イスラエル旅行記

旅行記が完成したので、あとは普通に。、

26.黒いヤギと羊の群れ

2006年08月31日 | Weblog
*カルメル山からキブツへ移動

 そろそろ昼食の時間が近づいてきています。倉田さんは、イスラエルの「おふくろの味」を食べさせると張り切っていますので、だんだんその方が楽しみになってきました。ここで、第一日目のコースを半分見学したわけですが、みなさんはどんな思いでおられるのでしょう。一生懸命メモを取っておられますが、頭の中はそろそろパニック気味ではないでしょうか。時差の関係で一番疲れる初日ですもの。

 朝食がパンとジュースという軽いものだったのと、見学のために結構歩いたのとで、お腹は食物をいただく準備がすっかり整っています。バスでさえ空腹をこらえているかのように、フルスピードで走っています。

 しばし、ボーッとしていますと、おや、黒いヤギと羊の群れが・・・・、ぞろぞろ歩いているではありませんか。何とも絵になる光景です。ふと、ヤコブのことが浮かんできました。ラケルを愛したが故に、14年も伯父のラバンに仕えたヤコブが、故郷に帰って自分の家をなしたいと願い出た時のことです。

*ヤコブは言った、「なにもわたしにくださるに及びません。もし、あなたが、わたしのためにこの一つのことをしてくださるなら、わたしは今一度あなたの群れを飼い、守りましょう。わたしはきょう、あなたの群れをみな回ってみて、その中からすべてのぶちとまだらの羊、及びすべて黒い小羊と、やぎの中のまだらのものと、ぶちのものとを移しますが、これを私の報酬としましょう。・・・・」(創30:31)

 まもなく倉田さんが言いました。
「みなさん、ちょっと右手をご覧ください。黒いやぎと羊の群れが歩いていますね。あれにね、ちゃんと賢い犬がついているんですよ。ほっとくとすぐ、どこかへ行っちゃいますからねえ。それで、その犬は、添乗員の鏡、と言われているんです」
「ワッハハハ・・・・・」
 どっと笑いの渦で、疲れが吹っ飛びました。グループ旅行では、迷子になる人が結構いるらしいのです。
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25.教会の屋上から

2006年08月30日 | Weblog
*カルメル山

 話が少し横に逸れましたが、さて、その石像のエリヤに守られるように、カトリックの教会が建っていて、屋上は展望台になっています。暑い暑いと言いながら屋上に上がりました。そこから眺めるエズレル平原の風景、今年は多少霞みがかって絶景かな、絶景かな。
 遥か向うには、似たような山が2つ見えます。右手が536mのギルボア山(サム下1章)、左手が588mのタボール山(詳細は後記)、すぐ下には、エリヤがバアルの預言者を殺したキション川も見えます。
 それにしても、この国が日本の四国ぐらいしかないなんて、とても考えられません。深呼吸をして胸を広げて、それでもなお、この絶景を受け止めることが出来ないほど、自分を小さく感じました。床面には、分かりやすいように、方向を示す図面が描かれています。

 さて、思い思いに写真を撮り終わって、暑い陽射しの屋上から逃げるように降りると、みな売店で賑わっています。私は絵はがきを数枚買ってバスに戻りました。
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24.バアルの預言者と戦ったエリヤ B

2006年08月29日 | Weblog
*カルメル山

 やがて、バスはカルメル山のデティール・エル・ムフラカという高台まで上りました。バアルの預言者と戦った、エリヤの石像が立っています。さて、ガイドを聞きましょう。

「デティール・エル・ムフラカという言葉には、燃える地、という意味があります。その昔、預言者エリヤが、バアルの預言者450人を相手に、火をもって応える神を拝め、と迫った場所とされています。(列上18:1~40)
 もとはと言えば、フェニキヤから迎えたアハヴ王の妃、イゼベルがバアルの神を持ち込んで、イスラエルの民に強制したのが戦いの原因でした。エリヤはこの戦いの後、エズレルの入り口まで、腰をからげて走って行ったと書かれてあります。(列上18:46)
 イスラエルに残された真の預言者でありながら、エリヤはこの後、ベエルシェバまで逃げて行きました。そしてさらに、荒野に入って行って死を求めたとも書いてありますね。いかにイゼベルが邪悪で、強い権力の持ち主であったか・・・・、しかし主は彼を見捨てはしませんでした。パンと水を与え、40日40夜導いて、シナイ山まで歩かせたと記されています」(列上19:1~8)

