イスラエル旅行記

旅行記が完成したので、あとは普通に。、

71.シナイ山のふもと

2006年09月30日 | Weblog
 【写真:次の朝、シナイ山を下りてから】

 さて、水を十分補充して、更に長い時間走り、シナイ山のふもとに着いたのは何と夜も8時を過ぎていました。タバの通関手続きがもっとスムーズになされていたら、6時ごろには着いていたかも知れません。とにかく真っ暗です。向こうにかすかな明かりが浮いて、目が慣れると、周りは覆い被さるような岩山で、息が詰まりそうです。
「さて、どっちを向いてもホテルらしい建物はみえませんね」
「あの、明かりがそうじゃないの?」
「だって、あれはレストランでしょう? 一階建てよ」
「おかしいわね」
 そうなんです。ここで私たちの常識にヒビが入ったんです。普通ホテルと言えば決まってるじゃないですか。夜になると明かりがついて、入って行くとフロントがあって、少なくても5階以上はありますよね。それがないんです。それらしきものは何にもないんです。とにかく倉田さんと泉さんの後から、羊のように付いて行きました。やはりレストランです。バイキング料理を好きなだけ食べた後、倉田さんから部屋の鍵を受け取り、明日の予定を聞きます。もう9時を回りました。

「明日は・・・・・といっても、あと5時間しかありませんが、夜中の2時に出発です。バスの所に集まってください。いいですね。3時間半かけて登りますから、くれぐれも水を忘れないように! モーニングコールは1時にします。心配な方は、今から着替えていただいて、着たまま休んだ方がいいかも知れませんね」
 それから外へ連れ出されて、しばらく歩きました。うっすらと目に入ったのは、自然の丸石を「雷おこし」のように積み重ねた一軒家。それがいくつもいくつも、都営住宅のように並んでいるのです。そう、それがホテルだったのです。

 さて、小室夫妻と私と児玉さんが同じ家の番号を持っていました。星明かりの中を案内人の後からついて行きます。玄関を入ると、ベッドルームが二つと、広いリビングルームがありましたが、どこを探しても電話がありません。
「誰か起こしにくるんじゃないの? もう寝ようよ」

 遅いからと、とにかく登山の準備をして、床に入ったのが10時半過ぎ。果たして1時に起きれるだろうか。2時間半の睡眠で、その後ずっと3時間半も歩き続けるなんて、私に出きるだろうか。
「父よ、熟睡できますように、祝福してください」
 毛布の中で両手を組みながら、いつの間にか眠りの底へ落ちて行きました。
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70.ヌエバで水の補給

2006年09月30日 | Weblog
 【絵:荒野で生きる人たち】

 エジプトのバスに乗り換えて、紅海のエーラット湾を左手に見ながらフルスピード。通関手続きで遅れた2時間を、どのように取り戻すのか、ただ走るしかないでしょう。お国の事情なのでしょうか、たまたまそうだったのでしょうか、バスはイスラエルの方がずっと快適だし、運転手もイスラエルの方がフレンドリーです。

 さて、ヌエバという町に着いた時は、ほとんど日が沈みかけていましたが、水の補給のため、ここでしばらく休憩のようです。町と言っても私たちにはピンときませんが、荒野を基準にしますと、確かに町と言えるかも知れません。なにしろ、周りは世界の果てまでも続いているかと思われる荒野です。
 バスを降りて散歩しながら、背を伸ばしたり、写真を撮ったりの自由行動です。ラクダが、犬や猫のように狭い路地を行き交い、軒下の地べたに、民族衣装のアラブ人がごろごろと座っている様は、まるで「おとぎばなし」の絵のようでした。
「♪つきの~~さばくを~~は~る~ばると~~♪」
思わず鼻歌が出てきます。これこそロマン、セピア色の夕闇に点り始めた、一握りの町の明かり・・・・その中に小さなスーパーマーケットが一軒あって、そこで倉田さんが水を補給しています。一緒に店を覗いてきた鈴木さんが言うには、臭くて中にいられなかったとか・・・。
 みなそれぞれに気分転換をして、異国情緒を満喫しておられるようです。子供のころ、絵本で見た人々や風景の中に、今、自分がいる不思議、説明のしようがありません。

