【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

平成初期の政治青年の憧れ、簗瀬進さんにお招きいただいて 政治改革 1996民主党 2009年政権交代

2018年12月12日 18時12分00秒 | 政権交代ある二大政党政治の完成をめざして

[写真]簗瀬進さん(右)、昭和音楽大学内「イルカンビエッロ」で。

 政治改革ーーあの「熱病のよう」と言われた、平成最大の政治ムーブメント。平成が終わるにあたって振り返ると、経済バブルが弾けているのにまだ気づいていなかった時代に、ジュリアナ東京のようなバブルの残り香だったのかもしれませんが、選挙による政権交代が2回ないし3回成功して、平成が終わります。

 平成初期、政治青年のあこがれだった、簗瀬進さんにお招きいただき、政治改革時代のお話を伺いました。ファンだったアイドル歌手にお招きいただいたようなもので、ポーカーフェイス気取りの私も紅潮した表情でツーショット。私に限っては、よい平成のフィナーレを迎えられそうです。

 簗瀬進さんは、昭和音楽大学学長で、憲法を教えています。教員免許をとりたい学生には必修なので、自ら教科書「音大生のための憲法講義15講」(共栄書房)を執筆し、パワーポイントを作成して、教鞭をとっているそうです。

 政治改革を実現する若手議員の会が、1986年初当選の石破茂さんと、1990年初当選の渡瀬憲明さんの共同代表だったことについては、「渡海紀三朗さんが石破さんを推していた」のと「渡瀬さんは同期の中では最年長で、政治経験も長かった」のが理由だとしました。

 1993年6月14日に、石破さん、岡田克也さん、岩屋毅さんらと宮澤喜一首相・自民党総裁私邸に乗り込んだのは「薩摩藩士のような気持ちだった」とし、石破さんが「自民党臨時両院議員総会を開いてほしい」というのは口実で、政治改革についての世論の盛り上がりを活用して、政治改革を実現させたいとの思いだった、と。また、この「討ち入り」の際、事前に連絡を受けていたはずの宮澤首相が「おやおやこれはみなさんどうしました?」とお惚けをみせたのは「首相ならそういうしかない」と事実だとし、隠れ武闘派の宮澤さんが「なんならここでやろうか」と謎の発言をしたのも事実で、「やる」とは議論をやるという意味だったとしました。宮澤邸のソファで総理を囲む形で話したとしました。

 
[画像]岡田克也さん(背中)、浜田幸一さん(中央)、簗瀬進さん(右から2人目)、増子輝彦さんら、フジテレビさんのニュース映像から。

 6月15日の自民党本部内臨時総務会封鎖では、現地集合。石破共同代表には、雑踏から離れて、エレベーターホールで最後のお願いをしてもらい、簗瀬さんは、「当時体重が100キログラム以上あった」(ご本人)とのことで、さほど広くない自民党会議室のドアを封鎖する役割をしたとのことでした。

 その後、政治改革を旗印にした新党を強調する簗瀬さんと、四十日抗争のように自民党の政治体質刷新を求める運動にしようという考え方が両立しましたが、簗瀬さんが押し切り、新党名を「さきがけ」と提案。とっさに井出正一さんが「私の後援会と同じ名前だ!」と合いの手を入れたので、武村正義さんがそこで最終決定。6月18日、簗瀬さんは、宮澤内閣不信任案の採決直前に、自民党河本派の同期である山本有二さんに議員会館内の部屋に招かれると、そこには、同派閥の先輩、大島理森さんが居て、他の同期議員が「しめろ!」と言うと秘書が「ガチャ!」と鍵を閉めたとのこと。その同期議員の「しめろ!」の声は今でも忘れないとのこと。大島さんらの密室での説得にも関わらず、簗瀬さんは不信任案に賛成。その後、武村さんが代表して離党届を出しに行く際、羽田孜・改革フォーラム21代表から「やりやがったな」と言われたと武村さんから聞き、簗瀬さんらは新党結成の流れができたとのニュアンスを共有したそうです。

