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コジキジゲン

「倍返し」に「蔀(しとみ)」はナイ?

2013-09-24 15:29:09 | 古事記字源
 ・・・九月二十一日・・・ケニアのナイロビのテロ事件・・・商業施設「ウエストゲート・ショッピング・モール」を襲撃・・・「キチガイ(発狂人)にハモノ」、「狂信者に銃」でなくても・・・「正常人も武器」を持てば「市民社会」で殺人を犯す・・・武器を持たなくても無防備な他人を「素手でも殺(や)る」・・・「瘋(フウ・ホウ)」=「疒+風」とも表記・・・「疒(やまいだれ)」の「風(かぜ・フウ)=几+ノ+虫」で、「虫(むし・チュウ)」は「地を這うモノ」だが「虫=中+ム(よこしま・シ→私)」で、更に「ム=む」である・・・「瘋」は「風邪」や「インフルエンザ」じゃぁないんだ・・・「キ印」は・・・「虫一匹」も殺せない「人間」が・・・「心の中のム(邪悪)」で豹変する・・・
 「狂(くるう・キョウ)」=「犭+王」の漢字を観ていると、この漢字はツクヅク日本人が「己自身のモノ」にした「カンジ」だと、思う・・・

 「狂う」は「痴呆=ボケ=認知症」ではない。「獣(けもの)」になった「王」である。類字の「枉=木+王」は「まがる・まげて・オウ」である・・・「曲げる」は「曲(キョク・コク・まげる)」で、「よこしま(邪)」とも訓じる・・・

 「王(おう)」は「玉(たま)=王+ヽ」が「元々(本々・もともと)」の「漢字」だったらしいから・・・「ヽ(テン・印し)」は「瑕=きづ=疵」の意味らしいから「きづ・テン」が除かれた「王」は人間ではなくなった・・・元々「玉(たま)」とは「瑕=きづ=疵」の有るもの、「不完全」で「キヅ」を有する「霊魂=タマしい=魂魄(コンパク)=心」と考えたのだろう。「全能の一神は完全」で「人間は完璧・完全」ではないと・・・「弄」=「王+廾(キョウ・ク)」、「玩」=「王+二+儿」で、「他人の命」を「玩(もてあそぶ・ガン)」、「玩具(おもちゃ)」にする「アたま=頭」が「オカシク(凶暴化)」なった「支配者・独裁者・専制主義者・指導者」なんだろう・・・そいつ自身の個人の仕業か、あるいは、彼の「意思」と、その「意志・命令」に盲従、追従し実行する徒党(凶暴化)集団・・・「命令」はコトバの「命」の「令」である・・・

 合体漢字の左右、上下の部首文字は「左・上」が「主語」で、「右・下」が「説明述語」だろう・・・合体漢字の読みの順序は左右、上下、上の左右、下の左右であろう・・・「狂=獣になったのは王」、「弄=王は廾(こまねく)、あるいはサ(唆・そそのかす)」、「玩=王は二(次・二心)の人」・・・前回記した「旧約のレビ記=モーゼ」は「神の言葉」でなくてもイイ。「無心論者」でもあっても「人間個々人相互の社会」での「アタリマエの掟=法」である・・・時代的状況を踏まえても人間の「社会原則」は「だますな・ぬすむな・殺傷するな・差別するな」である・・・家族は勿論、隣人にも、(外国)居留人にも・・・そして「七日目、七月目、七年目」と「七×七」は、この「社会原則」の「反省の点検時期」である・・・

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 枕草子

 (一四二段)・・・百四十二段・壱佰四拾弐段・壱四弐段・陌肆足仁段

          1+4+2=7=七=漆

          1×4×2=8=八=捌

 つれづれ・・・徒然→トゼン=賭全

 なるもの・・・名留摸之→鳴る摸埜

 所・・・・・・ところ・常呂・ジョ・序・叙・除

 さりたる・・・作理他留

 物忌。・・・・ものいみ・摸之意味

 馬・・・・・・うま・宇摩・得真・バ・場・歯・葉

 おりぬ・・・・降りぬ・下りぬ・居りぬ・織りぬ

        於理塗・緒理貫

 雙六。・・・・すごろく・双六・ソウリク・総理矩

 除目・・・・・じもく・耳目・字摸句

        のぞくめ・覗く目・覘く目

        除目(じもく・じょもく)

        平安中期以降の京官、外官の諸官を任命

        任命儀式自体・宮中の年中行事

        任官した者を列記した帳簿の除書

       「除」は前官を除いて新官を任ずる

       「目」は目録に記すこと

 官・・・・・・カン・漢・巻・刊・換・奸

        カン発音の同音異字のスベテ

 得ぬ・・・・・

 人の・・・・・ひとの・比賭之

 家。・・・・・いえ・云え・言え・謂え・居得・射得

        カ・可・化・仮

        歌・過

        花・椛・華・荷・茄

        渦・禍・佳

        靴

        蝦・鹿・蚊

        掛・加・科

 雨・・・・・・あめ・あま・ウ

 うち・・・・・得知

 降り・・・・・ふり・振り・付利・不利・不離

 たるは・・・・他留葉

 まして・・・・真詞出

 徒然・・・・・つれづれ

 なり。・・・・名理

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 ・・・まして、「徒然草」の「兼好法師の成り(生り)」である・・・以下はウイッキペデアやブログ記事を参考、参照した抜粋記事を若干改作したモノ・・・

ーー↓

 吉田兼好

 弘安六年(1283年)頃?

  ~

 文和元年・正平七年(1352年)以後?