 近くの家の前に、ソドムのりんごと言われる木を見つけました。りんご状の青い実がなっていますが、猛毒な上、中身は空っぽで、果肉は全く無いそうです。死海の周辺に多く、地元の人は「これこそ神の呪いだ」と言っているとか・・・・。確か、マサダの入り口で見ましたが、それがここにもあったのです。私にすれば以外な発見でした。
 聖書の中の「ソドムのぶどうの木」(申命32:32)と言うのは、これではないかと言われているそうです。
                  
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69.国境タバ

2006年09月29日 | Weblog
 間もなく、イスラエルとエジプトの国境、タバに着きました。ここで通関手続きをして、エジプト側のバスに乗り換えるのですが、なんと外で待たされること、およそ2時間。日本では考えられないシステムのようです。ようやく順番がきても、ムフッとする暑さの中で疲れてしまいました。それでもチェックが始まると、団体の私たちは、意外と順調に進んでいます。

 ところが、私の前に並んだ藤井さんが、パスポートにいちゃもん?をつけられたのです。彼女のパスポートをいじくり回しながら、大して意味のない質問をしているので、おかしいなと思いましたが、実はいいおじさんなのに、藤井さんの写真にすっかり悩殺されてしまったらしいのです。彼女が通りすぎてから、
「ビューテフル、ビューテフル!」
と頭を振りながら私のをチェックするものですから、私がビューテフルなのかと勘違いするじゃありませんか(笑)。藤井さんの代わりに、
「サンキュー、サンキュー」
と一応ウインク付きの礼を言って通りましたが、勤務先が一緒ということもあって、
「大事なウチの娘に、ちょっかい出したらダメヨ!」
という親心が湧いてくるのでした。後で小室さんに、
「あれは、藤井さんに言ったんだからね」
と、からかわれて私も、
「いや、あれは私に言ったのよ」
と、ふざけて大笑い。説明のできない暑さの中で、疲れを吹き飛ばすには格好のネタでした。それにしてもねえ、もう少しテキパキと、仕事ができないものでしょうか。
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68.エーラット

2006年09月28日 | Weblog
 【写真:紅海の港町エーラット】 ホテルの窓から

 動物園を出て再び荒野の一本道を走ります。今回のスケジュールは、以前にも増して心づくしを感じました。10代から80代まで、全ての人が楽しめるように組まれていて、これなら正美ちゃんも楽しかったに違いありません。
 バスの中でのクイズも、ずいぶん頑張って、最後は正美ちゃんのお母さんと柳田さんが同点。ジャンケンして、柳田さんの奥さんが栄えある賞品を手にしましたが、正美ちゃんのお母さんも、倉田さんの菓子袋を副賞にいただいて・・・・。
 お昼前のひとときを、倉田さんに乗せられて楽しんでいるうちに、もう紅海の港町エーラットです。
「やっぱり、こんな風だと町って感じがしますね」
 昼食の準備ができるまで、川の岸辺にたたずみ、また散歩を楽しみました。この川も紅海の一部でしょうが、やはり水のあるところには人も木も多いようです。足元には、人を恐れないすずめの親子が餌をついばみ、全体的に活気があって若者の町という感じがしました。
 さっそくガイドで調べますと、現在ここには2万人の人々が住んでおり、平均年齢が26才という、イスラエルで最も若い町と書かれていました。今日はここで、インド料理をいただいた後、モリアホテルに荷物を預け、国境を越えてシナイ山のふもとまで行く予定です。

 食事を終えて店を出る時、テーブルに飾ってあったバラの花を、店長が一人一人に一輪ずつプレゼントしてくださって、なんとも言えない幸せな気分でした。もちろん女性にだけ。あれは嬉しかったですね。荒野の一本道を何時間も走ってきた後ですから、一本の真紅のバラにどれだけ癒されたか・・・。