 う~ん、どの道を通ったにせよ、ベエルシェバからシナイ山までの荒野は、想像を絶する世界です。命を狙われてあの荒野を進んだ時、エリヤは一体どんなことを思っていたのでしょう。私などには想像も出来ないほど、孤独だったに違いありません。昨年、仲間と一緒にバスで通った時でさえ、涙があふれてどうしようもなかった荒野です。
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23.バアルの預言者と戦ったエリヤ A

2006年08月29日 | Weblog
*カルメル山 

 一行はカルメル山に向かいます。バスの中で倉田さんが話してくださいました。
「・・・・カルメルというのは、神のぶどう園、という意味でそこには少数民族のドルーズ族が住んでいます」
「ドルーズ族というのは、どんな民族なんですか」
誰かが尋ねました。
「はい、ええとですね、今から数百年前に、イスラム教から分派した宗教です。彼らは門外不出の書物を持っていると言われていまして、現在はイスラム教の巨大な勢力からは阻害されている民族です」
「ふ~ん~~」
「・・・それから、ちょっと見ていただければ分かるように、このあたりは結構緑があるでしょう。旧約聖書の時代には、この辺も緑豊かだったそうですが、その後ですね、遊牧民のベドウイン族が、燃料と家畜の飼料にしたことと、また多くの戦争があったために荒野になってしまいました」
 みな、走るバスの窓から眺めて聞き入っています。
「それで、ユダヤ人が移民してきた時にですね、かつてのように緑の多い場所にしようということになり、ユダヤ国民基金、というものを作って植林を始めました。それでご覧のように、また少し緑が増えてきたわけです。 聖書には、カルメル山はシャロンの野と同じように、麗しさの象徴として書かれていますね。そこ、ちょっと読んでみましょう」
 そういって聖句をプレゼントして下さいました。

*あなたの顔はカルメルのようにあなたを飾り、髪の毛は紫色のようで、王はそのたれ髪に捕われた。(雅歌7:5)

「またこのカルメル山は、フェニキアとイスラエルの国境でもありました。そこにバアルの聖所があり、ヤーウエの聖所もありました。これがやがて、バアルの預言者とエリヤの戦いのもととなるわけです。・・・・・」
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22.導水橋 B

2006年08月28日 | Weblog
 昨年と同じように、その砂地を海岸に向かって歩きました。そして2,000年以上も前の遺跡に、再び素手で触っているのです。その手のひらを通して、2,000年という時の流れに切ないほどの重みを感じました。

 逆らうことの許されなかった時代、これを造るために、どれだけの人々がムチで叩かれ、どれだけの人々が権力の犠牲になったのだろうか。心地よい潮風に打たれながら、昨年とは違うことを受け止めていました。もう一度、パンパンと手のひらを押しつけて、53年足らずの自分の人生を振り返ると、まるで奇妙なことが浮かんできます。
(50、60は鼻たれ小僧、70越えてようやく大人、80過ぎなきゃぁ~、人生なんて語れないさ。まだまだデカイ顔すんな! 偉そうなこと言うな!)と。

 2,000年前からずっと仲良しだった地中海と導水橋、そしてそれを見つめ続けたピーカンの太陽に敬意を表して、一足先にバスに戻ります。確かに擦っても擦ってもへばりついているアスファルトの粒、そばの石玉に足を乗せてさらに擦ってバスに戻ります。窓から、もう一度しっかりと、この風景を脳裏に焼きつけながら、
(主よ、いつかまた来れるでしょうか)
そう心に問うのでした。何しろこの地にいる間はリュウマチの痛みが全くなく、薬を持っていることさえ忘れているのです。

