戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

松平太郎の訪問

2007年10月02日 | 板垣退助こぼれ話
板垣退助が日光に入る直前に、迅衝隊に意外な人物の訪問をうける。洋装の騎馬の一行を引き連れた松平太郎である。松平太郎は江戸開城直前においては、陸軍奉行並に就任し、のちに榎本武揚が箱館にて蝦夷共和国を設立するさいに、その幹部として名を連ねることになる。徳次郎村にいた迅衝隊の半大隊長祖父江可成の部隊に、旧幕府軍の陸軍奉行松平太郎が訪れて、旧幕府軍は今市を撤収しているため、日光攻撃を差し控えるよう要請した。祖父江可成らは彼の言動を不審に思い、彼らを鳥取藩兵に引き渡して、宇都宮に護送させる。
 松平太郎は迅衝隊に来て、そのような要請を行ったのか。その前日に松平太郎は大鳥圭介らと日光で面談していた。松平太郎はその際に十人ほどの護衛とともに徳川家の書簡と軍資金と医師を届けたという。北関東においては脱走した旧幕府軍と新政府軍が各地で戦闘している中を、わずか十人ばかりの護衛で無事に日光にたどりつけたのだろうか。
 実は日光に来る途中に板垣退助が引き連れた安塚救援に急ぐ迅衝隊に咎められている。迅衝隊は洋装に三千両と大金を抱えた騎馬の一行は目立つため彼らを厳しく吟味しようとしたが、彼は大胆にも迅衝隊にこういって煙に巻こうとした。「徳川の臣松平太郎なり、慶喜、恭順命を待つといえども、脱走総野の間に横行し、甚だ恭順の旨意に戻る、故に東海道御総督に願い、鎮撫の為め罷り通る」これに迅衝隊の西尾遠江介はその言は最もなれどその証拠をと求めた。すると、松平太郎は大総督府の通行鑑札の印形を差し出した。西尾は不審に思うも、大総督府の通行鑑札があるためにそれ以上嫌疑を追求できず三千両を持たせたまま松平太郎の通行を認めたという。
 松平太郎が大総督府の通行鑑札を手に入れた経緯は不明だが、徳川参政の書簡と三千両の軍資金などを所持していたなどの状況証拠を考えると、旧幕府の首脳部クラスの意志によるものと考えるのが妥当であろう。日光に着いた松平太郎は自制を求める徳川参政の書簡を渡して、軍資金も大鳥圭介の部隊に配られた。そして大鳥圭介と面談した松平太郎は板垣退助らの日光進軍を差し控えるように交渉すると約束した。
 迅衝隊は松平太郎の要望を一蹴したが、日光進軍を予定通り進めた。松平太郎の本来の来訪の目的は達せられなかったが大鳥圭介と板垣退助の対決にすくなからず影響を与えた。