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六月~八月・「卑弥呼」はいかなる存在であったか?

2019-03-06 18:19:32 | 古事記字源

 遊歴考
  ↓↓
 「卑弥呼」はいかなる存在であったか?
  ↓↓
 彼女の存在と出自は三国時代の
 「呉=燕」、「台湾」、「琉球・奄美・沖縄列島」、
 「鹿児島」、「五島列島」、「長崎」、「諌早」、
 「宇土」、「横島」、「熊本」
 のラインを結ぶ
 「海洋交易」の人々の「ミコ」であった。
 これは漢和辞典で「呉」の項目を検討すれば、
 「歴史・地理・人」の
 「漢字」がそれを示唆していることが理解できるのだ。
  ↓↓
 呉=ゴ・ウ・  くれ・くに・くれる・あたえる・やる
   ↓   ↓   ↓   ↓  ↓   ↓    ↓
   娯  烏  来れ 邦  繰れる 與 える 耶琉

   ↓   ↓   ↓   ↓  ↓   ↓    ↓

   語  得  句例 句似 句戻留  与 える 遣る
   ↓   ↓   ↓   ↓  ↓   ↓    ↓
   五  有  九例 九似 九例留 亜多重留 哉瑠
                         ↓
               (瑠璃=琉璃=玻璃)
                ↓↓  ↓↓  ↓↓ 
                ルリ ルリ ハリ
                瑠=滑らかにスベル
                 =玉の名に用いる
                 =玉名
   ↓   ↓   ↓   ↓  ↓   ↓    ↓
   呉  迂  呉移  国  来れ流 阿侘得留  八瑠

  =かまびすしい・やかましい・大声(おおごえ)で云 う おおきい
   ↓       ↓      ↓   ↓     ↓   ↓
   珈磨美素詞意 哉可真史意  大越 緒甫呉枝  出移 宇 尾圃穐意
   華麻美州四囲 八珈魔私意  男雄 緒将肥重  拿委 卯 悪男季威
  ↓↓
 呉=春秋五覇の一。周の文王の長子、「太伯」が「蘇州地方」に建国。
   前473年
 呉王の「夫差」が
 越王「句践」との戦いに破れて自殺するまで
  二十五代759年間続いた。
 呉=三国時代、「孫権」が楊子江下流に建国。
  都は「建業=南京」。
  「西晋」に滅ぼされるまで四代六十年間続いた。
 呉=唐末五代の時、「楊行密」が「江蘇」に建国。
  「徐知誥(ジョチコウ)」に滅ばされるまで
  四代四十六年間続いた。
 呉=「江蘇省」の異名。
  ↓↓
 「呉」=ゴ・ウ=「くれ」は日本の広島港湾にある地名である。
   ムカシは「海軍軍港」であった。
     西に「厳島神社」があり、
  「東経132度30分・北緯34度3分」あたりに
   「横島」が存在し、
     この「横島の南西」に「屋代島」、
   平郡水道にもう一つ「横島」が存在する。
  ↓ ↓
 「横島(よこしま)」があって、何ら不思議ではないのだが、
ここに
「地理的地名」の「イト」を見て取る人は
 「私=ム」と同類の人間である。
 詳しくは「地図・緯度・地理史」に述べてあるので参考にして欲しい。
 次の地名は訓でヨムと、
  ↓ ↓
 「台・湾」=タイワン=台   湾      台    湾
            ↓   ↓       ↓     ↓ 
           (うてな・まがり) (よろこぶ・みずくま)
            台          ↓    ↓
            ↓           ↓    ↓
           (われ ・よろこぶ)(あたえる・みずくま)
                     (もと  ・みずくま)
           「台」は他人の尊称・・・貴台
           「台」は「喜んで云う壹擡擡臺臺」・「星の名前」
           「台」は「臺」
           「台=臺」の類字は「台」は「壹・擡」
           「台」=「ム」+「口」
  ↓ ↓
 となる。「台=」の熟語は「台臣=諫官」、
女将さんが守備する
 「台所=料理場=膳部=厨房=六朝時代の宮中」で、
 手紙の文末に添える
 「台安=御安泰・御多幸」で、
 政府の記録を扱う「台省=尚書省(中台)」で、
 役者の「台詞=科白=せりふ」である。
 次も以下にヨメる。
  ↓↓
 「琉球」=リュウキュウ=ながれ・もとむ
 「奄美」=エンビ=あまみ
 「沖縄」=チュウジョウ=おきなわ
 「鹿児島」=カジトウ=かごしま
 「五島列島」=ゴトウ=いつしま