「エーラットはその昔、シバの女王がソロモンに会うために上陸した町と言われています。シバは現在のイエメンの国ですね。そのシバの女王が、ここの港に上陸して、陸路エルサレムまで上って行ったと言われています」
「ほう、ここかぁ~」
「またここには、エーラットストーンという緑色のくじゃく石がありまして、お土産としてペンダントや指輪などに加工されていますから、ご覧になりたい方はですね、シナイ山から戻って来た時に、ゆっくりと時間を取らせていただきます。また、ベツレヘムでも、信頼のおけるお土産店にご案内しますから、心配はいりません」
 満腹の後だけに、ガイドさんの声もやや遠くに聞こえます。
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67. ハイバル動物園

2006年09月27日 | Weblog
【写真:アダックスやぎ】

 道路の両端に、ちらほらと草や低木が見えてきました。キブツ・ヨトバタの休憩所があって、ここからエーラットまでは35キロの距離だそうです。私たちは野生動物園に向って進路を変え、道なき道を埃を巻き上げながら進みます。

「ええと、イスラエルではね、聖書時代のように、あらゆる動物を復活させようと努力しています。ここでは、かもしか、野ロバ、オリックス、その他聖書に出てくる珍しい動物を見ることができますが・・・・あ、みなさん、バスが揺れますから気をつけてくださいね・・・・・ところどころに、傘を逆さにしたような、逆三角形の低い木がありますが、あれはアカシアの木です。低いですけどね、こんな荒野で生きているわけですから、水を求めて30mも根が伸びているそうです」
「へえ~、30mも・・・」
 スピードを落とさず走るバス。ガタゴト、デンデン。揺れる窓からカメラを向けるみなさんも必死です。木も草も埃をかぶって、本来の緑色ではありません。

「イスラエルではね、さそりが結構いるので要注意なんです。特にテントを張ったり、寝袋を持って旅をする時はね、気をつけなければいけません。夜行性なので、昼は石の下にひそんでいることが多いですから、石を持ち上げたり、石の上に腰かけたりする時は気をつけてくださいね。必ず靴をはいた足で、ちょっと転がして、さそりのいないことを確かめてからにしてください」

 バスを降りて建物の中に入ります。ハイエナ、トカゲ、野生の猫、岩だぬき、さそりなど、本当に多くの動物を飼育していました。小室さんと私は、いちいち声をかけながら、ゆっくり見てまわります。
 それにしても、日本は何と美しい国なんでしょう。自然破壊だの、環境破壊だのと言われながら、まだまだ地球のオアシスです。この美を守らねば・・・。舞い飛ぶ埃の中で、そんなことも考えている私でした。
 動物園を出て再び荒野を走ります。やがて、この荒地も緑に変わり、花咲き、鳥が歌い、人も動物も共に仲良く暮せる時が来るに違いありません。その時は宗派もなく、争いもなく、みな一つの心でイエス・キリストにひざまづくことでしょう。
 研究と努力の結果、少しずつ緑化されているイスラエルの前向きの姿勢と、自然から教訓を得て成長する活気みなぎる雰囲気に、強く感じるものがありました。
 「主は実に生きたもう」こと是なりと。(教義と聖約76:23)
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66.試練という人生の荒野 B

2006年09月26日 | Weblog
 【写真:チンの荒野】

「しかしですね、イスラエルの荒野は、水さえあればほとんどの土地は生き返ると言われています。その証拠にですね、こんな状態でも一日雨が降れば、次の日は辺り一面、じゅうたんを敷き詰めたように緑になってしまうんです。ですから水さえあれば、この荒野が救われるという訳です。そして今、みなさんがご覧になっているこの荒野に水が必要なように、私たち人生の荒野には、イエス・キリストがお与えになる『生ける水』が必要なんですね」
「なるほど」
「うまいですな」
「それで、イエス・キリストは次のように言われました。『わたしが与ええる水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がるであろう』と」(ヨハネ4:5~14)
 説明のうまさに感心して拍手で応えます。
「それでは、みなさん、そろそろ水を飲んでください」
 荒野における水一杯の大切さ、これを知って初めて、イエスさまの教えが本当に理解出きるのだと思いました。旅行中、毎日、子供の哺乳瓶のように水を持ち歩いたおかげで、身体で聖書を理解したような気分です。

