戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

河田佐久馬

2005年01月30日 | 戊辰戦争人物小伝
【1823~1897】
文政十一年、因州藩士の子として生まれる。剣術に優れ、家督を嘉永四年家督を継ぎ伏見留守居、
文久三年には京都留守居も兼務する。因州藩において尊皇攘夷派の中心的な役割を果たす。
後に帰藩して藩論を統一に画策するが、再上京後に藩の重臣暗殺事件を起こし藩獄に投ぜられる。
脱走して長州藩に匿われて、慶応四年に大赦となり東山道総督府参謀を命ぜられる。
上野の安塚の戦い・宇都宮城奪還戦いにて活躍する。
上野彰義隊討伐戦に加わる。戊辰戦争後は京都・福岡・鳥取などで官吏を歴任し、明治十一年に
元老院議官に任ぜられ、明治二十年には子爵となり、明治三十年に死去。

山川大蔵

2005年01月29日 | 戊辰戦争人物小伝
【1845~1898】
会津藩の家老の子として生まれる。文久三年〔1863〕、藩主松平容保が京都守護職に任命されたため、上京するさいに
鉄砲隊二十名を引き連れる。慶応二年〔1865〕に樺太境界画定のため幕府派遣の随員としてロシアに訪れる。
鳥羽伏見の戦の後に、藩主について帰国して戦いに加わる。会津藩の藩兵を引き連れて、藤原口の副総督
として伝習隊の大鳥圭介らとともに板垣退助の迅衝隊と戦う。
会津城が落城されそうになると、若松に戻ると新政府軍と戦うも従軍していた妻も失うことになる。
会津藩の降伏後は、新政府の処分により陸奥斗南にうつれされ、藩権大参事として斗南藩の尽力する。
明治五年、陸軍省に出仕し西南戦争で従軍し功をあげる。
妹捨松は津田梅子らとともに明治最初の女子留学生として渡米し、大山巌夫人となる。

慶応三年〔1867〕十月の板垣退助の兵制改革のさいの隊の人事模様

2005年01月27日 | 板垣退助日誌
慶応三年〔1867〕十月の板垣退助の兵制改革のさいの隊の人事模様


大隊司令 乾退助【板垣退助】〇☆
歩兵隊右半隊司令 祖父江可成〇☆
歩兵隊左半隊司令 北村長兵衛 ▲☆

侍別撰小隊司令
片岡健吉 〇☆
浅利繁左衛門
五藤孫兵衛
井上武右衛門
柴田久米治
小笠原唯八 ☆
小森守太郎
太田仲十郎
深尾八百万
祖父江鷹衛

軽格別撰小隊司令
日比虎作 〇☆
山田喜久馬 ▲☆
渋谷伝之助 ▲
関健輔

歩兵小隊司令
山地忠七 ▲☆
横田祐造 〇
箕作猪之吉 ◎
乾三四郎 〇☆
福岡三兵衛
二川元介 ▲☆
小坂彦弥
岡内作
森九十郎
川上友八
西村左平次 ◎
間舎人
荒尾騰作
飯沼権之進
松下意興 ▲
伴修吉
北川柳造
谷神兵衛 〇☆
真辺戒作 〇☆
小南猿史郎

〇……慶応四年一月土佐高知で迅衝隊が結成されたときに加わる人
☆……鳥羽伏見の戦い以降〔慶応四年二月以降〕の迅衝隊に加わる人
▲……鳥羽伏見の戦いに参戦した人
◎……堺事件で関わる人


鳥羽伏見の戦いにおける土佐藩兵の動向

2005年01月22日 | 板垣退助日誌
慶応三年〔1867〕十二月二十八日
山田喜久間の第一別撰小隊と吉松速之助の第二別撰小隊が伏見方面にて警備につく。

慶応四年〔1868〕一月三日
渋谷伝之助と松下意興の各小隊が交代のために出張にきたが、山田・吉松小隊は現地にとどまる。
山内容堂は在京の土佐藩兵に「このたびの戦争は薩長と会桑の私闘と認める。よって何分の沙汰をするまでは戦争に参加することを禁止する。」
と告げ、総督山内隼人はその内意を受けて伏見に出張し、警備している土佐藩兵に戦闘行為をしないように厳重に内命をつたえる。