 治部少輔

 卜部兼顕の子

 本名

 卜部兼好

 (うらべ かねよし・うらべ の かねよし)

 執筆後、約百年間は注目されなかった・・・?

 同時代の史料に

 「徒然草」の言及は皆無・・・?

 室町中期に

 僧

 正徹が

 写本し作品が兼好法師のものとし注記・・・?

 だいたいからして「正徹」自体が怪しい人物である・・生まれたのは備中、岡山県岡山市である・・・和歌を「今川了俊」に学んだ人物であるらしく、「キビ団子」と「今川焼き」のかさなりである・・・

ーーー↓

 清巌正徹

 永徳元年(1381年)

  ~

 長禄三年五月九日(1459年6月9日)

 神戸山城主

 小松康清(または秀清)の

 次男

 幼名は

 尊明、

 または

 尊明丸

 長じて

 正清(信清とも)と名のった 

 室町時代中期の

 臨済宗の歌僧

 道号は「清巌」

 庵号は招月庵

 石清水八幡宮に仕える祀官一族の出身

 父は

 小松康清、

 備中国小田郡(岡山県岡山市)の

 小田荘の知行主

 俗名は正清

 和歌を冷泉為尹と

 今川了俊に学ぶ

 藤原定家を崇拝・・・百人一首の撰者である

 応永二十一年出家

 法号を正徹と号

 京都

 東福寺の書記で

 徹書記とも呼ばれた

 「正しさ」に「徹する」・・・問う附句字の書記であるかな・・・

ーー↓

 江戸時代には

 加藤磐斎の

   ↓

 加藤磐斎

 寛永二年(1625年)

  ~

 延宝二年八月十一日(1674年9月10日)

 歌人、俳人、和学者

 出生地は摂津国山田

 通称は新太郎

 軒号は踏雪・臨淵

 号は冬木斎・等空・磐斎

 「清少納言枕草子抄」の著

   ↓

 「徒然草抄・(1661年・寛文一年)」

ーー↓

 北村季吟の

  ↓

 北村季吟(きたむら きぎん)

 寛永元年十二月十一日(1625年1月19日)

  ~

 宝永二年六月十五日(1705年8月4日)

 京都で生まれる

 歌人、俳人、和学者

 名は静厚

 通称は久助・ 再昌院

 別号は慮庵・呂庵・七松子・拾穂軒・湖月亭

 祖父は宗竜

 父は宗円

 ともに

 近江野洲郡北村(滋賀県野洲町)の

 医師で、連歌をよくした

 二十五歳で俳書

 「山の井」を出版

 六十歳で新玉津神社宮司

 六十六歳で幕府の歌学所に入って、

 法印まで昇進

 「徒然草文段抄」・「源氏物語湖月抄」

 「枕草子春曙抄」・「八代集抄」・

 「万葉集集穂抄」など古典注釈

 芭蕉は、

 旧主蝉吟の縁故で

 季吟の門下に入り、

 秘伝の免許皆伝の証しである

 「埋木」を与えられたらしい・・・「埋木(うめき・マイボク・バイボク)」は「埋(うめ・生・楳・梅・宇目・倦・)られたキ」で、「ウマるキ」の「呻き(うめき→得目規)」だろう・・・?

 ・・・「大日本史」は「徳川光圀(梅里)=水戸黄門」の編纂だった・・・

ーー↓

 徳川光圀

 常陸国水戸藩の

 第二代藩主

 諡号は「義公」

 字は「子龍」

 号は「梅里」

 神号は

 「高  譲   味   道根  之 命」

 (たか・ゆずる・うまし・みちね・の・みこと)

 水戸藩初代藩主

 徳川頼房の三男

 徳川家康の孫

 彰考館を設立

 「大日本史」を編纂

 生年月日は

 寛永五年六月十日

 1628年7月11日

 死没

 元禄十三年十二月六日

 1701年1月14日

ーーー↓埋木(秘伝奥義)

 「此の書は家伝の深秘といえども、

  宗房生、俳諧執心浅からかざるによって、

  書写を免じて、

  且つ

  奥書を加うるものなり。

  必ず、

  外見有るべからざるもののみ

  延宝二年弥生中七・・・・・延宝(延寳)二年二月十七日?

               延宝二年(甲寅)二月(丙寅)

               1674年3月24日

                ↓

               五年

               延宝十勝沖(陸中)地震

               延宝房総沖地震

               六年

               宮城県北部沖地震

                ↓

               清国

               康熙十三年

               鄭氏政権・永暦二十八年

               楊起隆・広徳二年

               呉三桂・周王元年

               朝鮮

               李氏

               顕宗十五年

                ↓

               寛永通宝四貫=金一両と定める

               古銭の通用を停止

               江戸市中のを改める

               アントニ・ファン・レーウェンフック

               細菌を発見

               トーマス・ウィリス

               糖尿病存在を確認

  季吟 花押」

ーー↓

 「徒然草文段抄・(1667年・寛文七年)」の

 注釈書がある・・・

 写本は江戸時代のものが多く、・・・?

 室町時代のものは非常に少ない・・・?

 ・・・本人も実在しなかったのでは・・・?・・・

 だが、内容は「人災」と「天災」の記述と、それからの「解放」である・・・「諦め」ではない、それらの「明らめ」と、それからの「解放」の「客観主義的」な、「傍観主義者的」な個人的願望であろう・・・「庵」を結んで住んでいたのだから・・・?・・・「生きてイオリ生活」が出来る奴って・・・何者?・・・

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