KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

「コバルト」の時代:氷室冴子氏死去

2008-06-07 11:23:54 | ニュースと政治
以前にも書いたが、現在、少女マンガや少女雑誌の歴史を研究中である。

そんな矢先、あまりにタイムリーで、
だからこそ、あまりに悲しいニュースが飛び込んできた。


少女小説の氷室冴子さん死去

毎年、全国図書館協議会と毎日新聞が共同で行っている「学校読書調査」の結果を過去にさかのぼって見てみると明らかだが、
わたしが、小学校高学年から中学生だった時代-つまり、わたしが「少女」だった時代-、
「少女」たちが読んでいる本のだんとつトップは、氷室冴子『なんて素敵にジャパネスク』だった。

わたしが「学校図書館調査」を調べはじめた当時わたしと一緒に調査の手伝いをしてくれていた友人とともに、この調査結果を見たとき、
これ以上なく、なつかしい気持ちになったことを覚えている。


『なんて素敵にジャパネスク』は、あまりに当たり前にみんなが読んでいたので、わたしたちの世代にとっては、「基礎教養」ですらあった。
わたしもこれ以上なくはまっていて、
自分の雅号(=華道師範ネーム)を決めるときには、主人公「瑠璃姫」の「璃」の字をとって、「璃翠」(りすい:「翠」はわたしの師匠の雅号にある文字である)にした。


その氷室冴子さんが、この世からいなくなってしまった。


信じられない。


今、少女小説の世界に彼女が描いたような「おてんば姫」はほとんど出てこない。
代わりに登場したのは、麗しい少年たちのボーイズ・ラブである。


「コバルト」の時代が、こうして終わりを告げていく。
わたしは、そうしてわたしの「少女」時代が過ぎ去るのを、ただただ眺めているしかない。

「字義」と「意味」:梅佳代『うめ版-新明解国語辞典×梅佳代』

2008-06-06 21:20:06 | 趣味
ギャラリーショップをうろうろしながら、写真集など見ていたら、
耐えきれなくなって買ってしまいました。

梅佳代『うめ版-新明解国語辞典×梅佳代』

この写真集は、梅さんの写真に、新明解国語辞典に掲載されている本当の用語説明が付されていて、その組み合わせがなんともおもしろい。

ちなみに画像は表紙にある「ライバル」の写真。
この写真には以下のような文言が付されている。

ライバル
①[rival=同じ川を使用する者]
競争相手。[狭義では恋がたきを指す]
「――をたたく」


なんだろうな。
写真だけでも十分かわいらしいし、面白いんだけど、
この「ライバル」の用語解説が付されていることで、なんとも言えないキューーンとしたかわいらしさが伝わってくる。


「ことばの意味」には、辞書に掲載されているような「字義」(meaning)と、人々が生活経験などを重ねる中で重ねていった感覚的な「意味」があるけれど、
この本は、その「字義」と梅佳代さんの写真とが重ね合わされることで、
言葉の「意味」の側面がふんわりと映し出される。


わたしがこれまでに生きてきた中で、積み重ねてきた言葉の「意味」


そんな言葉の「意味」を大切にしたいな、とあらためて思わせてくれる写真集でした。

学会大会@水戸終了しました

2008-06-04 12:11:06 | 研究
ついに先週末、国語教育学会大会@水戸が終了しました。

わたしは昨年度行った、水戸のとある高校の鑑賞教育の実践を報告したのですが、
想像以上のオーディエンス数でした。
発表が始まる時点で、すでに、発表資料が不足し、立ち見が出る事態に。
広島大学を卒業した知人からも、「後輩が欲しいと言っているので、あとで1部郵送してください」と言われました。

実をいうと、宇都宮大会のときもこういう事態が生じたのですが、
そのときは、大会実行委員の人が、学校の印刷機で増刷してくれていたようです。
・・・学会事務局から言われているとおり、100部持っていっているのに毎回足りないなんて・・・。
これから先、対策を講じる必要がありそうですね。

質疑応答も、ヒートアップ。
「現代アート」という存在の難しさとともに、可能性を感じさせる質疑応答で、わたし自身、いろいろ考えさせられました。

まず出たのが、
Q1:「なぜ、アートについて言語化しなければならないのか?」という質問。


わたし自身、これについてはいつも悩んでいるので、初めからなかなか本質的な質問が来るなぁ、とうれしく思いました。
・・・というか、わたし自身「読書感想文」反対派なので、「美的体験は美的体験のまま経験されるべきである」という主張には、むしろ、賛成なのです。
その質問をいただいた方も、「文学体験」をとても大切になさった研究をなさる方で、研究の端々から、そういう思いが伝わってくるので、その方がこういう質問をなさるのは当然のことだなぁ、と思いました。