 思えば、偉大な人はみな荒野に導かれてきました。アブラハム然り、モーセ然り、ダビデも、エリヤもまた然り。なぜ? なぜ神は人を荒野に導くのでしょうか。・・・信仰を試し、精神を鍛えるには、荒野こそ最もふさわしい場所だからに違いありません。
 あの偉大なモーセは、荒野に追放されて主の声を聞きました。
イエス・キリストは荒野に導かれてサタンに試みられ、
パウロは3年間、アラビアの砂漠で祈りの生活をしていました。
またサウルから逃げたダビデも、ユダの荒野にいました。(サム23:14)
そして、イゼベルから逃れたエリヤは、ベエルシェバの荒野で死を求め、シナイ山まで導かれました。(列上18:46、19:1~8)

 人は追いつめられ、死にそうになって初めて、神に触れるのかも知れません。研究が進んで、やがてこの荒野にも花咲く日が訪れることでしょう。その時まで、この荒れた土地は休みを得て、安息を楽しむに違いありません。(レビ26:34、43)
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65.試練という人生の荒野 A

2006年09月26日 | Weblog
 【写真:荒野の中の緑】

 ロトの妻に別れを告げ、紅海方面に向います。しばらくすると荒野の中に一握りの緑が見えました。メロン畑です。昨年の峯崎ガイドさんの案内が思い出されます。

「イスラエルではね、あらゆる方法で、荒野を緑にする研究が行われています。今はいろんな物が作れるようになりました。ピーマンなんかね、りんごくらいもある大きいものなんですよ。
 余談ですけど、昨年ちょっと帰国した時ですね、実は近くのスーパーでイスラエルのピーマンを見つけたんですよ。あの荒野で作られたピーマンが、こ~んな所までやってきたのかと思ったら感動してしまいましてね。一個500円でしたけど、愛しくなっちゃって思わず買ってしまいました。野菜も果物も、荒野で作られたものは甘味があって、普通のものより美味しいと言われています。いろんな悪条件の中で育つわけですからね」
 みなうなずいています。
「人間も同じではないでしょうか。試練という人生の荒野を幾つも乗り越えてきた人は、ひと味違いますよね。このように、イスラエルの人たちは、自然から多くの教訓を得て生活してきました」

 流れるように過ぎた一握りのメロン畑と、果てしなく続く荒野。こんな中でさりげなく教えを説くガイドさんの言葉に、強烈な御霊を感じながら、食い入るように荒野を見つめ続けました。

 モルモン書には、リーハイが家族を連れてエルサレムから紅海に近い荒野に出発したと書かれています。紀元前600年のことでした。リーハイとは、エジプトに売られたあのヨセフの子孫です。(1ニーファイ5:14)
 私たちも今、紅海の近くの荒野を走っています。想像を絶する世界にいます。いくら神の導きとは言え、こんな所に連れ出されて不平を言わない人がいるでしょうか。見渡す限り、見事に何もない。水も草も、身を寄せる木陰もありません。ただあるのは、赤茶けた、あるいは粉をふいたような大地と、カンカン照りの太陽だけ。
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64.岩塩のソドム山

2006年09月25日 | Weblog
 【写真:岩塩の山】 
 
 主は硫黄と火とを主のところ、すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町とすべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。(創19:24~26)

 聖書を読まれた後で、倉田さんから耳よりなお話を伺いました。
「ソドムとゴモラは、実際どこにあったかは定かではありません。この付近の死海の底に沈んだとも言われていますが、アラブ人の伝説によりますと、古代のソドムはこの岩塩の山の中にあって、罪人たちは岩塩になってしまったのだと言われています」