 「長・崎」=(チョウキ・チョウゲ)
      =ながい・みさき=ながく・あやうい
 「諌・早」=カンソウ=いさめる・はやく
 「宇・土」=ウド= 宇  土 =    宇    土 =   宇  土
           ↓   ↓      ↓    ↓    ↓   ↓
         (のき・つち)、 (ひさし・どろ)(そら・くに)
         (さかい・はかる)(つくり・はに)(かまえ・いる)
         (おおきい・つつ)(おおう・のり)(うま・くに)
         (たか・くに)
 「横・島」=オウトウ・よこしま
 「熊本」=コウホン・ユウホン=くまもと、ひかるもと
  ↓↓
 魏書・巻参拾・烏丸鮮卑東夷伝・倭人
  ↓↓
 「魏志・倭人伝」にある「倭国動乱」の
女王「卑弥呼」は「狗奴国王」と
 「犬猿の仲」と考えられているが、
 「卑弥呼」の出自は「呉」と縁籍にあった
 「狗奴国」にあったと考えられる。
 「魏書・巻参拾・烏丸鮮卑東夷伝・倭人」の
 「タイトルそのものの漢字」はもとより、
 この記録の部分、
 「魏志・倭人伝」にある最後の
 「陳寿」の記述は、まさに示唆的である。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・「使訳時通、記述随事、豈常也哉(原文)」
 ・  ↓
 ・「通訳と使者が定期的に通じ、
 ・記述は事実に随うが、不変だろうか。
 ・そうではあるまい
 ・  ↓
 ・(いき一郎訳文・中国正史の古代日本記録より抜粋)」
 ・
 ・「通訳と使者が定期的に通じ、
 ・『随事(報告された事をそのまま聞き入れ、
 ・その度に)』記述したが、
 ・どうして、この『報告』が事実だと言えるだろうか、
 ・そうではあるまい
 ・  ↑
 ・(私の勝手な訳文)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この「使訳時通、記述随事、豈常也哉」は
 「歴史的、時間的な流れの不変性、状況を疑って」
 いるのではなく、
 「使訳時通」の報告の「正否」を疑っているものである。
 すなわち、
 「陳寿」は「使訳」の報告すべてが
 正しいわけがあるまい、と言っているのだ。
 「卑弥呼」は
 「魏」に自分が
 「呉」に荷担するものではない事を
 アリバイ的に
 「狗奴国」と「敵対」していると、伝えたかった。
 何故なら別格の
 「独立国=狗奴国・『男王』」の存在は、
 「初めの倭国動乱」の原因ではなかったからだ。
 「初めの倭国動乱」は
 「七十、八十年間、もと男王の時世の終息時の動乱」であり、
 「狗奴国」が原因とは記されていない。
 その結果、
 「ヤマタイ・連合国内」での「卑弥呼」の擁立であったのだ。
 「二回目」の「倭国動乱」は
 「卑弥呼」が
 「死亡」したことに原因があるのであろうか・・・?
 ・・・違う・・・「卑弥呼」はまだ生きていた・・・。
 政治的に「ヤマタイ・連合国内」での
 「卑弥呼=『呉』」
 と
 「壱与=『魏』」の確執、
 「壱与」擁立の「動乱」であったハズである。
 「敵対」関係にある「狗奴国」が
 「壱与」が擁立された結果、
 その「敵対」関係を払拭したとは思えない。
 もともと敵対関係はなかったのだ。
 あったのは「ヤマタイ・連合国内」での
 「卑弥呼(始・婆々)=『呉国に属(荷担)する巫』」と、
 「壱与(姉・早乙女)=『魏国に属(荷担=カタン=下端)する巫』」
 の「女王」権力をめぐる「女同士(?)」の戦いであった・・・。
  ↓↓
 漢和辞典には・・・
  ↓↓
 始(シ・はじめ・と・はる・もと)・・・
 解字・形声・・・女が意符。台(イ・転音シ)が音符で、
         また初めの意を表す。
 原義は、女の初め、「長女の意」。
     ひいて「はじめ」の意に用いる。
  ↓↓
 と記されている。
 始は「女+台」で、
 「長」の「女」である・・・
 「長女=おさめ」・・・
  ↓↓
 姉(シ・あね)・・・
 年上の女の兄弟。はは。姐。
 婦人を親しみ、また尊敬して呼ぶ言葉。
 原義は「年の多い女」の意味。
  ↓↓
 姉は「女+市」で、
 「年=歳=サイ=斎=祭=哉=西」の
 「多(おほ)」の
 「女(むすめ・おんな・ジョ・ニョ)」である。
 「市」には「市場」の「市(イチ)」と、似ているが、
 別字の「市(フツ)」が類字としてある。
 「市(フツ)」の意味は
 「前掛け=エプロン
     =料理人がカケル割烹着(カッポウギ)」である。
 トウゼンにも
 「前(膳)を(に)掛(懸)ける」である。
 そして、
 「古事記・前巻」、
 「日本書紀・全巻」に書けるである、のだ。
 誰が?
