goo blog サービス終了のお知らせ 

リゾートホテル社長になった(地位保全仮処分申立中)脱原発活動家のブログ           ~街カフェTV/藤島利久~

どんなに苦しくても世の中が真実で満ちていればそれでいい  
どんなに辛くとも信じるに足る社会であれば人々は生きて行ける

裏切りだけが人生か

2009年12月21日 | 鳥無き島の蝙蝠

中川 清秀(なかがわ きよひで、天文11年(1542年) - 天正11年4月20日(1583年6月10日))は、戦国時代の武将。

幼名虎之助。通称瀬兵衛。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系摂津源氏の流れを汲む多田源氏(あるいは河内源氏傍系石川源氏)の後裔と称した。 父は中川重清。母は中川清村の娘。子に秀政、秀成、池田輝政先室(池田利隆母)・糸姫。妹は古田織部室。

Nakagawa2.jpg

この武将の生きざまを見るに、主君を裏切り、友を裏切りながら、武士として荒々しく生きることだけに、執着しているように思える。戦国時代の武将の人生観を見究めるためには、彼の生き方と、他の武将の彼に対する評価を見逃してはならないだろう。


桑名弥次兵衛と蜷川親長の苦悩 浦戸一揆から大坂夏の陣へと繋がる悲話

2009年12月20日 | 鳥無き島の蝙蝠

長宗我部盛親は、関ヶ原合戦で西軍に加担し敗れた。土佐一国の所領安堵を徳川家康に願い出ていたが、部下の讒言により兄・津野親忠を切腹させてしまい、これを家康に咎められて改易された。

新たに領主となった山内一豊は、入国に先立ち、徳川から差し向けられた領地受取使である井伊直政の重臣・鈴木平兵衛・松井武太夫とともに、弟康豊を派遣した。これに抵抗した「一領具足」は、せめて半国(あるいは一郡)の領地安堵を願い、浦戸城に50日間篭城して明け渡さなかった。世に言う「浦戸一揆」である。

しかし、徳川方との交渉にあたった籠城団惣領・桑名弥次兵衛(吉成・別名一孝。盛親の幼少時には子守役を務めた旧臣で、家臣団の信頼も厚かった家老)と、代々室町幕府政所代を務めた家柄で世情に明るい蜷川親長は、既に和解の術は無いことを悟り、このまま一揆が長引けば主君・盛親の命を脅かす事になると危機感を募らせた。

結局、桑名・蜷川は、徳川方の提案した『盛親以下、投降した者らの助命と引替えに、抵抗する家臣団を掃討する』という、非情の条件を呑まざるを得なくなった。そして、最後まで降伏しない元親の遺臣273人の首を刎ね、塩漬けにして井伊直政の許に送った。

主君・盛親の助命を果たした桑名・蜷川ではあるが、共に元親に仕え歴戦で同じ釜の飯を食った仲間に対してだまし討ちのような仕打ちをなし、その功をもって他藩に召し抱えられたことから、裏切り者との謗りを受けつつ土佐を去った。

桑名・蜷川両名の所業については、戦国の処世術と冷ややかに見る目が殆んどであるが、藤堂高虎に召し抱えられた桑名が、その禄を削り、大阪で浪人中の盛親に密かに仕送りしていたという話もある。その胸中はいかばかりのものであったか・・・

ところが、運命の悪戯か、その桑名は、大阪夏の陣(八尾の戦い)で藤堂高虎の先鋒(下の図では「左先手」)を務めていたところ、偶然にも盛親と鉢合わせになり、旧知の一領具足らと槍を交わして壮絶な最後を遂げたという。

=========

大阪夏の陣 八尾の戦い

萱振村に進んできていた長宗我部勢先鋒吉田重親は、藤堂勢中備藤堂高吉の攻撃をうけた。吉田は本隊に対し攻撃を受けている旨伝令し、応戦したが壊滅、吉田は戦死した。吉田の知らせをうけた長宗我部盛親は、長瀬川で迎撃の体勢を取った。

