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三門をくぐり境内に這入ると、約10万坪の広大な敷地に、さまざまなお堂を目にする。そんなお堂の中心部に配置されているのが、この仏殿で、「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」とも呼ばれている。
この宝殿には、中央の須弥壇上に禅宗の本尊である釈迦牟尼如来(坐像、木彫)が祀っられている。
如来は、死の恐普A病気、四苦八苦など様々な衆生の悩みや苦しみを救済するため、その具体的な請願によって出現される仏で、尊像は、右手を施無畏印、左手は与願印の印相をしております。
この印相は、人々の不安をとり除き、あらゆる願いをかなえてくれる大慈悲の心を表現しているという。
残念ながら、宝殿の入口は閉まっており、須弥壇など内部は見られず。
「みだれ髪」の歌集、また、夫である鉄幹との間に11人の子を設け、明治・大正・昭和の時代を生き抜いたことで知られる「与謝野昌子」が、この宝殿に対し次のような歌を残している。
胸なりて われ踏みがたし 氷よりすめる 大雄宝殿の床
山門に向かって右側に、大きく、立派な切妻造りの鉄筋コンクリートの堂宇(どうう)を目にする。
作品の「三松閣」で、平成2年に竣工されたが、最近改修が行われ、人々が広く集い禅の道場を身近に触れることができる場として生まれ変わった由。
建物は、地上四階、地下二階、9400平方メートルの広さがあり、檀信徒研修道場、各種セレモニーの会場となっており、宿泊施設も整っているという。
建物の「三松閣」の名前は、能登・祖院にあった三本の龍形の松にちなんでと付けられたという。
広い境内は、自動車の心配が無く、格好の保育園児の散歩道といえ、何組も目にした。
画像処理効果は、水彩スャ塔Wを用いたもの。

・・・三松関をくぐり、50mも歩むと正面に作品とした「三門」を目にする・・・
三門とは、禅寺の仏殿前にある門で、大きな中央の門と左右の門と三つ連ね一門としたものを言う。
なお、この三門は寄進されたもので、昭和44年に落成し、鉄筋コンクリート造りでは、日本一の大きさを誇っているという。
三門には、左右に金剛力士(仁王)像をおくのが通例とされており、總持寺の場合も同様で、左右に元横綱・北の湖関15歳の姿をモデルにしたと伝えられている阿吽の仁王像が納められている。
山門正面の扁額「諸嶽山」は独住19世・岩本勝俊禅師が書かれたもの。
作品は、金剛力士像を含め、鉛筆:スケッチ(モノクロ)効果を用い写画にしたもの。
・・・横浜市鶴見区にある禅宗の一派である曹洞宗の大本山「総持寺」・・・
鶴見には、嫁さんの実家があり、義父母の存命中は結構 訪れていたが、「総持寺」へは、気になっていたが、今まで行ったことがなかった。
そんなこともあり、先々週の暖かな木曜日に出向いてみた。
JR鶴見駅から、線路に沿って横浜方面へ7~8分も歩くと、右側の奥まったところに、今回作品とした総持寺の総門である「三松関」を目にする。
門の上部正面には、三樹松関(さんじゅしょうかん)と書かれた扁額があるが、これは、総持寺中興の祖といわれる石川素童禅師(1841~1924)が揮氈iきごう)されたもので、総持寺の祖院がある能登には、みごとな龍の形をした三本の松樹があったことに由来しているという。
偶々 入口にて、袈裟をまとった、坊主頭のまだ若い僧侶2人に出くわし、一瞬異様な感がしたが、場所が場所だけに納得。
作品は、チョークスケッチ(暗)効果を用いたもの。
鎌倉大仏からの帰り道、長谷の交差点を左折すると先週紹介した甘縄神社、右に折れ30mも歩くと長谷寺の山門がある。
長谷寺といっても独立したものは無く、観音山の裾野に広がる下境内と、その中腹に切り開かれた上境内の二つの境内から成り、そこには、観音堂・阿弥陀堂・鐘楼・地蔵堂・弁天堂・弁天窟・宝物館などの建物の他、季節ごとの花に彩られた庭園 また、眺望散策路など、当山全体を称して「長谷寺」という。?
山門で入山券を求め中に入る。
初めて訪れたところだが、記述したとおり見どころが多く、かなりの人が出ていた。 大仏では、外国人が多かったが、ここは、圧涛Iに日本人が多く、観光地の知名度の差を感じた。
作品は、観音堂をスケッチ効果を用い写画にしたものだが、写真の画像は完全に消え、絵画に近い画像となっている。