イスラエル旅行記

旅行記が完成したので、あとは普通に。、

89.スデーボケル

2006年10月18日 | Weblog
【写真:ベングリオンとポーラの墓】

「スデーボケルというのはですね、〈牛飼いの野〉という意味です。ここは1952年、もともと牧場であった所に、兵役を終えた青年たちが入植して建てたキブツです。初代首相のベングリオンが、1953年、自ら第一線を退いて、このキブツに住み始めたことから、一躍脚光を浴びるようになりました。
 彼はすでに高齢に達していましたけれども、自然の困難を克服していくことが、新たな沃地をもたらし、民族に自身と勇気を与えると考えていました。多くの人たちは、その不可能なことを思って嘲笑したと伝えられています。しかし彼は、開拓魂に燃える青年と、ユダヤ民族の頭脳をもってすれば、きっとこの土地は甦るであろうと信じて疑わなかったそうです。

 また、偉大な祖父たちが生きたのはこのネゲブであり、イスラエルの未来の道しるべである聖書の一舞台としても重要であることを思い、ここの開拓に全てをかけて生きようとしました。そして、その信念を自ら身をもって実行されました。しかしですね、2年後の総選挙の結果、再び首相に任命されるわけです。1963年にはこれを辞任し、再びスデーボケルの地で、砂漠の開発に努めました」

 妻ポーラと並んだお墓の前で、ガイド倉田さんの説明にほろりとします。墓石の上には、子供たちがいたずらしたように、小石がたくさん乗っていました。管理人が毎日お掃除してきれいにしても、旅行者が敬意うを表して一個ずつ置いていくらしいのです。このお墓のあるところが、スデーボケルの橋の頂上になっていて、石垣の向こうは、チンの荒野が広がっています。写真には、それを眺めて言葉を失っている人たちが遠くに見えています。
 次回は、向こうに見えるチンの荒野を紹介します。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

88.ナバテヤ人の街

2006年10月17日 | Weblog
 【写真:アブダットの遺跡】

 チンの荒野に山のような小高い丘があります。アブダットはその上に、冠のように建てられたナバテヤ人の街でした。説明を聞きましょう。

「ナバテヤ人というのは、北西アラビヤ出身のアラビヤ人のことです。遊牧民ですね。紀元前3世紀ごろには、ヨルダン川の東側、ダマスコからシナイ半島までの広大な地域を支配していました。大規模な灌漑を行なって農耕を営んだと言われています。
 現在のヨルダン領にペトラという街がありますが、当時はそこがアブダットの首都でした。ペトラには岩山を彫って造った神殿がありますが、それを見るとですね、ナバテヤ人がいかに強大な勢力を誇っていたか、よくわかります。
 現在はネゲブの荒野を開拓するために、アブダットの近くに農業試験場を設けて、ナバテヤ人の古代農業に学んでいます。・・・・あの頂上に見えている建物は、ローマの全盛時代のものです」

 バスを降りて、遺跡を残す小高い丘を眺めながら、当時を偲びました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

87.自然の偉大さ ミツペラモン

2006年10月16日 | Weblog
【写真:ミツペラモン】

 水族館から荒野を走り続けて、ミツペラモンへと向いますが、そろそろ荒野にウンザリする頃です。そこで倉田さんが、イスラエルの歌を教えてくれることになりました。走るバスの中で歌いまくります。

♪ヘヴェヌ シャーロム アレイヘム♩
♩ヘヴェヌ シャーロム アレイヘム♪
♪ヘヴェヌ シャーロム アレイヘム♪
♩ヘヴェヌ シャーロム シャーロム シャーロム アレイヘム♪

 「われらはあなた方のところへ、平安を持ってきた」という意味だそうです。歌いまくったあと、そのテープを聞きながら、ミツペラモンに着いたのはちょうどお昼の時間でした。町は540mの崖の上にあります。この辺りの地形はマクテシラモンと呼ばれ、地球の地殻変動と雨水の浸食作用によって生じたものだそうで、見事な大クレーターです。
 展望台から見た景色はまさに、アメリカのグランドキャニオンを思わせました。凄い眺めです。地球が誕生した時の、そのままという感じです。自然の偉大さというより、神の偉大さをひしひしと感じて、心打たれました。おしゃべりな私も、ここでは毎回言葉を失って、黙り込んでしまいます。

