きりのみやこ

ソプラノ歌手「みやこ」の音楽する日々

アレクサンダー・テクニーク

2012年07月19日 | 音楽のこと
大学の授業で1年生、入学したばかりの頃に必修だったアレクサンダー・テクニーク。
英国の音楽大学では割合当たり前に必修科目になっている。
日本でも最近、教室や講座もずいぶん増えてきた。

それではアレクサンダー・テクニークとは何か?
これはきっと、一言で言い表せるなら私はきっと、教師になれる(笑)。
アレクサンダーという、アメリカの舞台俳優が、自身の声を演技によっていためてしまった事で、
体の正しい、無理のない動きをするために提唱したもの。
と、ここでは書いておく。

恥ずかしながら、そしてとても残念な事に、1年も週に一回のレッスンを受けておきながら、まだ入学したてなうえに言語力も未熟で、ちゃんと教わった内容を覚えていない。
当時の私はピアノ専攻で、大学入学前に師事し始めたニーナ・セレダ先生(ロシア人の女性。彼女が私のピアノ人生を大きく変えてくれた。これもまた書かねば。)に、
レッスンのたびに指や手、腕、体の使い方について厳しく指導されていたので、大きな相乗効果を得た覚えがある。

わたしはもともと、体のあちこちに力みがある不器用な人間で、コーディネーションも悪く、ダンスなどもへたくそ。
足も速く、跳躍力、瞬発力もあるので、決して運動神経は悪くないと思うのだが、ボールを持たされたりするとあっという間に動きがぎこちなくなるタイプ。
これでよくピアノをやっていたものだと、自分でも感心する。
右手と左手を違う動きをさせる上に、ペダルまで両足で踏まなければいけないピアノ演奏は、どう考えても私には向いていない。
音楽が好きだという理由だけで、厳しく熱心な両親があってこそ続いたものだ。

そんな私でも、体の正しい使い方を教えてもらうと、不思議と指が良く動くようになる。
体重が乗り、音も全然変わってくる。
それを体感させてくれたのが前出のニーナ先生。
そして、それを解明してくれたのが、アレクサンダー・テクニークの存在だ。

最近それを思い出し、書籍等を読みあさっている。
一番興味深いと思うのは、人間の体は、みな完璧にデザインされている、という考え方。
その証拠に、幼い子供はみな動きが自然である。
大人になる家庭で人は、体の使い方を誤る習慣を身につけ、それによって体を歪めていってしまう。
というもの。

確かに、今、例えば「正しく姿勢」とはどんなものなのか、私にはまったくわからない。
妙に肩がこるけれども、どんな動作が肩こりを引き起こしているのかもわからない。

なんだか、語学学習と似ているな、と思う。

子供の頃は自然に言葉を覚えたけれど、大人になったら文法を把握しなければしゃべれるようにはならない。
それだけ、私たちは日々の生活の中で、頭を使い、体を使い、脳を発達させてきて大人になったのだろう。

現在私は、骨の仕組みなどの絵柄を見て、体を動かしてみながら、自分の体の仕組みを勉強中だ。

音楽家とお金♪

2012年07月06日 | 音楽のこと
フィリピンにいたころから、つくづく考えさせられる事があります。
それは、音楽家と、報酬、つまり、お金について。

結論から先に書くと、音楽家は、報酬をもっと得るべきだと思う。
もっと言うと、音楽家は、もっとお金を稼ぐ事を真剣に考えなければいけない時代だ、と最近考えるようになりました。

事の発端は、フィリピン生活において。
私は駐在員の妻としてフィリピンに渡り、夫の会社の方針で、配偶者は仕事をしてはいけない決まりでした。

必然的に、コンサートはすべてチャリティーで行いました。

それはそれで、やりたかった事だったので、良かったと思っています。
とても良い経験もし、大きな舞台も踏ませてもらいました。

でも、正直に言えば、心に少し、わだかまりを残しました。
チャリティーだからという理由で入ってくださるお客さま。
せっかく特技があるのだから惜しまずどんどん出してくださいと言われる日々・・・

自分がしっかりと報酬を得て、生活を立てられた上でのチャリティーならばいざ知らず、
自分は夫におんぶに抱っこの状態で、コンサートのために莫大な時間と労力を裂き、
プレッシャーに耐えての舞台。

それ自体はそれでもまだ良いのです。
好きでやっている事だから。楽しい面もたくさんあるし。
でも、一番良くないと思ったのは、そのプレッシャーから逃れるために、自分に言い訳してしまう事。
「お金をもらっているわけじゃないんだから・・・」

