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きりのみやこ

ソプラノ歌手「みやこ」の音楽する日々

日本語で歌う

2009年10月09日 | 音楽のこと
先日、去年の6月に出演した「沖縄の歌」のコンサートのCDを頂いた。
自分の演奏を聴くのは正直いつだって嫌なものだが、今回も反省だらけだった。

全体的にはまぁ何とかまとまっているが、詰めがとても甘い。
曲数の多さを言い訳にして許されるものではないな、と思う。

しかし、それよりもまず、日本語がいただけない。
自分では相当研究して、欠点もわかって直しているつもりなのに、ここでも詰めの甘さが出ている。

歌にとって歌詞は命。
歌詞あってこそのメロディーなり、ハーモニーだ。
そんな事は基本中の基本。
外国語だと意味がわからないまま歌う歌手もいるなんてとんでもない事を聞いた事があるが、言語道断だ。

その大事な歌詞を伝えるために、正しく美しい発音が不可欠だが、これが意外と難しい。
勉強しないと歌えない外国語に比べて、母国語である日本語は自信過剰になりがちで、「正しい」と信じておかしな発音で歌ってしまう事が多々ある。

それを矯正していくのがもちろん歌手の仕事であり、自分の欠点はわかって気をつけているつもりなのに、ふっと気を抜いたり、メロディーラインやテクニック的なことなどに振り回されてすっかり忘れて間違った発音で歌ってしまう。

これは一番良くない。
何でも、わからずに間違えるのは仕方がないが、わかっていて間違えるのは、明らかに怠慢か、集中力の欠如だ。

12月に、友人のコンサートに友情出演する事になった。
日本歌曲を依頼されたので、10分弱の演奏だが、完璧な発音で、歌詞の良さをお客様にお伝えしようと決めた。
せっかく頂いたゲスト出演、質の高い演奏で応えたいと思います。

と、言う事で、京の修行はこうして続いて行く・・・。
歌える限り、歌手としてずっと成長して行きたい。

アルベニスを弾いてみて思った事

2009年08月07日 | 音楽のこと
スペインの作曲家、アルベニスのピアノ曲を縁あって練習しはじめた。
実は以前、学生の頃に弾いてみたいと思い、楽譜まで買って、練習しはじめたものの、ちっともスペインっぽくならず、私には向いていないと思ってあきらめた事のある曲だ。

こういうのをきっと年の功と言うのだろうか?
その曲の持つ雰囲気や曲想を表現することがうまくなった、と自分でも思う。

思えば学生の頃は、ドビュッシー(フランスの印象派の作曲家。画家のモネなどと友達だった)を弾けば、
「君、ドビュッシーはドイツ人じゃないんだよ」
と、先生に嫌味を言われたりしたものだ・・・。

歌を歌うようになったからか、あるいは学生の頃にさんざん曲の背景について学ばされたりして鍛えられたせいなのかわからないが、いつの間にか色々やっていれば身に付く技術もあるんだな、と思う。

今ではフランスのクラッシックはもちろん、シャンソンだって日本の民謡だって、スペインのジプシー音楽だってドンとこい! だ。

いまだちょっと難しいと思うのは、ジャズやブルースだろうか?
歌った事もまだないが。。。

最近アルベニスのピアノ曲の練習と同時に、フラメンコも習いはじめた。
これも今までは、一生感覚がつかめないだろうと思っていた踊りだ。

今度はスペインものを歌え、と言う、天からのお告げだろうか?
9月日本帰国の際に、スペイン語の歌曲の楽譜を集めて帰ろう。

言霊

2009年07月30日 | 音楽のこと
「ことだま」と聞くと、なんだか霊魂の世界でちょっと怖い感じがする。
けれど何百年も昔から、何億、何十億の人々の、色々な感情を表すために使われてきた「言語」に、魂が宿っていたとしても何の不思議はない、と思う。