慶応四年〔1868〕一月四日
明陣前に敵の迫るので、砲門を開いて戦端を開く。二川元助の一小隊と山地忠七の一小隊が京都より来援に駆け付け戦線に加わる。
さらに北村重兵衛の砲兵隊も参戦する。
吉松速之助と山田喜久馬と二川元助と山地忠七はあえて山内容堂の命を無視して参戦し
「万一戦争に負け、君公ご迷惑をおかけするようになったら、お互い腹をきるまでよ」と約束していたという。

慶応四年〔1868〕一月二十一日 板垣退助、丸亀に戻る日 板垣退助日誌

2005年01月21日 | 板垣退助日誌
総督深尾丹波は自ら二小隊を率いて高松城を守ることに決して、板垣退助は全軍の将として丸亀に戻る。

深尾佐馬之助を総督とする総勢千六百の部隊を出発する。この部隊はのちに松山城を目指して行動する。

一方、東山道の岩倉具定を総督、弟具徑副総督とする部隊が京都を進発し、前野久米之助を総督とする土佐藩兵三小隊も加わる。

慶応四年〔1868〕一月二十日 高松藩の降伏  板垣退助日誌

2005年01月20日 | 板垣退助日誌
その日の午前二時に板垣退助ら迅衝隊は多度津藩兵足軽三十名と農兵三十五名と合流する。
迅衝隊は隊を二分し、一方は丸亀藩兵とともに陸路から、もう一方を海路から多度津藩兵の案内で高松に進軍させる。
陸路より進んだ一隊、丸亀藩兵とともに午後二時頃高松城下の岩清尾神社に布陣する。
一方、海路より進んだ一隊は多度津藩の先導により調達した小舟四十艘にて高松に進み、午後四時頃には土佐藩・丸亀藩とともに城下真下寺に集結する。
夕方に、一大隊と大砲二門をもって城に迫り、常磐橋外に空砲二発打ち、小銃を空に向けて弾を残らず発砲する。。
高松城下にある松林寺に本陣を進めたときに、高松藩主松平頼聡が浄願寺に退去謹慎し、城頭には降参と書かれた降服の白旗が立てられ、城門はひらき、藩士たちはみな脱刀して迅衝隊を迎える。
迅衝隊は緋の菊の錦旗を高松城の表書院の上段の床の上に安置し、土佐藩家老・深尾丹波は上段に着座され、高松城内は土佐藩の封印を張られる。

慶応四年〔1868〕一月十九日 板垣退助、丸亀に入る。 板垣退助日誌

2005年01月19日 | 板垣退助日誌
板垣退助ら迅衝隊は多田津で休息した後、丸亀に進駐する。その後本山に小憩する。
その日の未明鳥坂において大監察本山只一郎が、高松藩と松山藩追討の勅書を奉じて来たり、姫駅まで来ると、今度は樋口真吉が京より護持した錦旗を板垣退助らに拝受させる。
錦の御旗が迅衝隊の陣頭翻り全軍の士気も上がり、その日の午後二時に丸亀に入る。
迅衝隊が丸亀藩の国境に来ると、待ち受けていた藩士たちが丸亀城下に案内し、
迅衝隊の本陣を中村屋見附右衛門方とし、その他の兵は市中の分宿させる。

慶応四年〔1868〕一月十七日  板垣退助日誌

2005年01月17日 | 板垣退助日誌
迅衝隊はこの日も川ノ江に滞陣する。谷干城に藩命を受けさせるべく高知へ戻す。

土佐藩留守居役細井半之助が江戸城に招かれ、大目付戸川伊豆守から「鳥羽伏見の失態は前駆兵の過失で、慶喜公に王師抗敵の救解を
朝廷に周旋してほしい」と言われ、徳川慶喜から容堂公への依頼状が渡される。