KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

「現場」(field)とのかかわりかた:現職教員への初レクチャー

2006-12-30 17:02:02 | 研究
先日、たまたま知り合いになった現職の先生に頼まれて、現職の先生方の集まる研究会でレクチャーを行ってきた。
その先生によると、はじめは、わたしの担当教官に話を持っていったらしいのだが、わたしの担当教官T先生は、その研究発表授業のテーマ「国語教育とメディア」を見て、

「そんなもんわからん!kimistevaにしろ。kimistevaを派遣する!」

…と言ったそうで、わたしが派遣されることになったらしい。
え?…ということは、わたしはT先生の「代理」!?ガーン!!ガクガクブルブル

「そんな恐れ多いことできません!」と震えつつ、それでも、「まぁ、メディアじゃ、T先生はわからんだろうな。」という気持ちもあったので、レクチャーに行ってしまいました。

とはいえ、「国語教育とメディア」というタイトルはあまりにも多義的で、とりあえず、わたしは国語科メディア・リテラシー教育の概括のようなものを持っていったのですが、どうにもちょっと話題がずれてしまったような気がいたします。

要するに、研究発表授業でやりたいのは、「インターネット・テクノロジーを国語科の授業に生かす」という内容だったらしい。
それに対して、私がやろうとしているのは、ヴィジュアル・カルチャーにいかに生きていくか、というその根本のところの教育なので、どうしても、ちょっとズレてしまうんですね。
というわけで、無理やり、用意した内容を「インターネット・テクノロジーに応用するとしたら…」ということで置き換えて話していきました。
これってけっこう大変です。


それにしても…、と最近思います。
わたしは、相手の興味・関心に応じることを、あまりにも自分に強制しているような気がしてなりません。
研究者のスタンスとして、できるだけ自分から先導しない。相手の文化を受け入れたい、ということはあります。

ですが、最近、水戸芸術館の調査との関わりで、企画案などを積極的に提示したりする方を目の当たりにしていると、「本当に自分ってこれでいいのだろうか?」…と思うのです。
もしかしたら、そういう研究者としてのスタンスを採用する、と明言すること自体、そういうスタンスのありかたを、フィールドである水戸芸術館に押しつけていることになるんじゃないか?…と。


でも、わたしは怖いのです。
自分から企画を一生懸命作り上げ、先導していくことは、自分が作り上げた企画の「ねらい」や「目標」に縛られることになるんじゃないか?…と。

たとえば、昨年の「高校生ウィーク」で、わたしは、交流ノートの設置を企画として提案したわけだけど、あのとき、ストリクトに「高校生に向けて」という目標を掲げていなくて良かったナァ、と今でも思う。
あの程度の緩やかな企画だったからこそ、見えてきたことがたくさんある。
「高校生」というカテゴリーにもしばられない、「作品」というカテゴリーにもしばられないからこそ見えてきたこと。
…それが、あの論文なのかなぁ、と。

そう考えてみると、わたしにはそういう「現場」との関わりかたしかできないような気がしてくる。
企画者が持つ「ねらい」「目標」から離れて、実際にどういうことがそこで起こっているかを、その場で拾っていくこと。それしかできない。
…だとしたら、わたしが積極的に企画を立てることに、どういう意味があるのだろう?わたしにできるのは、企画を立てる場にいて、「こういうのはどうですか?」と自分が拾った現象から導き出される場のデザインを提案していくことだけだ。


わたしがレクチャーした現職教員の方々は、本当にとても良いかたたちで、みんな、学習者に対して真摯ではあったけれど、それでも、やっぱり違和感を感じざるを得なかった。

「現場」に生きるってことは、そこでめぐらされる社会的・政治的なゲームに巻き込まれることなんだろうと思う。
「話すこと・聞くこと」「ITC」「情報教育」「総合的な学習の時間」…。
現場でめぐらされる、たくさんの空洞化されたジャーゴン(専門用語)。
そのジャーゴンがまるで目印の旗のように機能して、その旗のもとに人々が集まっていく。…そして不思議なことに、その空洞は埋められることもなく、日常的な実践が営まれる。
サッカーのルールの意味を誰も知らなくても、サッカーというゲームが成り立つように、学校でめぐらされるジャーゴンの意味を知らなくても、学校というゲームは成り立っていく。

そして、そのジャーゴンに縛られて、生徒たちが評価され、実践が評価される。
空洞化しているくせに、人をしばるジャーゴンは、まるで囚人をいれておく檻のようなものだ、とわたしは思う。

わたしのやるべきことは、ジャーゴンを作り出すことじゃない。
具体的な学習者の姿から、具体的な場のありかたを探っていくことだ。そのためには、美しい「目標」や「ねらい」から離れなければならないと思う。
ただその場にあることを見つめていきたい。

それだけが、わたしのできることなのだから。