この記事を読まれる皆様へ。是非、コメント欄も参照されてください。
ネット上では数少ない統一教会信者とみられる方との論争をみることができます。(2020.01.23)
原理講論は統一教会の信仰の経典ともいうべき本。
以前から、哲学上の根本問題と原理講論を対比してみたいと思っていた。
今説得の準備をされている方は是非読んで頂きたいが、普通の人ならば、はじめの「総序」は読めても、第1章創造原理からは、強引にただ読むしかない。
娘もそうだったが、多くの元食口たちは、一人で読んでいても原理講論をまったく理解できなかったと言っている。理解できてないけれども、講師の指導で真理だと信じてしまっている人が多い。
「二性性相」「万有原力」「授受作用」「四位基台」という辞書をみても見当たらないような用語があり、救出するご家族にとっては難解な書物であり、私自身も強引に理解できなくても読んでしまった。
私には難解な書物を読んだという達成感だけしかのこらなかった。
多くの食口は、そこから信仰というよりは、善悪の区別の出来ない世界に吸引されていくのであろう。
脱会した飯星景子が言っていた、「神様がそんなにお金を欲しがるわけがない」。
理性的考えれば、だれでもわかることだ。
しかし食口たちの頭の中は、自分たちが正しくて、周りは悪だというマインドコントロールがいきわたっている。
自分たちに逆らうものをすべて悪。家族でも悪なのだ。反対している家族のちょっとしたことを取り上げて、「家族の堕落性が最近よく見えてきた」と言って、食口たちは、アベル(個々の食口の親的存在)に報告し意気投合しあうのだ。
ここまで、書いてしまうと原理講論が逆に家族にとっては魔物に思えてくる。
しかし見方を変えると、食口になった子供と家族をつなげるものは、この本しかない。
第1章創造原理は成立しない世界観
さて原理講論の誰でもわかる決定的誤りとは、第1章創造原理第2節(1)万有原力である。この成立しない世界観を刷り込ませることによって、神を救うための人間の努力が始まる忌まわしき教義なのだ。
ではまず、神と万有原力との関係について原理講論を引用する。
「神はあらゆる存在の創造主として、時間と空間を超越して、永遠に自存する絶対者である。したがって、神がこのような存在としておられるための根本的な力も、永遠に自存する絶対的なものであり、同時にこれはまた、被造物が存在するためのすべての力を発生せしめる力の根本でもある。このようなすべての力の根本にある力を、我々は万有原力と呼ぶ。」(第1章創造原理第2節(1)万有原力)
これによれば、神が絶対者といいながら、神の絶対者としての存在をささえる力が「万有原力」であり、それも永遠性をもつ絶対的なものというのである。
絶対的なものが2つ存在するのである。明らかに矛盾である。
総てのものの創造者が神であるかぎり、神と対等に存在する「万有原力」などありえない。
私は、娘にそのことを指摘したが、何を問われているかわからないようだったので、「万有原力は誰が創ったのか」と問いかけてみた。そして「万有原力は神が創ったはずではないのか、神が創った万有原力に神がささえられているなんておかしいではないか」と問いかけた。
彼女は問いかけの意味を理解するのにすこし時間がかかった。でも丁寧にゆっくり説明した。
このおかしさに気づいて、娘は回答できなかった。
この成立しない世界観をあらわすために、漫画的に、「神が自分で創った万有原力という大海原の中で存在している」というように描いてみるとよくわかると思う。
ところがアダムとエバの堕落が原因となって、万有原力という大海原が荒海となり、神が今にも溺れそうになっているのである。その神を、95%の神の責任分担と5%の人間の責任分担で救い出さなければならないのである。
聖書の神は全知全能、この世の創造者、絶対者であるはず。
なぜ神が責任分担を果たさなければならないのか。
原理によれば5%の人間の責任分担は、人間にとっては100%だそうだ。
神が人間を救うのではなく、人間の物理的所産である紙幣が神を救うのである。
