戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

沼間慎次郎  (1843~1890)

2005年07月22日 | 戊辰戦争人物小伝
父は幕臣高梨仙太夫の次男で、のちに幕臣沼間平六郎の養子になる。兄には、須藤時一郎、高梨哲四郎がいる。 兄の二人はのちに議員となる。

杉原心斉に漢学を学び、十七歳のときに長崎奉行の局員になった養父沼間平六郎についていき長崎にて二年間英語を学ぶ。また、谷田掘景蔵に測量を学び、横浜でヘボン、バラから英語を学ぶ。 その沼間慎次郎はヘボンの医学に興味を示さず、ことあるごとに西洋式の兵法についての質問をするありさまだったので、ヘボンは放逐しようとするが、ヘボン夫人が彼の才気を惜しんでそれを思いとどめさせたという。
慶応元年、横浜大田の陸軍伝習生募集に応じて伝習生となり、後江戸へ。慶応二年に「英国歩兵操典」の翻訳に携わる。

横浜外国人居留地の警備隊の洋服を調達する為に、小柄な英国軍人の古着を買い、解体して型紙を作り足袋職人に仕立てさせるエピーソドがある。
慶応四年三月七日、沼間慎次郎は幕府に献策を申し出るが、これを聞き入られずついに大鳥に先立って上仕官五名、下士官十三名、そして兄の須藤時一郎を伴い江戸脱走、会津の西郷頼母に招聘され、兵士たちの教練にあたる。

このときに、沼間慎次郎は長州の間者だと言う噂がたち、大鳥圭介らの救援に向かうため兄の須藤時一郎を人質として会津に残すことで、ようやく 同閏四月から日光の大鳥軍に参じて、大川らと共に、伝習隊第二大隊を率いる。

しかし、二回にわたる板垣退助らの今市の攻防戦で敗北し、藤原帯陣中の同六月はじめ、大鳥と議論が合わず、一党を連れて軍を去り、会津へ向かう。七月に庄内藩に招聘され酒田で農兵訓練に当たる。その後 、鶴岡城にて林正太郎と共に官軍に捕らえられ、十二に江戸へ護送される。
そこでかつての敵板垣退助や谷干城からのたっての依頼により、明治二年五月、土佐藩の教師になる。

明治四年横浜で両替商を営み、明治五年に新政府に出仕し、同四月大蔵省租税寮七等出仕、横浜税関詰。同七月司法省七等出仕、欧州へ派遣される。 六年九月帰国する。
明治六年、河野敏鎌らと自由民権運動のため結社・嚶鳴社(法律講習会)を組織する。

同七年小判事に、同八年大阪裁判所詰めになるがすぐに、辞表を出す。同八年七月元老院権大書記官に任じられるが、明治十二にまたも省の方針に反発し、辞職す。

明治十二年年十一月、東京横浜毎日新聞の社長になり、さらに東京府会議員にもなる。
明治十五年から晩年まで東京府議会議長なり、立憲改進党にも参加する。
明治二十三年五月十七日に逝去。 享年四十八。

美正貫一朗

2005年03月15日 | 戊辰戦争人物小伝
建臣ともいう。土佐藩の高知城下南奉公人町の出身である。板垣退助が甲斐で武田信玄の家臣板垣信形の
子孫を宣伝して、甲斐の領民を集めて断金隊を結成させ、美正貫一朗を隊長となり、板垣退助の別働隊となる。
その後北関東や南奥羽を渡り戦うが、慶応四年七月二十七日の本営にて兵を率いて阿武隈川を渡ろうとしているさいに敵の砲弾に当たり戦死する。二十五歳。


上田宗児

2005年02月12日 | 戊辰戦争人物小伝
変名は後藤深蔵正則。
土佐勤王党にも属す。天誅組の変に参戦し、鷲家口からの中山忠光らの逃避行でともに長州に落ち延びる。
禁門の変では、忠勇隊に属して参戦し、第二次長州征伐に遊撃隊先鋒隊長として小瀬川口の戦闘に参戦する。この戦いで負傷した右手が不自由となり以後左手で筆をとったという。右手を負傷するなど他の長州藩士たちは変わらぬ活躍したことを認められ、長州藩は上田宗児に対して士分の身分を与える。
鳥羽伏見の戦いでは、遊撃隊として参戦し、慶応四年一月三日伏見で戦死する。二十七歳。