現に、特に毎日使っている母国語の日本語で歌うときは、言葉が勝手に「歌ってくれる」と感じる事が多々ある。
私が何もしなくても、歌詞がひとり立ちするのだ。

他の言語で歌っているときも、十分に練習を積むと同じ感覚を味わう事ができる。
歌手はあくまでも、伝えるのが役目なんだな、と感じる瞬間でもある。

ジェシー・ノーマンと言うソプラノ歌手がいる。
彼女が超一流だな、と思うのは、ドイツ語やフランス語などで歌っていて、こちらは意味がわからずに聴いていても、おのずと「何か」が伝わってくるところ。
あんな歌手になれたらと切に思う。

言霊の恩恵を受けるには、その「言語」を熟知するより他に方法はあるまい。

京の修行はまだまだまだまだ続く。。。

ヘンデルの楽曲における、ダ・カーポの後の装飾音について♪

2009年07月27日 | 音楽のこと
ヘンデルのオペラやオラトリオのアリアで、ダ・カーポ(最初に戻る)
によって冒頭のメロディーをもう一度歌う、
または演奏するときには、装飾音をつけるのが常識とされる。

この装飾音については諸説あり、最低限にとどめるべきと言う人から、
自由にやるべきと言う人まで色々いる。

現在ヘンデルを勉強中なので、ヘンデルにここでは限って書くが、
実際ヘンデルの時代はどうだったのだろうか?

まず装飾音をつける「目的」は、作曲家ではなく、演奏者の「技術」をみせる事にある。
つまり、装飾は「演奏者」にゆだねられていた。

現に、ヘンデルは、ダ・カーポの後の装飾音に関しては、演奏者に任せていたらしい。
その主たる証拠として、ヘンデルの直筆譜に、装飾音に関する記述は、ないに等しい。

しかし、記述がないと言う事は、当然現在演奏するにあたって、
お手本とするものが一切ないと言うことでもある。

じゃぁ何をしても良いのではないか?
と、言いたいところだが、ここでもまた賛否両論だ。

ヘンデルの時代にありえなかった音形や、ハーモニーが入り混じっている現代。
バロックの様式を、もっと言えばヘンデルの様式の範囲内を越えてはならないという意見。
そして現代の演奏なのだから、現代風になって何が悪いと言う意見。

なかなか難しい問題なのだ。
ヘンデルも、装飾音に関しては、「スタイルを壊さない程度に」と言う、
とてもあいまいな希望を残していたりするから余計だ。

結論、私はどうかと言えば、どちらかと言えばリベラル派だ。
ヘンデルが、現代に生きていたら「いいじゃない!それ!」
と、言ってもらえるような装飾をしたい。

また、あいまいなこと言ってるな。
9月はオペラ「リナルド」の'私を泣かせてください’で、
オリジナルの装飾音をつけて歌う予定だ。

フィリピンでのクラッシックコンサート

2009年07月16日 | 音楽のこと
日本財団などが主催する、日本人演奏家によるコンサートに、マニラで行ってきました。

クラッシックのコンサートは本当に少なくて、久々の生演奏体験。
若い演奏家4人、ピアノ、ヴァイオリン、フルート、琴のソロ+アンサンブルで、選曲はポピュラーなものから専門的なものまで幅広く、演奏者のレベルも高くて、とてもいい演奏会でした。

残念だったのは、観客のマナーの悪さ。

当たり前のようにずっと声を出して会話をする人。(演奏のボリュームが上がると声も大きくなる・・・)
演奏中にどんどん入ってくる観客・・・。

でも、日本の演奏家がきちっとしたマナーで、英語のMCを入れつつ、プロの演奏をする姿は、とてもよい刺激になりました。

発声法の基本

2009年06月18日 | 音楽のこと
発声と言っても、ここでは「呼吸法」に対する「発声法」です。
呼吸法の所をしっかり行ってから読んでいただくように出来ています。

基本は、「声自体は小さく」。
呼吸の吐き出す息の勢いにちょっと乗せるイメージです。

3メートル先を歩いている人が、お財布を落としました。
早足で歩いているので、急いで声をかけないと!
「落としましたよ!」

と、言う状況では、人は自然に正しい発声をします。

その時の声の感覚、おなかの動きを観察、研究してみるのが近道です。
私は最近、赤ちゃんが泣くときに、完璧な発声をしている事に気付きました!
だからあんなに大きい声で泣き続けても、声が嗄れないのですね。

自分の一番自然な声を探すために、イメージトレーニングを良く行います。
私の良くやる方法は、前記した「落としましたよ」
や、登山している自分をイメージして「ヤッホー」と言ったり、
部屋の中で、一番端から一番遠い所に人がいるのをイメージして「オイ!」と呼びかけてみる、などなど。

おなかが自然にぎゅっと搾られる感じがするはずなので、それをいつでも出来るように定着させるため、あらゆる方法で練習してみてください!