 実際こうして見ていますと、アラブの伝説の方が本当らしく思えてきます。ロトの妻が塩の柱になったのであれば、他の人たちだって塩になったという方が納得いきますもの。もしかして、この岩塩の山は、滅ぼされた人たちの墓場?
 バスは走り続けます。間もなく右手の道路脇に塩田が見え、また左手には、24時間営業の死海工場が見えました。工場のまわりに山のように積まれている塩、塩、塩。一見砂利のようにも見えます。
「この塩の山からですね、色々なものが作られるわけですが、食卓にのぼるようなものではなく、たとえば石鹸とか、薬品関係ですね」
 ここでみなさんから質問が出ました。
「これ、みんな塩ですか。すごいですね」
「24時間営業だと安息日はどうするんでしょうか」
「従業員は週休2日制ですか」

 残念ながら、その答えが記憶にも記録にも残っていないのは、どうしたことでしょう。ただ昨年通ったのは夜でしたから、暗闇に輝く工場の照明が、まるでディズニーランドのようだったのを思い出しました。

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63.ロトの妻 

2006年09月24日 | Weblog
 浮遊体験のニルバナホテルから、死海に沿って南下します。間もなく右手に「ソドム山」という岩塩の山が見えて来ました。南北10キロ、幅500m、高さ200mあるそうです。バスを止めて倉田さんが問いかけます。
「あの右側の端にあるのが、アラブ人の女の姿に見えませんか」
するとみんなが、
「おお、見える見える」
と答えます。すると倉田さんが言います。
「あれがロトの妻(写真)だと言われています。左の方にもそのように見える小さいのがありますが、みなさん、どうぞ好きなのを、ご自分の妻にしてください」と。
 ここは長くバスを止められないからと、窓越しに写真を撮りましたが、ガイドさんのユーモアに、クスクス笑いが生じています。

 昨年はこの道を逆に北上しました。しかも夜でしたから、死海を見下ろすそのシルエットに、心なしか憂いを感じたものですが、今回は朝一番の見学です。朝日を受けて立つ同じ姿に、何か凛としたキャリアウーマンのような雰囲気さえ感じます。岩肌が見えるせいかも知れません。同じ風景でも、朝と夜、旅の仲間、あるいは心の状態によって違って見えるのは、当然のことでしょうが、いずれにしても塩の柱にはなりたくないと思いました。

「アブラハムの時代、このあたりは主の園のように潤っていて、ロトはアブラハムと別れて、ソドムに天幕を張ったと書かれていますね。しかし、ソドムの人々のはなはだしい罪のために、神はソドムとゴモラを滅ぼそうとしました。(創13:10~11)
 そこで、アブラハムは神に抗議します。『正しい人が50人いても、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか』と。そして45人いたら? 40人、30人、20人、とだんだん数を減らしていって、最後には、正しい人が10人いたら、その人たちのために滅ぼさないという約束を取りつけます。
 10人という数はですね、ヘブライ語で『ミニヤン』といいまして、会衆の祈りがなされるための最小単位なんですね。しかしその正しい人が10人もいなかったのでしょうか。神は滅ぼす前に、み使いを通して、まずロトの家族をゾアルまで逃がそうとしました。その時、『自分の命を救いなさい。後ろを振り返って見てはならない』と忠告をするのですが、ロトの妻は神の命令に背いて、ソドムに戻り始めるのです。それで塩の柱になったと書かれていますね」


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62.与える人になりなさい

2006年09月22日 | Weblog
「シャローム」(いつでも使える言葉)
「ボケルトーブ」(朝の挨拶)
 運転手のダビデさんに挨拶して、再びバスに乗ります。
「みなさん、死海はいかがでしたか。楽しんでいただけましたでしょうか」
「はあ~い」

 倉田さんは続けます。
「イスラエルではね、お母さんが子供たちに、言ってきかせる言葉があるんですよ。『死海のような子供にならないで、ガリラヤ湖のような子供になりなさい』って」
「ほう・・・・・」

「どういうことかと言いますと、みなさんがご覧になったように、ガリラヤ湖は常に水を出しているのに、潤っていますよね。水も清く、たくさんの魚もいます。ところが死海は、受けるばかりで全く流れ出る所がありません。ガリラヤ湖の何倍もの大きさなのに、プランクトンも住めないような死んだ海になっています。ですから、いい人生を送りたかったら、ガリラヤ湖のように常に与える人になりなさいっていう意味なんです」
「な~るほど」