次に出た質問。
Q2:「意味生成のための言語化」の段階から、「不特定多数の他者に向けた言語化」に行けない学習者がいるというのは当然のことなので、むしろ、「不特定多数に向けた言語化」を行わせるためにはどんなハードルが存在していて、どのように支援すれば「不特定多数の他者に向けた言語化」が可能になるのかを仮説で良いので明示すべき。

わたしは、「そんなこと当たり前」「そんなこと知っていた」という意見をいただくたびに、「それって本当かなぁ?」と思う。
正確にいうと、その方が「当たり前」に知っていることをあらためて、理論的に整理し、言語化しておく必要はないのかな?、・・・と思う。
・・・というのは、わたしの仕事の主な部分は、みんな既に感覚的に知っていてそれを毎日当たり前のように実践することを理論的に整理することだと思っているから。


少なくとも、その方は、すでにアートに向き合ったときになんなく言語化できてしまう方で、その立場から、そういうことを言っているように見えた。
きっと、その方は、自分がこんなに難なくできてしまうことをできない学習者に疑問を抱いていて、「どうしてできないのか?」という問いを立てているのだと思う。

実際、その方はその問いをわたしに発した後、こう言った。
「日本人は部分しか見ずに、全体の世界観を言語化できないことに障害があるのではないかと私は考えます。」と。
ドイツの国語教育を研究しているその方にとって、日本人のそういう障害は苛立たしいところでもあるのだろうと思う。

わたしの立場はまったく逆だ。

わたしは、「わからない人」である。

「わからない人」だから、「わからない人」がどうやったらそれを楽しめるのか、どうしたら自分なりに意味を生成できるのか、それを必死に考えてる。

だから研究の結論として、
「意味を生成できる段階までできること、そのものを大切にしてほしい」
・・・ということを述べた。
でも、きっとその方には、それが少しも伝わらなかったのだと思う。


それは、とても残念なことだ。

しかし一方で、
わたしの発表を聞いて、

「これは、アートだけの話ではなくて、kimsitevaさんが議論しようとしているのは、ホントウに、今の社会で生きる上で必要な言葉の力なんだと思う!」

・・・と熱を持って語ってくれた方もいて、いたく感激した。
その方は最後に、「頑張ったから、ご褒美!」と言って、
わたしに『その国語力で裁判員になれますか?』(明治書院)という本をプレゼントしてくれた。

わたしはその本を読みながら、
「きっと、その方が思い描いていたリテラシーと、わたしの思い描くリテラシーは、いろいろなところで異なるんだろうなぁ・・・」
と思いつつ、それでもそういうふうに自分の文脈で、わたしの研究を評価してくれたことを、とてもうれしく思った。


良い研究というのは、いろいろな人たちがいろいろな可能性をそこに感じて、
勝手にさまざまな解釈をして、自分なりに利用できる研究だと思ってる。
そういう意味で言えば、今回の研究は間違いなく「良い研究」だし、「良い発表」だった。

わたしは、満足だ。
自分が、「実践報告」という新たな分野にチャレンジできたことも、
国語教育研究界で著名な方々が発表を見にきてくれたことも、
ヒートアップした質疑応答も、
本当に発表してよかったな、と思わせてくれた。


こういう満足した発表ができると、もっともっと研究したくなる。
発表したくなる。

さあて、次は何を発表しようかな?

想像力の貧困

2008-05-21 18:18:10 | 研究
少女マンガ研究とか、やおい研究をネットで探していると、
卒論・修論レベル(嫌味ではなく、「卒論」や「修論」をそのままアップしたものが多いのよ)の研究にけっこうヒットします。

そういう研究って、だいたい、

1950年以降の少女マンガの歴史をふれて~の、
初めての少女マンガは、手塚治虫の「りぼんの騎士」ですね~の
1950年代半ばには少女マンガ雑誌誕生ですね~の、
1970年代は「少年愛ブーム」ですね~で、
「JUNE」誕生、やおい誕生にふれて~の、
1990年代からBL出ましたね~の、
最近は拡散傾向ですね~。
お わ り。

という部分が(だいたい同じような記述で)あるのは、なぜ?
しかたないといえばしかたないけど・・・、そういうものなのかな。
いやだって、少なくとも「JUNE」ってそんな(全部の研究がそっちに回るほど)、オンナノコが全員読んでるようなもんじゃないでしょ?
(言っておきますが、わたしは 読 ん で ま し た !!)