 新党さきがけ結党記者会見の午前中に、「魁」「先駆け」の2つのデザインをもらい、「魁」のロゴマークを選び、記者会見に間に合わせたとのことでした。この作業は渡海紀三朗らとのぞんだそうです。

 自社さ政権では、NPO法制に汗をかきましたが、橋本龍太郎さんからストップが入り、さらに、田中秀征経済企画庁長官からもストップ。

 1996年民主党結党では、「自社さ」のうち、さきがけと社会党を統合した新党を主張する人もいたようですが、簗瀬さんらは、社会党の左翼を切り捨てた「排除の論理」でなければならないと主張したとのこと。排除の倫理は違う意味合いで広まったとのことでした。

 1996年の総選挙は、最大与党・自民党、最大野党・新進党、新党・民主党でみつどもえのなか、与党・自民党が勝った小選挙区も多くありました。私は簗瀬さんに、当時の新進党をどのようにとらえていたのか聞きました。簗瀬さんら民主党は新進党について、「小沢一郎さんが憲法9条第2項の改正などを考えている」ととらえていたとのこと。私が、新生党・新進党ムラに居た時代に、小沢先生が憲法9条第2項改正だとか、普通の国といった言葉を口頭で発した記憶が無い、と私が強調すると、簗瀬先生もその後、小沢佐重喜さん(日米安全保障条約の衆議院での審査特別委員長)の考え方同様に、小沢一郎さんは平和を意識している人だと気づいたとのことでした。永野茂門元法相(元陸上自衛隊幕僚長)や田村秀昭参議院議員(航空自衛隊)、月原茂皓衆議院議員(背広)ら自衛隊関係議員と防衛利権を独占していた新生党ですが、十数年後、秘書らも「あれはどうしたっけ?」「すっかりなくなりましたね。野党だからでしょう」と会話するほど、防衛利権はきれいさっぱり野党・小沢一郎さんの周りから消え去ったとお話しすると、簗瀬先生もあっけにとられたようでした。

 1996年民主党の屋台骨は、麻布十番の根城で、簗瀬さん、五十嵐ふみひこさん、海江田万里さんらと練ったものですが、自らの議席を失い、仙谷由人さんに引き継ぎましたが、仙谷さんからの連絡は無しのつぶて。

 鳩山内閣では、「簗瀬法相」を予想する声がありました。簗瀬さんは、ねじれ国会の、参議院民主党国会対策委員長をしました。簗瀬さんは平野博文官房長官内定者に、政権交代後は、最初の予算案を確実に成立させることが大事で、参議院予算委員長が自分に課せられた最大の役目だと強調。成立しましたが、直後に、簗瀬さんが議席を失ってしまいましたので、簗瀬大臣を見ることはありませんでした。残念です。

 「空母ではない多用途なんちゃら護衛艦」を主張する岩屋毅・現防衛大臣の向うをはるわけではないでしょうが、簗瀬学長は教員免許で必修となる憲法学を講義中。上述の教科書では、その「第5講」で「2014年7月1日の閣議決定で従来の憲法解釈を変更した集団的自衛権は自国への攻撃が無くても他国を攻撃することができる立憲主義の危機」(要約)と喝破。とはいえ、「職業の自由を最初に主張した音楽家は?」「答え・モーツアルト」というように、コラム満載で、音大生の心から平和を実現したいとのこと。政治よりも、人づくりの方が今は楽しいとのことでした。

 簗瀬進さんと船田元さんが宇都宮、栃木1区だから、枝野幸男青年が、大宮・現埼玉5区に落下傘して出馬したというのは有名な話です。その枝野代表には、立憲民主党結党直後に、「音大生のための憲法講義15講」を贈り、電話で話したとのこと。さて、枝野代表の心には、簗瀬さんの思いは伝わっているのでしょうか。

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