戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

板垣退助と小笠原唯八

2007年07月30日 | 板垣退助こぼれ話
京都の新政府軍の命令により、佐賀藩の奇才江藤新平と板垣退助の親友小笠原唯八が江戸に派遣される。当初江藤新兵と小笠原唯八が江戸に来た理由の一つには板垣退助の甲斐に巡る攻略における一件が端緒となったといえる。彼らが派遣されたのは、江戸を目指した東海道総督府軍と東山道総督府軍が確執ありとの情報を得て上での実情の調査するためであった。甲斐は東海道総督府軍の担当区域だったところをこれを東山道総督府軍の板垣退助が勝手に収攬したとして、かつて東海道総督府軍だった黒岩治部之助が訴えた。こうして京の新政府は二人を調査派遣させたのである。二人を派遣させた事は真実の探求するという点においては公平な人事だったとは思えないが、両総督府軍の実情をさぐるという当初の目的と合わせて、せっかく江戸に入った両総督府が江戸市中の取締が困難であり、旧幕府の勝海舟や大久保一翁らに任せているの実情と旧幕臣たちが不穏な動きをしているのに制止できないことが京の新政府の首脳部に報告されたようである。役割を果たした江藤新平だけが先に京に戻り、報告する予定だったが小笠原唯八が江藤と共に京に帰ることになる。この辺りの事情はあまりよくわからないが、二人の報告は京の新政府の首脳たちの方針を変えさせるものがあったようである。
 江戸を無血開城に成功させたのにもかかわらず、二人が京に戻ってからすぐに新政府は関東大監察に三条実美、軍防事務局判事に大村益次郎を任命、江藤新平と小笠原唯八も諸道軍監に任命される。閏四月十一日に京都を発した小笠原唯八ら一行は二十三日再び江戸に舞い戻る。
 その小笠原唯八は板垣退助と親交があることは知られているが、戦前の高知新聞にその頃にあったと思われる小笠原唯八が市ヶ谷にいる板垣退助のもとに訪れてひさびさの語りあうエピソードが掲載されている。
 小笠原唯八は、板垣退助の陣営に訪れた際に、彼を見つけると、「おい貴様の軍令は厳しいとの噂じゃが果たしてまっことか」板垣退助はすぐに応えた。「左様、まずためしに邸内を廻って見い」と親友として子供ぽく応えてみせた。夜になると小笠原唯八は板垣退助の部屋に参ると「危うい危うい一口でも間違うとこれがばっさり落ちる所じゃった」と首筋に片手で叩きながら笑った。ついで小笠原唯八は「おい酒でもないか」と尋ねるが、板垣退助は「馬鹿なこと云え、陣中だぞ」と小笠原唯八と叱りつけた。そうもいいつつ小笠原唯八は苦笑いして「やれんやれん」と言って、とうとう板垣退助と共に枕を並べて寝てしまった。その翌日には小笠原唯八は迅衝隊などの調練を見学して、夕方になると板垣退助にこういった。「貴様の陣屋に居るとまるで岩屋の中に棲んじょるようで窮屈でおれん、片時も早う品川の宿に帰らんと堪らん堪らん」と冗談を言って帰る始末。
 江戸市中にはまだまだ旧幕府が新政府軍を囲むかのようにいる最中とも思えない、穏やかな春うららの土佐で友人宅に押しかけたかのようなエピソードである。板垣退助が戊辰戦争においてこのような開衿してうち解け合うなエピソードは見あたらない。小笠原唯八がそれだけに値する親友だったのか、それとも私が他のエピソードを見落としているのどちらかであろう。小生が腑に落ちないことに、小笠原唯八が「危うい危うい一口でも間違うとこれがばっさり落ちる所じゃった」と語るところである。味方のはずの土佐藩の陣中でなぜ小笠原唯八にとって『危うい』のだろうか。彼は土佐勤王党を弾圧をのさいに重要な役割を行っていた。迅衝隊にはいわゆる土佐勤王党の残党が多くいたとも言われている。
 かつて土佐勤王党を弾圧した小笠原唯八なら、迅衝隊の中には快く思わない人もいるだろう。そのことを差して、『危うい』と言ったかもしれない。ちなみに迅衝隊の第三小隊の隊長は小笠原唯八の弟小笠原謙吉である。