海外の人が見たら、
「OH!ニホンノジョセイハ ミンナ 10代で ゲイ・マンガに ふれるのですか!」
・・・って驚かないかなぁ・・・。

閑話休題。
そんな論文のなかのひとつ(どこかの大学の卒論)を読んでいたら、
「1950年代半ばには『りぼん』や『なかよし』など、低学年向け少女マンガが誕生した」(ちょっと文章変えてます)
という記述があって、ひとりの研究者としてショックを受けました。

・・・というのも、そのときわたしが延々とやっていた作業というのが、『花とゆめ』創刊号(1974年)に掲載された漫画を調べることだったからです。

なにが言いたいかというと、
きっとこの文章を書いた方は、きっと、『りぼん』や『なかよし』が「低学年向け」なのは、疑うこともできないくらい、「あたりまえ」のことだったんだろうなぁ、ということ。

『りぼん』は創刊1955年。『なかよし』は創刊1954年です。
戦争が終わって、まだ10年くらいしか経ってないんですよ。
わたしには、この時代のことが「想像できない」「なんにもわからない」と思う。
戦争から10年くらいたったとき、どのくらいの人たちがマンガ雑誌を買えたのかも、はっきり言ってわからない。


そんなわけで、
1974年の『花とゆめ』創刊を、わたしは「10代後半向けのマンガ雑誌が誕生した」と解釈したいけど(今の『花とゆめ』の位置づけはそんなかんじだから)、本当にそう言えるのかどうか、すっっっごく考えた。
どうやったら、どういう資料が手に入ったら、それが言えるのかも、一晩中考えた。


でも、そんなことを思いつきもしない人がいることを、わたしは初めて知った。


「想像力の貧困」というのは、「想像しようとしてもできない」ことではなく、
そもそも、「想像すべきである、ということすら思いつきもしない」ことなんじゃないかと思う。


それってすごく恐ろしいことではないかしら。
こういうことが起こるたびに、
星新一さんが、「本当に恐ろしいのは、「ワレワレハ チキュウヲ セイフクスル」と言ってくる宇宙人ではなくて、何の気なしにゴミを捨てていたら実はそれが地球に届いていてものすごく地球にとってものすごい有害物質だった・・・というような宇宙人だ」というようなことを言っていたのを思い出します。

有害物質を地球に捨てる宇宙人。
その宇宙人には、地球にそのゴミが有害であることも・・・いや、地球という星があって、そこに人間が住んでいることすら「想像できない」のではないでしょうか。
そんな「想像できない」宇宙人も、
「あたりまえ」を疑えない人間も大差ないという気がします。

「男と女がつきあうのなんて「あたりまえ」じゃん!」というその言葉が、多くの人たちを傷つけてきたように。

千葉マント

2008-05-21 11:08:48 | 研究室
この写真は、けして、還暦をお迎えになった方々の祝賀会の写真ではありません。
千葉大学の卒業式の風景です。


つい先日、千葉大学には、「千葉マント」という謎のマントがあるらしいという噂を聞きました。

どうやら、博士課程卒業者は、卒業式にそのマントを着せられ、
希望者はそれを買い取る(10万円以上するらしい)らしい・・・。
しかも、そのデザイン&制作は、なぜか、九州のとある地方の企業(?)で、卒業式にはなぜかマントのデザイナーまで壇上に出席するらしい・・・。

そんな、千葉大にとって欠かせない、
・・・というか、ほとんどシンボルマーク化している「千葉マント」とは!

と、思っていたら・・・・・・これ。


マントというより、「赤いちゃんちゃんこ」に見えるのはわたしだけ?
恐るべし千葉大。

相手のことを意識して「書く」

2008-05-19 21:30:46 | お仕事
「ウーマン Train in マン is ノー」

これ。
今日の授業中に出た謎解答です。
・・・あ。ご存じのとおり、わたしの授業は「論理的思考」であって、「英語」ではありませんよ。

わたしの授業では、今年から、「相手のことを意識して書く(話す)」トレーニングを意識的に取り入れています。
国語科の作文教育では、よく、「相手意識」というのが言われるのですが、
本当に「相手意識」を真剣にかんがえた実践や教材にはあまり出会ったことがありません。

なんか、結局、「相手意識」=敬語を正しく使える/日本語を正しく使える
・・・というところに収斂してしまうところが、ネックなんだと思います。


そんなことを考えているときに、『日本語を書くトレーニング』『日本語を話すトレーニング』(野田尚史・森口稔著。ひつじ書房)というテキストに出会って、今ではいろいろとこのテキストを重宝しています。

