戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

天然理心流を学んだ「断金隊隊士」 板垣退助こぼれ話

2005年04月30日 | 板垣退助こぼれ話
板垣退助が甲斐国甲府に入り、姓を「乾」から「板垣」と名を変えたことはよく知られいる。その板垣退助が甲斐の住民で組織させたのが、断金隊である。
その断金隊は迅衝隊の付属とさせ、情報収集の部隊として活用したのが、その隊士のなかに天然理心流を学んだ臼井清左衛門がいた。
臼井は郡内縞の行商をしながら、江戸・横浜を往来していたが、旧幕府誠忠隊に加わる。慶応四年三月末に臼井は同郷の出身で組織された断金隊が江戸に来ると
その身を投じた。板垣退助は旧幕府の誠忠隊にいたことに着目して臼井を探索として、そのまま誠忠隊に留まらせ、敵情の探偵を命じた。
臼井清左衛門は板垣退助の期待にこたえ、今市にいた土佐藩の陣営に大鳥圭介ら旧幕府軍の動向を伝えが、日光に帰る途中、松原町関門で怪しまれ、捕縛のうえ殺害される。
彼の死を惜しんだ、二代目断金隊隊長尾崎行正【尾崎行雄の父】が日光の龍蔵寺にお墓を建てて
その冥福を祈る。

慶応四年四月二十九日 板垣退助日誌

2005年04月29日 | 板垣退助日誌
板垣退助は北進して瀬川駅にて敵の守備隊を撃破して今市に着陣する。

大鳥圭介は、日光からの撤退を決意し、会津田島へ向かう。

土佐藩兵は鹿沼の板垣退助らの部隊と徳治郎村の祖父江可成の部隊は正午に今市に合流するが、旧幕府軍の姿はなかった。
このとき、土佐藩の兵制は一番と三番から六番、七番から十一番と砲隊がいた。
十番隊は北の会津街道、七番隊は南西の昆布街道に配置し会津藩などの援軍を遮断し、十一番隊は輜重守るため今市に留める。
日光を進軍する土佐藩兵は、砲隊を先陣させ続いて九番隊・八番隊が左右から続いて一番隊と五番隊の各隊が進撃する。
この戦いで土佐藩兵は士官手島金吾が戦死、四名ほど負傷する。
谷干城は草風隊の戦闘後、周辺を探索している中、日光東照宮の桜本院道純と安居院慈立と会い日光進撃を中止するように要請される。

旧幕府誠忠隊に潜入していた臼井清左衛門が大鳥圭介ら旧幕府軍の動向を今市にいた土佐藩の本営に報告する。

板垣らは日光に残っていた傷兵五名を斬り、捕虜一人を今市で斬首する。


慶応四年四月二十七日 板垣退助日誌

2005年04月27日 | 板垣退助日誌
板垣退助は壬生に入る。

板垣退助はこのときに軍議を行い、四月二十八日に鹿沼に一泊し、二十九日十一時に今市に攻撃を決定する。
板垣退助は徳次郎村にいる祖父江可成の部隊に使者を送り、板垣退助が率いる部隊と同時に今市に攻撃するよう要請する。

板垣退助と対極な秋月悌次郎 

2005年04月25日 | 管理人の勝手な独り言
新田次郎文学賞に中村彰彦さん (朝日新聞) - goo ニュース

中村彰彦の「落花は枝に還らずともー会津藩士・秋月悌次郎」が第24回新田次郎文学賞に選ばれた。


秋月悌次郎は板垣退助ら土佐藩とは直接戦っていないが、突然の蝦夷地へと左遷となり、それに腐ることなく、戊辰戦争では軍事奉行添役となり、会津藩の降伏の使者として官軍と命がけの交渉を進め、その交渉のさいに、間接的ながら板垣退助らと交渉をもつにいたる。戦争後は戦争遂行の責任者として終身禁錮となり各地に幽閉される。


秋月は若いころに江戸に遊学し「日本一の学生」と呼ばれるほど寸暇を惜しんで学問を修め、文官の最たるものなので京都守護職の藩主・松平容保をよく補佐する。などなどの興味深いエピソードが満載しています。