「へえ、すっごいなあ。おれ、人生観が変わってしまいそうだ」
「なんか、この世でクヨクヨしてるのがバカらしくなるわね」
 その会話にうなずきながら、同時に、こんな所では本当に助け合わなければ生きられない、宗教なくしては絶対に生きていけないと思いました。その後、暑さが吹き飛ぶような大きな音で、アコーデオンの生演奏をを聞きながら、レストランで昼食です。熱い陽射しと、いくつかのグループの笑い声と、食器の音が調和して建物いっぱいに幸せが満ちています。

 それにしても、喜びに満ちた人がたくさん居れば、こんな荒野も花が咲いたように活気づくではありませんか。はるばる日本から、タンポポの綿毛のようにふわっと飛んできて、こんな想像もできないような場所で食事している私たち、もう日の栄光の世界に救われたような気持ちでした。そして、強く、強く思いました。
「神は、確かに生きていらっしゃる」と。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

86.海底水族館

2006年10月15日 | Weblog
 【写真:海底水族館(エーラット)】


 10月18日(日)、今日は海底水族館からスタートしました。圧迫感のある山肌と、コッテリと青い紅海の中にそれはあります。階段を下りて行くと海底6mに達します。そこでヒラヒラと泳ぎまわる熱帯魚の群れと、色鮮やかなサンゴなど見学して回りました。シナイ山に残してきた正美ちゃんに、ぜひこの熱帯魚を見てほしくてビデオを回します。写真も撮りました。

 さて、私たちはやはり、お土産店を見逃しはしません。ここは有名なエイラットストーンという、緑色の美しい石の産地です。ネックレスにしても、ブレスレットにしても、また指輪にしても、結構高価なものなので、私はいつも目の保養にするだけですが、みなさんはずいぶん買われたようでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

85.ソロモンが開いた貿易港

2006年10月14日 | Weblog
【写真:エジオン・ゲベル】 ミルトス社 聖書の世界より
 
 さて、美味しい昼食で満腹になった私たちは、ヌエバを後にして再び国境のタバに向かいます。途中バスを降りて紅海のエーラット湾に浮かぶ、コーラル・アイランドという小さな島を眺めながら、気分をリフレッシュしました。実はこの島が聖書に書かれてあるエジオン・ゲベルだと言われているのだそうです。

・ヨテバタを出立してアブロナに宿営し、アブロナを出立してエジオン・ゲベルに宿営し・・・・・(民数33:35)
・ソロモン王はエドムの地、紅海の岸のエラテ(エーラット)に近い、エジオン・ゲベルで数隻の船を造った。(列王上9:9:26)
・ソロモン王はエドムの地の海辺にあるエジオン・ゲベル及びエロテ(エーラット)へ行った。(歴下8:17)

 説明によれば、ソロモン王は海外貿易港として開いたエジオン・ゲベルやエーラットを中心に、アフリカやインドの国々から香油、香料、宝石、金などの高価な商品を輸入したということです。
 青い海と心地よい風に吹かれながら、遠い昔に思いを馳せ、垣間見たソロモンの知恵と権力に、気を奪われてしまいそうでした。
 みなそれぞれに写真を撮り合い、再びバスは国境のタバを越えます。昨日と違って、通関手続きはすんなりと進み、ダビデさんの運転するイスラエルのバスに乗り換えた時は、なぜかホッとしたのを覚えています。

 やがて、昨日荷物を預けたエーラットのモリア・プラザホテルに到着しました。最高級のホテルです。シナイ山帰りの私たちには何よりのもてなしでした。ドレスアップして、ルームメイトの児玉さんと夕食前の散歩に出ます。なつめやしと、しゅろの木に囲まれたプール、水際に設置された照明に、色を変えて踊る水、小さいながらも日本風に作られた庭、お伝えする感激の言葉が見つかりません。

 ただ、試練という人生の荒野を忍耐して、最後まで歩み続ければ、このように喜びの場所が用意されているという、主に対する確信をいただいたことは大きな宝です。主は確かに生きてらして、昼も夜も導いていてくださることを証致します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

