江戸城は、上空から見ると心臓の形をしている。これは何を意味しているのか? 順位 1750 1775 1800 1825 1850 人口 都市名 人口 都市名 人口 都市名 人口 都市名 人口 都市名 1位 900,000 北京 1,000,000 北京 1,100,000 北京 1,350,000 北京 2,320,000 ロンドン 2位 694,000 江戸 710,000 ロンドン 861,000 ロンドン
突き詰めれば、日本人が早くから「人間や動物の体は、心臓がポンプの役割を果たし、血液が循環して保たれていること」を知っていたことが解る。
世界で最も早く血液循環説を唱えたウィリアム・ハーヴィー(1578年-1657年)が『動物における血液と心臓の運動について』を発表したのは1628年である。 これに対し、徳川家康は、1590年8月30日江戸城に入城し当初質素であった砦の改良工事に着手した。設計を担当したのは藤堂高虎で、工事が完成を見たのは1636年、孫・徳川家光の代である。つまり、徳川家は世界の最新科学を取り入れて江戸城を改装し、お堀を心臓の形に張り巡らしたことになる。
江戸城は、周囲16kmにおよぶ郭(くるわ)に守られている。城郭内部の総面積は、名だたるカルソンヌなどをしのぐ・・・世界最大の大城郭である。また、今の皇居がある場所は、昔の大奥であり、心臓ではちょうど左心房にあたる。大奥の女中の人数は最盛期で1000人とも3000人とも言われており、その規模は世界中のどの宮廷をも凌ぐ世界最大のハーレムであった。
1868年4月、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、東京城に改名され皇城となる。1888年には明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称された後、1948年に皇居と改称された。明治天皇にも40人の側室がいて多くの子女をもうけたが、その全てはつまびらかにされていないという。
このように、 日本の統治者(徳川家康~昭和天皇)は、天空にあると信じる神霊に対して「心臓の形」を捧げてきた。これはメキシコ・マヤ文明のチチェン=イッツア遺跡(戦士の神殿)などにあるチャクモール(雷のようにすばやい獣の足の意味)が、心臓そのものを神に捧げた置物であることと関係があるのだろうか?
マヤ人たちは「神の怒りを静めるためには、人間の生贄が必要」と考えた。まだ動いている心臓をチャクモールに置いて神に祈りを捧げたという・・・鯛の活造り」などとの関連性もありそうだが・・・マヤ人は日本の弥生人と同質の人種であったことが判っている(我々モンゴロイドからネイティブアメリカンが生まれたことは「世界貢献の道③」で述べる)。
こうして考えれば、自然と、奈良・明日香の「鬼の俎板」が人間を生贄としていた証に見えてくる。「どうやら「殷墟」を追われた民族が日本を経由してアメリカ大陸に逃れた軌跡が見えてきた。時代が下がって、戦国時代・伊達藩の支倉常長が、スペイン・イタリア・メキシコを訪問し、世界を巡っていたことなどとと対比して更に調べたい。
いずれにせよ、日本の統治者たる将軍・天皇は、過去400年以上、心臓の形をした江戸城(皇居)の左心房に住み続け、膨大な数の子孫を配し続けている。絶えず、この心臓左心室から、将軍・天皇の血・DNAが世に送り出されてきたのだ。明治天皇には40人の側室がおり、残された子女の全ては明らかにされていない。
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歴史人口学(Tertius Chandler)によって推定された江戸(1650~1861年)の人口は、50~78万人程度で推移しており、イスタンブル・北京・ロンドンなどと共に世界最大級の大都会「City」であった。