 ・・・「お膳係」の
    「膳部臣(カシワデのヲミ)=高橋」を、である。
  ↓↓
 姿(シ・すがた・かた・しな・たか)・・・
 からだつき。容姿。身なり。なりふり。風采。
 ようす。おもむき。態度。ありさま。なりゆき。
 けいせい(形勢)。
 「しな」をつくる。
 ・・・支那・詞名・史為・科・品(ほん・本)
 ・・・解字・形声・・・女が意符。次(シ)が音符。
    また、うまれつき(資=シ)の意を表す。
    女の「うまれつき」、また、そのすがたをあらわす。
  ↓↓
 姿は「次(氷・欠)+女」で、
 「しな=支那=品=科」を「ツクル」である。
 しかも
 「うまれつき=生まれ月=誕生月
       =馬 隷槻=午戻就き」である。
 「始」、「姉」、「姿」の
 字の「共通項」は
 「女(オンナ=音名)」で、
 音の共通項は「シ」である。
  ↓↓
 妹(女+末・バツ・マチ・マツ)・・・
 妹嬉(バツキ)は「夏の国」の「桀王の妃」で、
 桀王と共に日夜、遊楽にふけり、
 「夏国」の滅ぶもとをなした。
  ↓↓
 妹(女+未・マイ・バイ・メ・いもうと・いも)・・・
 女が意符。未(ビ・転音マイ)が音符。
 また、「かさなり続く」意を表す。
 姉の後に続く女で、いもうとの意。
  ↓↓
 妹(女+末)と、
 妹(女+未)の共通項は「女」であり、
 類似する
 「末」と「未」の漢字で、
 「末(おわり=終わり=尾張)=すえ=据=須恵=陶」と、
 「未(さき=先=前・・・ひつじ=未・・・未来
      =崎・碕・埼・咲き・左記
      =裂き・割き・簑記=箕記)
      =美濃の記・味野の記・三野の記」で、
      「まえ=前=舞=米(八方位)
         =昧(日は未・南西の支)」である。
  ↓↓
 「天照大御神」は「三人の女の子」を生んだ。
 二人のヒメは別名が記されている。
  ↓↓
 多紀理毘賣=奥津島比賣・・・多くの紀の理は毘(田比=タヒ=他意)
 市寸島比賣=狭依毘賣・・・・イチ(位置)を
               寸(ハカル)のは「島(シマ)」
               市=亠(音の略字)+巾(はば)
 多岐都比賣=多(タ=他)の岐(キ=記)の都(ミヤコ=宮子)
              ↓        ↓
             山支=箕   宮 古
              ↓        ↓

 「木花之佐久夜姫=神阿多都姫」は「三人の男の子」を生んだ。
  ↓↓
 火照  =海幸彦・・・火=八人・・・・・照=日刀口光
 火須勢理                須=彡一ノ目人=ひげ
 火遠理 =山幸彦=天津日高日子穂穂手見 遠=辷袁
  ↓↓
 これらの登場人物の共通項は
「比(ヒ)」と「火(ヒ)」であるが、
「多紀理毘賣=奥津島比賣」、
「市寸島比賣=狭依毘賣」
の「比」と「毘」の漢字の区別は
「田」の有無で、何を意味しているのか。
「毘=田+比=たい=他意
=対=鯛=体=態
=台=太=タヒ=侘比」である。
「多紀理毘賣」、
「狭依毘賣」の名前の漢字を「他意」で採れと云うことだ。
「多くの日本書紀の理屈はタイ」、
「施の巻の句は夜留」である。
 さて、また、
 「狗奴国・『男王』」の名前が
 「卑弥弓呼」である、とすることにも
 「疑問(?)」である。
 何故なら漢文自体の
 「ヨミ方(?)」も「多様」であることを
 「書き手」は「意図」しているからだ。
 これは「歴史書(公)」の宿命であろう。
 いかに「客観的」に書こうとしても
 時代的状況は書き手の
 「主観的思想=立場」を文字に託さざるを得ない。
 例え「史記」を記した「司馬遷=太史公」でもである。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・倭女王 卑彌呼  與  狗奴国 男王  卑彌弓呼     素不和
 (原文)
 ・↓
 ・倭女王、卑彌呼、「與」、狗奴国=男王、「卑彌弓呼=壱与」、素不和
 ・↓
 ・倭女王、卑彌呼、「與」、狗奴国=男王、「卑彌弓・呼素」、  不和
