通った道は通らない』(ピアニスト・上原ひろみ)
日本で初めての本格的なテニススクール校長として、
日本で初めての本格的なテニスショップの店長として、
日本で初めての本格的なテニス専門誌の編集長として、
日本で初めての女子テニス団体戦(フェドカップ)監督として、
戦後の日本テニス界で道なき道を切り開き、この6月1日に逝った宮城黎子さんを“偲ぶ会”が25日(金)に緒方貞子さんが発起人となって東京帝国ホテルで開かれた。
縁あって、その下で9年間働いた。
テニスと、編集と取材のいろはを教わった。
緒方さんや正田美智子さま(現皇后陛下)のコーチをされ、シングルスとダブルスを合わせて30個の全日本タイトルを獲得、テニス界の大御所といえる立場にもかかわらず、常に相手の目線までおりてきて物事に向き合う人だった。
ネットを挟んで行き交うのは、単なる黄色いボールではなく、勇気とガッツなのだ、ということを教えていただいた。
弱気になる自分の心に打ち勝って、まずは土俵に上がっていかなければ、何事も始まらない、ということを無言のうちに教えられた。
縁あって口述筆記することになり遺本となった『宮城黎子の昭和テニス史』(日本文化出版 5月1日刊)の完成を見届けて逝かれたことが、せめてもの慰めである。
「テニス、やってるの? やらきゃだめよ!」
その声が今も聞こえる。
日本で初めての本格的なテニススクール校長として、
日本で初めての本格的なテニスショップの店長として、
日本で初めての本格的なテニス専門誌の編集長として、
日本で初めての女子テニス団体戦(フェドカップ)監督として、
戦後の日本テニス界で道なき道を切り開き、この6月1日に逝った宮城黎子さんを“偲ぶ会”が25日(金)に緒方貞子さんが発起人となって東京帝国ホテルで開かれた。
縁あって、その下で9年間働いた。
テニスと、編集と取材のいろはを教わった。
緒方さんや正田美智子さま(現皇后陛下)のコーチをされ、シングルスとダブルスを合わせて30個の全日本タイトルを獲得、テニス界の大御所といえる立場にもかかわらず、常に相手の目線までおりてきて物事に向き合う人だった。
ネットを挟んで行き交うのは、単なる黄色いボールではなく、勇気とガッツなのだ、ということを教えていただいた。
弱気になる自分の心に打ち勝って、まずは土俵に上がっていかなければ、何事も始まらない、ということを無言のうちに教えられた。
縁あって口述筆記することになり遺本となった『宮城黎子の昭和テニス史』(日本文化出版 5月1日刊)の完成を見届けて逝かれたことが、せめてもの慰めである。
「テニス、やってるの? やらきゃだめよ!」
その声が今も聞こえる。