戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

毛利敏彦著 幕末維新と佐賀藩

2008年07月29日 | 管理人の勝手な独り言
幕末維新と佐賀藩 日本西洋化の原点のタイトルで中央公論新社から
発売された。
従来の著者の著作物を読まれた方には
目新しいというものではないかもしれないが、
佐賀藩から見た幕末維新ということで、これまでない
著者の著作物からすると統一的かつ
スケールが大きいテーマといえる。

おすすめします。


板垣退助は明治六年の政変では江藤新平と下野している。板垣退助は江藤といっしょに民撰議院設立の建白書を提出している。
板垣退助の親友で戊辰戦争で戦死した牧野群馬も江藤と共に,
東征諸軍及賊徒の情実を命じられている。
少なからず、板垣退助と江藤新平は関係をもっている。

「江藤くんの言うことはもっともだ」

2007年12月06日 | 板垣退助こぼれ話
明治新政府で重要に役職についた板垣退助は参議会議などで
重要な政策を話し合われたときに、頭の切れる江藤新平の主張や思想がなかなか
理解できずにいた。板垣はその内容について聞くことが出来ず
ただ黙って聞くばかりであった。
しかし、木戸孝允は「江藤君のいうことは、最もだすぐに実行すべき」と大きくうなずく。
それを見た板垣退助は会議を終えると、木戸を捕まえて「木戸さん、いつも江藤君のいうことをもっともだという。あれはどういう意味が教えてほしい」とたずねた。
木戸は苦笑いして板垣退助に応えた「いや、実は江藤くんのいうことは僕もよく解らないのだよ。けど、彼の言うことなら間違いないだろうから、そうだろうと言うたまでのことよ」
とあっけらんに応えたという。
板垣退助の出来たばかりのころの新政府の位置づけがよくわかるエピソードだと思う。

松平太郎の訪問

2007年10月02日 | 板垣退助こぼれ話
板垣退助が日光に入る直前に、迅衝隊に意外な人物の訪問をうける。洋装の騎馬の一行を引き連れた松平太郎である。松平太郎は江戸開城直前においては、陸軍奉行並に就任し、のちに榎本武揚が箱館にて蝦夷共和国を設立するさいに、その幹部として名を連ねることになる。徳次郎村にいた迅衝隊の半大隊長祖父江可成の部隊に、旧幕府軍の陸軍奉行松平太郎が訪れて、旧幕府軍は今市を撤収しているため、日光攻撃を差し控えるよう要請した。祖父江可成らは彼の言動を不審に思い、彼らを鳥取藩兵に引き渡して、宇都宮に護送させる。
 松平太郎は迅衝隊に来て、そのような要請を行ったのか。その前日に松平太郎は大鳥圭介らと日光で面談していた。松平太郎はその際に十人ほどの護衛とともに徳川家の書簡と軍資金と医師を届けたという。北関東においては脱走した旧幕府軍と新政府軍が各地で戦闘している中を、わずか十人ばかりの護衛で無事に日光にたどりつけたのだろうか。
 実は日光に来る途中に板垣退助が引き連れた安塚救援に急ぐ迅衝隊に咎められている。迅衝隊は洋装に三千両と大金を抱えた騎馬の一行は目立つため彼らを厳しく吟味しようとしたが、彼は大胆にも迅衝隊にこういって煙に巻こうとした。「徳川の臣松平太郎なり、慶喜、恭順命を待つといえども、脱走総野の間に横行し、甚だ恭順の旨意に戻る、故に東海道御総督に願い、鎮撫の為め罷り通る」これに迅衝隊の西尾遠江介はその言は最もなれどその証拠をと求めた。すると、松平太郎は大総督府の通行鑑札の印形を差し出した。西尾は不審に思うも、大総督府の通行鑑札があるためにそれ以上嫌疑を追求できず三千両を持たせたまま松平太郎の通行を認めたという。
 松平太郎が大総督府の通行鑑札を手に入れた経緯は不明だが、徳川参政の書簡と三千両の軍資金などを所持していたなどの状況証拠を考えると、旧幕府の首脳部クラスの意志によるものと考えるのが妥当であろう。日光に着いた松平太郎は自制を求める徳川参政の書簡を渡して、軍資金も大鳥圭介の部隊に配られた。そして大鳥圭介と面談した松平太郎は板垣退助らの日光進軍を差し控えるように交渉すると約束した。
 迅衝隊は松平太郎の要望を一蹴したが、日光進軍を予定通り進めた。松平太郎の本来の来訪の目的は達せられなかったが大鳥圭介と板垣退助の対決にすくなからず影響を与えた。