 ・倭女王、卑彌、「呼與」、狗奴国=男王、「卑彌弓・呼素」、  不和
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 これは、
 「倭の女王、狗奴国の男王に、
  『卑彌弓呼』を與(与)えるが、もとより不和」とも「ヨメ」る
 ・・・また「卑彌、呼與」、「卑彌弓、呼素」とも・・・。
 そして
 「卑彌呼=卑弥呼」である。
 「隋書」には
 「卑彌呼」とも、
 「卑彌(有男弟、佐卑彌理國)」と記録されている。
 「呼」が意図的に欠落させられたモノなのか、ドウなのか。
 とにかく、
 「漢文」は「日本人」にはどのようにもヨメるのだ。
 また「日本人」はヨンでイイのだ。
 自国語の古文ですら「?」である。
 ましてや外国語に対する
 「誤解」が当然あるだろうからである。
 「曲解」はどうか?・・・
 「日本人=帰化人=宮廷高級官僚=宮廷記録官僚=元漢人・・・
 師弟・子孫・・・学僧・訳語田(拿)人」ならば
 「漢文・漢字」の本来の意味を理解していた。
 だが後の「日本人=学生・学僧」は
 「中国語」を習う立場であった。
 彼らを教育する者が、
 「国家=共同幻想=運命共同体=階級利害」
 を意識自覚したインテリ、御用学者、官僚ならば
 都合の悪い「漢文・漢字」のヨミ方を
 「改竄・曲解」するのは「心理」である。
 そして「写経・写本」には付きまとう問題だ。
 もちろん「支配階級」の「政治的意識の反映」でもある。
 戦後から現日本政府が
 諸外国との外交文書を交わすときの
 「日本語文≠諸外国語(英語・仏語)文」の書簡でもある。
 もちろん、
 「異なった意味(概念)」として
 「秘密外交文書」を自国語で「公」にせざるを得ないのは
 「国家と国家の関係」に於いての
 利害関係のバランスが
 「対等」でないばかりではなく、
 「自国民支配の方法」として
 「言語の欺瞞」をせざるを得ない習性からである。
 「国家内=王朝交代」に於いての
 「交代の正当性」、
 「国家官僚」の「国民」に対する
 外交欺瞞に於ける「正当性」、
 「国民教育」に於ける欺瞞の「正当性」。
 すべては
 「日本言語=概念規定」の曖昧性からの問題であるが、
 コレを利用しない手はナイ、である。
 「秘密文書」が暴かれた時の
 政治屋と役人、官僚の国会答弁の
 「詭弁・曲解」をミヨ、である。
 そして、
 一つの漢字に
 どれほどの意味の幅を持った説明がなされているか・・・
 漢和辞典をみれば理解されるであろう。
 ココは漢語の文法を踏まえて
 「中国人」にキチンとヨンでもらうよりは手がない・・・
 だが現代の「中国人(?)」にも
 当時の漢文は
 ナンカイな
 暗号(古文)になってしまっているであろうことは
 推測に難くはない。
 「現中国人(?)」が
 当時の「記録文書」を正確にヨンでいるならば
 問題は起こらないハズ(筈・葉素)だろうからである。
 さて、
 「呼」は「コ・ク・よぶ」、
 「弓」は「キュウ・ク・ゆみ」、
 「素」は「ソ・ス・もと・しろ」ともよむ。
 ちなみに、
 「素娥=ソガ」は
 「月に住む天女・月宮の仙女=妲娥(コウガ)
               色白の女・月」である。
 同音を採れば「蘇我」である。
 ついでに、この時代の
 国際情勢を年表で検討すれば以下のとおりである。
  ↓↓
 国際情勢
  57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る
 107年 倭国王、「帥升」、後漢の「安帝」に「生口」を献ずる
 146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ
 189年 「公孫度」、「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる
 190年 「公孫度」、遼東郡を遼西、中遼の二郡とし自らの太守を置
      また、山東半島に営州刺史を置き、
      「遼東侯・平州牧」と号した「公孫度」の子、
      「公孫康」が継ぎ、