まさしくここに高額献金、全財産を奪う教義が存在する。
「哲学上の根本問題」に対して、折衷で答えた統一原理
原理講論は、根本問題を解決した書物として宣伝されている。
それに対して、宗教者、とりわけキリスト者からの批判が多い。批判は聖書と照らし合わせた宗教的立場からの批判と、ありもしない呪縛の世界を手法としたマインドコントロールを中心とした批判に大別される。
どちらも専門的な知識が必要となってくる。
私は哲学を専門に学んだわけではないが、学生のころに聖書と哲学の流れを学ぶ機会が与えられた。
難しい話をするつもりはない。
ただ、原理講論第1章第2節(1)創造原理は、哲学上の根本問題と解くと言って、やったことは、唯物論とキリスト教と合体なのだ。
日本人の多くは、キリスト教にしても、唯物論にしても色眼鏡でみてしまう。
それを外せといっても難しい。
ただ、理解してもらいたいのは、この両者は基本的には対立しているが、どちらも一元論であり、真理は一つと言う立場であることを知っていただきたい。
キリスト教にとって、神が天地創造の主、これが真理である。
唯物論は、エンゲルスの言葉で代表されるように、宇宙は永遠の昔から存在していたという真理を前提に科学的に、自然、人間、社会を探究していく世界観である。
中世から古今東西で論争されている哲学上の根本門問題は、唯物論か観念論(宗教を含む)かという問題である。
統一原理は、科学と宗教の統一によって、根本問題を解決したという。
しかし、中身は、「万有原力」という永遠の昔から存在していた唯物論的世界観の中にキリスト教の神が存在するという世界観である。
唯物論は検証しながら、科学的な探究をしていく合理的な世界観であり、宗教は非合理的な世界観である。
合理的世界観と非合理的世界観が共存する世界観などあり得ないのである。
観念論と唯物論の哲学上の共存はありえない。
統一教会は、唯物論を共産主義、左翼の哲学と言って非難するが、やっていることは、盗み取った唯物論的宇宙観とキリスト教のありえない合体なのだ。
統一教会から非難されている左翼にとっては、特許権の侵害。
原理講論は総序のなかで、善と悪が同居している人間の存在は矛盾であり、破滅状態ときめつけ、それを「堕落」と称している。
原理は原理によって、自滅するといわれているが、まさに、左翼思想の世界観とキリスト教の世界観を同居させた統一原理こそ、矛盾であり、破滅状態そのものではないだろうか。
その意味で、私は原理講論の言葉を借りるならば、統一原理こそを「堕落」そのものと言わざるを得ない。
お借りします。
理解していただいてありがとうございます。
宗教学的な立場で、原理の神認識論のおかしさについては、ヨシュアさんのカルトからの自由できちんと説明されていますね。
http://plaza.rakuten.co.jp/retreatcenter/diary/?ctgy=34
説得を準備されているご家族の一助になればと思います。
統一思想で、万有原力について、説明がありますが、それを読むと
kokoroさんの考えている万有原力とは違った見方になるのではと思います。
コジマさん
>原理講論だけで分かりにくい部分を統一思想で説明していますよ。
統一思想で、万有原力について、説明がありますが、それを読むと
kokoroさんの考えている万有原力とは違った見方になるのではと思います。
このように言うのなら、統一思想でどのように説明をしているのか述べるべきです。どうせ、取るに足らない批判しかできないkokoroさんは、原理講論しか持っていないから統一思想を知らないのだと思います。だから、どのように違うのか説明してあげてください。
僕もしばらく離れていたため、統一思想の内容は忘れました。だから、万有原力について統一思想で、どのように説明しているのか教えてください。
例えば、
「人間が存在するために必要な力を生命力と言います」
と書いてあるのを読んで、人間と生命力が別々に存在する、って解釈する人いるでしょうか?
