戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

山内容堂

2005年01月15日 | 戊辰戦争人物小伝
(1827~1872)
山内豊資の弟山内豊著の子として生まれ、幼名は輝衛 名は豊信といい、後に容堂と称する。
藩主の座に就いた山内容堂は「新おこぜ組」の吉田東洋を起用し、嘉永六年(1853年)「仕置役(参政職)」に任じ、藩政改革を行う。
安政元年(1854年)六月、吉田東洋は失脚するが、安政四年(1857年)吉田東洋を再び登用し、後藤象二郎、福岡孝悌らを起用する。
山内容堂は松平春嶽、伊達宗城、島津斉彬らとも交流を持ち「幕末の四賢候」と称される。
安政の大獄では山内容堂は、安政六年二月、隠居願いを幕府に提出し、十月には斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下る。
文久二年四月八日(1862年)吉田東洋を暗殺すると、土佐勤王党の武市瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握する。
八一八の政変がおこり、佐幕派が復権し、山内容堂も謹慎を解かれ土佐に帰国し、
土佐勤王党の弾圧し、その党員を捕縛し、武市瑞山も切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられる。
坂本龍馬の案「大政奉還」を本人より聞いた参政・後藤象二郎はこれを容堂に進言し、
山内容堂はこれを十五代将軍徳川慶喜に建白し、慶応三年十月十四日大政奉還が成立する。
同十二月九日小御所会議にて、山内容堂は徳川氏を中心とする列候会議による政府を主張し、
天皇による親政を主張する岩倉具視と激論となるが、岩倉具視ら倒幕派が主導権を握る。
慶応四年(1868年)戊辰戦争では土佐藩兵は参加しないように厳命したが、土佐藩兵は結局新政府軍に加わる。
明治維新後の山内容堂は内国事務総長となるもが明治二年(1869年)辞職し、明治五年、脳溢血に倒れ、死す。

谷干城

2005年01月14日 | 戊辰戦争人物小伝
〔1837~1911〕
天保八年、土佐高岡郡窪川村に生れであり、板垣退助とは同い年である。文久元年(1861年)、江戸から土佐へ帰る途中、勤皇を唱える武市瑞山と会い、帰国後、藩の参政・吉田東洋に攘夷の実行を進言する。
文久二年、藩主の上京の督促と薩長と共に攘夷を行うべきを進言する。
元治元年(1864年)には陣屋詰に左遷される。その後に高知へ召還され、慶応元年(1865年)藩校・致道館の教授となる。
慶応二年に藩命にて長崎へ視察に赴く。
慶応三年、板垣退助とともに京都で西郷隆盛、小松帯刀と会談し、武力倒幕について会合する。
坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺されたさいに、まだ息のある中岡慎太郎のもとに駆けつける。
慶応四年の戊辰戦争では迅衝隊の軍監として参戦し、北関東・会津を転戦する。
明治三年(1870年)、藩少参事になる。翌年の廃藩後、兵部権大丞となり新政府に出仕する。
明治五年(1872年)陸軍少将となり、、西南戦争の時には熊本鎮台司令官となり五十二日間にわたる薩軍の猛攻に堪え、その功績が認められ、谷干城は陸軍中将に昇進する。
その後、陸軍士官学校校長・学習院院長を歴任し、明治十八年(1885年)伊藤内閣の初代農商務相に就任し、後に貴族院議員となる。

慶応四年〔1868〕一月十三日 板垣退助の出陣 板垣退助日誌

2005年01月13日 | 板垣退助日誌
迅衝隊はこの日に土佐から出陣する。迅衝隊は致道隊に集合して藩主の閲兵と激励を受け征途につく。
板垣退助はこのとき、「みんな聞け、今までは友であったが、今日から大隊を指揮することとなった。軍規はきびしいから覚悟しておくよう。」と迅衝隊の隊士たち訓示したという。
迅衝隊はこの日の夜布師田に泊まる。