 ふと目にふれたのは、西さんが一番最後から、歩きにくそうに戻ってくる姿です。その前には元気いっぱいの児玉さん。そして柳田さん夫婦も、暑さの中をいとも爽やかに戻ってきます。その光景を窓ガラスの向こうに見ながら確信したのです。
(必ずもう一度来れるわ)と。【写真は2度目、12月】
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21.導水橋 A

2006年08月28日 | Weblog
*カイザリア

 バスはさらに北上して導水橋に向かいます。ローマ時代にカイザリア市民の飲料水用に使われたものらしく、カルメル山麓の泉から地中海の海岸に沿って、9キロもある高架式の導水橋。おそらくヘロデ王の時代に造られたものであろうと・・・。

 去年の12月に来た時には、地中海の冷たい風に身をさらしながら、私は砂を集め、相沢さんと宮本さんは、波をよけながら無心に貝がらを拾っていたし、津田さんはプロ級の腕で、私たちとは一味違った角度から写真を撮っていました。
 昨年のスケジュールでは、カイザリアが最後だったので、それぞれ旅行中の色々な思いが交錯していたに違いありません。2,000年前の遺跡と、真冬の地中海に漂う夕日があまりに美しく、涙が出そうになって一人群れから離れたのを思い出します。どういう訳か帰国するのが辛くて切なくて・・・。

 今回は見学が始まったばかりで、まだ午前中です。太陽がさんさんと輝いて、コバルトブルーの地中海が、アーチ型からはみ出してきそうです。なにはともあれ、元気いっぱいの私たち。
 バスから海岸までは結構な距離があります。しかもアスファルト混じりの砂地です。降りる前に添乗員の泉さんから、注意がありました。
「ええと、ここはですね、アスファルトの粒が混じっていて、べったり靴に付きますから、バスに戻るときには、それをよ~く落としてください」
 【写真は4度目、5月】
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20.十字軍時代の要塞

2006年08月28日 | Weblog
【写真:堀】カイザリア

 次の見学は十字軍時代の要塞です。バスから降りるとまず目に入るのは、皇居を囲んであるような堀です。もちろん水はありません。その堀にかかった橋の上で最初の説明を聞きます。
「この建物は13世紀に建てられたもので、当時は難攻不落と言われたそうです。防御するために、いくつか仕掛けがありますが、まず水攻めの堀ですね。ここを渡ろうとした途端にザァーッと水を入れちゃって、溺れさせてしまうんです。それでもめげずに渡ってきた人には、次の手が待っています。どうぞこちらにおいでください」
 建物の入り口の所で、再び説明を聞きます。
「上を見てください。大きな穴がありますね。次の手というのはあの穴なんです。あの穴から、今度は熱湯を浴びせるんです」
「ひえ~、ここから熱湯ですか」
「それでも運のいい奴は、まだ突き進んできますよね」
「次はどうするんですか」
 興味津々です。さすが殿方、こういう話になると身を乗り出して聞いています。
「三つ目はですね、じゃあ、中に入りましょう」
 ぞろぞろと後から続きます。入り口で見た限りでは、突き当たりのように見えた通路が、途中で右に折れていました。
「ごらんのようにですね、L字型に曲った通路なんです。どういうことかと言いますと、馬は前へ前へと勢いよく走ってきますから、途中で止まることが出来なくて、当然のことながら、向こうまで行って突き当たってしまいますね。そこでドドドッと落馬して、怪我をして・・・それで人数がかなり減りますね」
「ははは~~」
「な~るほど~。よく考えたもんだな」
「残った何人かは、このL字型の通路を右に曲ろうとしますが、最後にもう一度、あの上から熱湯を浴びせるという、非常に手の込んだ戦いをしたそうです。かの有名なナポレオンでさえ、ここは落とせなかったと言われております」
「ふ~ん」
 感心して言葉がでません。天上は、上から圧力をかけても耐えられるアーチ式の建築様式。礎石に使われている大理石はヘロデ大王の時代のもので、イタリアやエジプトのアスワンから運ばれたということでした。まことに感無量です。
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19.ちょっとブレーク

2006年08月28日 | Weblog
 こんにちは!いつも見てくださってありがとうございます。
今まで一気に書いてきましたが、この辺で少しブレークしたいと思います。暑さのあまり、少々バテ気味・・・・かな?
 