      「度」の弟、「恭」が「永寧郷侯」となり、
      「康」は西暦196~220年まで
      楽浪郡を分けて帯方郡を置いた
 220年 後漢滅亡。
      魏王・「曹丕」、「献帝」を廃し、
      魏の「文帝」となる。
 221年 「劉備」、燭漢の「昭烈帝」となる
 229年 「孫権」、呉の「大帝」となる
      「公孫康」の子、
      「淵」が「魏王」から
      「遼東太守」、「車騎将軍」の爵号を授る
 232年 呉の「孫権」、「淵」に「燕王」の爵位を与える
 233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣。
「淵」はこの使者を殺し、
      その首を「魏」に差しだし、
「楽浪公」の爵位を得る
 235年 高句麗王、
「位宮」、
呉から「単于」の爵号を受く
 237年 「魏」は
幽州刺史の
「毋丘倹」を将軍にし
「淵」軍と戦い敗北
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 238年 六月、「卑弥呼」、大夫「難升米」を「魏」におくる
 ・    ↓
 ・    八月、「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に
「淵」軍敗北、戦死
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 239年
 帯方郡・太守「弓遵(辷+尊)」が
「韓」族に攻められ戦死。
 「韓」は滅亡
 244年
「魏」は幽州刺史の
「毋丘倹」を将軍にし、
高句麗軍を壊滅さす
  帯方郡太守「王・(斤+頁)」、
塞曹掾史「張政」を「倭国」に派遣
  ↓↓
 この「年表」に記されている
 「人名」と「官名」、「地名」の漢字と
 その「音」に注意すれば
 「古事記」が何を示唆しているか明かである。
 更に
 「238年」の
 「六月」
 から
 「八月」・・・
 ワズカ、「二カ月間」・・・。
 「卑弥呼」の「倭」は、
 少なくても「六月」までは
 「もと『燕=公孫氏』に属」
 さざるを得なかったハズである・・・。
 何故なら「公孫淵=燕」は
 「237年」には
 「呉」と同盟、あるいは册封関係にあり、
 敵対する「魏」の「幽州刺史」の
 「毋丘倹」を将軍とする軍隊と戦い、
 コレを撃破して勝利。
 翌年の
 「238年の八月」に
 「公孫淵=燕」は
 「魏」の
 「司馬懿」を
 将軍とする軍隊に敗北し、
 戦死したのである。
 時間的な流れでいえば、
 「倭」は
 「238年六月~八月」までは
 「呉」と深い関係にあった
 「公孫淵=燕」に「属」していたハズだ・・・。
 もちろん、状況的に、直接的にも
 「倭」は「呉」と深い関係にあったのだ。
 すると、
 「238年『六月』」、
 この『六月』に「卑弥呼」が
 大夫「難升米」を
 「魏」におくる、
 と云うことはドウいうことなのであるか。
 記録上の齟齬がナイとしたならば、
 朝鮮半島・遼東半島は
 いまだ
 238年の『八月』まで
 「公孫淵=燕」の支配下にあった・・・
 この
 「未だ燕の支配下の『六月』」、どのような経路でいけたのか?
 ・・・どのような目論見で
 「難升米」を「魏」におくったのか?
 ・・・方法は色々考えられるとしても・・・
 戦局が未だ定まらぬ
 「敵地=燕地」の経路をである。
 「卑弥呼」は「邪馬台国」をまもるため、
 「呉=燕」の配下にありながらも
 二股をかけざるを得なかったのだ。
 あるいは
 「公孫淵=燕王」の「対魏戦略」に
 「卑弥呼」は乗せられたのである。
 あるいは
 「卑弥呼」は
 「燕=公孫氏」、
 「呉=孫氏」そのものと
 「縁籍」であったのだ。
 ・・・日本語使用の漢字音の初期は
    「呉音」が発声音であった・・・
 そして、
 『238年の八月』、
 「公孫淵=燕」は
 「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北、戦死した(?)
