最近ブログ記事を通して、沖縄の女性からメールを頂いた。 沖縄ではキリスト教がカルト化し、信者が虐待を受けているという内容だ。 統一教会、御国教会以外で国内のキリスト教の教会の中で、人権を奪うような虐待が行われている事実に、統一教会だけに目が向いている自分の視野の狭さを知った。 問題となっているのは昨年、朝日新聞の雑誌、アエラで教会不祥事が特集された際にも記事になった沖縄キリスト福音センター美浜教会。 信者への虐待、いろんな名目で献金をせまる。 統一教会問題に詳しい京都のM牧師が、虐待された信者の相談にのっておられるとのこと。 被害者たちは美浜教会の牧師たちに損害賠償を求めたが、1月の那覇地裁では 原告側の請求は棄却され敗訴。原告はこの判決を不服とし控訴手続をとったとのこと。 http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51836967.html#comments 関連する記事をネットで検索していると、教会の在り方に失望した信者が何百人といるにもかかわらず、沖縄県北・中・南部牧師会はM牧師を誹謗中傷する態度をとっておられる ようで、教会の体質が、今の民主党と同じだ。企業献金の違法性を認めながら、逆らえない。なんてことだ。 http://blogs.yahoo.co.jp/digged_wellwater/11234233.html
さて、私としては問題となっている教会内でどんなカルト説教がされているかということに関心がいくのだが。 幸いかな「被害者の会」のブログに牧師の説教を詳細に記録したものがあった。 http://blogs.yahoo.co.jp/digged_wellwater/archive/2009/2 驚いた。「悪霊をはらえ」「悪霊との闘い」そんな説教ばかりだ。 信者の中には現代の治療を拒否され手遅れで失明された方もおられるようだ。 那覇地裁では敗訴だったようだが、ぜひ高裁では勝利してほしい。 カルトに勝利はないことを、世論でつくりあげていく。その一助になればと思い今日の記事となった。 メールを頂いた女性の方に感謝。
内容のない繰り返し、聖書を鸚鵡返しにのように連呼する大声、感情的なあおりを目的とする恣意的・主観的な思い込みの強化、倫理観をいつしかあいまいにさせてゆく単なる主観を神の意志と僭称する傲慢さ、時間をダラダラと長くかければ信仰的であるかのような「祈り」のプレゼン、これらはわたしが感じている「福音派」の姿です。これらがあるから、いけないとわたしは判断している訳ではありません。こういう印象があるから嫌だという訳でもありません。
嫌だなと思うのは、こうでなければ信仰的でないといいはなつ人々の根っこにある傲慢さに救いのなさを視てしまうからです。
だれにでも性欲はあるでしょう。たぶん性欲があるからエロジジイなのではなく、性欲を感じてはいけないという場面をわきまえているのが社会人としてのルールであるのに、神を御名を利用して己の欲望を果たそうとするところに、究極の原罪があるのだと思います。
なんじ姦淫するなかれだけではなく、神の御名をみだりに唱えてはならないという意味が、セクハラ、パワハラを平気でする「福音派」と呼ばれる人々のなかに、充分に理解されているとは思えないということが、わたしが感じてしまう最大の問題があります。
敬虔さを装う宗教の罪です。
宗教こそ、人間の最奥の罪だと言えましょう。
だからこそ、宗教批判なき、信仰はむなしいのです。主イエスは、その『存在』そのものが宗教批判者でした。その主イエスこそが、宗教の原罪性をするどく暴いていまあうs。聖書はそのような宗教批判の事実で充満しているのに。彼らは視るには視るが悟らず、聞くには聞くが聴いてはいないのでしょう。
http://www.foe414.net/index.html
こんないい加減な人間、私に言わせれば、文鮮明と同じ「ただのエロオヤジ」だ。
牧師の名を語り、家族なのだからという理由で、信徒の女性の体に触るもOK,キスもOK。信じられないが.......。