大石弥太郎

2005年02月02日 | 戊辰戦争人物小伝
【1829~1916】
名は元敬という。結成時からの土佐勤皇員であり、迅衝隊の幹部。
文久元年【1861】藩命により洋学研究のため、江戸の勝海舟の門下となりし洋学・砲術・航海術などを学ぶ。長州の桂小五郎・周布政之助や薩摩藩の樺山三円・水戸藩の岩間金平らと交わり、安政の大獄で譴責中の山内容堂の幽囚を解くため、尽力する。その年に江戸に出てきた武市瑞山と会談し、これに共鳴し土佐勤王党の結成時にその名を連ねる。
 文久二年に京都で坂本龍馬に会い、姫路にて武市瑞山らと会って藩主山内豊範の入京について献策する。同十月には藩命にて西国を視察したさいに、長崎で独断でオランダ銃1000挺の購入する。同三年の八一八の政変で土佐勤王党員たちは失脚し、獄に入れられると、武市瑞山らの赦免運動を行う。慶応四年一月の板垣退助が結成した迅衝隊では、小軍監として従軍し北関東・奥羽へと転戦し軍功をあげる。
 維新後は土木奉行・軍務局幹事・監察などを歴任したが、富永有隣を庇護したため、明治十年年松山の獄に繋がれる。明治新政府の断髪令のときには髷をきりそこねて、大石は終生髷を残していたという。
その晩年は高知で余生を送り、和歌三昧の日々を過ごし、大正五年十月三十日に死す。

小笠原唯八

2005年02月01日 | 戊辰戦争人物小伝
【1829~1868】
名は益光といい、のちに牧之群馬と称する。土佐藩士・板垣退助の親友。
長州藩の周布政之助が山内容堂を侮辱したときに、それを聞いた土佐藩士たちが周布を斬ろうと憤激した事件でも関わる。
山内容堂に抜擢され側物頭加役、さらに大監察兼軍備御用役になるが、辞職して元冶元年七月にす゜に復職する。
慶応年八月の安芸郡志士たちが結集した野根山屯集事件では藩の討伐隊を率いて赴き鎮圧、二十三士を斬罪する。
大阪陣詰となるが、慶応三年に五月帰国されて解職させられる。
板垣退助の登用と軍制改革により、またも復職されて藩兵別撰隊小隊司令官となり、板垣退助とともに土佐藩の軍制の充実に尽力する。
明治元年鳥羽伏見の戦いが起ると藩より大監察・仕置役に任命され深尾佐馬之助を総督とする総勢千六百の部隊とともに松山城の接収に立ち会う。

京に上ると三条実美の抜擢をうけて慶応四年三月には月大総督御用掛となり、牧野郡馬と改名し、征東大総督府軍監とともに江藤新平とともに江戸へ偵察に向かう。
また、板垣退助の部隊とは離れて、上野彰議隊の戦いでは軍監として立ち会う。
板垣退助らとともに会津攻略に加わり、慶応四年八月二十三日、会津若松城攻撃中に銃弾受け、二日後に死亡する。
なお同二十三日には実弟茂連も兄と同じく敵の銃弾を受けて死亡する。

河田佐久馬

2005年01月30日 | 戊辰戦争人物小伝
【1823~1897】
文政十一年、因州藩士の子として生まれる。剣術に優れ、家督を嘉永四年家督を継ぎ伏見留守居、
文久三年には京都留守居も兼務する。因州藩において尊皇攘夷派の中心的な役割を果たす。
後に帰藩して藩論を統一に画策するが、再上京後に藩の重臣暗殺事件を起こし藩獄に投ぜられる。
脱走して長州藩に匿われて、慶応四年に大赦となり東山道総督府参謀を命ぜられる。
上野の安塚の戦い・宇都宮城奪還戦いにて活躍する。
上野彰義隊討伐戦に加わる。戊辰戦争後は京都・福岡・鳥取などで官吏を歴任し、明治十一年に
元老院議官に任ぜられ、明治二十年には子爵となり、明治三十年に死去。

山川大蔵

2005年01月29日 | 戊辰戦争人物小伝
【1845~1898】
会津藩の家老の子として生まれる。文久三年〔1863〕、藩主松平容保が京都守護職に任命されたため、上京するさいに
鉄砲隊二十名を引き連れる。慶応二年〔1865〕に樺太境界画定のため幕府派遣の随員としてロシアに訪れる。
鳥羽伏見の戦の後に、藩主について帰国して戦いに加わる。会津藩の藩兵を引き連れて、藤原口の副総督
として伝習隊の大鳥圭介らとともに板垣退助の迅衝隊と戦う。
会津城が落城されそうになると、若松に戻ると新政府軍と戦うも従軍していた妻も失うことになる。
会津藩の降伏後は、新政府の処分により陸奥斗南にうつれされ、藩権大参事として斗南藩の尽力する。
明治五年、陸軍省に出仕し西南戦争で従軍し功をあげる。
妹捨松は津田梅子らとともに明治最初の女子留学生として渡米し、大山巌夫人となる。

