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コジキジゲン

尊=みこと=命→見事・視言

2013-09-18 19:45:15 | 古事記字源
 高熱、嘔吐、点滴・・・オフクロ・・・(辛酉・庚子・乙丑)×(癸巳・辛酉・丁亥)・・・
ーーーーー

 枕草子

 (一三八段)・・・百三十八・壱佰参拾八・壱参八・陌参足捌

          1+3+8=12=十二=壱拾弐=足弐

          1×3×8=24=二十四=弐拾四=念肆

 故殿の御ために、

(古伝の音矯め爾)

 月ごとの十日、

 (解通語渡の問う可)

 御經佛供養せさせ給ひしを、

 (音響、譜通、共用、施作是、他真、比詞記)

 九月十日、

 (句解通、読比)

 職の御曹司にてせさせ給ふ。

 (私記→史記→子規→死期→指揮の音蔵詞)

 上達部、

 (漢立ち目・韓絶ち目・定立つ辺)

 殿上人いとおほかり。

 (伝條比渡、意図、於補仮理)

 清範講師にて、

 (審判乞うし爾出・新版合史にて・侵犯行使にて)

 説く事どもいとかなしければ、

 (読異度摸、意図、仮名詞、化例葉)

 殊に物のあはれふかかるまじき若き人も、

 (言爾、摸之埜、亜葉例譜化掛留、混記、和歌記比渡摸)

 皆泣くめり。

 (視名、納句目理→拿組めり)

 終てて酒のみ詩誦じなどするに、

 (尾張出手、作化之視、史、生じ等素留爾)

 頭中將齊信の君、

 (頭注、将に再審→再診の訓)

 月と秋と期して

 (解通→通記と、亜記→亜紀→安岐→安芸と記して)

 身いづくにか

 (実、何処爾化)

 といふ事を

 (問い符言緒→渡移付言於→賭、委付異於)

 うち出し給へりしかば、

 (得知出し他真重理詩歌葉→詞花葉→視河馬→視椛)

 いみじうめでたし。

 (意味、字得、目出、足し)

 いかでかは思ひいで給ひけん。

 (異化出化葉、尾摸比→緒摸意→重い、出、他真比懸)

 おはします所に

 (於葉詞、真諏、常呂、爾)

 分け參るほどに、

 (和気→訳→別け→湧け、真意留保努爾)

 立ち出でさせ給ひて、

 (他知意出、作施、他真意出)

 「めでたしな。

 (目出度し→芽出度し→愛でたし)

  いみじうけうの事にいひたる事にこそ

 (意味字得、稀有の言爾、意比他留言爾、故素)

  あれ」

 (亜例→亜鈴→阿礼→古事記序文)

ーー↓ーーーーー↓

      稗田阿礼(ひえだ の あれ)

     「古事記・編纂者の一人」

      時有二 舎人一。 姓稗田、名阿礼。

      年是廿八。為レ人聡明、度レ目誦レ口、

      拂レ耳勒レ心。即、勅_語二阿礼一、

      令レ誦_習二帝皇日継及先代旧辞一。

      然、運移世異、

      未レ行二其事一矣。

        ↓

     「あ(生)れ・有れ・在れ」

      賀茂祭の幣帛(へいはく)

      榊(さかき)に種々の綾絹(あやぎぬ)や

      鈴などをつけたもの

ーー↓      

 とのたまはすれば、

 (と、之他真葉諏例葉→場・羽・馬・婆

            歯→尚歯会)

               ↓

            ショウシカイ

            老人の敬老会

            中国の風習、唐の

            白楽天が最初に行ったが

            江戸時代の「尚歯会」は

             ↓

            構成員

            高野長英・小関三英・渡辺崋山

            江川英龍・川路聖謨

            シーボルトに学んだ

            鳴滝塾の卒業生や

            吉田長淑に学んだ者などで結成

            天保の大飢饉などの相次ぐ

            飢饉対策を講ずるために結成された

            主宰者

            遠藤泰通(遠藤勝助・遠藤鶴洲)

            寛政元年(1789)~嘉永四年(1851)

