ブレンダン・ギルは、その著『「ニューヨーカー」物語』(新潮社)の中で、創刊編集長だったハロルド・ロスの言葉を、そう紹介している。
雑誌『ニューヨーカー』の執筆陣の一人だったギルが、「Talk of the Town(町の話題)」にズーメランという人気玩具を取り上げたとき、どうしても言葉で説明するのが難しく「表現できない」という文章を書くと、その一文を読んだロスが電話をかけてきて言ったという言葉である。
ハロルド・ロスという人物の存在を知ったのは確か、常磐新平の『アメリカの編集者たち』(集英社)でだった。
今でもよく覚えているのは、たぶん、自分自身がなかなか部数の伸びない雑誌を抱えていた時期だったからだろう。
ロスは、その創刊趣意書の中で、「『ニューヨーカー』はダビュークの老婆のために編集する雑誌ではない。その老婆が何を考えているかということなど『ニューヨーカー』の関知しないところである」と宣言していたが、1925年の2月に1万5,000部でスタートした『ニューヨーカー』は、8月には2,700部まで部数が落ちてしまっていた。そんなとき、ニューヨークの六番街にあった社屋を訪ねてきた母親に、ロスは自分が編集する『ニューヨーカー』をどう思うか尋ねている。「ねえ、ハロルド、おまえもいつか『サタデイ・イヴニング・ポスト』と関係ができるといいねえ」
それが、それこそ、“ダビュークの老婆”のような母親の返事だった。
ベンジャミン・フランクリンが創刊し、当時売れっ子のフィッツジェラルドがいくつもの短編を書いていた『サタデイ・イヴニング・ポスト』は、原稿料も『ニューヨーカー』の10倍は出しており、アメリカ全土の人々が発売日を待ちこがれている雑誌だった。
おもしろいな、と思ったのは、その『サタデイ・イヴニング・ポスト』は1967年に廃刊になるのだが、『ニューヨーカー』は生き残って、1970年代、80年代には50万部近くを発行する雑誌として現在に至っているというところだ。
その『ニューヨーカー』も初代編集長のロスから2代目のウィリアム・ショーンのあと、『ヴァニティ・フェア』の女性編集長だったティーナ・ブラウン、そして作家のデビット・レムニックへと代を重ね、誌面も変質を余儀なくされたのだろうか?
ロスとショーンと愉快な仲間たち、と副題を付けられた『「ニューヨーカー」物語』を読みながら、渋谷のNHKの近くにあった(今もあるだろうか?)放文社という書店で、毎号手に取るのを楽しみにしていた中とじの薄い雑誌を懐かしく思い出した。イラストの表紙が楽しみで、ずっと捨てずにいたのだが、東京を離れるときに粗大ゴミに混ぜて捨ててもらってしまったのだ。
雑誌『ニューヨーカー』の執筆陣の一人だったギルが、「Talk of the Town(町の話題)」にズーメランという人気玩具を取り上げたとき、どうしても言葉で説明するのが難しく「表現できない」という文章を書くと、その一文を読んだロスが電話をかけてきて言ったという言葉である。
ハロルド・ロスという人物の存在を知ったのは確か、常磐新平の『アメリカの編集者たち』(集英社)でだった。
今でもよく覚えているのは、たぶん、自分自身がなかなか部数の伸びない雑誌を抱えていた時期だったからだろう。
ロスは、その創刊趣意書の中で、「『ニューヨーカー』はダビュークの老婆のために編集する雑誌ではない。その老婆が何を考えているかということなど『ニューヨーカー』の関知しないところである」と宣言していたが、1925年の2月に1万5,000部でスタートした『ニューヨーカー』は、8月には2,700部まで部数が落ちてしまっていた。そんなとき、ニューヨークの六番街にあった社屋を訪ねてきた母親に、ロスは自分が編集する『ニューヨーカー』をどう思うか尋ねている。「ねえ、ハロルド、おまえもいつか『サタデイ・イヴニング・ポスト』と関係ができるといいねえ」
それが、それこそ、“ダビュークの老婆”のような母親の返事だった。
ベンジャミン・フランクリンが創刊し、当時売れっ子のフィッツジェラルドがいくつもの短編を書いていた『サタデイ・イヴニング・ポスト』は、原稿料も『ニューヨーカー』の10倍は出しており、アメリカ全土の人々が発売日を待ちこがれている雑誌だった。
おもしろいな、と思ったのは、その『サタデイ・イヴニング・ポスト』は1967年に廃刊になるのだが、『ニューヨーカー』は生き残って、1970年代、80年代には50万部近くを発行する雑誌として現在に至っているというところだ。
その『ニューヨーカー』も初代編集長のロスから2代目のウィリアム・ショーンのあと、『ヴァニティ・フェア』の女性編集長だったティーナ・ブラウン、そして作家のデビット・レムニックへと代を重ね、誌面も変質を余儀なくされたのだろうか?
ロスとショーンと愉快な仲間たち、と副題を付けられた『「ニューヨーカー」物語』を読みながら、渋谷のNHKの近くにあった(今もあるだろうか?)放文社という書店で、毎号手に取るのを楽しみにしていた中とじの薄い雑誌を懐かしく思い出した。イラストの表紙が楽しみで、ずっと捨てずにいたのだが、東京を離れるときに粗大ゴミに混ぜて捨ててもらってしまったのだ。