意外に思われる方も多いかもしれないですが、実は、「歌う」行為に関して使う「喉」の役割は、ほんのちょっとです。

なので、オペラ歌手などもマイクなしで大ステージで大きな声で歌いますが、決して声が嗄れて出なくなったりしません!


声のトーン

2009年06月11日 | 音楽のこと
先日、アイルランドの子守歌を聞いていて、こういう節があった

'My Mother sang a song to me
In tones so sweet and low. '
「母がこの歌を歌ってくれた
優しく低い声で。」

そういえば、私が良くコンサートで歌う「アニーローリー」にもこういう節がある。

'Her voice is soft and low'
「彼女の声は柔らかく低い。」

わざと直訳して「低い」と上記したが、翻訳に違和感を覚える人は多いだろう。

もし日本で母が歌を歌ってくれたら、その声をどう形容するだろう?
恋人の美しい声を文字にあらわすとしたら?

きっと、「高くて美しい声」とか、「透き通るような声」などだろうか?

ここには興味深い日英(あるいは日本とアイルランド)の、声のトーンに関する意識の違いが感じられる。

日本語では、丁寧に、優しく語りかけるときは声のトーンを上げる。
英国やアイルランドでは、特に正式の場などでは、逆に声のトーンを下げるのである。

いい例が電話。
我々日本人は、普段話す声よりも「もしもし」の声のトーンを上げる。
逆に英国やアイルランドでは、’Hello' はずっと声のトーンを下げる。

京は日本語と英語、両方話すので、日本語は自然に声が高く、英語は自然に声が低くなる。

文化の違いは、歌の歌詞にまで反映するのだから奥が深い。

そういえば、いつも歌いながら、これは絶対に西洋人には理解されないだろうなと思う節がある。

「中国地方の子守歌」の中で、母が子に、お宮参りで何を拝もうかと思案し、
"一生この子のまめなように”
と、歌う。

自分の子が「働き者」に育って欲しいと願う感覚は、日本ならではのものだな、と思う。


呼吸法

2009年06月04日 | 音楽のこと
しばらくお休みしました。またちょっとづつ書いて行きたいと思っております。


呼吸の練習をするとき、私は生徒さんには、次のように教えています。

注:これを行う前に、前記「歌うときの姿勢」を確認してください。

①まずは前屈。その際上半身を楽に。ひざも楽に。(柔軟体操ではないので、無理に手を床につけようとする必要なない。)

②前屈したまま腰の低い位置に手を当てる。

③息を吸う→手を当てた部分が自然に膨らむ

④まっすぐに姿勢を戻してから、無声で「スー」と言いながらゆっくりと息をはく。

①~④を繰り返し行い、慣れてきたら、前屈せずに、腰の低い位置に手を当てて、同じ位置が膨らむように吸って「スー」っとはく。

以上。

理屈としては、息を吸うことによって肺にスペースを得るために横隔膜が下に下がり、結果、腹部が広がります。
吐くときは、「スー」と言う事でプレッシャーがかかり、息を一定量、長い時間をかけて吐く事ができます。これがとても歌うときに大事な事です。
息を吐き続けると、腹部のあらゆる筋肉がぎゅっとおなかをしぼるように動くのが、だんだん感じられると思います。
更に練習を続けると、きゅーっとしぼられた後、力を抜いていると、勝手に正しい位置に、しかも瞬間的に息を吸い込む事ができるようになるはずです。