「私たちも、神さまから与えられている才能や日々の恵みを、できるだけ人々の為に尽くすならば、精神的な意味で、ガリラヤ湖のように生きていると言えるのではないでしょうか。ただ自分の利益のためにだけ働いていますと、精神的な意味では死海と同じだという意味なんですね」
「う~ん、分かった」
「うまい!」
 拍手が起こりました。

 含蓄のある説教に、みなホロリとしています。それぞれ努力はしているでしょうが、二つの湖を体験した後で聞きますと、強烈なパンチをくらったように納得するのでした。そして、キリストの教えに従う者として、日々の生活の中で、生者のためにも死者のためにも、奉仕する機会がたくさん与えられていることに、改めて感謝した次第です。
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61.死海で浮遊体験 B

2006年09月21日 | Weblog
 【写真:私も浮遊体験】

10月16日(金)の朝です。窓の下がすぐ死海でした。左手には岩山がそびえ、緑色のない世界です。この暑さの中、ここに一週間もいたら気が狂うでしょう。さすがソドムです。圧迫感があります。
 遠くアブラハムの時代、民の不義のために、主は硫黄と火を以てソドムを滅ぼされたと聖書にありますが、何の疑いもなく事実だろうと思いました。死海はまた、アラバの海(ヨシュア3:16)、東の海(エゼキ47:18)とも書かれており、塩分の含有量が35%、普通の水の10倍もあると言われています。塩辛いというより、なめただけで舌がビリビリと痛くなり、思わずうぇーッと叫んでしまうような味。

 窓辺に佇んでボーッとしながら、昨年8月の事件を思い出しました。昨年は午前中にホッドホテルに着いて、昼食後に浮遊体験の予定でした。ガイドさんが冗談半分に言います。
「あんまり沖の方には行かないでくださいね。向こう半分はヨルダン領ですから、掴まったらもう戻って来れませんからね」
「ククク・・・・行けったって、金づちなのよ私・・・」
するともう一人の金づちTさんが、ささやきます。
「私もよ。ねえ、誰もいないうちに、先きに入りません?」

というわけで、私たち金づち組は昼食前に入ったのでした。
「浮いた、浮いた、ねえ、見て!(写真)」
 はしゃぐ私にTさんが、訊ねます。
「私できないわ。どうしたら浮くの?」
「ただ寝ればいいのよ」
と答えながら、ひっきりなしに手を動かしている私。どんどん岸から離れて行きます。戻り方が分かりません。
「Tさぁ~ん、助けてえー。戻れないわぁー」
 本気で叫んでいるのに、
「はあ~い、ヨルダンまで行ってらっしゃ~い」
と、にこやかに手を振っている。どんなに叫んでも、プカプカ浮いているせいか本気にしてくれません。私、浮いたはいいけど、方向転換も、起き上がることさえもできないのです。仰向けになったまま、コルクのように漂いながら沖へ、沖へと・・・・。もう一度本気で叫びます。
「ねえ、お願~い、戻れないのよ~~~」

 ようやく気づいたTさんが、必死で助けに来て、私の腕をぐいっと掴んで岸の方へ引いて行きます。岸に着くと、自力で起き上がれない私を起すために、思いっきり背中を押してくれたのですが、そのとたんに私はバランスを失って、ザブンと顔を突っ込んでしまったのです。と同時に、あの塩水をいやっというほど飲み込んだのでした。
 顔を上げた途端、強烈な暑さのために、サングラスが塩の結晶になり、目もヒリヒリして開けられません。そばに来た外人さんが、怒鳴ります。
「目がやられるぞ、水で洗え! 早くしろ!」
盲人のように、Tさんにすがってシャワーの所まで行くと、外人さんが水を出してくれて、これを使えと・・・ここでもキリストの愛をいただいた私でした。
 

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60.死海で浮遊体験 A

2006年09月20日 | Weblog
【写真:浮遊体験する仲間】

 マサダを下りて、スケジュール通りソドムのホテル、ニルバナに向かいます。左手の死海には、流氷のように見える塩の結晶が白く・・・・これも3度目にして初めてお目にかかりました。
 バスの中では毎回、ガイドさんから浮き方、起き上がり方を教わります。そしてホテルに到着。ロビーの壁には、各国のことばで歓迎の挨拶が彫られています。「ようこそ」というひらがなを見つけて喜びました。