84.再び神の怒りに触れる前に

2006年10月13日 | Weblog
【絵:荒野で・・・】

「小田さん、奥さん、正美ちゃん、先に行くけど、エルサレムで待ってるからね。必ず良くなって!」
 小声で別れを言いながら、シナイの荒野を後にしました。正美ちゃんのいない淋しいバスを、倉田さんが一生懸命盛り上げて、もと来た道を戻ります。昨日の夕方、水を補給したあのヌエバの町、月のさばくを~~♪と歌いたくなった、あのヌエバの浜辺に着きました。
 そこで昼食をすませたあと、少し紅海の青い風邪に打たれながら散歩しますと、そこここに、鮮やかな色した南国の花が咲き乱れていて、シナイの岩山から下りて来たばかりの私たちには、目の覚めるようなショッキングな色です。それをしばらく眺めているうちに、徐々に人間らしさが戻ってきたのでした。

 おそらく、あのシナイ山に3日もいたら、精神的に弱い人は幻覚と幻聴をきたすに違いありません。考えてみれば、モーセがシナイ山で主と語り合っている間、ふもとにいる民が「金の子牛」を造って踊り狂った気持ちが分かるような気がします。(出エ32:19参照)
 木も草も、水もないあの岩山のふもとで、そうでもしなければ一体彼らに何ができたというのでしょうか。しかも、山に登ったきり戻って来ないモーセが、生きているのかどうかさえ、知るすべがなかったことを思えば、むしろ当然のことだったかも知れません。シナイの山々に、それほど自然の厳しさを感じました。しかしながら、彼らの行いは神の怒りに触れることだったのです。神はこの荒野において、民を試されたのでした。

 現代の世の中にも、子牛を造って踊り狂ったあの民と、大して変わらない人たちが大勢いるような気がしてなりません。子牛の代わりがお金であったり、車であったり、あるいは宝石だったりして、人生の目的を知らずに過ごしている人たちのことです。
 日々、勝手気ままに思いのままに、また流れる雲のように、あるいは海の泡のように、空しい人生を送っている人たちが大勢いる世の中になってしまいました。再び、神の怒りに触れる前に、生き方を変えてほしいと願わずにはいられません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

83. 関西弁の頭蓋骨

2006年10月12日 | Weblog
【写真:セントカテリーナ修道院の納骨堂】

 その後、山と積まれた?修道士たちの頭蓋骨の保存室を見学しました。といっても窓のガラス越しですが・・・・。4世紀から現在まで、そして今後もずーっとここで、主に命を捧げるであろう修道士たちの、揺るぎない証に触れたような気持ちです。330年から守られてきた豪華絢爛な装飾と、それとは逆に、暗い部屋で静かに復活を待つ修道士たちの頭蓋骨。ここでもまた、人の命のはかなさを深く思い、今後の生き方を問われたようなショックを受けました。

 それにしてもなぜ、ころころと白い頭蓋骨だけを保存し、こうして人々の前にさらすのか。人目を避けて世を避けて、祈りの生活をしていた彼らの頭蓋骨をなぜ?
1,600年以上も前から今日までの頭蓋骨を、まるでボールのように金網の中に放り込んで、それを一度に見せられているのに、気持ち悪いなんて思わないことも不思議なことでした。
 それどころか、一つ一つが何かを語りかけているような気がして、心のアンテナを張り、数ある中の一個に目を集中しますと、なんと関西弁が響いてきたではありませんか。

「モーセの山にようおいでなさった。わてらをよう見て行きなはれや。死んだら、あんたらもみな、こうなるんやで。気張らずにな。周りの人たちを大切にして、おだやかに過ごしなはれ。腹立てたらあかん。困った時は天のお父さまを呼ぶんやで。くれぐれもイエスさまの教えをな・・・」

 分かった分かったとうなずきながら、熱くなった目頭を押さえます。2年前から、シナイ山が私を呼んでいると友人たちに言い放っていた私。今その意味が分かって興奮しています。出きることなら、あの頭蓋骨を胸に抱いて、ワンワン声を上げて泣きたい心境でした。頭蓋骨にも、人を救う使命があるのでしょう。それにしても、なんで関西弁なのか、今でも不思議に思っています。 
             