コツは、とにかく姿勢を正しく保つため、確認を繰り返すこと。
そして、おなかをいつもやわらかく、リラックスした状態で呼吸することです。

お試しあれ。

次は、正しい声の出し方を書こうと思います。

ヘンデル作曲「セメレ」♪

2009年03月19日 | 音楽のこと
今年はヘンデル没後250周年で、
世界各地で多くのヘンデルの演奏が行われているのだろう。

イギリスに12年住んでいた私にとって、
ヘンデルはとても身近な作曲家である。
ドイツ生まれの作曲家なのに、イギリスに帰化したヘンデルは、
イギリスの作曲家であり、イギリスの誇り。
イギリス人のヘンデル好きぶりは大変なものだ。
今年はさぞ盛り上がっているに違いない。

京自身も今年9月にヘンデルを歌わせていただくことになっている。

そのプログラムのひとつに「セメレ」の'極みなき喜び’がある。

この「セメレ」と言う作品、英語で書かれ、
“オラトリオ”とされている。
が、
この「セメレ」、どこからどう見ても'オペラ’である。
編成から、ストーリーからテーマから、
宗教音楽である'オラトリオ’からはかけ離れている。
実際、私は2回ほど「セメレ」を劇場で見たが、
どちらもオペラ形式(衣装をつけ、演技をしながら歌う。)をとっていた。

ではなぜ'オラトリオ'「セメレ」なのか?

ここで私はモーツァルトを描いた映画
「アマデウス」のある場面を思い出していた。
皇帝に、モーツァルトが自分の(また聴衆の)母国語である、
ドイツ語でオペラを書いてみたい、と掛け合い、
「オペラはイタリア語と決まっている」
などと言われてもめている場面。

ヘンデルが生きたのは1685~1759年。
モーツアルトは1756~1791年。
当然ヘンデルの時代のほうが、
イタリア・ローマが音楽の本拠地と言う風潮は強かったに違いない。
そこへもってヨーロッパでは当時ど田舎だったイギリスで、
ましてや英語で書かれたものをオペラと呼んでなるものか・・・
と、言う事でオラトリオになったのかな?

などと勝手な想像をしてみたが、
待てよ、だからってオラトリオって言うのも変だなと思い、
調べてみたらこう言うことらしい。

ヘンデルは明らかに、この作品を「オペラ」として書いた。
しかし作曲の後、
受難節(荒野のキリストを記念して断食や懺悔をする)
の祭典における楽曲が必要だったため、ヘンデル自身が報酬を得たいがために、
「オラトリオ」として演奏したと言うのだ!

ちなみに「セメレ」はギリシャ神話からのもので、
天上の世界の神ゼウスが恋したセメレという人間の女性が
自分も天上の者になろうとたくらんで、結果的にゼウスの怒りをかい、
雷に打たれて死んでしまう話。
非常に人間くさいもので、「淫らなオペラ」と言う異名まで付いている作品だ。

これを「オラトリオのマナーで」
と言う説明つきで受難節に演奏してしまうヘンデルが、
私はとても好きだ、と思った。

当然この作品、ロンドン初演でうまく行かず4回公演で打ち切り。
観客のお怒りを受け、オペラファンのためにイタリア語のアリアを追加、
敬虔な信者のためにセクシーな表現などを削除したとか・・・
それもちょっと違う気がするが・・・

やっぱり結構、ヘンデルが好き、である。

発声における呼吸法 

2009年03月12日 | 音楽のこと
発声において、基礎となる呼吸法。
なのに、確立されたものがなく、色々なセオリーが飛び交っている。
実際、教師によって教え方も本当に様々だし、全然コメントしてくれない教師さえいる。

私自身は、やはり様々な先生に付き、様々な形で教わった。
今実践している呼吸法は、ベル・カントの発声法による。

「1ヶ月間呼吸の練習しかさせてもらえなかった」
と言ううわさを聞きつけて、当時自分の呼吸法に疑問を持っていた私はその先生にすぐにコンタクトをとった。

それまでは、ロシア人の先生に付いていて、呼吸の指導はひたすら、おなかと背中の下の方に向かって息を思いっきり吸い込み、息を吐くときは体の内側から、外側に向かってぐっと力を入れて、プレッシャーを与えながら声を出す、と言うもの。
それがとてもつらくて、腹筋は発達したものの、胴体がいつも緊張しているので、歌っていてもずっと苦しい。