人間はとても弱い。
誰にとっても、どんなに経験があっても、何十人、何百人の前に立ち、演奏をする事はとてつもないプレッシャーです。
そして音楽家は、そのプレッシャーをはねのけるために日々努力をする。技を磨き続ける。
それでも、精神的に疲れて舞台に上れなくなる演奏家は後を絶たないし、
どんなに一流といわれ、実力のある演奏家でも本番の緊張は相当なものです。

でもその極限のプレッシャーがあるからこそ、日常ではないものを生み出す。
その緊張感から、芸術は進化してゆく。
それが音楽であり、音楽家の役割であると思っています。

緊張するのが嫌、プレッシャーから逃れたいと思っていて良い音楽家にはなれない。
そのプレッシャーを乗り越えるための努力こそがすばらしい音楽を生み出す事につながってゆくわけです。
だから、言い訳する理由なんてあってはいけないのです。
ちょっとの甘さ、緩みが、緊張感に欠ける、人の心に響かない音楽を作ってしまう。。。
実に音楽とは、微妙で繊細なものだからです。

その昔音楽家は、貴族によって身分と生活を保障され、音楽だけやっていればよかった。
でも現在は、そういうわけには行かない。音楽家として独り立ちしたかったら、自分たちでお金を稼がなければいけない。

その事実を、音楽家はもっと考えなくてはいけない時代になったのだな、とつくづく思うようになりました。

なぜなら、今現在、例えば自分の子が音楽家になりたいといったら、私は間違いなく大反対します(笑)
自分の教え子が才能があって音楽家になりたいと言い出したとしても、
「悪い事は言わないから、趣味にとどめておきなさい」
と、言ってしまいそう(苦笑)

音楽をやる友人にも、
「音楽はお金にならないから」
といって、すっぱりやめ、普通に就職した力のある人がたくさんいます。
続けていたとしても、ほとんどの人が、片手間でやっている。

音楽を愛し、本気でやってきた者として、
そしてこれからもやって行こうと覚悟を決めている者として、
やっぱりすばらしい音楽を伝えるために、届け続けるために、
後進の音楽家をどんどん育てるためにも、
音楽家は「稼がないと」いけないなと、強く感じるようになりました。

それにはまず、すばらしい音楽をしないとね!
ってなっちゃうから、家で練習に勉強に明け暮れちゃって難しいけれど・・・

演奏家も、聴衆も、もっともっと本気になって、音楽をともに高めていけたら。。
なぜなら、やっぱりクラッシック音楽はただの娯楽ではないから。
演奏するほうも、聴くほうもその深みを知って初めて本当の楽しみが生まれると、究極には思うから。

人と人とのつながり

2012年07月05日 | 社会のこと
古い人間だといわれればそれまでなのかもしれないが、私は人と人は「会わないと始まらない」
と、常日頃から思っている。

そういう哲学のもとに現代社会を見ると、疑問が次がら次へとわいてくる。

実はそれでここ最近、ずっと悩んでいる私。

音楽も、私は「生演奏」をとても大事にしている。
CDを出す事は性に合わない、と思ってもいるし、実際、持っているたくさんのCD達を我が家のオーディオで聴いても、本当にすばらしいと思えるものになんてほとんど出会えない。

私にとって音楽とは、伝えるツール。
音だけでなく、ちっぽけだけれど、私という人間が持つすべてを使って人に語りかけるためのもの。
音だけを取り出したCDはもとより、姿も映る動画でさえ、記録として、自分自身のための勉強、反省、分析には役に立つが、私にとっての「音楽をする」という行為には何の役割も果たさない。

人と人も同じ事。会って、話して初めて「あつきあい」なのではないか。
友達にしても、家族にしても、恋人にしても、会ってはじめて「つながる」のではないか・・・?

確かに今はグローバルな時代で、私も世界中にお友達は散らばっているし、両親でさえも会おうと思ってすぐ会える場所にはいない。
遠い人たちと連絡を取り合うのは本当に便利な時代。
こんな事に疑問を呈する張本人の私も、それをふんだんに利用しているのだ。

でも今現在、知らない土地に来て、知り合いもお友達も一人も近くにいない私が、インターネットや携帯を使って友人たちと連絡を取り合える事で、幸せな生活を送ることができるだろうか?

グローバルな時代、通信の時代は、本当に人と人とが「つながり」を持ち、幸せに生きていける時代なのか?

私の中で、答えは、まだ出ていない。