山内容堂

2005年01月15日 | 戊辰戦争人物小伝
(1827~1872)
山内豊資の弟山内豊著の子として生まれ、幼名は輝衛 名は豊信といい、後に容堂と称する。
藩主の座に就いた山内容堂は「新おこぜ組」の吉田東洋を起用し、嘉永六年(1853年)「仕置役(参政職)」に任じ、藩政改革を行う。
安政元年(1854年)六月、吉田東洋は失脚するが、安政四年(1857年)吉田東洋を再び登用し、後藤象二郎、福岡孝悌らを起用する。
山内容堂は松平春嶽、伊達宗城、島津斉彬らとも交流を持ち「幕末の四賢候」と称される。
安政の大獄では山内容堂は、安政六年二月、隠居願いを幕府に提出し、十月には斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下る。
文久二年四月八日(1862年)吉田東洋を暗殺すると、土佐勤王党の武市瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握する。
八一八の政変がおこり、佐幕派が復権し、山内容堂も謹慎を解かれ土佐に帰国し、
土佐勤王党の弾圧し、その党員を捕縛し、武市瑞山も切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられる。
坂本龍馬の案「大政奉還」を本人より聞いた参政・後藤象二郎はこれを容堂に進言し、
山内容堂はこれを十五代将軍徳川慶喜に建白し、慶応三年十月十四日大政奉還が成立する。
同十二月九日小御所会議にて、山内容堂は徳川氏を中心とする列候会議による政府を主張し、
天皇による親政を主張する岩倉具視と激論となるが、岩倉具視ら倒幕派が主導権を握る。
慶応四年(1868年)戊辰戦争では土佐藩兵は参加しないように厳命したが、土佐藩兵は結局新政府軍に加わる。
明治維新後の山内容堂は内国事務総長となるもが明治二年(1869年)辞職し、明治五年、脳溢血に倒れ、死す。

谷干城

2005年01月14日 | 戊辰戦争人物小伝
〔1837~1911〕
天保八年、土佐高岡郡窪川村に生れであり、板垣退助とは同い年である。文久元年(1861年)、江戸から土佐へ帰る途中、勤皇を唱える武市瑞山と会い、帰国後、藩の参政・吉田東洋に攘夷の実行を進言する。
文久二年、藩主の上京の督促と薩長と共に攘夷を行うべきを進言する。
元治元年(1864年)には陣屋詰に左遷される。その後に高知へ召還され、慶応元年(1865年)藩校・致道館の教授となる。
慶応二年に藩命にて長崎へ視察に赴く。
慶応三年、板垣退助とともに京都で西郷隆盛、小松帯刀と会談し、武力倒幕について会合する。
坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺されたさいに、まだ息のある中岡慎太郎のもとに駆けつける。
慶応四年の戊辰戦争では迅衝隊の軍監として参戦し、北関東・会津を転戦する。
明治三年(1870年)、藩少参事になる。翌年の廃藩後、兵部権大丞となり新政府に出仕する。
明治五年(1872年)陸軍少将となり、、西南戦争の時には熊本鎮台司令官となり五十二日間にわたる薩軍の猛攻に堪え、その功績が認められ、谷干城は陸軍中将に昇進する。
その後、陸軍士官学校校長・学習院院長を歴任し、明治十八年(1885年)伊藤内閣の初代農商務相に就任し、後に貴族院議員となる。

岩村精一郎

2005年01月10日 | 戊辰戦争人物小伝
【1845~1906】
宿毛を領地となる土佐藩家老山内氏の陪臣。名は高俊という。
慶応三年長崎へ砲術研究のため訪れたさいに、海援隊の伊呂波丸沈没の交渉していた中島作太郎と交流を持つ。
京都の土佐藩邸に到着して大江卓らとともに中岡慎太郎死後に陸援隊に入隊する。
坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺の報復のため、紀州藩三浦休太郎襲撃に加わる。
三浦休太郎襲撃の翌日岩村精一郎は高野山へ行き「高野山の義挙」に加わる。
慶応四年一月岩倉具定に従い江戸に向かい、四月に軍監となり三千の兵を率いて信濃・越前・奥羽各地を転戦する。
北越にて河井継之助と会談するも決裂し長岡藩と熾烈な戦いをする。
後に佐賀県令、男爵に列せられ貴族院議員。兄、通利〔竹内 綱〕は男爵、商務大臣、次兄、林有造は逓信、農商務大臣を歴任し、宿毛の三兄弟と称せられる。