一方、土佐藩の支藩山内豊福は江戸城会議の徹底抗戦論に板挟みとなり、江戸藩邸で自刃する。その妻も殉じる。

板垣退助の天保八年 【1837】から慶応二年【1865】までの履歴

2005年01月12日 | 板垣退助日誌
天保八年 【1837】
四月十七日、土佐国高知中島町の自邸にて生まれる。父は乾正成、母は林氏
姓は乾、名は正形、通字は退助である。

天保十四年【1843】
九月九日、総領目見する。

嘉永二年 【1849】
母、林氏死去する。

嘉永三年 【1851】
十二月二十五日、市中において同輩と狼藉同様の行為があったとして、
「吃度遠慮」を命ぜられる。

安政元年 【1854】
十二月二十八日、江戸勤番を申しつけられる。

安政二年 【1855】
十月江戸藩邸で大地震に遭う。

安政三年 【1856】
この年に帰国し、六月土佐において同輩を侮辱し八月八日藩庁において罰する
ところとなり、神田の里に閉門され、惣領職没収、城下四か村禁足を命ぜられ
る。このあと幽閉四年間は猟犬を率いて猪鹿を狩り三昧をする。

安政六年 【1859】
五月、自邸に戻り、中島某を師と仰ぎ、自邸に招聘して書家の諸を講じられ
る。とくに退助は孫子の兵法関心を示す。

万延元年 【1860】
三月十日、父正成死す。六月十八日長女兵が生まれる。
六月二十六日、父跡目知行の内、二百二十石を相続する。馬廻に列す。
八月、免奉行となり、西郡津野山に巡按する。

文久元年 【1861】
十月二十五日、御納戸方となり、江戸に差し立てられ、軍備の庶務を掌握する。         
また、同年江戸留守居並に命ぜられる。

文久二年 【1862】
十二月二十三日、内用役から御隠居様御側用役に昇進し、役領知二百三十石
を受ける。

文久三年 【1863】
一月江戸を立ち山内容堂に従い、京都に行く。そのおり中岡慎太郎と会合する。
四月二十六日、御隠居様御用側用役を解任される。
九月二十一日、御隠居様御用側用役を再任され、十月四日、馬廻組頭として
家老深尾丹波組に付属される。

元治元年 【1864】
三月五日、二女、軍が生まれる。
七月二十四日、町奉行となる。八月、大監察を仰せつけられ、容堂を補佐
して藩論の一定を図る。
九月二十四日、大目付役に命ぜられる。

慶応元年 【1865】
一月十四日、大監察を辞して、騎兵修行のため江戸に行く。

慶応二年 【1865】
五月十三日、藩より学問並びに騎兵修行のために特に三人扶持金五両の
手当を受け、翌年までの江戸遊学を命ぜられる。


迅衝隊の一月八日結成時の顔ぶれ

2005年01月11日 | 板垣退助日誌
迅衝隊の一月八日結成時の顔ぶれ

総督   深尾丹波成質
大隊司令   乾退助【板垣退助】
左半大隊長  祖父江可成
右半大隊長  片岡健吉
輜重奉行   森権次
大軍監   小南五郎右右衛門
大軍監   森多司馬
少軍艦   谷守部【谷干城】
少軍艦   谷兎毛
差使役    乾三四郎
第一番隊長    日比虎作
第二番隊長  野本平吉
第三番隊長  横田祐造
第四番隊長  谷神兵衛
第五番隊長  宮崎合助
第六番隊長  真辺戒作
第七番輜重隊長  平尾左金吾
第八番輜重隊長  谷口傳八