 実は今年の母の日に、カーネーションではなく、鉢植えのゼラニュームをいただきました。もうとっくに花が終わって、捨てるために葉っぱが枯れるのを待っていたのですが、それでも気まぐれに水を差していました。それもついでに、少しずつです。
 ところが1週間ぐらい前、つぼみをつけた4本の茎を発見したのです。しかも、いただいた時よりも太くて、短くてしっかりしているのは、梅雨にもカンカン照りの暑さにも、めげずに成長してきたからでしょうか。人生も、めげずに生き抜いてきた人は、どことなく骨太ですものね。
 そして今朝、花が咲いたのです。しかも暑さが吹っ飛ぶような真っピンク! イスラエルでブーゲンビリアを見た時と同じ心地です。イスラエルの荒野も、水さえあれば再び草が繁り、花が咲くのだと、ガイドさんが何度もおっしゃいました。そんなことを思い出しながら、冷たい麦茶で涼んでいます。

 少しカイザリアに戻りましょう。余分な話ですが、あの半円形劇場から徒歩10分ぐらいの所に戦車競技場があって、映画「ベンハー」の戦車競技はそこで撮影されたと説明がありました。またまた色めき立った私たちですが、今はバナナ畑になっているとのことでした。
「ああ、あれ? あそこね?」
 立ち上がってバスの窓から見ただけでしたが、余分なことが結構、魂をリフレッシュしてくれるんですよね。次回は十字軍時代の要塞にご案内します。
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18.半円形野外劇場

2006年08月27日 | Weblog
*カイザリア

 ピラトスの石版から少し歩いて、外から見ると要塞のような劇場の中に入りました。確かに海に向かって半円になっています。
「まあ、何ときれいになっていること!」
 昨年は修復工事中だったので、あちこち欠けたところがあって、瓦礫(ガレキ)と誇りの中でしたが、それはそれで想像力をかき立てられたものでした。今はこのすり鉢型の客席が整備されていて、オペラでも聞こえてきそうな雰囲気です。そこに腰かけて海を眺めながら、倉田さんのガイドに導かれていくのでした。
「この劇場はですね、ヘロデ王によって建てられたものです。直径170m。頂上までの長さは30mありまして、当時は約4,000人収容できたそうです」
「ほう~」
 みな、その広さを目で確認しながら、しっかりとメモを取る人もいました。
「右手の方には城壁の名残が見えますね。ここは現在でも、夏期には様々なコンサートが開かれます。地中海から吹く風が、非常に良い音響効果を出すんです。昔の人は非常にうまく自然を利用していましたね」
「な~るほど~」
 ガイドが終わって少し自由時間が与えられ、三々五々散って行きましたが、柳田さんと児玉さんと西さんの3人は、その場に腰かけて賛美歌を歌い出しました。

み空に麗しわがシオンの都
輝く宮居の真白きその門
カルバリに失せし
主はわれに開かん、シオン、シオン
あこがれの~♪~♪~

 紺碧の地中海に魂を奪われたかのように、無心に歌う彼女たちの姿にすっかり魅せられてしまいました。69才、73才、79才の3人。苦しい戦後を乗り越えて、日本を支えてこられた彼女たちの魂は、今この瞬間、失われた青春を取り戻しているに違いありません。
 あまりの神々しさに、私などはとても近寄れない雰囲気です。気づかれないように、そーっとビデオに収めました。歌声は続き、地中海の彼方へ吸い込まれて行きます。
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17.ピラトスの石碑 B

