戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

慶応三年十二月三十日 谷干城に帰国命令  板垣退助日誌

2004年12月30日 | 板垣退助日誌
土佐藩の藩兵総督深尾隼人は谷干城に帰国を命じる。このとき、総督深尾隼人は片岡健吉に半大隊を率いて上京せしめよ、そして、板垣退助は決して上京させるなという意味の伝言を谷干城に託す。谷干城は翌年の一月一日に森脇唯次郎とともにつれて京を出発する。谷干城は大坂、海路讃岐に渡り伊予川之江を経て高知へ目指す。

世良修蔵

2004年12月27日 | 戊辰戦争人物小伝
【1853-1868】
世良修蔵は周防国大島郡椋野村の生まれで、月性の門下生となり文久三年に秋良敦之助の紹介により毛利家の寄組浦家の陪臣木谷家の養子となる。赤禰武人に誘われて奇兵隊に入隊しのちに書記となる。赤禰武人が処刑されると連座して謹慎させるも、主人浦靱負が世良家を継がせる。
世良修蔵は南奇兵隊の幹部となり、第二次長州征伐では周防大島口に侵入してきた幕府兵を撃退させる。鳥羽伏見戦いに加わり戦功をあげた後、奥羽鎮撫総督の参謀として仙台へ赴く。世良修蔵の態度に不満をもった仙台藩士たちによって福島にて斬殺される。
彼の死が奥羽越列藩同盟が結成される原因のひとつになる。

土方歳三

2004年12月26日 | 戊辰戦争人物小伝
【1836-1869】
武蔵国多摩郡石田村の出身で、十一歳のとき天然理心流近藤周助の弟子となる。江戸試衛館の師範代となり、文久三年に将軍上洛のさいに護衛する
浪士組に近藤勇・沖田総司らとともに加わる。上洛後は清川八郎に反発して浪士組と離脱して、壬生にて芹沢鴨を局長とする浪士組を結成に加わる。
芹沢らを粛正後局長近藤勇らを助けて、元治元年の池田屋事件などで一躍新選組の名をとどろかせる。慶応四年の鳥羽伏見の戦いに敗北後は海路にて江戸に向かい、近藤勇ら新選組が甲陽鎮撫隊と名を変え甲斐に進む。そこで板垣退助らの部隊の別働隊に敗れ、近藤勇が処刑されたあと大鳥圭介らと合流して、北関東、会津、蝦夷と最後まで新政府軍と戦う。明治二年五月五稜郭の近くで戦死する。

伊地知正治

2004年12月24日 | 戊辰戦争人物小伝
【1828-1886】
薩摩藩士の子として生まれる。目と脚が不自由だったが、努力して薩摩藩の兵学を学び、藩校の造士館の教官となり西郷従道・三島道庸らを教える。
文久二年に島津久光の上京にあたり軍師としての資質を認められ、軍奉行となる。薩英戦争・禁門の変で藩兵を指揮するなど幕末の薩摩藩の軍事指揮においてめざましく活躍する。戊辰戦争では東山道総督府参謀を命じられ、旧幕府や大鳥圭介の軍勢を相手に北関東・会津にてめざましく活躍する。
会津攻めでは板垣退助とともに戦う。

大鳥圭介

2004年12月24日 | 戊辰戦争人物小伝
【1833-1911】
播磨国赤穂郡の医者の家で生まれ、若い頃に大坂適塾で蘭学を学び、江戸に出て江川英敏の教え受け兵学を学ぶ。慶応二年に歩兵差図役から歩兵頭並となり、戊辰戦争では歩兵奉行となる。江戸開城においてはこれに反対し幕府軍を引き連れて脱走し、土方歳三らと合流し
官軍に抵抗して北関東に転戦するが敗走し会津仙台へと北へ逃れる。
榎本武揚の艦隊と合流し蝦夷地にて榎本政権が樹立すると陸軍奉行として官軍に戦うも、明治二年五月箱館にて降服し、獄に投ぜられるも、釈放され明治政府にて出仕する。