このシリーズのテキストでは、「問い合わせのメール」とか、「雑談をする」「お願いをする」とか、本当にふだんから使えるような場面の問題がたくさんのっていて、
さらに重要なことは、
このテキスト。「解答」がひとつものっていないんです。

そういう方針が、本当にもう大好きで、看護学校でなくて大学の基礎科目や市民講座だったら、絶対テキストに指定したいなぁと、思ってます。


よく考えたら、当たり前ですよね。
相手のことを考えはじめたら、いつまでたったって、「正解」なんてあるはずないんですから。
相手によって答えは違うし、状況によっても違う。
しかも、その言葉を使う当の人間がどういう人かによっても違ってきます。

だから、「相手のことを意識して書く(話す)」ことを学習するためには、
ある問題状況を与えて、それに対してどう思うか、その問題状況を解決するためにはどうしたらいいかを、いろいろな人たちが考えて、いろいろな人たちが自分なりの意見を言って、そのいろいろな意見を聞きながら、
「なるほどー。そういう考えを持つ人もいるのかー。」
・・・と、考えていくしかないわけです。

ものすごく、まだるっこしいけど、
あっさりした正解のある人間関係なんて、わたしはつまらないと思う。


人間関係は、果てしなくまだるっこしいし、めんどくさい。
そのまだるっこさに、ポジティブシンキングで付き合ってみましょうか!・・・というのが、わたしの授業(前半)のテーマになっています。

そんなわけで、タイトルの謎解答ですが、
これは、「日本語があまりわからない人」に向けて、女性専用車両のステッカーを作る・・・という課題についての解答でありました。

でも、英語がわからないなりに、なんとか伝えようとするその精神を考えれば、
この解答も、まさにひとつの「解答」だな、と思うわけです。
ぶっちゃけ、もしかしたら、伝わっちゃうかもしれないしね。

「ねばねばなっちぃの歌」発見!

2008-05-19 20:58:43 | フィールド日誌
きゃー!!
わたしも大好き。みんなも大好き。
五軒ゆかりお姉さんの「ねばねばなっちぃの歌」がYou Tubeで見られるようになりました!
(futureさん。情報ありがとうございます!)

「ねばねばなっちぃの歌」

一応、解説をすると、水戸芸術館現代美術センターの「クリテリオム」という若手作家を紹介する企画展で、紹介された作品です。

水戸芸術館で出会った作品で、わたしに衝撃を与えた作品はいくつかありますが、まさに、その中のひとつです。
その熱のあげっぷりは、こちら参照のこと。

あらためて見てもステキっ!
みんなぁ!見てねぇ!

「うおっ!少女マンガ家!」

2008-05-18 13:51:25 | わたし自身のこと
「うおっ!少女マンガ家!」

・・・これは、さきほど、昼食を食べたあと、鏡を見たときのわたしの感想である。

グレーのボーダーTシャツ(長袖)を着て、
髪の毛が目に入るので、タオルで前髪をあげてしばって、
さらにメガネをかけていたら、
いつの間にか、「少女マンガ家」になっていたようです。

ちなみに、わたしの「少女マンガ家」イメージって、
『あさりちゃん』の室山真里子(室山姉妹の妹のほう)なんだけどね・・・(古)。
あるいは、『ママは小学4年生』かなんかに出てくる漫画家のお母さん。


ちょうど、「「腐女子」の成立」なんていう文章を書いていただけに、凹みます。

ふたたび、オタク研究へ:窪田光純『同人用語辞典』

2008-05-16 21:47:26 | 研究
水戸芸術館のフィールドワークと、学会発表原稿の準備がようやく一段落したので(学会発表は今月末ですが)、
ふたたび、オタク研究へ舞い戻ってきました。

実は今年の9月までに、共著で「腐女子」論文を書く予定なのです。
うーん。久々のオタク関連仕事。
超がつくほど、うれしいです。

・・・というわけで、数年ぶりに資料をあさるためネット・サーフィンしてたら見つけちゃいました。

窪田光純『同人用語辞典』(秀和システム)

発行日は2004年8月17日。

わたしが本格的に「やおい」の研究をしだしたのが、2004年4月。
修士論文を出したのが2005年1月ですから、ちょうどリファレンスしにくい時期だったんですね。(さすがに修士論文提出まであと半年になってからネットサーフィンをする余裕は・・・たらーっ(汗))
しかもそのあとも怒濤のごとく、文化部調査だ、水戸芸術館の調査だと走ってまいりましたので、ゆっくり文献探す暇もなかったような気がします。

