戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

慶応四年〔1868〕一月六日 谷干城に帰国し、板垣退助に伝える日 板垣退助日誌

2005年01月06日 | 板垣退助日誌
西郷隆盛の伝言をたずさえた谷干城がこの日、大坂より海路讃岐に渡り伊予川之江を経て高知に到着し、土佐の板垣退助〔乾退助〕に対幕戦が勃発しつつあることをつげる。
谷干城は総督深尾隼人より、片岡健吉に半大隊を率いて上京せしめよという伝言を受けていたが、
板垣退助は決して上京させるなという意味である。

この日、鳥羽伏見の戦いで敗色濃くなった旧幕府軍を残して、徳川慶喜は大阪城を脱出する。

片岡健吉

2005年01月06日 | 戊辰戦争人物小伝
【1843~1903】
土佐藩士・父片岡俊平が早世し、慶応元年八月祖父範三郎の死後祖父の家督を継ぐ。慶応四年一月に土佐藩で迅衝隊が結成されると左半大隊司令兼大軍監となり、板垣退助らとともに東征軍に加わる。
戦後には戦功により、二百石加増され中老格式となる。明治四年には土佐藩の権大参事に任じられ、のちに欧州・イギリスに外遊する。
明治六年の政変で下野して高知へ戻り、明治七年に板垣退助らとともに立志社を設立し、社長に就任する。片岡健吉には自由民権運動にて身を投じ、のちに衆議院議員に八回当選し、議長に四回も選ばれる。