巨人の星』だったのだろうか。

そして、人々が『巨人の星』を語るとき、『ドカベン』を引き合いに出すことはほとんどない。『巨人の星』の話題で比較されるのは『あしたのジョー』のような同じ梶原一騎が他のスポーツを扱った作品である。
『ドカベン』も初期は柔道漫画だったが、それを『柔道一直線』や『柔道讃歌』、『YAWARA!』などと比較した論は出てこない。

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『ドカベン』文庫は野球人気ピンチのころか

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『巨人の星』と『ドカベン』