【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

[訃報]冬柴鉄三さん、享年75、ガソリン国会(第169通常国会)の国土交通大臣

2011年12月06日 00時29分50秒 | その他

[画像]ガソリン国会(第169通常国会)の国土交通大臣として、野党・民主党と死闘を繰り広げた冬柴鉄三さん、参議院インターネット審議中継からキャプチャ・トリミング。

 元新進党国会対策副委員長で、公明党幹事長、国土交通大臣を務めた冬柴鉄三(冬柴鐵三)さんが亡くなりました。享年75。

 心からご冥福を申しあげます。

 冬柴さんは揮発油税・軽油引取税の暫定税率の租税特別措置時限立法の失効によるガソリン・軽油の1ヶ月間の値下げ、道路特会でのタクシー券やミュージカルへの歳出、道路特定財源の一般財源化で、野党・民主党が猛攻撃をかけ、政権交代に大きく前進した伝説の第169通常国会の国土交通大臣でした。

 1986年の衆参ダブルの第38回総選挙で初当選して、小選挙区移行後も連続当選7回。新進党では国対副委員長や兵庫県連幹事長を務めました。2009年の第45回衆院選では、新党日本代表で参院議員だった田中康夫さんが刺客として兵庫8区に乗り込み、落選。その後も公明党常任顧問を務めていました。

 「新進党」は公募です。ファクスとハガキで募集しました。私は「新・新党結党準備委員会」(小沢一郎実行委員長)で、学生ボランティア(新生党学生塾員)として、新生党、日本新党、民社党、公明党などの秘書や職員と一緒に、日本新党本部内の会議室で集計作業をしていました。羽田孜さん、市川雄一さん、米沢隆さんらが視察に訪れたときにテレビに映ったので驚いた同級生も多かったようです。

 日本新党本部の松野頼久職員の仕切りがよく、「新・新党」への国民の期待も強く、タイヘン和気藹々としていました。とはいえ、やはり、公明党の秘書の方はどんな方なのかなあ、という気があったのですが、件のテレビ取材のときには、自党の書記長である市川さんを見て、「あっ」という感じで緊張していました。それは他党でも同じでしょう。やはり変わらないんだなと。そして、若くして亡くなった久保哲司・公明党衆院議員がこのチームに詰めていて、大阪市職員時代の武勇伝をざっくばらんに話してくれたりして、リラックスして、作業ができました。ファックス用紙は、各国会議員などの事務所などが地元で配っているのが主流でした。その中で、冬柴さんは党本部作成のファックス用紙に自分の姿を刷り込んでいました。たしか文面は「冬柴鉄三は国会で頑張っています!新しい党の名前、尼崎のみなさんが決めて下さい!」というようなもので、街頭演説する冬柴さんの姿が白黒で(ファックスですから)刷り込まれていたように記憶しています。応募用紙の束を五十音順にしていく作業で、それを見つけた久保さんの秘書が「あっ先生、冬柴さんこんなのつくってますよ!」と言っていたのを思い出します。公明党議員はみな支持母体の創価学会に乗っかって選挙をしているんだと思いきや、議員毎にやり方が違うので、選挙の強さには濃淡があるようでした。

 「新進党」はたしか7人ほどの応募があったと記憶しています。パシフィコ横浜の新進党結党大会で表彰されたのは、兵庫県の「土肥(どひ)」さんという主婦の方でした。しかし、翌々年の阪神・淡路大震災で自宅が倒壊してしまったそうです。

 冬柴さんは兵庫8区(尼崎市)選出の「代議士」として、国交大臣として重みある答弁をしたことがあります。

 2007年10月31日(第168臨時国会)の衆院国土交通委員会で民主党(当時)の石川知裕さんの質問に答え、「緊急地震速報をやるということについての利益は、私は非常に大きいと思います。それはやはり、私も阪神・淡路大震災を経験しましたけれども、六千四百三十四人の方が亡くなったんです。その九割までが、先ほども話がありましたけれども、わずか十五、六分の間に亡くなっているんですよ」「いろいろデメリットはあるとは思いますけれども」「だからといって、これをやめる、これを先延ばしする」「私はその方が恐ろしいというふうに思います」と答弁し、法案に賛成するよう促しました。これに対して、石川さんはとっさに「いや、別に私も反対をしているわけではありません」と答えました。石川さんの選挙区である北海道11区も海と山があり、自然環境が厳しいところです。石川さんは「冬柴大臣はいつも質問には真摯に答えてくれていた。新進党時代は、東順治さんらとともに、安全保障問題に詳しかったのが記憶に残っている」としました。5日夜当ブログの取材に答えました。

 このとき、冬柴さんは地元を良く回っている政治家だと感じました。ただ、ガソリン国会では、答弁中に、秘書官がメモを投げ入れる場面がありました。秘書官に入れ知恵される大臣はしばしば。でも後ろからメモが飛んできたのはこのときだけでした。ガソリン国会の民主党の猛攻はすごかったとはいえ、適材適所という意味では、どうだったのでしょうか。心労があったのかもしれません。

 とはいえ、冬柴さんがホントウに地元を良く回っていることを私が最後に感じたのは、2009年8月の選挙でした。このとき、私は梅田から阪急に乗って、「曽根」という駅に向かっていました。ところが乗り換えを間違えて、「塚口」という駅に行ってしまいました。あわてて先方に電話して、「先生、こちらから曽根までタクシーで行きます」「いやそこからじゃタクシー代5000円はかかるよ」と言われて、電車で引き返すことにしました。わずか十数分でしたが、塚口の駅から周りをみました。そして、ここは大阪府ではなく、話題の兵庫8区だということに気づきました。初めて見る尼崎市。駅前の下町。そして、後でグーグル・アースで復習すると、日本を代表する大企業の工場と、その工場で働いている人も住んでいるであろう庶民の街の渾然一体。まさに日本です。そして、テレビでは初めてみる選挙戦中の冬柴さんは自転車で駆け回っていました。その姿には恐れ入りました。しかし、冬柴さんは僅差で落選しました。大物落選の可能性が出てくると、初めてその選挙区が取り上げられるというテレビジャーナリズム。これはやむを得ない。しかし、一抹の空虚さを感じました。

 それはまた私にとっては新進党を失ったときに似た空虚さでした。

 なお偏見かも知れませんが、私が知っている限り、地方議員、国会議員問わず、公明党議員は比較的お若い年齢で亡くなる傾向があります。大衆とともに。チーム政党なので、中間管理職的な心労、ストレスが強いのだと推測します。冬柴さんも75歳。自転車から降りて、ゆっくりとお休み頂きたいと思います。

公明元幹事長、冬柴鉄三氏死去…自公政権で活躍 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 元国土交通相で、公明党元幹事長の冬柴鉄三(ふゆしば・てつぞう)氏が5日、兵庫県尼崎市内の病院で急性肺炎のため死去した。75歳だった。

  自宅は同市潮江1の5の1の2610。告別式の日取りは未定。
 
 冬柴氏は1960年に関西大を卒業後、弁護士を開業。86年衆院選で初当選した。93年8月、非自民連立の細川内閣で自治政務次官を務め、旧新進党の結成・解党を経て、98年1月に旧公明党系衆院議員が結成した新党平和で幹事長に就任。98年11月に再結成された公明党でも幹事長を務め、神崎武法代表(当時)と二人三脚で公明党の与党入りを実現するなど党運営に尽力し、自公政権では中心的な役割を果たした。2006年9月、安倍内閣の国交相として初入閣した。

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