板垣退助と立場だけでなく対極的な存在である。
一読をお勧めします。

置いてきぼり、土佐藩兵 板垣退助こぼれ話

2005年04月25日 | 板垣退助こぼれ話
安塚の戦いでどうにか勝利を得た祖父江可成らの迅衝隊の別動隊は壬生に戻ると、食糧や軍資金を預かっていた輜重奉行の
早崎兵庫がいないことに気づいた。早崎兵庫は土佐藩の貴重な軍資金や食糧を奪われてなるまいと、ほとんど残さずに持って逃げたのである。
疲れ切った土佐藩兵たちは鳥取藩の炊事番にかけあい飯を分け合ったり、近くの民家から食糧を調達するありさまである。
壬生にいた大半の土佐藩の空腹のため他藩の兵が宇都宮への攻略をだまって見送るしかなく、食糧の都合がついた
迅衝隊の日比虎作が壬生城を出て宇都宮へ向かう途中に、鳥取藩兵と会い、「貴藩はこのへんに止まって、付近の賊の敗残兵がいるので、我が藩と一緒にそれらを
掃討してもらたい」と要請される。一番隊の隊長日比虎作は鳥取藩の参謀河田佐久馬の指図だろうと思い、言われるままに兵を止めて待機していたが、
一向に賊もこなければ鳥取藩兵もこない。不審に思っているところに鳥取藩から伝令が来て、「我が藩はすでに宇都宮に入城した。貴藩もすみやかに来られたし。」
と伝えた。そこに薩摩藩の負傷兵が通りかかり日比虎作にこう告げる。「城はすでに我が藩と長州、大垣、鳥取藩の諸兵で取り戻した、いまから出かけも無益であろう。」
このとき、始めて日比虎作は鳥取藩に出し抜かれたことに気づいたという。
安塚の戦いは宇都宮城陥落の伏線となりえたので、土佐藩兵が宇都宮城の攻略の「栄誉」を手に入らなかったことはさぞかし、残念なことだったろう。

慶応四年四月二十四日 板垣退助日誌

2005年04月24日 | 板垣退助日誌

迅衝隊に付属している断金隊の美正貫一朗は越ヶ谷付近の住民たちに諭して松村村など三十二村の名主らを連署させて、勤王を誓わせる。

安塚の戦いで勝利した祖父江可成らの迅衝隊の別働隊は落城してばかりの宇都宮城に入る。

逃げていた土佐藩の輜重隊がこの日ようやく壬生に戻ってくる。

慶応四年四月二十三日 板垣退助の出陣と安塚の戦い2 板垣退助日誌

2005年04月23日 | 板垣退助日誌
祖父江可成らの迅衝隊の安塚の戦いの第一報が板垣退助らがいる江戸尾張藩邸に届く。板垣退助はこの日総督府に出て上野の情勢を相談し、谷干城と面談する。

このとき板垣退助はこのまま大鳥圭介ら旧幕府に負けていたら、「官軍ことごとく魚肉にならん。」と訴え、迅衝隊本隊の出撃を訴える。
昼過ぎになって、ようやく板垣退助は板橋の大総督府から迅衝隊がいる尾張藩邸にかえってきて、壬生への救援に関するあらゆる許可を取りつけてくる。

一方、旧幕府兵に劣勢ぎみの鳥取藩兵は土佐藩兵の応援を得て応戦する。夜が明け、濃霧が四方に塞がり、雨も激しく、眼前咫尺も弁ぜず、旧幕府兵と土佐藩兵の進撃にあい、混乱して鳥取藩兵の退却するのとまじわり、両軍は視界が入れ乱れて白兵戦となる。
土佐藩の迅衝隊二番・五番・六番隊がよく戦い旧幕府兵をついに退かせて追撃するが、土佐藩の軍監大石莉左衛門など八人が戦死する。小島・真辺り両隊長以下十五人の負傷兵を出す。
旧幕府兵の負傷兵は百五十、四十人になったという。

市ヶ谷尾張藩邸にいた板垣退助ら迅衝隊は出発する。土佐藩の本隊と第三、四、七、八、九、十の各隊と砲半隊が出陣する。

板垣退助ら迅衝隊本隊は佐土原藩兵の警戒戦にひっかかり、一時浅草に足止めを食い、そのあと草加
で宿陣する。

前日に続き祖父江可成の土佐藩兵は再び安塚で戦闘があり、敵をどうにか破り勝利する。

一方、土佐・鳥取藩兵が安塚に兵を繰り出して安塚城には傷病兵か輜重兵ばかりしかなく、その留守を狙う大川正次郎率いる伝習隊二小隊は安塚に攻め取ろうするが、
安塚城では太鼓鐘を鳴らしてあたかも兵がいると見せかけて、ここは自重した大川正次郎は安塚城を攻めることなく引き上げる。

