リゾートホテル社長になった(地位保全仮処分申立中)脱原発活動家のブログ           ~街カフェTV/藤島利久~

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上岡八幡宮の鳩、金星、信仰 - 2011/01/12(Wed)

2011年01月16日 | 歴史

http://www.himawarimilk.co.jp/clip/clip.cgi

ひまわり太郎さんの気になる記事(転載)

2011年1月12日(水)快晴!

今朝も冷え込む高知県地方。昨日の夜、汽車に乗って帰ってきました。
こじゃんと冷え込む中の、いつもの上岡八幡宮。夜明け前の八幡様は静かで、幽玄。まだ暗い参道を通り、石段を上りよりますと、拝殿の界隈からバタバタバタバタ、という大きな音がして、心臓止まるかと思いました。暗い森の中に浮かび上がる社殿から、突然の大きな音ですきに。
よく見てみますと、拝殿前に1羽の鳩が。飛び上がろうとして、拝殿の庇(ひさし)につかえて飛び上がれず、また拝殿の前にたたずむ、という作業を繰り返しゆうにかありません。拝殿前の鳥。これは何か、特別な意味がありそうな気がします。思い出すのは2009年5月25日。にっこりバックナンバーをご覧下さい。五台山の星神社で、拝殿前にてお参りをしょうとしゆうひまわり太郎の目の前に、1羽の立派な鶏が駆けてきて「コッケコッコー!」と鬨の声をあげた、というお話。今朝の鳩も、ひまわり太郎がお参りしゆう間はジッとしてたたずみよりました。不思議な朝。
その拝殿から石段を下ると、正面の木々の間に金星が煌めきよりました。参道をまっすぐ行った方向。
そう言えば、星神社はもともと妙見信仰の神仏習合のお社。北極星、北斗七星信仰ですね。で、一昨日書きましたが、大将軍神社は金星の精とも言われます。かつてニッポンでは、大自然に対する畏敬の念が強く、星にも特別の思い入れがありました。それが、仏教、道教などと一緒になり、いろんな考え方の混ざった混沌とした信仰が日本中に広まっちょったのでありました。
ひまわり太郎通勤路界隈に匂いのする熊野信仰も、そんな、色んな宗教が綯い交ぜになり、自然信仰アニミズムと結びついて修験道となり、広まったものですよね。明治になって、修験道が排除され、国家神道に集約していく政策が採られましたが、やっぱし日本人の心に染みついちゅうのは、そんな混沌の宗教観ながやないろうかと思います。

長岡台地の大将軍社さんから眺める - 2011/01/10(Mon)   

2011年1月10日(月)良いお天気

風は冷たいですけんど、良いお天気。今日もお昼過ぎに南国工場を出発して、ちくとたつくりました。と、申しましても、昨日のRUNが膝と足の裏にきまして、足裏の大きな水ぶくれが今にも破れそうなので、自転車です。
空港方面に南下した後、直線の道路を一気に北上。今日は強烈な北風ビュービューですきに、これがなかなかキツイ。踏んだち踏んだち進みませんな。そして、香長平野が一段高うなる長岡台地の裾で左折、舟入川沿いに進みますと、右手に大将軍神社が見えてきました。
長岡台地は、太古にできた物部川の河岸段丘でしょうか。かなりはっきりと段差になっちょりますよね。で、藩政期初期、野中兼山さんは、その段差の下の裾に舟入川を開削しちょります。
台地の裾の道から、舟入川を橋で渡り、石段を登ったところがここ。一の鳥居からは、広大な香長平野が見渡せるのであります。左手に、二階建ての家の屋根の部分が見えます。この段差は、そっれっぱああるということです。かなりはっきりくっきりした段差で、これは後免界隈で消滅しちょりますね。
大将軍社は、江戸時代にも全国的にどっしこできたそうで、それこそ一村に一社くらいあったそうですきに、お稲荷さんには及びませんがなかなかのもの。いつもの通勤途上、大そねの南にも鎮座ましましちょります。
大将軍信仰は、奈良時代に入って来た信仰で、方位を司る神様とのこと。なんでも、大将軍様の居られる方向を侵すと、大変な災厄に遭うとされちゅうそうで、現代でも公共工事の着工を巡って地元の大将軍神社氏子さんたちとの争議がおこったりしますきに、たいちゃなもんです。
今日はここから長岡農協方面を通り、北西からの逆風を心地よく受けながら帰って来ました。足裏の水ぶくれは大丈夫やったです。