歌でもスポーツでも、体を使うものはなんでもそうだが、「苦しい」と言うのは「正しくない」可能性が高い。
まして「歌う」という行為は、実に自然なものだから、何一つ発声するに当たって「苦しい」などと言うことはあってはならないのだと思う。

呼吸法の基本は、「おなかに力が入っていてはいけない」のだと言う事を、意外に知らない歌手は多い、と聞く。
おなかは、常に柔軟で、必要なときに必要な筋肉が動くことがとても重要だ。

それから呼吸法においては、「吸う」行為よりは、「吐く」行為のほうが重要である。なぜなら、正しく「吐く」事ができれば、「吸う」行為は体が勝手にやってくれるからである。

来週は、具体的な呼吸練習法を書いてみようと思う。

バンブーオルガン

2009年03月04日 | 音楽のこと
フィリピン ラスピニャス教会と言う、マニラ都心部から車で1時間ほどの所にある教会に、世界最古にして世界最大のバンブー・オルガン、つまり竹で出来たオルガンがあります。

そのオルガンを聴けるという、「バンブーオルガン・フェスティバル」の、最終日のコンサートに行って来ました!

教会はとても素敵なバロック様式の建物で、1824年、スペイン植民地時代に建てられたものだそう。
フェスティバル・シーズンのためか、教会もとてもおしゃれにライトアップされていて、コンサートの前には教会の前の野外広場で民族舞踊を見る事ができました。

教会の中はとても広く、バンブーオルガンはその2階にありました。
902本の竹が使われているとの事、とても立派なものでした。
西洋にあるオルガンのように、足を使うペダル鍵盤はないものの、音はなかなか荘厳で、素朴さも兼ね備えている感じが良かったです。

コンサートはオルガンの他に、小規模のオーケストラとチェンバロと混声合唱などの組み合わさった編成で、モーツァルトのモテットや、ヘンデルのオルガン協奏曲などが演奏されました。

オーケストラはフィリピンフィルの団員。とても小編成でしたがつぶぞろいで上手でした。
合唱団は音大の学生さん達で編成され、これも難しい曲の演奏でしたがすばらしかったです。

唯一残念だったのは、ソリストのソプラノと、肝心要のオルガン奏者。
2人ともオーストリア人との事でしたが、残念な出来でした。。。

西洋人と東洋人。西洋音楽の演奏における逆転現象でした。
今はもう、クラッシック音楽界において西洋人も東洋人もないのだなー
なんて、思ったりしながら聴いていました。

バンブーオルガンはもうちょっと良い演奏をいつか聴きたいけれど、
久々に、生でダイナミックな演奏を聴けて、満足です。

発声法と体の仕組み

2009年02月13日 | 音楽のこと
発声についての本を読んでいる。

英語で読んでいるが、わからない言葉を辞書で引いても、更に日本語がわからない。
「広背筋」「直筋」あたりは学校で習った事があるような気がするし、どのあたりの筋肉かわかるにしても、「僧帽筋」なんていうのはお手上げである。
筋肉に限らず、「脊柱」「椎骨」「転子」なども、どこの骨なのかさっぱり・・・。

声楽家にとって、楽器は自分の体なのに、ここまで自分の体の仕組みがわかっていないことに愕然としている。

今まで、いかに「感覚」だけで楽器を操ってきたことか・・・。
レッスンを受けても、常に体で覚えてきた証拠である。

こうして理屈で改めて学んでみると、先生の教えとどんどんつながってくるのが興味深い。
感覚は人には正確に伝えにくいが、理屈であればしっかりと人に伝授する事もできる。
自分の中でも、あやふやな部分が確信に変わって行く。

目からうろこの毎日の最近の京である。

筋肉の記憶♪

2009年02月05日 | 音楽のこと
体を動かすには筋肉が必要だ。
我々はすべての動きを筋肉によって行っていると言える。

普段の何気ない動き、いつも行っている動きは、筋肉がしっかり動きを記憶してくれているので、何も考えずに、不自由なく行うことが出来る。
たとえば「食べる」時、指や手や腕の筋肉を巧妙に使ってお箸を持ち、動かして物をつかみ、口に運ぶや否や今度は口の筋肉がうまい事食べ物を砕いて、舌の筋肉を使って喉に運び入れる。
これらはすべて、筋肉が「記憶」して行っていることだ。