 もう夕方ですが、これから着替えて浮遊体験です。私は昨年ひっくり返って、あの水を飲んでから、ずいぶん臆病になっていますが、張り切って着替えをしておられる児玉さんのペースに巻き込まれて、ついつい着替えてしまいました。下に下りて行くと、もうワイワイやっています。
「去年、エライ目にあったからね。私カメラマンになるから・・・・」
そいう私に、西さんが、
「一緒に入っておくれやす」
と心細い声で催促します。私はまず、空き瓶に水を詰めて、お土産を確保してから入りました。小室さんの奥さんと、私と西さんの3人は、柵に掴まったまま楽しみましたが(写真)、他のみなさんは、ずんずん遠くへ行って、
「お~い、こっちへ、おいでよォ~」
と叫んでいます。

「これが死海かぁ。やっぱり経験してみなきゃ、わからんもんだな」
「そうさ、いくら話で聞いたって、いくら本で読んだってさ、分かりっこないさ」
「何てリッチなバカンスなんでしょう。最高だわ」
 それぞれ、日が落ちる寸前まで興奮していました。さあ、明日の今ごろは、いよいよ国境を越えて、シナイ山のふもとにいるはずですが、どうなることやら・・・。しかし主のことばが聞こえます。
「あすのことは思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労はその日一日だけで十分である」(マタイ6:34)
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59.マサダで960名の自決

2006年09月19日 | Weblog
 場所を移動して、新しく説明を聞きます。

「このマサダが、どうして脚光を浴びるようになったかと言いますと、紀元66年~73年にかけて、ローマ帝国に対する反乱軍の舞台として登場したからなんです。70年にエルサレムの神殿が破壊された後ですね、3年間、967名のユダヤ反乱軍が、ここに立てこもって戦い続けたのです。
 下から上がってくるローマ軍に、石弾を投げて抵抗しましたが、最後にローマ軍は1万人の兵隊でマサダを包囲し、火攻めによる攻撃を開始しました。ただでさえ、食糧が尽きれば逃げるか、死ぬか・・・それしかないユダヤ人にとっては、たまったものではありません。もはや、これまでと最後を決めた指導者のエリエゼル・ベン・ヤイールは、次のように演説したと書かれています。

『私たちはローマの奴隷にはならない。主なる神以外の、誰にも仕えてはならない。捕虜となって辱めを受ける前に死を選ぼう。捕虜となる前に妻たちを、奴隷になる前に子供たちを死なせよう』

 そう言ってですね、960名が自決したのです。しかし、ユダヤ教では自殺も罪だと言われていますので、どういう方法を取ったかといいますと、まずですね、男子が自分の妻を殺し、次に10人を選んで、その10人が他の男たちを殺し、残った10人の中から1人を選んで、その人が自分以外の9人を殺し、そして最後の1人が自殺するという方法で、悲しい最期を遂げました。二人の女性と5人の子供が洞窟に身を隠して、生き残ったそうです」
「・・・・・・・・・」
 日本の白虎隊のような話に、胸がキュ~ンとなって、目頭が熱くなります。
「今、イスラエルでは、このマサダと嘆きの壁で軍隊の入隊式(写真)が行われます。そして全滅を再び繰り返してはならない、という決意をもって、『ノー・モア・マサダ』というスローガンを語り継いできました。入隊式で一人一人銃を渡された後ですね、こう言われるんです。
『これは単なる鉄の塊に過ぎない。これをどう使うかは、皆さんの良心と自由意志にかかっている。使い方によっては善にもなるし悪にもなる』と」
 しばらくの間、「ノー・モア・マサダ! ノー・モア・ヒロシマ!」とこだましていました。戦争は反対です。
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58.マサダ