そんなわけで、今の今までその存在を知らぬままにきてしまった『同人用語辞典』。
これがあったら、どれだけ論文執筆を楽に進められたことか・・・!
と、ガックリきました。
・・・いや、もう最近だと『現代用語の基礎知識』にも出てるし、フリー百科事典Wikipediaの定義を論文に引用しても(サブカル研究界では)認められるような風潮になってきたし、それほど問題にはならないんですけどね・・・。

『ニューデイリー新語辞典』か何かで無理矢理調べていたころがなつかしい・・・。

しかし、この『同人用語辞典』。
なにが面白いって、ヲタ(男オタク)用語も腐女子(女オタク)用語もどちらも掲載されていることです。イラストはめっちゃヲタ向けなんだけど、内容はそれほどヲタ向けではなくて、「やおい」の語源が、1979年に発行された同人誌『らっぽり やおい特集号』でのフリートークだという・・・イマドキの腐女子の中には、けっこう知らない人がいるような情報まで掲載されています。
(「やおい=やまなし・おちなし・いみなし」だということはけっこう知っているらしい。)

そんなわけで、パラパラ読んでると、ヲタ用語にも詳しくなってきて、なかなか異文化体験です。
実を言うと、この本で
「♪つるつるぺったん もちぺったん♪」
の「つるつるぺったん」=「つるぺた」の正確な意味を知りました。
てっきり「巨乳」の対義語だと思ってたら、
どっちかっていうと「ロリ」の類義語だったのね・・・。

「わたしは「貧乳」ではあるけど、「つるぺた」ではない」ということを理解しました。
・・・なんだかこの文、例文として使えそうでイヤだなぁ。

オーディエンスの男オタクのみなさん。
この用法、合ってますか?

落ちこぼれでいるためのスキル

2008-05-13 18:49:14 | わたし自身のこと
先日、同じ研究室にる長期派遣研修生の小学校教員の方に、
「今の「いい子」って、公衆電話が使えないんですよ」
・・・という話を聞いた。

どういうことかというと、
どうやら、そっちゅう忘れ物をする「落ちこぼれ」な子どもたちは、
いつもテレホンカードか、名札の中に30円くらいの小銭を持っていて、
しょっちゅう、学校に設置された公衆電話で親などに連絡するため、
公衆電話は使い慣れたものなのだという。

で、ある日。
いつもきちーんと忘れ物もせず、宿題もやってくる「いい子」Aちゃんが忘れものをした。
担任の先生は、Aちゃんを公衆電話の前につれていって、公衆電話に10円を投入し、親御さんに連絡をとらせたのだという。

とりあえず、ここまでの段階で、Aちゃんは、公衆電話に10円を入れなければ電話が使えないことも、受話器をとってから10円を入れることも、ダイヤルの回し方もまったく知らず、ひとつひとつ担任の先生が「こうやってやるんだよ」と教えながらやってあげたのだという。

・・・そして、Aちゃん。どうやら親御さんに連絡がとれたらしく、先生も一安心。
ところが、である。

何十秒かたった頃、突然、Aちゃんがびっくりしたように受話器をガチャンと戻してしまった。

先生がAちゃんにどうしたのか、と尋ねると、
どうやらAちゃん、通話料10円分が終わりに近づいたときに鳴る「プーッ」という音に驚いて、受話器を切ってしまったのだという。
もちろん、親御さんに肝心の用件は伝わっていない。


その先生は、そのとき、公衆電話の教え方もちゃんと教えないとダメなんだなぁ、と実感したということだった。

確かに、公衆電話というのは、災害時における有力な連絡手段のひとつだし、
それを使えるようにしておく、というのは大切な教育内容に違いない。


それにしても、その先生が驚いたのは、それだけの複雑な内容であるはずの「公衆電話のかけかた」を、落ちこぼれたちはなーんにも教えずともやすやすとできていた、ということだった。
落ちこぼれたちだって、「初めて」公衆電話をかけるという機会はあったはずである。
そのときに、その担任の先生はなにもしなかった。
なにもせずとも、なんとなく、公衆電話をかけることができていたらしい。

だからこそ、それまで「公衆電話をかけられない子がいる」ということに、その先生は気づけなかったのだともいえる。


そう考えてみると、
「落ちこぼれ」でいることってけっこう大変なことなのかもしれない。

まあ、そりゃ次の日に必要なものとかぜーんぶ用意してくれて、
宿題の面倒なんかも見てくれちゃったりする親のもとで育つよりは、
なんにもしてくれない親のもとで育った子のほうが、やらなければいかないこと、学ばなければいけないことは多かろう。

何より、そういう「落ちこぼれ」の子どもたちが、「必要なことは自分で学ぶしかない」ということを学習しているのだとすれば、
それは何よりもの教育に違いないとすら思ったりする昨今である。