○板垣退勤と相楽総三の孫とのすれ違い

2007年08月31日 | 板垣退助こぼれ話
相楽総三の孫木村亀太郎が板垣退助と会いたいと望んでいた。彼は何度無く懇願してようやく板垣退助と会うことができた。
「君が総三さんの孫さんか」と亀大匹こ尋尽て、「そうです私は相楽総三の孫で木村亀太郎といいます。ご存じでしょうが相楽は本姓を小島と申します。孫の私は小島ではなく、木村を名乗っております。それには事情があります』
 耳の遠い板垣退助は補聴器を当てて亀太郎の話に耳を傾けた。「相楽が信州で殺されたとき一人の男の子がありました。四歳になっておりました。相楽の妻一私の祖母の名を照ると申します。祖母は、と、申しましてもまだ若かったと聞いています。祖父相楽が殺されたと聞いて一子河次郎を残して自害して死にました」亀太郎は自分の生い立ちを板垣退助は「そんな事が当時あったのか、ふうむ、俺は今始めて聞いた、そうか、奥さんが自害したか、ふうむ」といって板垣退助はるか昔の思い出を思い浮かべようとした。
そして亀太郎は板垣退助と会いに来た核心にあたる祖父相楽総三がどういう事情で処刑されたのか、偽勤王家か強盗の張本人だつたのか知りたいと言ったときに、板垣退助まさに言葉を選ぶかのように、ようやく応じた。                     「そうか-そのころの話をしろといっても、古いことで忘れ勝だ、しかし、俺は総三さんとは可成り親しくしていた。わしが江戸で藩の一土佐の兵隊の長をしていたころだった、幕府のものに追いかけられた、総三さんの屋敷に隠匿ってもらったたことがあった。そうだ赤坂の大きな屋敷だった。それから又、総三さんが危ないとき、今度はわしが総三さんを土州屋敷へ連れ込み隠匿ったことがあった。信州で新られたときも、わしが居れば、あんな事をさせはしなかったのだ。あの時わしは甲府の方へ新撰組を討ちに行った。三月一日だから二日前だ。新撰組の方は五六日で埓があいたので諏訪へかえつてみると、総三さんが殺られた後だ、非常に残念におもつた。処刑にあつた原因か-その真相はどうも自分の立場として云うのは悪い、のみならず、それを発表したのでは、現在の地名の人たち迷惑をかける結果に
なるし-」
 板垣退助はそれ以上相楽総三について語ろうとはしなかった。代わりに板垣退助は大山弥助こと大山巌への紹介状を書いてくれた。相楽総三と親しく薩摩の人から真相を発表をさせれば問題ないはずと言われたが、結局大山巌は木村亀太郎と会うことはなかった。
 なにも晩年の板垣退助を書くことがこの稿の目的ではないが、もう政界に引退して旧幕府や官軍とかの勢力を戦う時代から連<のすぎた大正であるはずなのに、板垣退助が相楽総三のことを語ろうとしないことのもどかしさと違和感を感じる。

“平成の白虎隊”聖光学院、140年目の仇討ち…甲子園第5日 報知新聞

2007年08月14日 | 管理人の勝手な独り言
◆第89回全国高校野球選手権大会1回戦 聖光学院11―7岩国(12日、甲子園球場) 聖光学院(福島)が県勢最多となる18安打、最多タイの11得点を挙げ、岩国(山口)を圧倒。福島県勢として悲願の“対長州”初白星を挙げ、幕末に白虎隊の悲劇を生んだ「戊辰戦争」のリベンジを果たした。