2006年09月19日 | Weblog
 クムランから死海に沿ってしばらく南下しますと、突如として右手に、大きな台形の岩山が現れました。高さ400m、頂上は南北に600m、東西に300mという平らなひし形で、四方が絶壁という、まさに天然の要塞であることから、マサダと名づけられたとか・・・・。ロープウエイで5分もすれば9合目に着きますが、マサダとはアラム語で要塞を意味するそうです。まず、ロープウエイを降りた所で説明を聞きます。

「聖書には、サウルから逃れて荒野をさまよったダビデが、この要塞にいたと書かれています。(サム上23:14) その後、ハスモン家の大祭司ヨナタンがですね、切り立った岩を利用して要塞を造りました。
 紀元前25年頃には、ヘロデ大王がこの地形に目をつけ、もとからあった建物を強化し、増築して豪華な宮殿や見張り塔を造ったと言われています。また、ヘロデ大王は非常に用心深い人だったので、国内の何ヶ所かに逃避用の場所として、水と食糧を貯蔵しておきました。ただし、ヘロデ王は一度もこのマサダを利用したことはなかったそうです」
「こんな所で、どのようにして水を貯蔵したんですか」
 そうです。みんなの知りたいところです。
「要塞の全域と西側のワジの雨を、水路で引きましてですね、しっくいで水漏れを防いで貯水していました。12の貯水槽がありまして、1年でおよそ4万トンの水を貯えることができたそうです」
「こんな岩山で、4万トンも?」
「ええ、この国は雨季になりますと、どーっと降りますから、それを全部貯蔵するんです」
「ふ~ん、すごいですね」

 その後、急な階段を手すりにつかまり、くの字になりながら頂上まで上がって行きます。落ちそうで怖いです。また当時のビデオカメラは大きかったので、一層の注意が必要でした。途中一息ついて横を見ますと、死海が青くゆったりと広がっていました。深呼吸をして、再び頂上を目ざします。 
 ようやく頂上について遺跡を巡ります。石切場、食糧庫、シナゴーク、サウナ風呂など。驚いたのは2千年前のフレスコ画が残るサウナ風呂の脱衣場です。さぞ豪華だったろうなと、すごい宮殿を想像しました。でも疑問が生じます。
 岩山の頂上に、これほどの施設をどうやって・・・? しかも、温水用も冷水用も備えているというサウナの施設で、燃料はなんだったの? 質問しますと、いろいろ説はあるが、いまだに不明確だとか・・・・。

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57.クムランの遺跡

2006年09月18日 | Weblog
 その後、遺跡を巡りながら、さらに説明を聞きます。
「彼らは、清めのために毎日沐浴をしていましたので、貯水槽がたくさんありますが、清めの儀式もですね、非常に厳格で、水槽に下りる階段と、上がる階段が別々になっています。汚れた身体で入る階段と、清めてから出る階段が、このように仕切りで分けられているのです。しかし、この共同体も紀元70年の神殿崩壊と共に衰退するわけですが・・・・。
 聖書に、バプテスマのヨハネが、ユダの荒野で、いなごと野蜜を食べて、バプテスマを施していたと書かれていることから、彼もエッセネ派と関係があったのではないかと言われていますね」

 クムランの遺跡に立って、写本の発見された洞窟を眺めていた時、ふと思いました。モルモン書の金版が発見されたクモラの丘、死海写本が発見されたクムランの洞窟、クモラとクムラン・・・・。どちらもイエス・キリストを証するための、大切な教えが隠されていた場所です。イスラエルとアメリカの共通点、つまり東半球と西半球が対をなしていると考えるのは、私の妄想だろうか。まだあります。
・イスラエルの死海とアメリカのソルトレーク(塩湖)
・ユダの荒野とユタ州の広大な砂漠
・聖書とモルモン書
・イスラエルのエルサレムと、これから建つアメリカの新エルサレム
 こうして思いをめぐらしていますと、イエスの言われた一つの言葉が、染みるようにはっきりと理解できるのでした。
「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼いとなるであろう」(ヨハネ10:16)

「神は生きています。イエスは救い主、全人類の贖い主です。モルモン書は確かに、イエス・キリストを証するもうひとつの書物です」
そのように、クムランの洞窟に向って心の叫びを放っている私でした。
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