戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

○板垣退助の初手柄、高松城の接収

2007年08月10日 | 板垣退助こぼれ話
慶応四年(1868)正月十三日高知を出た板垣退助は迅衝隊を引き連れて讃岐高松城を目指した。正確な表現で言うのなら、京を目指す途上にて高松を近くを通るというほうが正しい表現であろう。同十六日迅衝隊は川ノ江に滞陣してとき、京都より帰国の途次の土佐藩家老深尾鼎重先の家臣たちと会う。このときに迅衝隊は松山藩と高松藩の追討の命令が土佐藩に下ったことを知った。
 このために当初の目的である京への出張命令から高松城を攻略に変更になり、迅衝隊の幹部たちは協議を行われたようで、迅衝隊は進軍を一時中断してその次の日も川ノ江で滞陣した。高松城を接収するには、最悪の場合武力による交戦もありえるため、板垣退助らは迅衝隊六百人だけでは兵力が足りないのか、また兵力の質的な問題があったのか、兵力の増援を頼むべくまたも谷干城が高知へ再び戻ることになった。
 出発した直後の迅衝隊はあわてて出発したので、高松城の接収には不安があったのだろう。
  翌十七日には、迅衝隊の右半大隊長の片岡健吉を丸亀藩に差し向けて、高松藩征討の協力を要請し、迅衝隊はまた川ノ江で滞陣し続けた。迅衝隊が川ノ江で数日待機したのも、丸亀藩を通じて、高松藩との接収もしくは征討を行うために工作をしていたためと思われる。さらに次の日の十八日には迅衝隊の総督たる家老の深尾丹波を説得できた板垣退助は自ら高松藩の追討の軍令を発し、その夜に迅衝隊出発させた。翌十九日の未明鳥坂において大監察本山只一郎が、高松藩と松山藩追討の勅書を奉じて迅衝隊の陣営に届けた。姫駅まで来ると今度は樋口真吉が京より護持した錦旗を板垣らに届けられる。錦の御旗が迅衝隊の陣頭翻り全軍の士気も大い上がったところで、午後二時に丸亀に入った。
 京極家の丸亀藩の国境に来ると、待ち受けていた藩士たちが丸亀城下に案内した。片岡健吉の交渉が上手くいったのか、丸亀藩は積極的に迅衝隊に協力する意志を示してきた。迅衝隊の本陣を中村屋見附右衛門方とし、その他の兵は市中の分宿させた。 一月二十日にいよいよ、高松藩の領内に入り高松城へと進む。迅衝隊は丸亀藩の協力を得て、隊を二分し、一方は丸亀藩兵とともに陸路から、もう一方を海路から多度津藩兵の案内で高松に進軍させた。 陸路より進んだ一隊、丸亀藩兵とともに午後二時頃高松城下の岩清尾神社に布陣する。一方、海路より進んだ一隊は多度津藩の先導により調達した小舟四十艘にて高松に進み、午後四時頃には土佐藩・丸亀藩とともに城下真下寺に集結した。
夕方に、一大隊と大砲二門をもって城に迫り、常磐橋外に空砲二発打ち、小銃を空に向けて弾を残らず発砲した。 夕刻には高松城下にある松林寺に本陣を進めたときに、高松藩主松平頼聡が前日の夜までに浄願寺に退去謹慎し、城頭には降参と書かれた降服の白旗が立てられ、城門はひらかれ、藩士たちはみな脱刀して迅衝隊を迎えた。 迅衝隊は緋の菊の錦旗を高松城の表書院の上段の床の上に安置し、深尾丹波は上段に着座され、高松城内は土佐藩の封印を張られる。 あっけなく高松城の接収が完了してしまった感があるが、その高松藩では板垣退助らが来るまで非常に厳しい議論が交わされたすえ、藩の家老二名が切腹、残った家老大久保飛弾、白井石見は藩主頼聡の恭順嘆願書を提出するなど、一方的までに降参し恭順の意志を示したからである。徳川親藩の家柄である高松藩がここまで屈っしてまで恭順するには、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が一方に敗れてしまい、徳川慶喜が遁走同然に江戸に帰ってしまったことを高松藩でも知られたためとも考えられる。迅衝隊の主力が京にあっと推定すれば、戦火を交えることなく高松城を無血開城させたことは、板垣退助にとって幸運なことと言えよう。後に板垣退助は奥羽越列藩同盟の中枢である会津若松城に対しては、激しい砲火と交えた末に開城させたことを考えると対照的である。
 板垣退助はあくまで上京のうえ倒幕勢力との糾合の上、本体である旧幕府を倒すことが肝要であると痛感したのか、一部に伊予松山城の攻撃に移ることを主張する意見もあったが、板垣退助は「目標は東」と云って京を目指そうとした。こうして、高松城接収の翌日には総督深尾丹波を高松城に残して、丸亀に戻る。

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2 コメント

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先祖のこと調べ (白井)
2010-05-23 10:10:44
たまたま、立ち寄りました。
「香川県の百年」を読んだことからたどり着きました。
白井石見の子孫としては、石見の切腹があったら私は存在しなかった事実をより実感です。
無血開放は、正しかったと思いたい。
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無血開城 (高松住東讃の白井)
2012-02-19 09:13:59
私もたまたま立ち寄りました。
私は、子孫かどうかはっきり分かりませんが、家臣が無血開城へ動いたのは、戦争の混乱が民へ及ばない様に考えたこともあったのではないかと思います。結果かもしれませんが。
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