北風と太陽・保存版 統一教会から娘を家族のオープンな話し合いで取り戻した父kokoroのブログ。

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私たちの家族は、カルトの被害者

2009-04-05 10:30:48 | カルト

「カルト」という言葉の定義をめぐって、それはアメリカから来た特殊用語で、定義が不明確ということを理由に、カルトの問題について社会に警鐘を鳴らしている個人、団体を非難される人物がおられる。

  

その方は、「カルト」「マインドコントロール」を理由に、入信している子どもを拉致監禁して、精神障害PTSDまで発症している、そのことが問題だと指摘しておられる。

  

論理のすり替えであり、第一義的に問題にしなくてはならないは「カルト被害をいかにしてなくすか」という議論であり、彼の論理はその議論を強硬に無視しようとする意図がうかがえる。

  

彼は「カルト」「マインドコントロール」の用語が特殊な用語であることを強調し、それらの用語に意味がないと断言することによって、カルト被害という用語が、妄想であるこのごとく言い放っているのである。

  

確かに「カルトの定義」にこだわれば、議論は多種多様である。なぜならば、新興宗教による被害が大きく取り上げられるようになったのは、この20年ぐらいのことであり、オームに見られる異常な思考回路が社会問題化したのが今から13年前。

  

人間の心が変えられていく「マインドコントロール」という用語が拡がったのもこのころだ。

  

しかし、欧州では、信仰の自由とカルト(欧州ではセクト)の区別の分析については、議論され、一定程度の対策が講じられている。

  

日本では、無防備のまま、民事裁判が多発している状況がある。しかしこの議論の軸を見失わせるこの人物の意見こそ、親や社会を否定的に見る思考で人間を洗脳する宗教団体(私は宗教団体と呼びたくない)を温存させることに加担することになるものではないだろうか。

  

私どもの子どもとアベル(統一教会でいう信者の上司)の会話で「親の堕落性が見えてきて・・・・」というやり取りを知った時のショッキングな体験から、「カルト」とは、「その組織とかかわったときに、親や家族を排他的にみる思考回路を持たされる組織」がカルトの第一条件ではないだろうか。これは私の個人的な意見にすぎないかもしれないが、入信した子供が家には帰らない、帰らない理由も定かではない。入信したことによる家族との断絶である。

  

でも本当に、その人物が言うように「カルト」は本当に社会的定義がされていないのだろうか。

  

フランスでは、1995年国民議会で、「セクト」の定義が採択された。セクトの本質を「新たな全体主義」として定義がなされ、次の10項目が構成要件として列挙されている。

  

  1.  精神の不安定化

  2.  法外な金銭的要求

  3.  住み慣れた生活環境からの断絶

  4.  肉体的保全の損傷

  5.  子供の囲い込み

  6.  反社会的な言説

  7.  公秩序の攪乱

  8.  裁判沙汰の多さ

  9.  従来の経済回路からの逸脱

  10.  公権力への浸透の試み

  

    これが完全な定義かといえるかどうかは別にして、被害があるから対策がある。

      

    私は労働運動に携わっている。「労働」の定義にしても、立場によって変わるものだと思っている。

      

    労働運動は、労働者の立場に立って、「労働」による被害をなくし、労働者の権利の拡大のための運動である。資本家が労働運動をするわけがない。資本家は、最近のキャノンの偽装請負に見られるように、法律破りをし、それを隠ぺいしてまでも、安い労働を求める。

      

    「労働の定義が多種多様で決まったものがないから、運動するな」と言ったら、労働者は怒りだすだろう。

      

    平和運動でもしかり。平和の定義は、その立場によって異なる。

      

    「広島長崎の原爆投下は、これ以上の死傷者を出さないために、止むを得なかった。もし原爆投下がなかったら、戦争終結は遅れ、何百万という人が犠牲になった。平和のための原爆投下だった」これがアメリカの教育で教えられていることだ。このことに疑問をいだくアメリカ人が多くなってきたというのも今の時代の社会的運動の影響ではないだろうか。

      

    このような平和のための戦争、原爆も当然という定義もあれば、日本の原水爆禁止運動や5億6千万人の署名で朝鮮半島への原爆投下を阻止したストックホルムアピールのように、いかなる戦争も、核兵器の使用も禁止し、対話によって平和を築き上げるという定義もある。

      

    どちらの定義が正しいかは、理性ある人々の判断にゆだねれば、一目瞭然である。

      

    被害があるから、運動があり、対策が生まれる。これが自浄能力のある社会の流れではないだろうか。不十分な点もあるが、カルトに対するフランス社会の流れは、当然のことではないだろうか。

      

    「カルト定義が確立してないから、運動するな」なんてことは、冗談ではない。

      

    カルトによる被害があるから運動がある。そのことを第一義にとらえることができない論理は、カルト被害者の立場を踏みにじるものとしか言いようがない。

      

    この人物が、拉致監禁によるPTSDの発症を訴えるのも、被害があるから訴えるという一件論理が通った見方に見えるが、この論理の背景にカルト教団を擁護する論理が働いている以上、彼の論理は問題の本質的解決を遠ざけるものであることを、私は家族の立場で訴えたい。

      

    子どもが、親を堕落したなど言う家族愛を否定するような思考回路にはまらなければ、途方もない時間をかけた準備と説得に要する時間は必要ないからだ。

      

    なぜか、まわりくどい文章になってしまった。私の悪い癖だ。どうかご勘弁を。

      

    カルト被害の定義を曖昧にするジャーナリストにご注意