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

82.モーセの井戸と燃える柴

2006年10月11日 | Weblog
【写真:修道院の中の燃える柴】

 城壁の小さな入り口から入って狭い通路を進み、まず礼拝堂に行きました。ちょうど巡礼者のミサが行われて、厳かながらも熱気が溢れています。修道士のお経のような重苦しい声の中で、私はキョロリ、キョロリと周囲の壁に描かれているイコンや、天井からぶら下がっている幾つものシャンデリアに見入っていました。
 荘厳で華麗な装飾に圧倒され、私のような軽い人間には、ちょっと息が詰まりそうな雰囲気です。しかしこれが、330年に建てられて以来、一度も占領されたり、破壊されたりしたことがないというのですから、当然といえば当然のことでしょう。
 この1,600年以上も、ずっと存続し続けてきた建物に比べると、人間の命のはかなさ、まことに身に染みるではありませんか。

 そこを出て、中庭の井戸を見学しました。もちろん屋根がかかっています。車輪のような汲み上げ機があって、回すと水が出る仕組みです。先のグループの皆さんが、ワイワイ言いながらその水を汲み上げて飲んでいました。そこで倉田さんが面白い説明をします。
「これはですね、モーセの井戸です。モーセがここで奥さんのチッポラに出会ったと言われています。それで、この水を飲めば結婚できるといういわれがありますので、結婚したい方はどうぞお飲みになってください」
 これじゃ、既婚者だってワイワイやりますよね。私はその様子をビデオに収めなけれないけませんので、その場では飲まず、ペットボトルに詰めてみなの後を追います。そして、石垣の上にこんもりと見える植物の前で止まりました。

「ええと、これは何かと言いますと、燃える柴です。実はこれをもっとたくさん増やそうとしたんですが、枯れてしまって他の場所では育たなかったそうです。まるで、ここを離れたくないみたいに、ここでなければ育たなかったんですね。それで、この根はですね、ずーっと地下を這って、先程見たお墓のところまで伸びているんです。・・・モーセの見た燃える柴については、いろいろな説がありますけれども、一説にはですね、真っ赤に色づいた野いちごの実が、光を受けて燃えるように見えたのではないかとも言われていますね」

 ここに来るまでは、なぜそんな説が出るのかと疑問でしたが、朝日を受けて黄金に輝くジナイ山を実際見た人にとっては、さもありなん、と納得のいく話ではあります。

             
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

81.セントカテリーナ

2006年10月10日 | Weblog
【写真:左の頂上に白くポツンと見えるのが、カテリーナの埋葬場所】

 バスの中で説明を聞きます。
「カテリーナというのは女性の名前です。エジプトのアレキサンドリアで殉教した彼女の遺体が、天使に運ばれてきて、シナイ山の頂上に埋葬されたという伝説があります。それで紀元3世紀以降、多くのキリスト教徒が山の周辺に住みついて、小さな修道院的集団を作ったと言われています。
 彼らは自給自足の生活を営みながら、周辺の異教徒たちを感化してゆき、7世紀(アラブ占領)までには、シナイ半島の先住民のほとんどが、キリスト教信者になっていました。しかしですね、アラブ人の征服によってイスラム教に改宗するよう強いられるわけです。

 330年に、コンスタンチヌス帝の母であるヘレナが、燃える柴の地に小さな教会堂を建て、修道士たちの安全な場所として提供しました。さらに530年には、ユスティニアヌス帝が、ヘレナの建てた教会堂を包むように、今の修道院を建設したと言われています。
 それ以来今日まで、一度も占領されたり、破壊されたりしたことはありません。コーランにもシナイの聖所について書かれていますので、アラブ人の征服に際しても、またナポレオンがエジプトを占領した時でさえ、この修道院は保護されてきました。
・・・・この修道院を一躍有名にしたのは、何といっても、1844年に院内から発見されたシナイ写本でした。羊皮紙にギリシャ語の大文字で書かれた旧新約聖書で、4世紀ごろのものと言われています」
「それって、中に保存してあるんですか」
「いえ、現在はですね、ここではなく、大英博物館に保存してあるそうです。・・・・これから仲に入りますが、みなさん今日で良かったですね。昨日のグループは、ここがお休みで中に入れなかったそうです」

 なんという祝福でしょう。柳田さんの奥さんに感謝しなければなりません。彼女の都合で、旅立ちを一日延期したのですもの。やはり全てに主のみ手を感じます。何もかも主が良い様にしてくださると、ここでもまた限りない平安と、主にゆだねて生きる喜びを味わいました。思えば小田さんが倒れたのも、私たちは分からない主の愛なのかも知れません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