 ・・・
 『238年の十二月』、
 「卑弥呼」は「魏王=明帝」から詔と
 「親魏倭王」としての
 「金印紫綬」と「銅鏡百枚」等をもらっている。
  ↓↓
 238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使
 244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北
 245年(正始6年)「倭王」   が派遣・魏へ使
 247年(正始8年)「邪馬台国」と
「狗奴国」の交戦・卑弥呼の死亡
            「邪馬台国で男王」立つが「内乱」
            「宗女・壱與」が「十三才で女王」となる
  ↓↓
 238年から六年後、
244年に「高句麗王=位宮」も敗北した。
 朝鮮半島での敗残者は何処に逃げていったのか?・・・
 当然、
 「倭」へ、である・・・。
 そして
 「卑弥呼」の「邪馬台国」は
 「魏」の
 「張政」に担ぎ上げられた
 「壱与」に権力交替したのである。
 「狗奴国との対立」や
 「卑弥呼死後の男王の擁立」は怪しい・・・
 すなわち、この部分に於いても
 「陳寿」は
 「使訳」の報告が
 すべてが正しいわけがあるまい、と言っているのだ。
 「司馬懿(シバイ)」の名前も示唆的である。
 同音異字なら
 「芝居」で、しかも「芝居(しばい)」は日本語であるから・・・。
 ・・・この『六月』の「卑弥呼」に対する「魏」の答えは・・・
 「卑弥呼」の排除である。
 243年は「宗主国」である
 「魏の帯方郡太守」が
 「倭へ使者」を派遣してきたのである。
 その後の
 「壱与」の権力交替は
 「帯方郡使」としての
 「張政=魏」の策謀(告喩)による
 「淵=燕=呉」親派の
 「卑弥呼」の「縊殺・絞殺」、
 あるいは
 「溺殺」によるものである・・・?
 「張政」と「壱与」の
 「告喩」としての
 「卑弥呼」に対する侵攻は朝鮮半島、
 博多「伊都」、そして長崎県の「五島列島」を根拠地にし、
 「長崎」、「諌早」、
 「熊本・宇土・横島」へとその勢力を浸透させ
 「卑弥呼」を「殺害(?)」した・・・
 その後、
 「壱与」は「宇佐」に東遷し、
 権力の基盤を「大分」に置いた。
 だが、「卑弥呼」の親派勢力は
 長崎「諌早」、「天草諸島」、
 「熊本・横島」にその勢力を有していたハズである・・・。
 結論的に九州(倭)は
 「魏」の配下に入ったが、
 「二人の女王」の勢力は
 「遼東半島」、「山東半島」、
 「高句麗」、「朝鮮半島」、
 「南韓」の亡命者、血縁者を抱え、
 「太陽の烏=卑弥呼=長崎・諌早=左目=天照大御神」と、
 「月の卯=壱与=大分・宇佐=右目=宇受女=豊受大神」に
 「分裂=磐余(イワレ)」=「大分」していたのだ。
 もちろん、
 「中央の鼻=中津=名賀津=那賀津」は
 「博多・伊都=須佐之男
  ↓↑   =新羅(しらぎ・しんら・シルラ・斯蘆・辰韓)」
  ↓↑     ↓↑
        建国
        紀元前57年・・・?
        甲子年
        崇神天皇四十一年
        皇紀604年
        中国
        前漢 五鳳元年
        朝鮮
        新羅 赫居世元年・・・赫居世居西干=斯蘆国初代王
                   姓を朴、名を赫居世
  ↓↑     ↓↑
        アルサケス朝
        有留差懸素?・・・
        或留作化素?・・・
        パルティア王国の王
パルティア(ペルシャ=波斯
        ↓↑    イラン=伊蘭・伊朗・意蘭)
             「伊+α」の熟語・・・伊藤
              伊蘭=クマツヅラ科の悪臭の高木
              インドの熱帯に自生・煩悩の木
              伊弉諾尊・伊邪那岐命・伊都・伊賀
              伊弉冉尊・伊邪那美命・伊豆
              伊曽保(イソップ)
              伊蘇普(イソップ)
              伊太利・伊吹・伊予柑
              伊呂波(イロハ)
              伊部焼(いんべやき)
              伊(かれ)伊(これ)
        ↓↑    伊達・伊達巻
ミトリダテス3世が
        見取り建て図?