2006年08月27日 | Weblog
倉田さんの説明が続きます。
「本物はね、イスラエルの博物館に置いてあります。貴重な物ですから、こういう所には置いておけないんですよ」
 安心しました。タイミング良くユーモアを飛ばすガイドさん。
「・・・・碑文はですね、4行からなっていまして、
カイザリアの市民に、
ティベリウスを、
ポンテオ・ピラトス、
ユダヤの総督
と書かれてあるんです。で、どういう意味かと言いますと、ローマの皇帝ティベリウスを記念して、カイザリアの市民にこの円形劇場を造ることを、ポンテオ・ピラトスが許可したという意味だろうと言われております」
 みな、再び真剣になりました。
「実はこの、ポンテオ・ピラトスというのが、イエス・キリストに死の決断を下したあのピラトであろうと言われておりまして、この碑文の発見によってですね、ピラトは実在の人物であり、イエス・キリストの信憑性が一段と高まったというわけです」
 なんと背筋がゾクゾクする話ではありませんか。


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16. ポンテオ・ピラトスの石碑 A

2006年08月27日 | Weblog
【写真:ポンテオ・ピラトスの石碑】カイザリアにて


「皮なめしシモンの家」と「ヤッフォ展望台」のヨッパから、約40キロ北上して古代カイザリアの遺跡に向かい、揺れるバスの中で倉田さんのガイドに耳を傾けます。
「・・・紀元前3世紀ごろ、ここはフェニキア人の小さな町でした。それをヘロデ大王が、紀元前22年から12年かけて壮大な港町に改築し、ローマ皇帝のカイザルに敬意を表してカイザリアと呼ぶようになったと言われています。そのあと500年間ですね、ローマの総督府が置かれまして、ローマとの直行便が出入りする国際港となったわけです」
「ふうん、なるほど~」
「新約聖書の時代には、パウロが初めて異邦人(百卒長コルネオ)に伝道したところであり、また彼が2年間幽閉された後、上訴するためローマに出帆したのもここカイザリアでした」(使徒10章、27:2参照)

 やがて、バスは半円形野外劇場の庭に到着です。まず、ポンテオ・ピラトスと書かれた石版を見学しました。石版といっても社長級の椅子の背もたれ位はあります。また首のない石像が何個か置いてあって、これは偶然近くのバナナ畑から発見されたもので、5世紀のビザンチン時代の道路に飾ってあったものであろうと・・・。

「ええと、中に入れば分かりますが、この石版はですね、あの円形劇場のロイヤルボックスから発見されたものです。ここに、ポンテオ・ピラトスと書かれています」
 みな色めき立って一斉にシャッターを押します。倉田さんが申し訳なさそうに、声を落としておっしゃいました。
「実はですねえ、これ・・・・イミテーションなんですよ」
途端にどっと響く17人の笑い声。騙されたぁという心地よい雰囲気も漂って、まだクスクス笑っています。 
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15. ヤッフォ展望台

2006年08月23日 | Weblog
*ヨッパ

 さて、シモンの家を出て、今度はヤッフォ展望台まで歩きます。その展望台から先ほどと同じ海を眺めながら、倉田さんの説明を聞きます。
「ヨッパは現在ヤッフォ、あるいはジャッフォと言われており、その昔ヨナがタルシシに向けて不運な航海に出発した所でした」(ヨナ1:3)
「ふむ、ふむ」
「またソロモンが神殿を建てるために、ヒラムというツロの王にお願いして、レバノンの材木をいかだに組んで、海からヨッパに送ってもらい、それをエルサレムに運び上げた所でもあります」(歴下2:16)
 みなそれぞれ、遠い昔に思いを馳せている様子でした。

「・・・・ええと、それからですね、ギリシャ神話で有名なアンドロメダの岩があるのも、ここヨッパの海辺です。王女のアンドロメダが海の怪物の餌食として岩に縛りつけられていた時、ペルセウスという人が現れて彼女に恋をしました。そして、彼女を妻にくれるなら、その怪物を退治すると約束するわけです。で、彼は怪物を退治してアンドロメダを妻にしたという話がありますが、その岩がこのすぐ下の海辺にあります」
 みんな柵に捕まりながら、
「え、どこ、どこ」
と騒ぎましたが、結局ここからは見えないということでした。
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14.皮なめしシモンの家の屋上