 平成のサムライは刀ではなく、バットで勇敢に立ち向かった。あの敗戦から139年。時空を超え、リベンジの瞬間が訪れた。夏の甲子園で福島県勢として対山口県勢初勝利。聖光学院ナインは真夏の青空に向かって、大声で校歌を歌い上げた。「山口県勢を倒してくれという、年配の方の声が大きかった」と斎藤智也監督(44)。白虎隊と同い年の若武者たちが、県民の悲願となる“打倒長州”を成し遂げた。

 因縁は江戸末期にさかのぼる。長州中心の新政府軍と旧江戸幕府による戊辰戦争がぼっ発。旧幕府勢力の中心だった会津藩は、10代の武家の男子によって「白虎隊」を編成した。だが、苦戦の末、総勢19人が自害する悲劇を生んだ。今月5日の組み合わせ抽選後、岩国との対戦が決まると、ナインの間では「戦いだな」との声が上がった。「向かっていく気持ちだけは負けたくなかった」会津若松出身の小椋大輝(3年)が話した通り、福島に脈々と受け継がれる「打倒長州」の魂がナインに乗り移った。

 防戦一方だったあの時代と、同じ轍(てつ)は踏まない。5回を除き毎回安打に毎回得点と攻め続けた。県勢最多を更新する18安打、最多タイとなる11得点の猛攻。黒土の“戦場”を駆けめぐった。県大会で打率2割1分1厘と不調だった黒羽剛広は5打数4安打2打点。「これまで支えてくれたみんなに、恩返ししたかった」と言い切る顔つきは、忠義を尽くす武士そのものだった。

 過去の夏の甲子園では、山口県勢に2連敗。横山博英部長(37)は「戊辰戦争から数え、これで1勝3敗。会津の人が喜んでくれたらうれしい」と笑った。「次も命をかけてぶつかりたい」と黒羽。勝ってカブトの緒を締めよ―。ナインはひたむきに勝ち進む。


(2007年8月13日06時01分 スポーツ報知)


小松帯刀137回忌 子孫ら参列「名を全国に」/日置 南日本新聞

2007年08月14日 | 管理人の勝手な独り言
来年放送されるNHK大河ドラマ「篤姫」で、主要人物の1人として描かれる薩摩藩家老、小松帯刀の137回忌法要が17日、日置市日吉町吉利の静浄寺で営まれた。墓の管理などを続ける地元住民らの顕彰会(鳥浜達夫会長)が毎年開いている。今年は帯刀の子孫で日本酒メーカー「大関」(兵庫県西宮市)の橋本康男社長(61)が出席し、「ドラマに合わせ帯刀の名を全国に発信したい」と力を込めた。
 帯刀は喜入領主の肝付兼善の三男として生まれ、吉利の領主だった小松家の養子となった。墓のある園林寺は明治の廃仏棄釈で途絶え、法要のあった静浄寺が小松家の菩提(ぼだい)寺となっている。
 「大関」を経営する長部家は小松家と親類関係にあり、橋本社長は帯刀の玄孫(やしゃご)にあたる。鹿児島市にある銅像の建立などにも協力し、子会社の吹上焼酎(南さつま市)は「小松帯刀」銘柄の焼酎を販売している。
 橋本社長は、鹿児島への墓参は2回目。「地元の人々がこれほど帯刀を大事にしてくれることに感謝したい。大河ドラマで帯刀の名が全国に知られればうれしい。日本酒にも帯刀ブランドをつくり、世界にも発信したい。商才のある人だったそうなので、喜んでくれるだろう」と話した。
 法要には顕彰会メンバーら約30人が出席。「ドラマ放映を一過性のブームに終わらせることなく、帯刀の功績を伝えていこう」などと話し合った。
 小松帯刀は幕末を中心に薩長同盟や大政奉還の立役者として活躍したが、1870(明治3)年に病死したことなどから、「幻の宰相」といわれる。
南日本新聞
(07/18 07:13)