片岡健吉

2005年01月06日 | 戊辰戦争人物小伝
【1843~1903】
土佐藩士・父片岡俊平が早世し、慶応元年八月祖父範三郎の死後祖父の家督を継ぐ。慶応四年一月に土佐藩で迅衝隊が結成されると左半大隊司令兼大軍監となり、板垣退助らとともに東征軍に加わる。
戦後には戦功により、二百石加増され中老格式となる。明治四年には土佐藩の権大参事に任じられ、のちに欧州・イギリスに外遊する。
明治六年の政変で下野して高知へ戻り、明治七年に板垣退助らとともに立志社を設立し、社長に就任する。片岡健吉には自由民権運動にて身を投じ、のちに衆議院議員に八回当選し、議長に四回も選ばれる。

松平容保

2005年01月05日 | 戊辰戦争人物小伝
(1835~1893)
高須藩松平義建の子で、会津藩主松平容敬の養子となる。文久二年に京都守護職に就任し、京都の治安に任される。元治元年 蛤御門の変で長州勢を撃破し、のちに一会桑政権といわれる幕末の政権の一翼を担う。鳥羽伏見の戦いで敗れたのちに徳川慶喜とともに大坂城を海路より脱出する。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心として官軍に抗戦するが、明治元年十一月六日 会津若松城で降伏する。同日 北追手門から城を出て、薩摩・土佐の兵の護衛で輿に乗って滝沢村・妙国寺に入り謹慎鳥取藩などに幽せられる。許されて日光東照宮宮司となる。

近藤勇

2005年01月04日 | 戊辰戦争人物小伝
(1834~1868)
天保五年、武蔵野国多摩郡上石原村に生まれる。十五歳のときに天然理心流・近藤周助の門に入り、のちに養子となる。天然理心流の四代目を継ぐが、将軍上洛するため、その警護する浪士組募集に門人たちとともに応じ、京へ上る。後に浪士組と離脱して芹沢鴨らとともに壬生で新たに浪士組を結成する。芹沢鴨ら反近藤勇らを粛清し、新選組局長として会津藩の預かりとなり京にて活躍する。池田屋事件で過激な尊皇攘夷派を急襲し一躍その名をとどろかせる。鳥羽伏見の戦いの直前で負傷し、大坂にて治療を受けるが、新撰組が鳥羽伏見の戦いで敗れると江戸に戻り、近藤勇で指揮をとって甲陽鎮撫隊として甲州勝沼で土佐藩などと戦いうが敗れる。下総流山で投降し捕縛され、江戸板橋で刑死する。

世良修蔵

2004年12月27日 | 戊辰戦争人物小伝
【1853-1868】
世良修蔵は周防国大島郡椋野村の生まれで、月性の門下生となり文久三年に秋良敦之助の紹介により毛利家の寄組浦家の陪臣木谷家の養子となる。赤禰武人に誘われて奇兵隊に入隊しのちに書記となる。赤禰武人が処刑されると連座して謹慎させるも、主人浦靱負が世良家を継がせる。
世良修蔵は南奇兵隊の幹部となり、第二次長州征伐では周防大島口に侵入してきた幕府兵を撃退させる。鳥羽伏見戦いに加わり戦功をあげた後、奥羽鎮撫総督の参謀として仙台へ赴く。世良修蔵の態度に不満をもった仙台藩士たちによって福島にて斬殺される。
彼の死が奥羽越列藩同盟が結成される原因のひとつになる。

土方歳三

2004年12月26日 | 戊辰戦争人物小伝
【1836-1869】
武蔵国多摩郡石田村の出身で、十一歳のとき天然理心流近藤周助の弟子となる。江戸試衛館の師範代となり、文久三年に将軍上洛のさいに護衛する
浪士組に近藤勇・沖田総司らとともに加わる。上洛後は清川八郎に反発して浪士組と離脱して、壬生にて芹沢鴨を局長とする浪士組を結成に加わる。
芹沢らを粛正後局長近藤勇らを助けて、元治元年の池田屋事件などで一躍新選組の名をとどろかせる。慶応四年の鳥羽伏見の戦いに敗北後は海路にて江戸に向かい、近藤勇ら新選組が甲陽鎮撫隊と名を変え甲斐に進む。そこで板垣退助らの部隊の別働隊に敗れ、近藤勇が処刑されたあと大鳥圭介らと合流して、北関東、会津、蝦夷と最後まで新政府軍と戦う。明治二年五月五稜郭の近くで戦死する。