戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

鳥羽伏見の戦いにおける土佐藩兵の動向

2005年01月22日 | 板垣退助日誌
慶応三年〔1867〕十二月二十八日
山田喜久間の第一別撰小隊と吉松速之助の第二別撰小隊が伏見方面にて警備につく。

慶応四年〔1868〕一月三日
渋谷伝之助と松下意興の各小隊が交代のために出張にきたが、山田・吉松小隊は現地にとどまる。
山内容堂は在京の土佐藩兵に「このたびの戦争は薩長と会桑の私闘と認める。よって何分の沙汰をするまでは戦争に参加することを禁止する。」
と告げ、総督山内隼人はその内意を受けて伏見に出張し、警備している土佐藩兵に戦闘行為をしないように厳重に内命をつたえる。

慶応四年〔1868〕一月四日
明陣前に敵の迫るので、砲門を開いて戦端を開く。二川元助の一小隊と山地忠七の一小隊が京都より来援に駆け付け戦線に加わる。
さらに北村重兵衛の砲兵隊も参戦する。
吉松速之助と山田喜久馬と二川元助と山地忠七はあえて山内容堂の命を無視して参戦し
「万一戦争に負け、君公ご迷惑をおかけするようになったら、お互い腹をきるまでよ」と約束していたという。