戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

毛利敏彦著 幕末維新と佐賀藩

2008年07月29日 | 管理人の勝手な独り言
幕末維新と佐賀藩 日本西洋化の原点のタイトルで中央公論新社から
発売された。
従来の著者の著作物を読まれた方には
目新しいというものではないかもしれないが、
佐賀藩から見た幕末維新ということで、これまでない
著者の著作物からすると統一的かつ
スケールが大きいテーマといえる。

おすすめします。


板垣退助は明治六年の政変では江藤新平と下野している。板垣退助は江藤といっしょに民撰議院設立の建白書を提出している。
板垣退助の親友で戊辰戦争で戦死した牧野群馬も江藤と共に,
東征諸軍及賊徒の情実を命じられている。
少なからず、板垣退助と江藤新平は関係をもっている。

“平成の白虎隊”聖光学院、140年目の仇討ち…甲子園第5日 報知新聞

2007年08月14日 | 管理人の勝手な独り言
◆第89回全国高校野球選手権大会1回戦 聖光学院11―7岩国(12日、甲子園球場) 聖光学院(福島)が県勢最多となる18安打、最多タイの11得点を挙げ、岩国(山口)を圧倒。福島県勢として悲願の“対長州”初白星を挙げ、幕末に白虎隊の悲劇を生んだ「戊辰戦争」のリベンジを果たした。

 平成のサムライは刀ではなく、バットで勇敢に立ち向かった。あの敗戦から139年。時空を超え、リベンジの瞬間が訪れた。夏の甲子園で福島県勢として対山口県勢初勝利。聖光学院ナインは真夏の青空に向かって、大声で校歌を歌い上げた。「山口県勢を倒してくれという、年配の方の声が大きかった」と斎藤智也監督(44)。白虎隊と同い年の若武者たちが、県民の悲願となる“打倒長州”を成し遂げた。

 因縁は江戸末期にさかのぼる。長州中心の新政府軍と旧江戸幕府による戊辰戦争がぼっ発。旧幕府勢力の中心だった会津藩は、10代の武家の男子によって「白虎隊」を編成した。だが、苦戦の末、総勢19人が自害する悲劇を生んだ。今月5日の組み合わせ抽選後、岩国との対戦が決まると、ナインの間では「戦いだな」との声が上がった。「向かっていく気持ちだけは負けたくなかった」会津若松出身の小椋大輝(3年)が話した通り、福島に脈々と受け継がれる「打倒長州」の魂がナインに乗り移った。

 防戦一方だったあの時代と、同じ轍(てつ)は踏まない。5回を除き毎回安打に毎回得点と攻め続けた。県勢最多を更新する18安打、最多タイとなる11得点の猛攻。黒土の“戦場”を駆けめぐった。県大会で打率2割1分1厘と不調だった黒羽剛広は5打数4安打2打点。「これまで支えてくれたみんなに、恩返ししたかった」と言い切る顔つきは、忠義を尽くす武士そのものだった。

 過去の夏の甲子園では、山口県勢に2連敗。横山博英部長(37)は「戊辰戦争から数え、これで1勝3敗。会津の人が喜んでくれたらうれしい」と笑った。「次も命をかけてぶつかりたい」と黒羽。勝ってカブトの緒を締めよ―。ナインはひたむきに勝ち進む。


(2007年8月13日06時01分 スポーツ報知)


小松帯刀137回忌 子孫ら参列「名を全国に」/日置 南日本新聞

2007年08月14日 | 管理人の勝手な独り言
来年放送されるNHK大河ドラマ「篤姫」で、主要人物の1人として描かれる薩摩藩家老、小松帯刀の137回忌法要が17日、日置市日吉町吉利の静浄寺で営まれた。墓の管理などを続ける地元住民らの顕彰会(鳥浜達夫会長)が毎年開いている。今年は帯刀の子孫で日本酒メーカー「大関」(兵庫県西宮市)の橋本康男社長(61)が出席し、「ドラマに合わせ帯刀の名を全国に発信したい」と力を込めた。
 帯刀は喜入領主の肝付兼善の三男として生まれ、吉利の領主だった小松家の養子となった。墓のある園林寺は明治の廃仏棄釈で途絶え、法要のあった静浄寺が小松家の菩提(ぼだい)寺となっている。
 「大関」を経営する長部家は小松家と親類関係にあり、橋本社長は帯刀の玄孫(やしゃご)にあたる。鹿児島市にある銅像の建立などにも協力し、子会社の吹上焼酎(南さつま市)は「小松帯刀」銘柄の焼酎を販売している。
 橋本社長は、鹿児島への墓参は2回目。「地元の人々がこれほど帯刀を大事にしてくれることに感謝したい。大河ドラマで帯刀の名が全国に知られればうれしい。日本酒にも帯刀ブランドをつくり、世界にも発信したい。商才のある人だったそうなので、喜んでくれるだろう」と話した。
 法要には顕彰会メンバーら約30人が出席。「ドラマ放映を一過性のブームに終わらせることなく、帯刀の功績を伝えていこう」などと話し合った。
 小松帯刀は幕末を中心に薩長同盟や大政奉還の立役者として活躍したが、1870(明治3)年に病死したことなどから、「幻の宰相」といわれる。
南日本新聞
(07/18 07:13)

