イスラエル旅行記

旅行記が完成したので、あとは普通に。、

84.再び神の怒りに触れる前に

2006年10月13日 | Weblog
【絵:荒野で・・・】

「小田さん、奥さん、正美ちゃん、先に行くけど、エルサレムで待ってるからね。必ず良くなって!」
 小声で別れを言いながら、シナイの荒野を後にしました。正美ちゃんのいない淋しいバスを、倉田さんが一生懸命盛り上げて、もと来た道を戻ります。昨日の夕方、水を補給したあのヌエバの町、月のさばくを~~♪と歌いたくなった、あのヌエバの浜辺に着きました。
 そこで昼食をすませたあと、少し紅海の青い風邪に打たれながら散歩しますと、そこここに、鮮やかな色した南国の花が咲き乱れていて、シナイの岩山から下りて来たばかりの私たちには、目の覚めるようなショッキングな色です。それをしばらく眺めているうちに、徐々に人間らしさが戻ってきたのでした。

 おそらく、あのシナイ山に3日もいたら、精神的に弱い人は幻覚と幻聴をきたすに違いありません。考えてみれば、モーセがシナイ山で主と語り合っている間、ふもとにいる民が「金の子牛」を造って踊り狂った気持ちが分かるような気がします。(出エ32:19参照)
 木も草も、水もないあの岩山のふもとで、そうでもしなければ一体彼らに何ができたというのでしょうか。しかも、山に登ったきり戻って来ないモーセが、生きているのかどうかさえ、知るすべがなかったことを思えば、むしろ当然のことだったかも知れません。シナイの山々に、それほど自然の厳しさを感じました。しかしながら、彼らの行いは神の怒りに触れることだったのです。神はこの荒野において、民を試されたのでした。

 現代の世の中にも、子牛を造って踊り狂ったあの民と、大して変わらない人たちが大勢いるような気がしてなりません。子牛の代わりがお金であったり、車であったり、あるいは宝石だったりして、人生の目的を知らずに過ごしている人たちのことです。
 日々、勝手気ままに思いのままに、また流れる雲のように、あるいは海の泡のように、空しい人生を送っている人たちが大勢いる世の中になってしまいました。再び、神の怒りに触れる前に、生き方を変えてほしいと願わずにはいられません。
コメント
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