            紀州藩士遠藤新右衛門泰陳の次男

            幼名は竹松・勝助から新右衛門と改名

            字は子同

            号は古愚・鶴洲

             ↓

            泰通は儒学者で「志学問答」の著者

            天保八年(1837)の

            「救荒便覧」・・・

            「尚歯会」の中心メンバー

            渡辺崋山

             ↓

            天保七年(1836年)から翌年の

            天保の大飢饉の際には、食料備蓄庫(報民倉)を

            築き、

           「凶荒心得書」という対応手引きを著し

            倹約の徹底、領民救済を徹底させ

            餓死者を出さなかった

           「蘭学にて大施主(と藤田東湖が賞賛)」

            紀州藩儒官

            遠藤泰通(勝助)が設立した

           「尚歯会」に参加

            高野長英などと飢饉の対策

            長英は

            ジャガイモ(馬鈴薯)と

            ソバ(早ソバ)を

            飢饉対策として提案

           「救荒二物考」を上梓し

            崋山がその挿絵を担当

            モリソン号事件後

            海防問題を議論し

           「シーボルト事件」に連座            

ーー↓

 「それを啓しにとて、

    (啓→もうす・ひらく

     ケイ→啓蒙・啓発・啓示→形而)

     ↓

    拝啓→ハイケイ→背景→敬老

     ↓       ↓

     ケイシ(軽視・刑死)にとて

             ↓

           高橋景保

ーー↓  

  物も

  見さして

  參り侍り

 (纂理・字理→事理)

  つる

  (鶴・蔓・弦・都留・津留・吊る・釣る)

  なり。

  (納裏・名裏・拿理)

  猶

  (尚・名捕・名保)

  いとめでたくこそ思ひはべれ」

  (意図芽出度く故措、重い、葉部例)

 と聞えさすれば、

 「ましてさ覺ゆらん」

  (真詞出、於簿喩覧)

 と仰せらるる。

 (賭、於補施等留瑠)

 わざと呼びもいで、

 おのづからあふ所にては、

 「などかまろを、

  まほに近くは語ひ給はぬ。

  さすがににくしなど思ひたるさまにはあらずと知りたるを、

  いと怪しくなん。

  さばかり年ごろになりぬる得意の、

  疎くてやむはなし。

  殿上などに明暮なきをりもあらば、

  何事をかおもひでにせん」

 との給へば、

 「さらなり。

  かたかるべき事にもあらぬを、

  さもあらん後には、

  え譽め奉らざらんが口惜しきなり。

  うへの御前などにて、

  役とあつまりて譽め聞ゆるに、

  いかでか。

  ただおぼせかし。

  かたはらいたく、

  心の鬼いで來て、

  言ひにくく侍りなんものを」

 といへば、

 笑ひて、

 「などさる人しも、

  他目より外に、

  誉むるたぐひ多かり」

 との給ふ。

 「それがにくからずばこそあらめ。

  男も女も、

  けぢかき人をかたひき、

  思ふ人のいささかあしき事をいへば、

  腹だちなどするが、

  わびしう覺ゆるなり」

 といへば、

 「たのもしげなの事や」

 との給ふもをかし。

ーーーーー

 猶(なお・ユウ)=犭+酋(おさ・シュウ・ジュウ)

 ↓       =追加説明・および・そして・アンド

 ↓        猶太(ユダヤ人の漢字名)

 ↓    「酋」の部首漢字は・・・

 ↓     遵(したがう・ジュン)

 ↓     鄭(かさねる・テイ・ジョウ)

 ↓     ↓

       周王室と同じ姫姓の国

       紀元前806年に周の王の末子である

       姫友(桓公)が鄭の地(陝西省華県)に封

       桓公の跡を継いだ

       武公は、周の東遷後の平王の治世を支え、

       新鄭(河南省新鄭市)に国を移した

       紀元前375年

       幽公の時に韓によって滅亡

 ↓     ↓

       鄭和(1371年~1434年)

       永楽帝の宦官

       南海への七度の大航海の海軍提督

       本姓は馬、初名は三保

       イスラム教徒・・・?