80. 祈りの答え

2006年10月09日 | Weblog
 祈り終わって、もう大丈夫と腰を上げた時、ちょうど柳田さん夫妻が玄関先を通りかかったので、伝言をお願いしました。
「あのー、私たち少し遅くなりますから、泉さんに伝えて下さいませんか」
「どうかしましたか?」
「ええ、鍵が合わなくて部屋のドアが開かないんですよ。今、お祈りしたから、もう大丈夫だと思いますが・・・」
すると彼らが入ってきて、奥さんが
「ちょっと貸してごらん。多分、小室さんとこの鍵と反対になってるかも知れないわ。私たちもそうだったのよ」
と言って、小室さんの鍵を挿したらすぐに開いたではありませんか。試しに今度は私たちの鍵を、小室さんの部屋に挿したら、すんなり開くではありませんか。ということは、初めから、私たちは反対に持たされていたわけです。ん? じゃ、最初にあの案内人はどうして開けたわけ??? もしかしたら、うまくいけば4ドル稼ごうという彼らの知恵だったのでしょうか。まさか・・・・。

 しかし何よりも、主がすぐに答えてくださったことの方が大きな喜びでした。考えてみれば、シナイの麓でひざまずき、真剣な祈りを捧げよという警告だったのかも知れません。私たちは信仰を試されていたのでしょうね。ヤコブの手紙の中にあります。
「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずすべての人に与ええる神に願い求めるがよい。そうすれば与えられるであろう」と。
本当にその通りでした。

 さて、手荷物を整理してバスに戻りましたが、小田さんの具合がずいぶん悪いようです。心臓発作を起したとか・・・・。泉さんも、倉田さんもまだ駈けずり回っています。電話をかけたり、医者を呼んだり、今後のスケジュールの調整もあるでしょう。一時間ぐらいは待ちました。一度、倉田さんがバスに戻ってきて、
「みなさん、お祈りしてくださいませんか」
と言い残して、また走り去って行きました。あの時の真剣な顔、あれこそ男の魅力というものでしょう。結局、小田家族3人と添乗員の泉さんが、このままシナイの荒野に残り、私たちは倉田さんと共に出発することになりました。シナイを去る前に、今朝通ったセントカテリーナ修道院を見学します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

79.小田さん、死んじゃだめ!

2006年10月09日 | Weblog
 【写真:住宅のようなシナイ山のホテル】

 さて、バスでレストランに戻り、軽く食事をすませました。睡眠時間2時間半で、その後、歩いたり登ったりの約6時間半、食欲など全く消え失せています。小室さん夫婦と一緒に、手荷物を受け取りに外へ出ますと、先に戻った小田さんの奥さんが、ただならぬ声で叫びながら走ってきます。
「小室さ~ん、小室さ~ん。うちの主人が~、倒れて~」
どうやら、癒しの儀式が必要なようです。小室さんがすぐ駆けつけました。

 私たちはそのまま、都営住宅のような一軒家に戻りましたが、さあ、今度はどうしたわけか、手荷物を置いてあるベッドルームのドアが開きません。鍵が合わないようなのです。昨夜は案内人が開けてくれて、そのまま預かった鍵なのに。
 連絡をするにも、ここはまだ電話がない。歩いて行くにも、またレストランまで岩場を歩かなければいけないし・・・・。だんだん集合時間が迫ってきます。登山をリタイアして、修道院から戻ってきた小室さんの奥さんも、同じ目にあって・・・責任者に来てもらったら2ドル請求されたとか。
 そんなバカなことはしたくないと、半ば呟きながら児玉さんと二人で、押したり、引いたり、叩いたりしましたが、どうしても駄目! 万策尽きてリビングルームに行きますと、添乗員の泉さんも、ガイドの倉田さんも、仲間の鈴木さんも、小田さんの家に走って行くのがガラス越しに見えます。大変な様子です。
「まさか・・・・小田さん、こんな所で死んじゃだめ! エルサレムを見なくっちゃ」
 そう言い放ちながら、頭の半分は鍵、かぎ、カギと叫んでいます。結局どうしようもないと悟った時、この件に関しては初めて主に助けを求めることにしました。小室さんの奥さんにも加わっていただいて、三人が床にひざまずき、小田さんのこと、鍵のことを祈りました。
                    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

