戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

もうひとつの「靖国問題」があるのでは?

2005年05月26日 | 管理人の勝手な独り言


日中間の外交上の問題として世間を騒がしている
靖国問題ですが、管理人としては
勝手な独り言としてもうひとつの靖国問題を取り上げたいです。
「A級戦犯はもう罪人でない」自民代議士会で森岡政務官 (朝日新聞) - goo ニュース

靖国神社には戊辰戦争で戦死した兵士たちも多く祀られています。
戦死した迅衝隊隊士たちも祀られています。一方、新政府軍と戦った旧幕府軍や
奥羽越列藩同盟軍の兵士たちはその対象とはなっていません。

第二次世界大戦と敗れた旧日本軍の首脳や政府首脳はA級戦犯となっても祀られている一方、
戊辰戦争で敗れた兵士たちには賊軍となったとはいえ、その末端の兵士たちにも「罪人」ではないのだが、その資格がないというのは、歴史の皮肉です。

そういう意味で、靖国神社を注目されている中で、もうひとつの「靖国問題」があるのでは?
勝手に思う管理人に独り言です。

迅衝隊VS永倉新八  板垣退助こぼれ話

2005年05月23日 | 板垣退助こぼれ話
かの新選組のなかでも永倉新八ほど土佐藩の藩士たちにその刃を向けたものはいないのではないか。
一躍新選組の名を天下に知らしめた池田屋事件では脱藩した土佐藩士たちに対して抜刀して戦う。

戊辰戦争では、近藤勇らが結成した甲陽鎮撫隊に加わり、勝沼の戦いでも土佐藩の迅衝隊と戦うが敗れる。

永倉新八は近藤勇らと別れて靖共隊の結成に加わる。その永倉新八ら靖共隊は旧幕府の歩兵第七聯隊と合流し、四月二十二日で迅衝隊の別働隊と安塚で戦い、抜刀隊を組織して奮戦する。永倉新八は二の腕を負傷している。

五月六日に大鳥圭介らが伝習隊らを率いて今市にいた板垣退助ら迅衝隊に襲撃するさいにも永倉新八はこれに加わる。
第二大隊に所属していた永倉新八らの遊軍隊は、この戦いで幹部矢田賢之進が眼の下を狙撃され戦死したさいに、永倉は銃弾を避けながら矢田の首を切り落として、戦闘を続け戦いが終えたのちに高徳寺に埋葬したという。

これ以後、永倉新八は戦闘に参加した形跡はない。その永倉新八にかわってに足首を負傷から回復した土方歳三が迅衝隊に立ちはだかろうとする。

板垣退助の甥 板垣退助こぼれ話

2005年05月21日 | 板垣退助こぼれ話
板垣退助らが今市にて大鳥圭介の軍と苦戦している中、板垣退助の甥に高屋佐兵衛が今市に援軍を引き連れて、駆け付けようとしていた。

