長宗我部盛親は、関ヶ原合戦で西軍に加担し敗れた。土佐一国の所領安堵を徳川家康に願い出ていたが、部下の讒言により兄・津野親忠を切腹させてしまい、これを家康に咎められて改易された。
新たに領主となった山内一豊は、入国に先立ち、徳川から差し向けられた領地受取使である井伊直政の重臣・鈴木平兵衛・松井武太夫とともに、弟康豊を派遣した。これに抵抗した「一領具足」は、せめて半国(あるいは一郡)の領地安堵を願い、浦戸城に50日間篭城して明け渡さなかった。世に言う「浦戸一揆」である。
しかし、徳川方との交渉にあたった籠城団惣領・桑名弥次兵衛(吉成・別名一孝。盛親の幼少時には子守役を務めた旧臣で、家臣団の信頼も厚かった家老)と、代々室町幕府政所代を務めた家柄で世情に明るい蜷川親長は、既に和解の術は無いことを悟り、このまま一揆が長引けば主君・盛親の命を脅かす事になると危機感を募らせた。
結局、桑名・蜷川は、徳川方の提案した『盛親以下、投降した者らの助命と引替えに、抵抗する家臣団を掃討する』という、非情の条件を呑まざるを得なくなった。そして、最後まで降伏しない元親の遺臣273人の首を刎ね、塩漬けにして井伊直政の許に送った。
主君・盛親の助命を果たした桑名・蜷川ではあるが、共に元親に仕え歴戦で同じ釜の飯を食った仲間に対してだまし討ちのような仕打ちをなし、その功をもって他藩に召し抱えられたことから、裏切り者との謗りを受けつつ土佐を去った。
桑名・蜷川両名の所業については、戦国の処世術と冷ややかに見る目が殆んどであるが、藤堂高虎に召し抱えられた桑名が、その禄を削り、大阪で浪人中の盛親に密かに仕送りしていたという話もある。その胸中はいかばかりのものであったか・・・
ところが、運命の悪戯か、その桑名は、大阪夏の陣(八尾の戦い)で藤堂高虎の先鋒(下の図では「左先手」)を務めていたところ、偶然にも盛親と鉢合わせになり、旧知の一領具足らと槍を交わして壮絶な最後を遂げたという。
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大阪夏の陣 八尾の戦い
萱振村に進んできていた長宗我部勢先鋒吉田重親は、藤堂勢中備藤堂高吉の攻撃をうけた。吉田は本隊に対し攻撃を受けている旨伝令し、応戦したが壊滅、吉田は戦死した。吉田の知らせをうけた長宗我部盛親は、長瀬川で迎撃の体勢を取った。
正午頃まで戦闘は続き、小康状態になったところで長宗我部勢は長瀬川堤で陣を整え、休息した。そこへ若江の木村重成の敗報が届いた。敵中での孤立をおそれた盛親は大坂城へ撤退した。

藤堂勢の左先鋒藤堂高刑、桑名吉成は道明寺へ向かう先頭にあったが、転進、玉串川を越え長瀬川の長宗我部盛親本隊に迫った。高虎の旗本藤堂氏勝もそれに続いた。盛親は騎馬武者もすべて下馬させ、槍を持たせて堤防の上に伏せさせた。藤堂勢が充分近づいたところで一斉に立ち、槍を入れさせた。藤堂勢は壊乱し、藤堂高刑、桑名吉成は戦死、藤堂氏勝は負傷したが、退却中に死亡した。藤堂高吉も来援するが、長宗我部勢に圧倒され、撃退された。