       通称

       宦官最高位の太監・三保太監・三宝太監

       1404年に特使として十万人を率い、

       日本に派遣され

       足利義満に倭寇取締りを要請し、

       朝貢形式の勘合貿易に同意・・・

       1405年7月11日

       永楽帝の命で第一次航海~

       蘇州から出発

       1431年12月

       第七次航海は永楽帝の死後に彼の孫の

       宣徳帝の命令で出発

       アフリカ東海岸の

       マリンディ(ケニアのマリンディ)まで

       宝船(ホウセン)

       全長は120メートル超の大型船)で航海

 ↓     ↓

       鄭成功(テイセイコウ)

       寛永元年

       大明の

       天啓四年七月十四日(1624年8月27日)

        ~

       永暦十六年五月八日(1662年6月23日)

       諱は森

       字は明儼

       幼名は福松

       父、芝龍は福建省の人

       平戸老一官と称し、

       第二十八代藩主

       宋陽隆信の下で川内浦に住む

       母は浦人田川マツ

       十五歳

       院考に合格し、南安県の生員

       明の南京で

       東林党の

       銭謙益に師事

       1644年

       明国滅亡

       清の侵略に明を擁護の抵抗運動をし

       1661年に台湾を占拠していた

       オランダ人を追放

       承天府及び

       天興、

       万年の二県を、

       澎湖島には

       安撫司を設置し

       台湾の鄭氏政権の祖となった

       俗称は国姓爺・鉄人

       倭銃隊(日本式の鎧・鉄砲隊・騎馬兵)を指揮

 ↓     ↓

 ↓     奠(まつる・さだめる・テン・デン)

 ↓     樽(たる)

 ↓     尊(みこと・とうとい・とうとぶ)

 ↓     ↓

 尚(とうとぶ・なほ・なお・ショウ・ジュウ)

 歯(は・シ)

 会(あう・あい・カイ)

   ↓

 「尚」の類字は

 「向」=むく・むける・コウ・キョウ・・・

 考史会・後史解・・・視界、美濃、文多・・・

   ↓

 「向」の同音異字は

  ↓

  嚆矢会・・・嚆矢(かぶらや・コウシ)は先端に「鏑=(金+啇)・かぶら・やじり・テキ、チャク」という、矢が飛行中に大きな音響を出す仕組みの矢・会戦の始まりを知らせる用具」で「鏑矢(かぶらや)」は「流鏑馬(やぶさめ)に用いる矢」・・・ものごとの始まり・・・「嚆」は「呼ぶ(さけぶ)・鳴り響く(なりひびく)・ キョウ(ケウ)・コウ(カウ)・かぶら矢・・・「最初」の意味である・・・

  ↓

 尚=なお=猶=直=名緒・・・

 異体字、旧字は「尙(小+冋→ケイ)

 朝鮮の

 尚真王、旧字で「尚眞王」

 1465年(成化元年)

  ~

 1527年1月12日(嘉靖五年十二月十一日)

  ↓

 琉球王国の

 第二

 尚氏王統の

 第三代国王(在位1477年(成化十三年)

  ~

 1526年(嘉靖五年)

 童名は真加戸樽金(まかとたるかね)

 神号は於義也嘉茂慧(おぎやかもけい)

 尚氏(しょうし)は、琉球国・琉球藩の王家およびその姓

 途中、金丸(後の尚円王)の王位簒奪により王家交替

 第一尚氏・第二尚氏として区別している

  ↓

 第一尚氏は「尚思紹王・尚巴志王」を始祖とし

 七代六十三年間続いた

 1406年(永楽四年)~1469年( 成 ...第二尚氏 -

  ↓

 第二尚氏は「尚円王」を始祖とし

 尚円王即位の

 1469年(成化六年)

  ~

 1879年(光緒五年)までの

 410年間、沖縄の琉球王国を統治した王家

  ↓

 尚寧王(しょうねいおう)

 1564年(嘉靖四十三年)

  ~

 1620年10月14日(万暦四十八年、泰昌元年九月十九日)

 琉球王国

 第二尚氏王統

 第七代目の国王

 在位1599年~1620年

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