板垣退助は大鳥圭介が軍を引き連れて今市に再び大規模な襲来をする情報を得て、高屋に今市に至急くるように指令するが、どういうわけか
その命令は高屋には届かなかった。

結局板垣退助は高屋佐兵衛の援軍なしでどうにか大鳥圭介の攻撃を撃退できたが、戦いが終わってから高屋佐兵衛は今市に到着してきた。

板垣退助はこの甥の遅着に腹に据え換え、高屋佐兵衛を斬ろうとするが、廻りの者に留められてようやく思い止まったという。

慶応四年五月十七日 板垣退助日誌

2005年05月17日 | 板垣退助日誌
板垣退助は今市を佐賀藩に守備を任せ、迅衝隊を白河を目指して北進する。

板垣退助は今市の守備を佐賀藩に託すさいに、「勢いに乗じて軽進すれば必ず嶮要を利用して敵に謀られるおそれがあるから、自重時期を待つよう」にと注意する。

「大鳥圭介は実に実戦が下手だ」

2005年05月16日 | 管理人の勝手な独り言
板垣退助の上野での戦いでは宿敵として戦った大鳥圭介は、適塾で西洋医学を学び、韮山代官江川英敏に兵学を学び、江戸城の開城に反対して
伝習隊とともに脱走して、宇都宮城を奪取するなど新政府軍を悩ますが、板垣退助ら迅衝隊と戦うと蛇ににらまれた蛙かのように、負け続ける。
大鳥圭介と同じく適塾出身の大村益次郎は実戦経験はなかったが、第二次長州征伐で参謀として活躍し、その後彰義隊との戦う上野戦争にでも
新政府軍を勝利を導くのだが、大鳥圭介が幕府でもその才覚を認められて幕府の歩兵隊のトップになるくらいだから、決して無能ではなかっただろう。
凌風隊からは「大鳥圭介の実践指揮は拙い」、会津藩から招聘されて歩兵を訓練していた沼田慎次郎は「大鳥何者ぞ、我が戦機を誤れり」と評される始末。
決定的なのは、これの評である。
「実戦は実に下手だ。兵は語るは上手だが兵を用ふるは下手だが、大将の器があつた云ふのは大鳥様が配下を派して
戦はすと不思議に勝つ。自分が出ると必ず負ける。しかし負けても平気なものだ」と大鳥圭介自身り追悼文でも書かれているのである。

新人物往来社の「戊辰戦争全史」で山村竜也氏は土佐藩の迅衝隊がいる今市攻略に失敗した大鳥圭介のことを彼の著書南珂紀行の一文を引用してから「潔さという点では、大鳥ほどの名将はいなかっただろう」

と書き記しているが、名将というものは、「すぐれた武将」という意味だが、彼の性格の比喩として遣うには適切とは言い難いが皮肉の意味で喩えたのだろう。後生の史家も彼の性格を書けても才能については言及を避けているとしか言えない文章となっている。


慶応四年五月十五日 板垣退助日誌

2005年05月15日 | 板垣退助日誌
上野の彰義隊が新政府軍に敗れる。

この戦いでは土佐藩はその主力を板垣退助らがいる今市に派遣させており、実戦では
参加していない。
大総督府の軍監である江藤新平とともに土佐藩の小笠原唯八〔板垣退助の盟友〕は上野彰義隊の戦いを軍監としてその役割を果たす。

また、上野彰義隊の制圧作戦を練ったのが、板垣退助と戦う大鳥圭介と同じく適塾で学んだ長州藩の大村益次郎である。
日本の最先端の学問所で西洋の兵学を学んだ二人だが、好対照な結果を残している。

小栗上野介の処刑の裏事情 2

2005年05月14日 | 管理人の勝手な独り言
小栗上野介忠順の処刑の直後、彼の罪状をつげる高札が建てられた。「小栗上野介 右の者朝廷に対してたてまつり大逆企て候明白につき 天誅をこうむらしめし者なり 東山道鎮撫総督府試使員」

小栗上野介忠順の罪状の高札を建てた東山道総督府の監軍大音龍太郎は閏四月十六日、権田村に来て、名主佐藤勘兵衛を呼び出し、「小栗上野介に対し、総督府の命令による弔意金である。墓を建立して供養せよ」と二十五両を渡す。

先日、新政府を逆らう大逆人として処刑しておきながら、すぐに弔えというのは合点がいかない。
小栗野介夫人道子の妹ハツの息子で義理の甥にあたる法学博士 蜷川新はこのときの東山道総督府の動きを非難している。

「然れども金二十五両を以って、国家功臣父子と良民六名を殺戮せる一大過罪は到底償うべくあらず。総督岩倉、参謀板垣、及び伊地知等はこの弔意金を贈れるのみにては、共にその重大責任は逃れない」手厳しく非難している。

さらに、「後年自由と叫べる板垣と、当時暴虐を好む板垣とは、別人の観あるも奇怪至極也」
と板垣退助までもバッサリと断罪している。蜷川新でなくともまこと奇怪至極である。