2006年08月22日 | Weblog
【写真:屋上の間】

「ええと、ここがヨッパの皮なめしシモンの家です。聖書の中にタビタという女性が出てきますが、みなさんご存知でしょうか。数々の良い働きや施しをしていたけれども、病気になって死んだので、人々はその身体を洗って屋上の間(ま)に安置したと記されています。今、みなさんが立っておられるこの場所ですね」
「ほう~」
「またここは、ルダの近くでもあるんです。ルダというのは、今朝みなさんが着いた空港のあるあたりですが、そのルダにペテロが来ていると聞いて、弟子たちが迎えに行って、ここまで案内したわけですね」
 みなうなずいています。
「そして、タビタがどんなに良いことをしてくれたか、みな泣きながら話すものだから、ペテロはこの屋上でタビタを生き返らせて、その後、しばらくこの家に宿泊したとも書いてあります。そこ、ちょっと読んでみましょう。(使徒9:36~43参照)」
 みな、聖書の達人者、目を閉じてじっと聞き入っています。 
「また、異邦人伝道のお告げを受けたのも、この屋上でした」(使徒10章参照)

 飛行機の疲れも忘れてメモを取り、説明が終わってからは、思い思いに地中海を眺めたり、互いに写真を撮り合いました。初日から感動のるつぼです。私も、3度目にしてようやくここに立てたという感激でいっぱいでした。【写真は皮なめしシモンの家の屋上】
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13.皮なめしシモンの家 B

2006年08月22日 | Weblog
「もしかしたら、いないんじゃない?」
と問いかけると、
「いや、朝だからいるはず。お祈りしているのかも知れないな」
そう言ってノックをやめ、中の様子を伺うようにドアに耳を押し付けた倉田さんが言います。
「あ、誰かこっちに歩いてきた。みなさん、よかったですねえ~~。ここはね、めったに開けてもらえないんですよ」
 静かにゆっくりと開いたドア。おお、何という幸運でしょうか。感謝に満ちて思わず瞼を閉じながら、今回の旅はすべてがうまく行くという確信で胸が熱くなりました。しかし、管理人のおじさんは、何となくとっつきの悪そうな顔をしています。倉田さんはそんなことを気にする風もありません。彼の後から続いて中に入り、ぞろぞろと屋上に上がると、青い青い地中海の岸辺にいるのでした。そこで倉田さんから説明を聞きます。
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12.皮なめしシモンの家 A

2006年08月21日 | Weblog
【写真:ヨッパにある皮なめしシモンの家】

 荷物を積み終わったところで、ガイドの倉田さんから挨拶がありました。
「皆さん、お早うございます。大変お疲れさまでした。今日は現地時間の10月13日です。これからですね、軽く朝食を摂っていただくためにダンホテルに向かいます。まだ時間が十分にありますので少し仮眠を取っていただいて、6時半になりましたら集まってください。私はガイドの倉田、運転手はダビデといいます。どうぞよろしくお願いします」
 こちらもよろしくと、拍手で気持ちを伝えた時からファミリーの始まりです。20分もすると立派なホテルに着きました。ジーパン姿じゃ申し訳ないような感じですが、おかげさまで、ゆったりとくつろいで、いい旅の予感がしました。

 さて、いよいよダンホテルを出発です。大型バスに20人ですから、席はたっぷりと余裕があります。まず、ヨッパ(現在ヤッフォ)の「皮なめしシモンの家」に行きました。そこのドアが開くのは、管理人のご機嫌が良い時だけと言われていて、以前は開けてもらえませんでした。今回は倉田さんが何度も何度も、あきらめずにノックします。
「叩けよ、さらば開かれん」(マタイ7:7)
 主の声が聞こえてくるようですが、果たして今日、この聖句が成就するや否や。私はもう諦めかけているというのに、倉田さんはまだ続けます。握りこぶしの右手でトントン、トントンと、もはやそれは機械のようにさえ響くのでした。
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