岩村精一郎

2005年01月10日 | 戊辰戦争人物小伝
【1845~1906】
宿毛を領地となる土佐藩家老山内氏の陪臣。名は高俊という。
慶応三年長崎へ砲術研究のため訪れたさいに、海援隊の伊呂波丸沈没の交渉していた中島作太郎と交流を持つ。
京都の土佐藩邸に到着して大江卓らとともに中岡慎太郎死後に陸援隊に入隊する。
坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺の報復のため、紀州藩三浦休太郎襲撃に加わる。
三浦休太郎襲撃の翌日岩村精一郎は高野山へ行き「高野山の義挙」に加わる。
慶応四年一月岩倉具定に従い江戸に向かい、四月に軍監となり三千の兵を率いて信濃・越前・奥羽各地を転戦する。
北越にて河井継之助と会談するも決裂し長岡藩と熾烈な戦いをする。
後に佐賀県令、男爵に列せられ貴族院議員。兄、通利〔竹内 綱〕は男爵、商務大臣、次兄、林有造は逓信、農商務大臣を歴任し、宿毛の三兄弟と称せられる。

慶応三年〔1867〕の板垣退助の動き〔戊辰戦争の前年〕

2005年01月07日 | 板垣退助日誌
慶応三年〔1867〕の板垣退助の動き〔戊辰戦争の前年〕
戊辰戦争直前の板垣退助〔このときは乾姓〕の動きです。

慶応三年〔1867〕五月二十一日、板垣退助、中岡慎太郎の紹介により、京の小松帯刀邸にて西郷隆盛・吉井幸輔と密談する。

慶応三年〔1867〕五月二十二日、板垣退助〔乾退助〕は山内容堂と謁見し、「今にして決することなければ、やがて君公も馬を薩長の陣門につなぐに至るべきか」と訴える。

慶応三年〔1867〕五月二十七日、板垣退助、病気を理由にお暇を乞い京を出る。

慶応三年〔1867〕六月二日、板垣退助、高知に着く。

慶応三年〔1867〕六月十三日、大目付で仕置役と役領知百八十石を受け、軍備用帯を命じられる。

慶応三年〔1867〕七月二十四日、板垣退助、仕置役に昇進し、役領知二百三十石を受けとなり、軍備用帯致道館取抜勤めとなる。

慶応三年〔1867〕八月二十日、板垣退助、土佐藩よりアメリカ派遣の内命を受ける。

慶応三年〔1867〕八月二十一日、板垣退助、土佐藩より軍備用帯致道館取抜勤めを解任される。
慶応三年〔1867〕九月二十九日、板垣退助は仕置役のまま歩兵大隊司令兼帯となる。
「近々京都へ差し立てられる、日限の儀は追って仰せ付けられる」という内命を受ける。

慶応三年〔1867〕十月八日、板垣退助は仕置役のまま歩兵大隊司令兼帯を解任される。

慶応三年〔1867〕十月九日、板垣退助は仕置役を解任される。

慶応四年〔1868〕一月六日 谷干城に帰国し、板垣退助に伝える日 板垣退助日誌

2005年01月06日 | 板垣退助日誌
西郷隆盛の伝言をたずさえた谷干城がこの日、大坂より海路讃岐に渡り伊予川之江を経て高知に到着し、土佐の板垣退助〔乾退助〕に対幕戦が勃発しつつあることをつげる。
谷干城は総督深尾隼人より、片岡健吉に半大隊を率いて上京せしめよという伝言を受けていたが、
板垣退助は決して上京させるなという意味である。

この日、鳥羽伏見の戦いで敗色濃くなった旧幕府軍を残して、徳川慶喜は大阪城を脱出する。

片岡健吉

2005年01月06日 | 戊辰戦争人物小伝
【1843~1903】
土佐藩士・父片岡俊平が早世し、慶応元年八月祖父範三郎の死後祖父の家督を継ぐ。慶応四年一月に土佐藩で迅衝隊が結成されると左半大隊司令兼大軍監となり、板垣退助らとともに東征軍に加わる。
戦後には戦功により、二百石加増され中老格式となる。明治四年には土佐藩の権大参事に任じられ、のちに欧州・イギリスに外遊する。
明治六年の政変で下野して高知へ戻り、明治七年に板垣退助らとともに立志社を設立し、社長に就任する。片岡健吉には自由民権運動にて身を投じ、のちに衆議院議員に八回当選し、議長に四回も選ばれる。