「神が存在するために必要な力を万有原力と言います」
と書いてあるだけだと思うんですけど。
> 絶対的なものが2つ存在するのである。
> 明らかに矛盾である。
>
> 総てのものの創造者が神であるかぎり、
> 神と対等に存在する「万有原力」などありえない。
なぜ、「対等」とか「2つ」という表現が出てくるのか不思議に思います。
神は「存在」でいいと思いますが、「万有原力」は力ですよね。
例えで書いたような「人間」「生命力」で考えると、普通ならこれらを「対等」とか「2つ」とは表現しないと思いますが...。
万有引力は個物(実在する個々の物体)のすべての間に有ります。
そのような表現を借りているからには、万有原力もすべての個物に備わっていることになります。意図がわからない用語です。
もしも人間が永生不滅ならば、「人命」という言葉は要りません。神を生かしている力、というような概念は必要でしょうか。
(今後、必ず出て来るとは限りません...。)
> そのような表現を借りているからには、
> 万有原力もすべての個物に備わっていることになります。
> 意図がわからない用語です。
原理講論を引用した赤い文章を改めて見ると、
「万有原力は被造物が存在するためのすべての力を発生せしめる力」
となっていますから、
「個物」に備わっているのは万有原力とは異なるようです。
> そのような表現を借りているからには、
これは「万有」を借りているからには、と言う意味だと予想しますが、
だとすると、これはネーミングが良くないということですね。
名前の故に意味が分かりにくい、という事例は原理講論に限らず珍しい事ではないかもしれません。
ネーミングにはセンスとか好み、思いが込められるので、仕方がないですね。
ですが、
ブログのこの記事とそれに対する私のコメントは「万有原力」という呼び名自体を論点にはしていませんので、
あまり気になさらないで下さい。
> もしも人間が永生不滅ならば、「人命」という言葉は要りません。
> 神を生かしている力、というような概念は必要でしょうか。
原理講論を引用した赤い文章では
「存在としておられるための根本的な力」となっているので、
「生かしている」のではなく「存在するため」の力のようです。
ですから、「神を生かしている力」いう概念はどこにも出てきてないと思います。
私もその概念は必要ないと考えています。
また、
この話も記事とコメントにあまり関係ないので、これ以上の返信は躊躇われます。ご理解下さい。
私も統一思想を知りませんが、原理講論が基礎になっていると思います。・Toshiさんは、万有原力について述べておられるので、原理講論を読まれ、違和感なく読まれた方と理解します。
人間は病気もするし、その命は限りがあります。命を支える生命力は、物理的には食事をとることによって維持され、精神的には命ある限り生き抜こうと言う意思によって維持されていると思います。
神の生命力と言った場合、神は絶対者と定義されているわけですから、食事をとる必要もないし、サラ金におわれて自ら命を絶つようなこともないので、「命」といういつかは死を迎える意味の表記の文字を使うことは、その定義に反しているのではないでしょうか。
人間にとって、生命力を維持することは死活の問題です。
Toshiさんのいうように、万有原力を「神の生命力」と理解すると、神にとっても死活の問題が存在することになるのではないでしょうか。
絶対者の死活の問題というのは、ありえないと思います。
そのありえない問題が、原理講論には、なぜ書かれてあるのか。
それは神の死活問題を浮上させ、神を救うために5%の人間の努力(全財産の献金)を引き出すために、宗教上の理由ではなく金を集めるためにどうしても必要だったからではないでしょうか。
これによって、「万有原力」は神と対等もしくはそれ以上の力として、神の存在に影響をあたえる存在として書かれてあることの証明になると思いますが・・・。
更に言うならば、絶対者神について、Toshiさんのような「神の生命力」と「神の存在」の説明をすること自身が大きな誤りだと思っています。
時空を超越しているので、神と万有原力は二つでありながら一つである。つまり、渾然一体となった一つの存在である。神と万有原力というふうに述べると二元論的に聞こえるかもしれないが、時空を超越した存在なので、一つなのだ。このとらえ方ができない限り、創造原理を理解することはできない。
kokoroさんに聞いてみたい。ビッグバン以前の宇宙はどんな形であったか。