幕末の函館〔箱館〕の地図みつかる

2005年08月12日 | 管理人の勝手な独り言
福山市鞆町の中村家から「奥州箱館之図」が見つかり、
鮮明な幕末箱館の地図が公開される。
戊辰戦争末期には、函館に榎本武揚がここに蝦夷共和国を樹立したことは
有名だが、この地図では箱館は奥州の一部と思われたのか、
本土と密接な位置関係を強調した地図となっている。

青野教授は八月七日午前十時から、文書を所蔵する市鞆の浦歴史民俗資料館で、
「箱館における中村政憲と榎本武揚」と題した講演会を開かれた。

中国新聞・地域ニュース

大鳥圭介より板垣退助を苦しめた沼間慎次郎

2005年07月23日 | 管理人の勝手な独り言
沼間慎次郎が第二次今市の戦いで板垣退助らに敗れて、その配下の加藤麟三郎が捕まる。板垣退助は加藤麟三郎に尋問し、その加藤が「自分は沼間慎次郎のために戦う」
といったことから、板垣退助は敵ながら沼間慎次郎に興味をもったという。

板垣退助は大鳥圭介の死を悼んで寄稿文を送った。その中でも「大鳥はまず道を普請してから来るのでたいして怖くはないが、沼間はどこから襲ってくるのかわからないので、こちらのほうがよほど怖かった」と評したという。

明治二年、沼間が英語をおしえため塾を開いたが、それが政府転覆を図るため同士を募ると疑われて、新政府が彼を捕縛されそうになる。
このことを聞いた谷干城は、板垣退助らと相談の上、沼間を土佐藩に招聘することを決める。沼間はこの申し出に、「自分は徳川のために兵術を修めたのであって、これを敵だった貴藩に伝習するのは情において忍びない。自分の片腕である松浦巳三郎を推薦するので、彼を兵の教育にあたらせてくれ。自分は英語を教えよう」と丁重な返答をする。
そして、明治四年の廃藩置県になるまで、沼間慎次郎は土佐藩邸で英語を教えていたという。

戦場で敵として死力を尽くして戦った相手に、このような友情が生まれることもあるとは驚きである。果たして二十一世紀の戦場ではこのようなドラマがうまれようか。

リンクしましたので

2005年07月19日 | 管理人の勝手な独り言
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谷干城、東奔西走狂騒曲

2005年07月12日 | 管理人の勝手な独り言
迅衝隊の幹部である谷干城は、板垣退助と戦地の方針によりたびたび対立するも、
旧幕府の討伐という点においては、板垣退助は桁違いに強い信念があったようだ。
それも、坂本龍馬とともに凶刃に倒れた中岡慎太郎の遺言を聞いたという
事情もあったろうが、それに比例したのか過激なまでの行動力は板垣退助の比ではない。


谷干城は近藤勇が流山で投降してその正体が露見したさいに、中岡慎太郎の暗殺が新選組の仕業と確信していただけに、近藤勇の拷問すべしと強く主張したが、薩摩藩などがこれに躊躇して反対したことがある。

さて、白河城が奥羽越列藩同盟軍に占領されてしまい、参謀の伊地知正治は今市にいた板垣退助に土佐・彦根藩兵の一部を宇都宮に派遣してくれと要請される。
さらに江戸の大総督府では上野の彰義隊が不穏な動きがあるとして、土佐・彦根藩兵の半数を江戸に引き上げるべしと命令される。