○板垣退助の初手柄、高松城の接収

2007年08月10日 | 板垣退助こぼれ話
慶応四年(1868)正月十三日高知を出た板垣退助は迅衝隊を引き連れて讃岐高松城を目指した。正確な表現で言うのなら、京を目指す途上にて高松を近くを通るというほうが正しい表現であろう。同十六日迅衝隊は川ノ江に滞陣してとき、京都より帰国の途次の土佐藩家老深尾鼎重先の家臣たちと会う。このときに迅衝隊は松山藩と高松藩の追討の命令が土佐藩に下ったことを知った。
 このために当初の目的である京への出張命令から高松城を攻略に変更になり、迅衝隊の幹部たちは協議を行われたようで、迅衝隊は進軍を一時中断してその次の日も川ノ江で滞陣した。高松城を接収するには、最悪の場合武力による交戦もありえるため、板垣退助らは迅衝隊六百人だけでは兵力が足りないのか、また兵力の質的な問題があったのか、兵力の増援を頼むべくまたも谷干城が高知へ再び戻ることになった。
 出発した直後の迅衝隊はあわてて出発したので、高松城の接収には不安があったのだろう。
  翌十七日には、迅衝隊の右半大隊長の片岡健吉を丸亀藩に差し向けて、高松藩征討の協力を要請し、迅衝隊はまた川ノ江で滞陣し続けた。迅衝隊が川ノ江で数日待機したのも、丸亀藩を通じて、高松藩との接収もしくは征討を行うために工作をしていたためと思われる。さらに次の日の十八日には迅衝隊の総督たる家老の深尾丹波を説得できた板垣退助は自ら高松藩の追討の軍令を発し、その夜に迅衝隊出発させた。翌十九日の未明鳥坂において大監察本山只一郎が、高松藩と松山藩追討の勅書を奉じて迅衝隊の陣営に届けた。姫駅まで来ると今度は樋口真吉が京より護持した錦旗を板垣らに届けられる。錦の御旗が迅衝隊の陣頭翻り全軍の士気も大い上がったところで、午後二時に丸亀に入った。
 京極家の丸亀藩の国境に来ると、待ち受けていた藩士たちが丸亀城下に案内した。片岡健吉の交渉が上手くいったのか、丸亀藩は積極的に迅衝隊に協力する意志を示してきた。迅衝隊の本陣を中村屋見附右衛門方とし、その他の兵は市中の分宿させた。 一月二十日にいよいよ、高松藩の領内に入り高松城へと進む。迅衝隊は丸亀藩の協力を得て、隊を二分し、一方は丸亀藩兵とともに陸路から、もう一方を海路から多度津藩兵の案内で高松に進軍させた。 陸路より進んだ一隊、丸亀藩兵とともに午後二時頃高松城下の岩清尾神社に布陣する。一方、海路より進んだ一隊は多度津藩の先導により調達した小舟四十艘にて高松に進み、午後四時頃には土佐藩・丸亀藩とともに城下真下寺に集結した。
夕方に、一大隊と大砲二門をもって城に迫り、常磐橋外に空砲二発打ち、小銃を空に向けて弾を残らず発砲した。 夕刻には高松城下にある松林寺に本陣を進めたときに、高松藩主松平頼聡が前日の夜までに浄願寺に退去謹慎し、城頭には降参と書かれた降服の白旗が立てられ、城門はひらかれ、藩士たちはみな脱刀して迅衝隊を迎えた。 迅衝隊は緋の菊の錦旗を高松城の表書院の上段の床の上に安置し、深尾丹波は上段に着座され、高松城内は土佐藩の封印を張られる。 あっけなく高松城の接収が完了してしまった感があるが、その高松藩では板垣退助らが来るまで非常に厳しい議論が交わされたすえ、藩の家老二名が切腹、残った家老大久保飛弾、白井石見は藩主頼聡の恭順嘆願書を提出するなど、一方的までに降参し恭順の意志を示したからである。徳川親藩の家柄である高松藩がここまで屈っしてまで恭順するには、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が一方に敗れてしまい、徳川慶喜が遁走同然に江戸に帰ってしまったことを高松藩でも知られたためとも考えられる。迅衝隊の主力が京にあっと推定すれば、戦火を交えることなく高松城を無血開城させたことは、板垣退助にとって幸運なことと言えよう。後に板垣退助は奥羽越列藩同盟の中枢である会津若松城に対しては、激しい砲火と交えた末に開城させたことを考えると対照的である。
 板垣退助はあくまで上京のうえ倒幕勢力との糾合の上、本体である旧幕府を倒すことが肝要であると痛感したのか、一部に伊予松山城の攻撃に移ることを主張する意見もあったが、板垣退助は「目標は東」と云って京を目指そうとした。こうして、高松城接収の翌日には総督深尾丹波を高松城に残して、丸亀に戻る。