いきなり、全然音楽と関係ない事から入ったが、今、発声における筋肉の動きを研究している。
上記した、「筋肉の記憶」が正しくないと、良い声は出ないからだ。
余計な「力み」は、リサイタルにおいて体力の消耗を招くことはもちろん、喉の機能そのものにも支障を起こしかねない。
歌手は、本当に必要な部分の筋肉を有効に使わなければならない。

と、簡単に書いてみたが、歌手だって歌だけ歌っていれば良いわけではないので、実際の所はとても難しい。
私の場合は、ちょっとした緊張などで、歯を食いしばったり、胃に力をいれる癖がある。

「筋肉の記憶」を直すには、3~4週間かかるという。
つまり、私が歯を食いしばる癖をやめようと思ったら、常に意識してあごの力を抜き続けて一ヶ月過ごさなければならない。

ただ、「筋肉の記憶」の怖い所は、「無意識」であると言う事。
自分で力が入っている事に気付かない点だ。
更に、2,3箇所同時に意識するのは不可能に近いと言う難点もある。
私の場合だったら、あごの力を抜くのに一ヶ月、胃の力を抜くのに更に一ヶ月かかるというところか。

まだしばらく、筋肉の研究と訓練は続きそうだ。

シューベルトは偉大!?

2009年01月30日 | 音楽のこと
毎日毎日子守をしているので、当然子守歌を良く歌うことになる。
ここは得意分野、とばかり、知る限りの子守歌を歌って寝かしつけている。

面白いことに、「シューベルトの子守歌」に勝るものは今のところない!

他の子守歌をいくら歌っても寝ない時は、とどめにシューベルトを歌うと、すぐに眠ってしまう。
(じゃぁ最初からシューベルトを歌えば!と言われそうだけれど、来る日も来る時もシューベルトばかりだと、何より私が飽きるのです・・・。)

分析すると、シューベルトの子守歌は、基本的に音階を下って行くように出来ている。
それも、あからさまに下らず、徐々に、徐々に深い眠りに誘うように下って行く。

もうひとつ有名な子守歌に「モーツアルトの子守歌」(ちなみにこの曲は、長い間モーツァルトによるものと思われていたが、実はそうではなかった。フリース作曲。)がある。
こちらはどうもうまくない。
おそらくフレーズが長すぎるのだろうと思う。
そして上記した音階の法則からすると、「シューベルトの子守歌」はひらり、ひらりと降りてくるのに対し、「モーツァルトの子守歌」は少しづつ上がって行って、頂点を経て少しづつ下がってくる、いわゆる一般的に良くとられる山型の手法で書かれている。

そんな事を考えながら、今日もきっとシューベルトを歌うのだろう。



音に対する意識

2009年01月18日 | 音楽のこと
フィリピンに住んでみて一番感じる事は「音に対して無頓着」であるということです。
これは音を扱う人間からすると、非常に悲しいことです。。。

具体的にはまず、車のクラクションを鳴らしまくる事。
あれって、たまに鳴らすから、本当に危ない時がわかるものなのに、四六時中あちこちでなっていたら・・・ただうるさいだけです。

それから夜中に平気で工事をすること。
昼間は暑いから夜のほうが作業しやすい・・・と言うのはまったくわからなくはないけれど、だからと言ってドリルやシャベルカーを一晩中稼動するのはいかがなものかと。。。

さらにはマンションの駐車場。車が出入りするたびに、目覚まし時計のような音がジリジリジリジリジリジリ・・・
夜中はあんまり車も人も通らないから、やめたらいかがかと。

問題は外だけではないのです。これが。
我が家の電子レンジは、温め終わると「ぴーぴーぴーぴーぴー」
と、5回ぴーがなります・・・。
「チン!」
でじゅうぶん!!

そして洗濯機は、洗い終わると「びーびーびー」といい、無視してると10秒後にまた「びーびーびー」といい・・・を永遠に繰り返すので、終わったら走っていかなければなりません。。。

無音の状態が大好きな私には、ちょっときつすぎです。。。