KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

セクシュアル・マイノリティは自主規制の対象なのか?:『西洋骨董洋菓子店』

2006-12-07 14:46:41 | エンターテイメント
最近、ずっと気になっていることがある。
それが「セクシュアル・マイノリティは自主規制の対象なのか?」ということだ。

まずわたしの立場から表明しておきたい。

わたし自身は、生まれてこのかた、そんな疑問が思いつきもしなかったくらい、
暗黙の前提として、「NO」と考えていた。

その理由はごく単純なものだ。
誰かが誰かを愛すること、それそのものが、タブーとされ、自主規制の対象になるなんて、どう考えてもおかしい。
いつの時代だって、「愛」や「恋」は美しい言葉で語りつがれ、人々の憧憬の対象になってるじゃないか。

確かに、暴力的行為の手段として用いられる可能性のある、セックスという行為(あるいはセックスという行為を連想させる数々のセクシュアルな行為や表象)が、暴力的行為への発展可能性を危惧して、タブーとされたり、自主規制の対象となる…というのはわからなくもない。

だけど、人を愛することそのものは、美しいものだと考えられているはずだ。
たとえ、それが、同性を愛するという行為であろうが、子どもを恋愛の対象として愛するという行為であろうが。
「法律」や「規範」とは無関係に、そこには一定の美しさが認められてきたはずだ。

……だけど、そんなわたしの暗黙の前提は、一般的なものではないのかもしれない、と最近気付いた。

はじめのきっかけは、11月に行われた高校演劇大会である。
タイトルは『幕末モテロリスト-ツンデレ負ケ犬革命/謎ノ赤フン太鼓-』。
幕末を舞台に現代的な問題をコメディ的に表現した作品である…と説明するのがもっともわかりやすいと思う。

この作品の中で、何度も繰り返し出てくるセリフがある。
それが、

「カモン!!デモクラシー!!ウェルカム!!バイセクシュアル!!」

「新しい時代」への熱狂的な期待がふくらみ、一種の狂乱状態になる中で、
「新しい時代にふさわしい新しいライフスタイル」として「同性も異性も愛せるバイセクシュアルがもっとも先進的だ!」…という議論が出てくる…っていう可能性も、それほど的はずれなことではないよなぁ、と思いながら書いたセリフである。

そんなわけで、この芝居の中には、やたらと「バイセクシュアル」という言葉が出てくるのだが、…そのことに対して、けっこう批判的なアンケートが複数あったのだ。
批判の趣旨は、「自主規制すべき!」「コンクールに出すのに適当でないセリフは削除するべき!」…ということ。

こういうアンケートを高校生が書いた、ということに対して、「まだ若いからなあ」という許容的な思いと、「高校生がこんなに保守的だと、日本の将来はカチコチになりそうだな」という懸念と…さまざまな思いが複雑に絡み合って、今の今までなんとなく納得のいかない思いをひきずってきた。


…で、ここからが最近の話。
わたしは、最近、よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』にはまった。
それで、フジテレビでドラマ化されたバージョンはどういうものだったのだろう、と調べてみると、ショッキングな事実がわかった。

よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』のメイン登場人物であるパティシエ・小野は、ゲイ、すなわち男性同性愛者という設定なのだが、ドラマ版では、ゲイという設定は丸ごと消去されていたのである。

これには、さすがにビックリした。
ドラマ版『西洋骨董洋菓子店』が、月9(月曜9時のフジテレビ=もっとも視聴率が高いとされるコマ)のドラマだったことを考え合わせると、明らかにこれは、自主規制なんじゃないかと思う。
すなわち、「月9ドラマにゲイはふさわしくない」と、誰かが判断したのだろう。

この驚きは、よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』を読んでない人には、まったく伝わらないかもしれない。
確かに、主要な物語の流れとは関係なく、ただ付加的にゲイという設定が付け加えられたような話であれば、その部分を軽い自主規制の気持ちでカットした、というなら、百歩譲って許そう。

だけど、パティシエ・小野がゲイだという設定は、『西洋骨董洋菓子店』の物語において、かなり核心的な部分を占めているとわたしは思う。

そもそも、オーナー・橘とパティシエ・小野が高校時代の同級生であったこと。卒業式のときに小野が橘に告白して、「ゲロしそーに気持ちわりぃよ!死ね!このホモ!」と言ったというシーンは物語の冒頭部分である。そして、物語のクライマックス、橘が児童誘拐犯をつかまえるシーンでも、何度も、繰り返し繰り返し、そのシーンが、まるで橘の中で何度もフラッシュバックされているかのように、リフレインされる。

…それなのに、なぜ、パティシエ・小野がゲイだという設定をカットしなければならないのか。
この設定をカットするということは、小野と橘の関係性をゼロに帰することとほぼ同じことだ。
そこまでカットすることに、いったい、どんな意味があったというのだろう。


セクシュアル・マイノリティとは、そんなに、自主規制の対象にならなければならない人たちなのですか?

わたしは、女性で、しかもヘテロセクシュアル(自分ではアセクシュアルなんじゃないかと思うときもあるけど)だから、わたしがそんなことを言うことにどれだけの意味があるかはわからないけれど、

…それでも、やっぱり、おかしいと思う。

しかもいわゆる「おかま」言葉をしゃべるタレントやレイザーラモンHGなんかは、喜んでテレビに出すのだから、…倫理的に問題があると思うよ。
嘲笑の対象としてはOKだけど、ライフスタイルとしてゲイが表に出るのは「タブー」なの?
どう考えたって、おかしいでしょう。