戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

 ○退助の江戸到着直後

2007年08月09日 | 板垣退助日誌
 江戸到着直後の板垣退助は東山道軍参謀として立場からか軍議に出席したり、新政府軍との要人の会談することが多かったようだ。
板垣退助は東海道総督府参謀の海江田信次と林久十朗に面会して船川本所の舟改めをするように求める。その理由が江戸近辺にて、
東海道総督府の軍の取締が緩いために旧幕府勢が銃を持ち出して、深川へ通して会津に送ろうとする動きがあるというものである。
それに関して相手にされなかったのかお茶を濁されたのか、実現していない。さらに高輪の薩摩藩邸に訪れて西郷隆盛と面会すると、
東海道総督府の軍は気が弛みを忠告する。また東海道総督府の大原重徳には、深川・本所の津口の警戒をするように談じるまでにいたる。
 板垣退助はなぜここまで無血開城が決まったのに、一人旧幕府を敵視するような強硬的な意見にこだわるのか。
実質的な土佐藩の君主の立場にあったのは前藩主山内容堂は大政奉還や鳥羽伏見の戦いの直後まで、
薩長側に対抗して政治的には旧幕府寄りと思われる活動し続けたため、新政府軍の一部にも懐疑的に見ていたものがいたかもしれない。
その山内容堂が方針を変換して鉾を治めたのは、徳川慶喜が官位剥奪が決定した慶応四年(1868)正月七日のことであることからしても、
山内容堂の旧幕府よりの動きが土佐藩全体の立場を不利にしていたと考えられる。板垣退助が山内容堂の立場慮って、
あれほど山内容堂が徳川救械を妨害した薩長側が無血開城を一方的に決めたことに、反発してあからさまに旧幕府に対して強硬的な意見を述べているかもしれない。

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