慶応四年四月二十二日 安塚の戦い 板垣退助日誌

2005年04月22日 | 板垣退助日誌

日付がかわりこの日の暁に、守る土佐藩兵・鳥取藩兵、攻める本多幸七郎ら伝習隊の両軍は雨霧が深くたがいの彼我が区別がつかない状況下で、本多幸七郎の
伝習隊は青い麦畑を利用して、ラッパを巧みに吹いて兵を集散させ、巧みな駆け引きを見せるが、来援にかけつけた祖父江可成ら土佐藩兵が勢いを盛り返し、
伝習隊は押され始めてついに宇都宮へ退却させることになる。このとき鹿沼に駐屯していた会津の砲兵隊が増援に駆け付けていたが、すでに戦闘が終わっており、
その砲火が土佐藩兵と交えることはなかった。


払暁に、土佐藩の砲兵部隊及び一番・二番の小隊が安塚を占拠する。
旧幕府兵はかちになれて鳥取藩兵を追撃し、勢いに乗じて駅中に乱入して来たので、土佐藩兵は鳥取藩兵とかわって応戦する。



迅衝隊の総督板垣退助はこの日も大総督府へ出向き軍議に加わる。




祖父江可成ら迅衝隊の別動隊は正午過ぎに敵が退却するのを見届けてから、午後二時ごろに壬生に帰還する。安塚の戦いで土佐藩から祖父江可成と大石弥太郎、秋沢清吉らが参戦する。


慶応四年閏四月二十一日

2005年04月21日 | 板垣退助日誌
この日の朝八時に谷干城が基盤をかこんで碁を打っていると日光路の医者が手紙を寄越してきた。「賊、瀬尾村をへて大谷川を渡れり、必ず今市を襲ふの策なるべし。ご用心あるべし。」
と書いていたが、谷干城たちは碁に夢中になり、その手紙をあまり重視せすにそのまま碁を続けていた。

堀内賢之進は板垣退助の内命を受け夜を通して払暁に今市に戻る。

午前十時、旧幕府軍と会津藩の連合軍は駅の東門から発砲してきた。ここを守る小笠原の三番隊が防戦にあたる。
宮崎の五番隊が林中から銃を放ち三番隊を援護し、吉松の八番隊、美正の断金隊が正面より三番隊に援護して敵を大いに破る。
四番隊の谷重兵衛重喜は自らの四番隊の半隊を率いて、敵の右側を衝いて攻撃すると、敵は支えきれず敗走する。
旧幕府軍らは別働隊は東門とは反対の西門に衝いて攻撃してきた。山田の九番隊、二川の十番隊、合わせて四、五十人ほどしかなく、
防御に苦戦しているところ、救援に駆けつけた北村の砲隊と金子の斉武隊が応戦し、兵の一部を割いた日比の一番隊、谷口の十二番隊が西門を攻める敵の左側を攻撃して
敵はようやく敗走する。

土佐藩兵らの戦死者は三名、負傷者は十二名、旧幕府軍は戦死者二十四名、数十名の負傷者出す。

慶応四年四月二十一日

2005年04月21日 | 板垣退助日誌
土佐藩、鳥取藩の兵士らは壬生に到着する。

大鳥圭介は部将・本多幸七郎に本道蟇田付近まで進発させ、大川正次郎を奇兵として伝習隊二小隊をつれて雀宮から壬生を窺う。

壬生より北二里にある安塚に村で土佐藩兵と鳥取藩兵は進出する。この日の先陣は鳥取藩の三小隊と砲隊が進み
土佐藩の迅衝隊二番・五番・六番隊が後に続く。

壬生にいた土佐藩、鳥取藩の兵士らはこれを察し、夜中ら鳥取藩兵を壬生を出て風雨のすさぶ闇につき安塚に出る。そこで蟇田より南下してきた本多幸七郎の先鋒と遭遇、戦闘する。
しかし、本多はこれに屈せず後続の部隊を励まし粘り強く交戦し、鳥取藩兵を守地を破り、追撃を始める。