正午頃まで戦闘は続き、小康状態になったところで長宗我部勢は長瀬川堤で陣を整え、休息した。そこへ若江の木村重成の敗報が届いた。敵中での孤立をおそれた盛親は大坂城へ撤退した。

ファイル:Battle of YaoWakae ja.png

藤堂勢の左先鋒藤堂高刑、桑名吉成は道明寺へ向かう先頭にあったが、転進、玉串川を越え長瀬川の長宗我部盛親本隊に迫った。高虎の旗本藤堂氏勝もそれに続いた。盛親は騎馬武者もすべて下馬させ、槍を持たせて堤防の上に伏せさせた。藤堂勢が充分近づいたところで一斉に立ち、槍を入れさせた。藤堂勢は壊乱し、藤堂高刑、桑名吉成は戦死、藤堂氏勝は負傷したが、退却中に死亡した。藤堂高吉も来援するが、長宗我部勢に圧倒され、撃退された。


信長の人生観

2009年12月19日 | 鳥無き島の蝙蝠

信長の人生観に重なる幸若舞『敦盛』の一節「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を享け、滅せぬ物の有る可きか」(人の世の50年は宇宙の内では夢幻の如く短い。生まれ変わることなど無い。という達観した人生観を謳っている。)

この幸若舞を創始した桃井直詮(源義家から10代後の桃井播磨守直常の孫)は、幼名を幸若丸といい、越前国丹生郡西田中村に住んでいたと伝わる。

一方、信長の家系は、同じ、越前国丹生郡織田庄の劔神社(つるぎじんじゃ)の祠官の系譜をひく、尾張守護・斯波氏の被官・織田氏。

つまり、信長は、宗教が教える生まれ変わりや極楽浄土思想などを嫌い、先祖の出身地の幸若丸の人生哲学を崇敬していたと言える。遠い存在の信長を身近に感じるのは、こうした現代人に通じる感覚なのかも知れない。

Odanobunaga.jpg


本山は讃岐に属していた  長宗我部と朝廷 元親と信長の関係

2009年12月19日 | 鳥無き島の蝙蝠

「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)

平安時代中期 (931年 - 938年)勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が、中国の分類辞典『爾雅』に倣って編纂した辞書である

これに表示された郷名(地方の土地の名)に拘って整理した書物「和名類聚抄郷名考證」 池辺弥(いけべわたる)という人が明治期に著した変わり種と言える書物

25

以前 県立図書館に調べ物に行って 何気なく手にした

そしてびっくり (私の故郷)本山は その昔 讃岐に属していた 政治的飛び地であったのだろう

本山が「毛止夜萬」と記されている

21

その頁全体

22

その前の頁 右下に「讃岐」とある 参照;「和名抄郡名一覧(南海道)」

26

つまり 中世 本山は讃岐の山田郡に属していた 土佐の謎が深まる いや 謎の解決の糸口になるか

高知市神田は 古代 奈良東大寺の所領(飛び地)になっていた

中央政権と土佐との関連 その移り変わりを調べることが 

長宗我部と朝廷 元親と信長の関係についての理解を深める

夜は長い じっくり考えよう

毛止夜萬・・・


長宗我部ファンクラブ 長宗我部元親伝 合同忘年会

2009年12月17日 | 鳥無き島の蝙蝠

長宗我部ファンクラブ忘年会 12月21日(月)19:00~  料理1500円(ドリンク別;各自)

街づくりカフェでは 長宗我部ファンクラブの忘年会に 長宗我部元親伝(歴史談義)グループが誘われる形で 忘年会を開きます

今年は カフェのスタート間もなく 真実の長宗我部元親伝~「鳥無き島の蝙蝠」を作ろうと 歴史好きの若者?らが集まって定期の歴史談義をスタートさせ 無事 序文の書き出しができました

更には 県外ファンとのイベントを成功させた 長宗我部ファンクラブとの交流も自然に始まりました 嬉しい限りです

年の納めの忘年会です 存分に語り合いましょう

連絡は カフェ管理者 藤島利久まで 090-1003-1503

0_bill

Photo