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万国橋の通りをそのまま関内方向へ向かって進み、右手に見えてくる県立歴史博物館の先を東方向に向きを変え、次の目的地へ・・・と向かう筈であったが、暑さと疲れで足が進まずやむなく計画を中断。
既に、昼食時を過ぎており、近くを通っていたみなとみらい線の電車に乗り、日本大通り駅から元町中華街駅へ移動し、中華街にてビールとチンジャオロース定食を食べ一息つく。
作品は、元町中華街駅を降りたものの位置関係が判らず、中華街をうろついていた際、とてつもない派手な外観の中国風寺院を目にし、思わずカメラに収めたもの。
後で調べたら「関亭廟」と言い、主神は、西暦160年ごろに実在した中国の武将「関羽雲長」を神格化したものが祀られ、関羽の信義を重んじた人柄から商売の神様として世界中で祀られているという。
関羽についてはご存知と思うが、三国志の英雄で、劉備・張飛と「桃園の誓い」を結び終生劉備に忠誠を尽くしたことで知られている。
作品でははっきりしないが、本殿(左側)の極彩色の屋根瓦は、北京の工房で特別注文して焼きあげられたもの、また 屋根の上にある、龍(右側)の飾りはガラス細工で作られているという。
* 今回の散策は途中で中断したが、既に 7月の末に、この散策の続きを施行済み。
これの作品については、少し間をおいて掲載したい。
・・・今年も、元旦早々にお参りした地元の春日神社・・・
例年の通り、午前9時半頃のお参りであったが、今年は例年と比べ結構賑わっており、駐車場も満杯状態で、この不況下 近場の神社で済ます初詣の感を受けた。
この春日神社については、既に2回 題材として採り上げており、その由緒などは既述済みだが、建立後 900年を越える歴史があり、祭神は藤原氏の先祖天児屋根命(あめのこやねのみこと)で、ご神体は縦横20mm位の一対の坐像で、素朴な木彫で、神々しい風格をそなえているという。
投稿済みの2作品('05.8/10、'06.1/4)は、石段の下から捉えたものだが、今作品は、社殿側から見下ろしたもの。
石段の参道を登りきると、10畳ほどの平坦があり、一旦はホットしたが、更に前面に30段余りの石段が続き、それを登るとヤット作品の八菅神社の本殿にたどり着く。
この本殿を中心に、樹齢三百年とも言われる老杉、スダジイの大木、赤松など 2.5ha に及ぶ社叢林(県指定天然記念物)があり、昼間でも薄暗く物静かな所である。
本殿の裏側には、左右夫々にハイキング・コースがあり、15分も歩けば厚木方面が一望できる展望広場とか、いこいの森、また、竜福寺などがあるというが、参道の石段でバテており、本殿をUターンし駐車場に戻った。
訪れたのは、平日の午前中であったが、駐車場は数台の車のみで、出くわした人も3~4名であった。
作品は、ペイントフレスコ効果を用いたもの。
義父母の墓参りの行き返り、愛川町中津の交差点で目にする「八管神社」なる大きな立て看板、一度 行きたいと思っていたが、先週の蒸し暑い日、訪れる機会を得た。
看板の矢印に従い、5・6分も走り中津川に架かる八管橋を渡ると、直ぐ目の前に八管神社の鳥居を目にする。
八菅山の中腹にある「八菅神社」は、神奈川の景勝50選に指定されており、自然豊かなところである。
八菅山は当初蛇形山と言ったが、これは日本武尊が東征の折、この山に立ち、山の形大蛇に似る所より蛇形山と名付けられた。
その後、役の小角がこの地を訪れ六神を祭り修行を行った際に、八本の白菅が生え出ていたため「八菅山」と呼ばれるようになったという。
別名八菅の七社権現とも呼ばれているが、日本武尊など七神が祭神として祭られている。
作品は、グリーン・ハーブ効果を用いたもの、右側に「八菅神社」なる看板が見える。
・・・境内にある、数々のお堂の中で最も大きな建物である「大祖堂」・・・
大祖堂とは、開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿で、千畳敷の内中外陣と、982坪の地下室を有し、瓦葺形の銅版屋根は53トンに及ぶという。
貫首禅師演法の大道場たるのみならず、諸種法要修行の場とされている。
訪れたとき、正面の入り口が開いており中を覗いてみたが、百人前後のお坊さんが一斉にお経を唱えおり厳粛な感を受けた。
本来なら、始めに記述すべきであったが、総持寺の開創について簡単に触れておく。
今から650年前に能登半島の一角、櫛比庄に諸嶽観音堂という霊験あらたかな観音大士を祀った御堂があり、そこの住職に招かれた瑩山禅師が、現在の「総持寺」の基礎を創られたという。その後、能登に於いて570余年の歩みを進めてきたが、明治31年4月13日夜、本堂の一部より出火、フェーン現象の余波を受け瞬時にして猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失することになる。
明治38年5月、本山貫主となった石川素童禅師は焼失した伽藍の復興のみでなく、本山存立の意義と宗門の現代的使命の自覚にもとづいて、大決断をもって明治40年3月に官許を得、寺基を現在の地(鶴見)に移されたとか。
作品は、いずれもペイント・フレスコ効果を用いたもの。上の作品は、正面の入り口の位置から左側を覗いたもの。