 ○退助の江戸到着直後

2007年08月09日 | 板垣退助日誌
 江戸到着直後の板垣退助は東山道軍参謀として立場からか軍議に出席したり、新政府軍との要人の会談することが多かったようだ。
板垣退助は東海道総督府参謀の海江田信次と林久十朗に面会して船川本所の舟改めをするように求める。その理由が江戸近辺にて、
東海道総督府の軍の取締が緩いために旧幕府勢が銃を持ち出して、深川へ通して会津に送ろうとする動きがあるというものである。
それに関して相手にされなかったのかお茶を濁されたのか、実現していない。さらに高輪の薩摩藩邸に訪れて西郷隆盛と面会すると、
東海道総督府の軍は気が弛みを忠告する。また東海道総督府の大原重徳には、深川・本所の津口の警戒をするように談じるまでにいたる。
 板垣退助はなぜここまで無血開城が決まったのに、一人旧幕府を敵視するような強硬的な意見にこだわるのか。
実質的な土佐藩の君主の立場にあったのは前藩主山内容堂は大政奉還や鳥羽伏見の戦いの直後まで、
薩長側に対抗して政治的には旧幕府寄りと思われる活動し続けたため、新政府軍の一部にも懐疑的に見ていたものがいたかもしれない。
その山内容堂が方針を変換して鉾を治めたのは、徳川慶喜が官位剥奪が決定した慶応四年(1868)正月七日のことであることからしても、
山内容堂の旧幕府よりの動きが土佐藩全体の立場を不利にしていたと考えられる。板垣退助が山内容堂の立場慮って、
あれほど山内容堂が徳川救械を妨害した薩長側が無血開城を一方的に決めたことに、反発してあからさまに旧幕府に対して強硬的な意見を述べているかもしれない。