今市にいた土佐藩兵は長い警備や大鳥圭介らの戦いで疲弊しきっており、到底土佐藩にしろ彦根藩も余剰兵力もなく、谷干城はラチがあかないと判断し一旦土佐に上げて、戦力の補充を図ろうとし、途中大坂にて山内容堂と面会し戦況報告を行い、岩倉具視と面会して軍資金の援助を頼み朝廷より五千両を賜り、三百の新編成隊を船で江戸で向かうなど、今市で大鳥圭介の部隊に苦戦している板垣退助ら迅衝隊の"後方支援"に奔走した谷干城である。

板垣退助が今市から二本松に進軍する短期間に、北関東から大坂、京都、土佐、江戸、奥羽と奔走する谷干城は薩長同盟締結の際の駆けずり回った中岡慎太郎を彷彿とさせるものがある。

家老の肖像画、実は孫の写真模写に「まげ」描き足し・福島

2005年07月11日 | 管理人の勝手な独り言
戊辰戦争の会津藩の悲劇としてしられる白虎隊の「白虎隊記念館」
家老の肖像画、実は孫の写真模写に「まげ」描き足し・福島 日本経済新聞より

ということてすが、白虎隊とは少なからず板垣退助ら迅衝隊と関わりがあります。
白虎隊の少年兵が隊長と分かれて、そのまま新政府軍と戦ったのちに敗れるのですが、
そのときの迅衝隊と遭遇して戦闘したと推察されるのです。

迅衝隊が会津若松城へ目指すさいに猪苗代から若松へ出陣するときは新政府軍の先陣をまかされており、そのときに白虎隊は新政府軍と戦っていた可能性があります。
しかし、迅衝隊の側の記録では白虎隊とおぼしき隊と遭遇した記録もなく、会津側も白虎隊と実際に戦闘したと思われる部隊を特定する記録はありません。

この記念館に、訪問されるさいにはその白虎隊と戦った部隊をどこかと
考える視点をもつのも興味あるところです。

NIKKEI NET:社会 ニュース

「五箇条の御誓文」の直筆草稿、オークションに出品 (読売新聞)

2005年07月08日 | 管理人の勝手な独り言
「五箇条の御誓文」の直筆草稿、オークションに出品 (読売新聞) - goo ニュース

戊辰戦争のさなか(1868年3月14日)に発表に発布された五箇条の御誓文の草稿が実物が公開されるのは初めてだそうで、記録からして本物とされているようです。


この日は板垣退助ら迅衝隊・鳥取藩兵は江戸に到着し、四谷新宿の高遠藩内藤氏邸に入つた日です。
その当時板垣退助らはその内容についてては、まったく知らなかったと想像されますが、発布されたときは、江戸城の総攻撃の予定日の前日のこという緊迫したさなかのことであります。


指宿白水館(指宿市)所蔵に戊辰戦争直前の西郷書簡見つかる

2005年06月25日 | 管理人の勝手な独り言
南日本新聞 鹿児島県内ニュース

指宿白水館(指宿市)所蔵の巻物から西郷隆盛、小松帯刀の書簡3通も収めらており、
その中に戊辰戦争直前の慶応三(1867)年九月二十九日と十二月五日付の書簡もあった。
西郷隆盛が大政奉還前後の軍事・政治状況を詳しく報告しており、興味深い。


その書簡が書かれた直後の同十二月二十八日に 西郷隆盛は谷干城に江戸にて薩摩藩邸が焼き討ちにあったことを伝言し、それを土佐藩邸に伝えるように依頼している。その谷干城の伝言が結局土佐藩の出兵のきっかけとなる。

もうひとつの「靖国問題」があるのでは?

2005年05月26日 | 管理人の勝手な独り言


日中間の外交上の問題として世間を騒がしている
靖国問題ですが、管理人としては
勝手な独り言としてもうひとつの靖国問題を取り上げたいです。
「A級戦犯はもう罪人でない」自民代議士会で森岡政務官 (朝日新聞) - goo ニュース

靖国神社には戊辰戦争で戦死した兵士たちも多く祀られています。
戦死した迅衝隊隊士たちも祀られています。一方、新政府軍と戦った旧幕府軍や
奥羽越列藩同盟軍の兵士たちはその対象とはなっていません。

第二次世界大戦と敗れた旧日本軍の首脳や政府首脳はA級戦犯となっても祀られている一方、
戊辰戦争で敗れた兵士たちには賊軍となったとはいえ、その末端の兵士たちにも「罪人」ではないのだが、その資格がないというのは、歴史の皮肉です。

そういう意味で、靖国神社を注目されている中で、もうひとつの「靖国問題」があるのでは?
勝手に思う管理人に独り言です。