        パルティア王になった
        弟のオロデス2世に追放され、後に殺害された
        ミトリダテス(ラテン文字表記:Mithridates)
        観鶏 建氐州?
        ミトラダテスとも発音
        観虎 拿弖州?
  ↓↑     ↓↑
        オロデス2世(Orodes II)
        緒賂出素?
        アルサケス朝パルティア王国の王
        紀元前58年or前57年
        兄のミトラダテス3世と共謀し
        父フラーテス3世を暗殺
        その後、
        兄ミトラダテス3世との間で後継争い
        ミトラダテス3世が王位を継いだが
        追放され
        弟オロデス2世が王位を継いだ
        オロデス2世は
        後、長子のフラーテス4世に殺害された
  ↓↑     ↓↑
ローマ
ガリア戦争
5月
アクソナ川の戦い
ガイウス・ユリウス・カエサルが
ガルバ率いるベルガエの軍を破った
6月
サビス川の戦い
ユリウス・カエサルが
ネルウィ族を破った
9月
ユリウス・カエサルが
トンヘレンを包囲、占拠
        ユリウス暦(羅Calendarium Iulianum
              伊Calendario giuliano
              英Julian calendar)
        共和政ローマの最高神祇官・執政官
        終身独裁官(ディクタトル)
        ガイウス・ユリウス・カエサルにより
        ローマ暦を
        エジプト太陽暦を参考に
        紀元前45年1月1日から実施
        1年を365.25日とする太陽暦
  ↓↑     ↓↑
        万葉集に「新羅奇・しらき」
        出雲風土記に「志羅紀・しらき」と表記
        『秦書』には
        377年
        前秦に初めて「新羅」が朝貢
        382年
        新羅王
        楼寒(ろうかん、ヌハン)
        の朝貢が行われ
        新羅の前身が
        辰韓の斯盧国であると
        前秦に述べた・・・
        ↓↑
        普通二年(521年)
             干支=辛丑
             日本
             継体天皇十五年
             皇紀1181年
             中国
             梁  普通二年
             北魏 正光二年
        斯羅国の
        募秦王(法興王)が
        百済に随伴して初めて朝貢
        斯羅国には
        健年城という城があり
        習俗は高麗(高句麗)と類似
        文字はなく
        木を刻んで範とした(木簡)
        百済の通訳で梁と会話を行った・・・
        新羅=辰韓=秦韓
          =秦の始皇帝の労役から
           逃亡してきた秦人の国
  ↓↓     ↓↓
        『梁職貢図』
        後に元帝(孝元皇帝)として即位する
        蕭繹が、荊州刺史を務めていた
        526年~539年までの間に作成
        新羅が倭国に属していた時期は
        これより前の年代になる
        蕭繹は、
        梁に朝貢する諸国の外国使節の
        風貌を荊州や
        梁の首都
        建康(南京市)で調査し
        裴子野(469年~530年没)の
        方国使図を参考にした・・・
  ↓↓     ↓↓
       「斯羅國,本東夷辰韓之小國也。
        魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。
        或屬韓
        或屬倭
        國王
        不能 自通使聘。
        普通二年(521年)
        其王姓 募名泰(募秦王=法興王)
        始 使隨百濟 奉表献方物。
        其國有城
        號曰健年。
        其俗 與 高麗相類。
        無文字 刻木為範 言語待百濟而後通焉
  ↓↓      ↓↓
 ・・・主語が随分とトンでしまっただ・・・
  ↓↓
 「中央の鼻=中津=名賀津=那賀津」は
 「博多・伊都=須佐之男」
 であるハズだ。
 その後、
 「卑弥呼」の勢力は何処へ移動して行ったのか?
 広島の「呉」、「吉備」、四国の「土佐」
 「紀伊」、「奈良」、山陰の「越」・・・「尾張」、「美濃」へ?
 「壱与」の勢力は何処へ?
 四国の「愛媛=讃岐=サ貫」、「阿波」、山陰の「出雲」へ?