78.シナイ山のエリヤの泉

2006年10月08日 | Weblog
 【写真:エリヤの泉】

 下山途中、遠くからでしたが、「エリヤの泉」を見ることができました。カルメル山でバアルの預言者と戦って、アハヴ王の妃イゼベルから逃げてきた、あのエリヤです。彼もまた追いつめられて、死にそうになってシナイ山まで導かれてきたのです。
「頂上までは無理だから、せめてエリヤの泉が見える所まで行きたいわ」
 登る前、角田さんがそうおっしゃったのを思い出しました。希望が叶ったかどうか確認していませんが、岩山と岩山の間に少し平らなところがあって、5~6本の糸杉で囲まれています。
「モーセの山よ、エリヤの山よ、そして信仰の山よ」
 叫びたい気持ちを押さえながら、もう二度と来るチャンスがないだろうと思うと、別れがたくて、何度も何度も振り返ります。(実際は数年後、頂上まで登りましたが・・・)、何度振り返っても、ずーっと見送ってくれるシナイの峰に、ちょっと子供の頃が浮かんできました。

 学校へ行く時、角を曲がって見えなくなるまで、ずーっと家の前で見送っていてくれた母、病気で寝込んだ時、目を覚ますと、いつもそばにいてくれた父、このシナイの山々に、あの頃の父の面影、母の面影を感じて、とても「さよなら」なんて言えない心境です。
 その両親を思わせる山と、目立たない場所で精一杯命を張って生きている、小さな花の精に守られて、無事にセントカテリーナ修道院まで戻って来たのは8時20分頃。みな元気です。石も12個拾いました。

 その途中、第一休憩所で休んだまま、ずーっと私たちを待っていて下さった西さんと合流しました。ご高齢でも好奇心を失わない西さんが、そこから修道院までラクダに乗ると言い出して、5ドルで素敵な経験をなさったのでした。

                      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

77. たとい死んでも

2006年10月07日 | Weblog

 【写真は下山途中】

「それならば父なる神さま、せっかくここまで来たのですから、私をも光を出す石にして下さいな。暗闇を照らす人間になりとうございます。これから何をいたしましょうか」
 傲慢かと思いながら、心に念じて再び振り返った時は、黄金のシナイ山は別の峰の陰になって見えませんでした。それからです。やたらとシナイ山の石を拾い集めました。

「そのうち、ここにもロープウエイができるのでしょうかね」
「どうかな。ここだけは、このままであって欲しいね」
 とんでもない会話が聞こえてきました。
「そうだな、シナイ山だけは主が許さないでしょう」
「第一、ラクダが失業してしまいますからね」
 私がロマンに浸っている間に、男性は現実的なことを静かに語っています。もうだいぶ下に来ました。
「ところで、モーセが登っている間、民が待っていた場所はあの辺りでしょうかね」
「そうだと思いますよ。広さから言って、あの辺しか考えられませんね」

 いろんな会話を耳にしながら、目は石に注がれます。でもプレゼントにするような石はなかなか見つかりません。ちょうどいい大きさだと思っても、拾い上げるとラクダの糞なんですよ。それでもあきらめずに、石、石、石と目を注ぎながら歩いていますと、花が・・・・、岩の間に小さな、ホントに小さな花が一株、直径5ミリもないような黄色い花が、精一杯気取って咲いているのです。思わず声をかけました。
「あなたは、まあ、なぜこんな所で咲いているの?こ~んな岩場で・・・」
 まさかこの辺で命を落とした人がいるのでは? この花はその人の化身? ついそう思ってしまいました。そういえば、心臓病でドクターストップがかかっているのに、死んでもいいからと、この山に登った人がいると聞きました。信仰ですね。信仰って、そういうものなんですよね。主は言われました。
「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」と。(ヨハネ11:15)

                      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

76.モーセの山よ

2006年10月06日 | Weblog
 【写真:黄金のシナイ山】

 黄金に輝く山を時々振り返りながら、朝日の中を下山し続けます。当然のことながら登るほどには苦しくなく、先になったり後になったりのマイペースです。ついに夢を果たしたという満足感が、気持ちに余裕をもたらしたのでしょうか、ヤレドの兄弟がシーレム山の頂上に登ったことが浮かんできました。シーレム山もこんな岩山だったのかも知れないと。