板垣退助と小笠原唯八

2007年07月30日 | 板垣退助こぼれ話
京都の新政府軍の命令により、佐賀藩の奇才江藤新平と板垣退助の親友小笠原唯八が江戸に派遣される。当初江藤新兵と小笠原唯八が江戸に来た理由の一つには板垣退助の甲斐に巡る攻略における一件が端緒となったといえる。彼らが派遣されたのは、江戸を目指した東海道総督府軍と東山道総督府軍が確執ありとの情報を得て上での実情の調査するためであった。甲斐は東海道総督府軍の担当区域だったところをこれを東山道総督府軍の板垣退助が勝手に収攬したとして、かつて東海道総督府軍だった黒岩治部之助が訴えた。こうして京の新政府は二人を調査派遣させたのである。二人を派遣させた事は真実の探求するという点においては公平な人事だったとは思えないが、両総督府軍の実情をさぐるという当初の目的と合わせて、せっかく江戸に入った両総督府が江戸市中の取締が困難であり、旧幕府の勝海舟や大久保一翁らに任せているの実情と旧幕臣たちが不穏な動きをしているのに制止できないことが京の新政府の首脳部に報告されたようである。役割を果たした江藤新平だけが先に京に戻り、報告する予定だったが小笠原唯八が江藤と共に京に帰ることになる。この辺りの事情はあまりよくわからないが、二人の報告は京の新政府の首脳たちの方針を変えさせるものがあったようである。
 江戸を無血開城に成功させたのにもかかわらず、二人が京に戻ってからすぐに新政府は関東大監察に三条実美、軍防事務局判事に大村益次郎を任命、江藤新平と小笠原唯八も諸道軍監に任命される。閏四月十一日に京都を発した小笠原唯八ら一行は二十三日再び江戸に舞い戻る。
 その小笠原唯八は板垣退助と親交があることは知られているが、戦前の高知新聞にその頃にあったと思われる小笠原唯八が市ヶ谷にいる板垣退助のもとに訪れてひさびさの語りあうエピソードが掲載されている。
 小笠原唯八は、板垣退助の陣営に訪れた際に、彼を見つけると、「おい貴様の軍令は厳しいとの噂じゃが果たしてまっことか」板垣退助はすぐに応えた。「左様、まずためしに邸内を廻って見い」と親友として子供ぽく応えてみせた。夜になると小笠原唯八は板垣退助の部屋に参ると「危うい危うい一口でも間違うとこれがばっさり落ちる所じゃった」と首筋に片手で叩きながら笑った。ついで小笠原唯八は「おい酒でもないか」と尋ねるが、板垣退助は「馬鹿なこと云え、陣中だぞ」と小笠原唯八と叱りつけた。そうもいいつつ小笠原唯八は苦笑いして「やれんやれん」と言って、とうとう板垣退助と共に枕を並べて寝てしまった。その翌日には小笠原唯八は迅衝隊などの調練を見学して、夕方になると板垣退助にこういった。「貴様の陣屋に居るとまるで岩屋の中に棲んじょるようで窮屈でおれん、片時も早う品川の宿に帰らんと堪らん堪らん」と冗談を言って帰る始末。
 江戸市中にはまだまだ旧幕府が新政府軍を囲むかのようにいる最中とも思えない、穏やかな春うららの土佐で友人宅に押しかけたかのようなエピソードである。板垣退助が戊辰戦争においてこのような開衿してうち解け合うなエピソードは見あたらない。小笠原唯八がそれだけに値する親友だったのか、それとも私が他のエピソードを見落としているのどちらかであろう。小生が腑に落ちないことに、小笠原唯八が「危うい危うい一口でも間違うとこれがばっさり落ちる所じゃった」と語るところである。味方のはずの土佐藩の陣中でなぜ小笠原唯八にとって『危うい』のだろうか。彼は土佐勤王党を弾圧をのさいに重要な役割を行っていた。迅衝隊にはいわゆる土佐勤王党の残党が多くいたとも言われている。
 かつて土佐勤王党を弾圧した小笠原唯八なら、迅衝隊の中には快く思わない人もいるだろう。そのことを差して、『危うい』と言ったかもしれない。ちなみに迅衝隊の第三小隊の隊長は小笠原唯八の弟小笠原謙吉である。


ひさびさの板垣退助です

2007年07月06日 | 板垣退助日誌
ひさびさに始動します。
充電していた分をここで発揮しますから

慶応四年九月十九日 板垣退助日誌

2005年09月19日 | 板垣退助日誌
会津藩は米沢藩の斉藤主計に頼って土佐藩の陣営に降伏の意志を伝える。


長州藩と代わり飯寺村を守備する。

慶応四年九月十八日 板垣退助日誌

2005年09月19日 | 板垣退助日誌
土佐藩の迅衝隊七・八番隊は長州藩兵と大村藩兵等とともに城外にいた敵を追撃させ、飯寺村まで至る。

慶応四年九月十七日  板垣退助日誌

2005年09月17日 | 板垣退助日誌
この日、土佐藩兵は米沢藩兵を督促させ、薩摩藩兵とともに城の南にて会津藩兵を襲う。これにより会津若松城は全方位による包囲網が完成する。

慶応四年九月十六日  板垣退助日誌

2005年09月17日 | 板垣退助日誌
米沢に留まっていた土佐藩の部隊がこの日若松城を包囲する土佐藩の本隊と合流する。

慶応四年九月十五日  板垣退助日誌

2005年09月17日 | 板垣退助日誌
福島藩主・板倉勝尚は板垣退助に正式に降伏を申し入れる。

この日、前日同様若松城へ激しい砲撃を行う。