イスラエル旅行記

旅行記が完成したので、あとは普通に。、

76.モーセの山よ

2006年10月06日 | Weblog
 【写真:黄金のシナイ山】

 黄金に輝く山を時々振り返りながら、朝日の中を下山し続けます。当然のことながら登るほどには苦しくなく、先になったり後になったりのマイペースです。ついに夢を果たしたという満足感が、気持ちに余裕をもたらしたのでしょうか、ヤレドの兄弟がシーレム山の頂上に登ったことが浮かんできました。シーレム山もこんな岩山だったのかも知れないと。

*ヤレドの兄弟は、非常に高いために彼らがシーレム山と名づけた山に行き、一つの岩から16個の小さな石を溶かし出した。その石は白く、透き通っており、透明なガラスのようであった。そして、彼はそれらの石を両手に持って山の頂上に登り、再び主に祈って・・・・・・・、主は手を差しのべて、指で一つ一つ石に触れられた。すると、ヤレドの兄弟の目から幕が取り除かれ、彼は主の指を見た。それは人の指のようで、血肉の指に似ていた。(エテル3:1~6参照)

 ノアの大洪水の後、アブラハムよりおよそ300年前、主はバベルの塔の所で言葉を乱し、互いに通じないようにしました。そして人々を、全地のおもてに散らされたと聖書に記されています。(創11:1~9参照)
 その時ヤレドとその兄弟は、自分たちの言葉が乱されないように嘆願し、主はそれを受け入れました。(エテル1:34~37) その後彼らは、家族や友人と共に、約束の地、新大陸アメリカへと導かれて行くわけですが、主の言われる通りに作った8隻の船は、光が入らず暗闇でした。そこで、ヤレドの兄弟は、石を持ってシーレム山に登り、光を出す石にしてくださいと祈ったのです。

 シーレム山とシナイ山、主に会ったヤレドの兄弟とモーセ、年代的には千年ぐらいの差があるものの、二人の信仰に胸打たれながら、ひたすら歩き続けます。連なる岩山とコバルトブルーの空の間にあっては、石ころにも劣るかと思われるほど小さく感じる自分でしたが、主の言葉が心に響き、救われる思いでした。

*人の価値が神の目に大いなるものであることを覚えておきなさい(教義と聖約18:10)

                 
コメント
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