  ↓↓
 日本列島=「弓状の周囲」を一周しながら、
 「二つの勢力」は「斑点」のように
 「縄文人=蝦夷」の地へと分散、移民して行った。
 特に「卑弥呼」の勢力は
 「縄文人=蝦夷」と
 血縁的にも強く結び付いていったハズである。
  ↓↓
 「現存・古事記」は
 更にその「漢字」に
 「現代史(時代時代のリアルタイムの事件)」
 を懸け重ねた?
  ↓↓
 時代は移り、
 「645年」の「大化改新」
 「663年」の「白村江の海戦」
 「672年」の「壬申の乱」
 である。これらの「事件」は基本的には
 すべて
 「九州=南」と「南朝鮮」を基盤とする
 「政治権力」の確執だが、注意する必要がある。
 この時期の権力者は
 「随書・巻八拾壱・東夷伝・(イ+妥)・国」にある
  ↓↓
 「・・・姓は阿毎、字は多利思比孤、号を阿輩鶏弥・・・」、
 「・・・王の妻は鶏弥、・・・太子を名づけて利歌弥多弗利・・・」、
 「・・・阿蘇山がある・・・」、
 「如意宝珠がある。・・・」、
 「大業三年(607年)・・・
  夷蛮の国書は無礼だ。二度と奏聞させるな・・・」
  ↓↓
 と、記述されている所までは、
 「阿蘇山」が見える
 九州、熊本近辺に存在しているのは明白である。
 「利歌弥多弗利」は「リカミタフリ」は
 「里守、大府吏(李)」で、
 「里香三田府李=裏上(浦上=長崎)の箕田の府里」かも。
 ・・・「李の歌、観、他の振る理」
 「理科、観、太、不離」・・・
 この「隋書・巻八十一・東夷傳」は
 「魏徴(唐)」等によって記録されたものである。
 この「隋書」を
 「遣唐使・遣唐留学生・日本人」が
 見た可能性があるであろうか・・・?
 ・・・唐の高級官僚になった
 「阿倍仲麻呂」はどうか・・・
 彼は唐王朝、玄宗皇帝、
 王宮の図書館長にもなった人物でもあったのだが。
 そして、
  ↓↓
 「翌年(608年)
  煬帝は文林郎の裴清を妥国に遣わした」、
 「・・・また、十余国を経て海岸に達する。
  筑斯国以東の諸国はすべて妥国に従属している・・・」
  ↓↓
 と記録されている。
 「筑斯國以東」には
 「すべて妥國」に従属する「諸国」があったのだ。
 その中に
 「日本=大和=奈良=飛鳥」の「都」が存在していたのである。
 ・・・二つ、「二都(二柘・弐都=太宰府)物語」は
 「ゴカン=互換=呉漢=語幹=語感=五感=五官」されて
 「ヨム」べきである、と
 「古事記」の編者は「序文」で
 シグナルを「点滅=天女津=転目柘=甜滅」させている。
 太宰府を「大祭府・大罪夫」と置換したいのだが・・・
 「牽強付会」、「妄論」、「妄想」・・・
 ご批判、非難、結構、毛だらけ、ネコハイダラケで・・・ス。
  ↓↓
 「古事記・神代」の事件は
 「645年」の「大化改新」
 「663年」の「白村江の海戦」
 「672年」の「壬申の乱」
 に懸けられているのだ。
 その根拠は、既に前述した
 「古事記」に使用されている
 「漢字」の「同音異字」の意味検討と
 「漢字」を構成している作りの
 「部首」の「一字一音」としての
 日本語「訓(よ)」みの検討
 それに関連した中国漢籍にある
 「故事」の検討の結果であるのだが。
 「故事つけ」と云うが、ここで云う「故事つけ」は
 「日本古代史」の説明に
 中国の漢籍・書籍にある
 「故事」をもってあてる、と云うことである。
 この、「現存・古事記」に添って
 「故事」を調べて行くと「現存・古事記」は
 学校の教科書にある
 「712年」の編集年代から遥かに時代は
 「前進」していくのが理解されるだろう。
 また、
 「現存・古事記」にある
 「序文」を書いた「太安萬侶」の存在も
 実在した本人ではない?ことが理解されるに違いない。
 さて、ここまで書いてきたのは
 ただ、ただ、私がこれから展開する
 「漢字」の
 『文字霊』を検討してもらいたいばっかりの為に
 他ならないからである・・・願望、希望、要望・・・絶望、妄想・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

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