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金神(こんじん)とは方位神の1つである。

金神の在する方位に対してはあらゆることが凶とされ、特に土を動かしたり造作・修理・移転・旅行などが忌まれる。この方位を犯すと家族7人に死が及び、家族が7人いない時は隣の家の者まで殺される(これを七殺(ななさつ)という)と言われて恐れられた。

金神の中でも、「うしとらの金神」は「久遠国」という夜叉国の王である巨旦大王の精魂とされる。巨旦大王の眷属の精魂も(普通の)金神と呼ばれる凶神となっている。

またその精魂の抜けた屍は牛頭天王によって5つに引き裂かれ、五節句に合わせて祭った(巨旦調伏の祭礼)。

すなわち、

1月1日----紅白の鏡餅(巨旦の骨肉)
3月3日----蓬の草餅(巨旦の皮膚)
5月5日----菖蒲のちまき(巨旦の髭と髪)
7月7日----小麦の素麺(巨旦の筋)
9月9日----黄菊の酒(巨旦の血)
である。

金神と宗教
金神は人々に大変恐れられており、江戸時代の末には岡山県地方では、「金神封じ」と称して祈祷を行う修験者もいたり、「出雲屋敷」と称して出雲の神々に家を供え、金神から守ってもらおうとした家も多数あったが、信仰した者も多い。

確実に記録に残っているのは、現在の倉敷市船穂町の「堅磐谷の元金神」(通称「堅磐谷の婆さん」)と呼ばれた小野うたである。彼女は8人の子供の内7人まで亡くし、最後に残った娘・小野はるも盲目になり、今の倉敷市連島町の文十郎が金神を拝んでいると聞き、参詣し、金神信仰に入った。金神を祈祷して金神に抗議したところ、逆に金神が降臨し、その口を通じて金神が話をしたことから、信仰が始まったとされる。その後、祭典日には100人以上の参拝があり、門前に菓子屋などが建った。このように、「何々金神」と呼ばれる信仰者が多数生まれた。

その中でも、金神の祟りで幾度も転居を余儀なくされた香取繁右衛門(亀山の金神)と、その実兄であり金神七殺の祟りで家族を何人も失い自らも瀕死の大病になった川手文治郎(後に赤沢文治そして金光大神、大谷の金神)は、金神の啓示と自らの体験、例えば土地の主人である金神の留守を狙うような事をする人間に金神が祟るのは当たり前で、金神が巡って塞がりの土地は逆に金神に許しを得て使わせていただければよく、金神は昔から有る神であり、神として立て仰ぐ人間を待っていたと説き、それぞれ信仰すれば逆にすばらしい加護があったなどという信仰体験から金神信仰を一般化、体系化し、宗教化することにより、繁右衛門は香取金光教を、そして文治は金光教を啓いた。

また明治初頭、京都の出口なおは神懸かりの時、最も恐ろしいと言われる艮の金神の突然の降臨とその自動書記等の啓示により、金神こそがこの世の根本の神であり、信仰すれば大きな恩恵が与えられると伝え、最初は金光教の傘下で活動したが、後に出口王仁三郎と共に大本教を興した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%A5%9E」より作成

頗梨采女(はりさいじょ、はりさいにょ)とは牛頭天王の后とされる神。

概要

波利采女、波利賽女とも表記。名前の由来は梵語のハリ(水晶の意)に求める説がある。牛頭天王は祇園精舎の守護神ともされる仏教由来の神で、日本では行疫神(疫病を流行らせる神)として畏怖されるとともに神道の素戔嗚尊と習合し、明治期の神仏分離令まで祇園社(八坂神社)の祭神として祀られ、篤い尊崇を受けた神であるが、頗梨采女はその牛頭天王の后であることから、素戔嗚尊の后である奇稲田姫とも同一視された。

八大竜王の1柱で、娑竭羅龍王(しゃかつらりゅうおう)の娘であり、また八王子神(八将神)の母であるともされている。『簠簋内伝』(ほきないでん)では「歳徳頗梨采女也、八将神母也、容顔美麗忍辱慈之躰也」として方位神の歳徳神と同一視される(ただし異論もある)。『祇園牛頭天王縁起』では南海の沙竭羅竜宮城に住み、金毘羅女、婦命女の2人の姉がおり、竜王の第3女とされている。

もともと頗梨采女は、祇園社の本殿西御座に祀られていたが、明治以後の八坂神社では、奇稲田姫として東御座に祀られている。

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