*ヤレドの兄弟は、非常に高いために彼らがシーレム山と名づけた山に行き、一つの岩から16個の小さな石を溶かし出した。その石は白く、透き通っており、透明なガラスのようであった。そして、彼はそれらの石を両手に持って山の頂上に登り、再び主に祈って・・・・・・・、主は手を差しのべて、指で一つ一つ石に触れられた。すると、ヤレドの兄弟の目から幕が取り除かれ、彼は主の指を見た。それは人の指のようで、血肉の指に似ていた。(エテル3:1~6参照)

 ノアの大洪水の後、アブラハムよりおよそ300年前、主はバベルの塔の所で言葉を乱し、互いに通じないようにしました。そして人々を、全地のおもてに散らされたと聖書に記されています。(創11:1~9参照)
 その時ヤレドとその兄弟は、自分たちの言葉が乱されないように嘆願し、主はそれを受け入れました。(エテル1:34~37) その後彼らは、家族や友人と共に、約束の地、新大陸アメリカへと導かれて行くわけですが、主の言われる通りに作った8隻の船は、光が入らず暗闇でした。そこで、ヤレドの兄弟は、石を持ってシーレム山に登り、光を出す石にしてくださいと祈ったのです。

 シーレム山とシナイ山、主に会ったヤレドの兄弟とモーセ、年代的には千年ぐらいの差があるものの、二人の信仰に胸打たれながら、ひたすら歩き続けます。連なる岩山とコバルトブルーの空の間にあっては、石ころにも劣るかと思われるほど小さく感じる自分でしたが、主の言葉が心に響き、救われる思いでした。

*人の価値が神の目に大いなるものであることを覚えておきなさい(教義と聖約18:10)

                 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

75.石を売る子供

2006年10月05日 | Weblog
 休憩所で、頂上から戻ってくる仲間を待って、また一緒に下山します。日が上るにつれて、ジャンパーを脱ぐ人が増え、腰に巻いたり、肩にかけたりしながら、ほとんど無口で歩いています。100人? 200人? みなそれぞれに万難を排して、長年の夢を叶えたに違いありません。木もなく草もないシナイの山々に、喜びと満足に浸っている人々の行列が続きます。カラフルに、パワフルに・・・。

「xxxxxx!」
 地元の子供が寄ってきました。8歳か9歳ぐらいで痩せ細っています。手に石を持っていて、どうやら買ってくれと言っているらしいのです。夜中に、休憩所でお父さんと売店で働いていた子たち。兄弟なのか、二人で声をかけています。しかし、こんなところでお金を出そうものなら、クセになって次の旅行客に迷惑だろうと思い、
「ごめんね、お金持ってないのよ。アイハヴ ノー マネー」
と首を振りながら、プライドを傷つけないように優しく言いました。でも彼らが話しているのは英語じゃない。
「xxxxxx!」
と言って、今度は首から下げている私の懐中電灯を突きます。
「え? これと取り替えてもいいって?」
「xxx」
「だめよ、これは買ったばかりなのよ」
 歩きだそうとすると、今度は私のジャンパーを遠慮がちにつまんで、
「xxxxxx!」
と哀願するような目で訴えています。でも、これはこの日のために友人からいただいたものだから、手放すことはできません。一生懸命な姿に弱い私は、懐中電灯を手放すことにしました。あの子達のホッとしたような顔・・・。聞くところによれば、彼らは何か自分で稼がなければ、食事をさせてもらえないのだとか。
「ありがとう。サンキューね」
「xxxx、xxxx」

 何事も無かったように再び歩きましたが、心は日本晴れ、いやシナイ山晴れとでも言いましょうか。やはり旅の味わいは、現地人との心の触れ合いにこそあると実感しました。食うために働かざるを得ない、あの子たちを今でも時々思い出します。
 さて、みなそれぞれに体力の限界にチャレンジしながら、私たちはとうとうモーセの山にも登りました。今後、様々な試練にあう時、この経験が必ず役に立つことでしょう。お金も時間も体も使って得た、大切な宝です。結局、人は犠牲を払った分だけ、何かを得るのかも知れません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする